Chapter: 97話「父の弟」 灯は話の続きをしていた。朝食のことから学校のことへ話が移り、最後には「暇でしたから」という短い言葉で途切れた。瑠衣は自分の本を膝に置いたまま、灯がページをめくるのを見ていた。聞きたいことはまだあった。けれど質問を重ねれば、灯が話したくないことまで引き出してしまうかもしれない。そう思うと、口元まで出かかった言葉を一度飲み込んだ。 それでも、父の姿だけが抜け落ちていることが気になった。瑠衣は本の角を親指でなぞり、それから一度だけ灯の顔を見た。灯は開いた本へ視線を落としている。瑠衣は少し迷ってから、静かに口を開いた。「父は、その頃どうしていたんですか?」 灯の手が止まった。開いたページの端に指を置いたまま、すぐには答えない。瑠衣も急かさずに待つ。窓の外から車の音が一度聞こえ、遠ざかっていく。その音が消えてから、灯は視線を本へ落とした。「近くにはいました」 瑠衣は頷いた。それだけでは分からないことが多かったが、もう一度聞く言葉をすぐには選べなかった。灯は本を閉じず、指先だけをページの上に置いている。瑠衣はその横顔を見ながら、次の質問を考えた。「父のことは、何て呼んでいたんですか?」「兄さん、と」 その呼び方を聞いた瞬間、瑠衣の指が本の端で止まった。自分が父を呼ぶときとは違う。けれど、それ以上のことは考えずに次の問いを口にする。「一緒に暮らしていなかったんですか?」「はい」 灯は短く答えた。瑠衣は頷きながら、その言葉を頭の中で繰り返す。一緒には暮らしていなかった。それでも、近くにはいた。さっきの答えと並べると、二つの言葉の間に知らない時間があるように思えた。「たまに顔を合わせることはありましたが」 灯はそこで言葉を止めた。視線を本へ戻し、ページの角を指で整える。瑠衣は何も言わずに待った。続きが出てくるかもしれないと思ったが、灯はそれ以上話さなかった。 少しして、灯は別の日のことを話し始めた。「祖父の家で、本を読んでいました」 瑠衣は顔を上げる。灯の声は変わらない。「そこへ兄さんが来ま
Last Updated: 2026-09-19
Chapter: 96話「朝の食卓」 灯は前に続きを、いつもの調子で話していた。瑠衣は向かいに座り、手元の本を閉じたまま聞いている。灯はカップへ手を伸ばして一口飲み、それから視線をテーブルへ戻した。「朝、目が覚めると、知らない部屋でした」 灯の声は静かだった。昨夜のことを特別な出来事として扱う様子もない。ただ、覚えていることを順番に置いていくように話している。「昨夜借りた本が枕元にありました」 瑠衣は小さく頷いた。灯の指がカップの取っ手から離れる。「廊下を歩くと、台所から音がしていて」「祖父が朝食を作っていました」「起きたか、とだけ言われました」「はい、と答えました」 瑠衣は黙って聞いていた。灯はそれ以上朝のことを付け足さず、本の表紙へ目を落とした。瑠衣は閉じた本の表紙へ目を落とす。朝の食卓で祖父が何を話したのか、灯がどんな顔で食事をしていたのか。細かなところまでは聞かされていない。それでも、灯が覚えているのは本だけではなかった。起きたときの部屋、廊下の音、台所から聞こえた物音まで、灯の言葉には残っている。「席について」「食べなさい、とだけ言われました」 灯はそこで一度だけ言葉を止めた。瑠衣が顔を上げると、灯は少し先を見ている。朝の食卓を思い出しているようだった。「味噌汁の匂いがしていました」 瑠衣は目を瞬いた。灯は窓の外へ視線を向けたまま続ける。「炊いたばかりのご飯もあって。湯気が上がっていました」 灯は両手を膝の上へ置いた。「朝は寒かったので、味噌汁の椀を持つと手が温まりました」 その言葉だけが、少しだけゆっくり落ちた。瑠衣は何も挟まずに聞いている。「食事の途中に、本は読んだか、と聞かれました」「はい、と答えたら、そうか、と」 灯はカップを持ち上げた。口をつける前に、また置く。「それだけでした」 瑠衣は祖父の声を思い浮かべた。短くて、余計なことを言わない声だった。灯もその声を思い出しているのか、しばらくテーブルの木目を見ていた。灯はカップを持ち上げた。湯気の向こうで目を伏せる。祖父の家で迎えた朝を思い出しているのか、ほん
Last Updated: 2026-09-18
Chapter: 95話「最初の日」 午後、灯はいつもの席で本を開いていた。昼食の片付けが終わってから、二人はそれぞれ好きな本を手にしている。窓から入る光は先週より少し強く、机の上に置いたカップの影が床へ伸びていた。瑠衣は向かいでページをめくりながら、ふと灯の手元を見る。古い本は今日も灯のそばに置かれていた。擦れた表紙の角を灯が親指で一度撫で、それから栞を抜く。昨日までの話が頭に残っているせいか、瑠衣は文字を追いながらも何度かその本へ目を向けた。「その頃から、この本を読んでいたんですか?」 灯が表紙へ目を落とした。「この本は、もう少し後です」 灯は本を閉じ、表紙を眺めたまま少し黙った。瑠衣も急かさずに待つ。窓の外を車が通り過ぎ、音が遠ざかっていく。「じゃあ、最初に読んだ本は?」 灯は視線を上げた。「覚えています」 そう答えてから、灯は目の前の本へ指を置いた。しばらく動かさず、昔の記憶をたどるように視線を伏せていた。 灯の記憶の中で、古い玄関の前に小さな灯が立っていた。夕方だった。門から玄関までの短い道に、長く伸びた影が落ちている。灯はその影を踏まないように足元を見ながら立っていた。両手で荷物を一つ持っている。重さを確かめるように持ち替えたところで、玄関の内側から物音がした。鍵が外れ、扉が開く。祖父が顔を出した。「上がりなさい」 灯は返事をせず、荷物を持ったまま一歩下がった。祖父が扉を大きく開ける。灯は玄関の中を見て、それから自分の足元へ視線を落とした。靴のつま先を揃えるようにして脱ぐ。片方を置き、もう片方も並べた。荷物を抱え直してから、土間を上がる。廊下には見慣れない家具があり、壁には時計が掛かっていた。時計の針が動く音だけが聞こえる。灯は何度か振り返ったが、玄関の扉はもう閉じていた。 祖父は先に歩き、廊下の奥へ進んだ。灯は少し間を空けて後ろをついていく。部屋の前で祖父が襖を開ける。灯は中を覗き、入口のところで立ち止まった。部屋には布団を敷くための空いた場所があるだけだった。持っていた荷物を隅へ置くと、そこだけが妙に小さく見えた。祖父が振り返る。灯は荷物の置かれた場所を一度見てから、もう一度部屋の中を見た。祖父は何も急かさず、襖を半分開けたままにした。
Last Updated: 2026-09-17
Chapter: 94話「本を読む子」 土曜日の午後、瑠衣と灯は並んで本を読んでいた。窓から入る光が少しずつ傾き、テーブルの上の紙を照らしている。瑠衣がページをめくる音に合わせるように、向かいでも紙が動く。灯は本を読むとき、周囲の音が聞こえていないように集中していた。カップへ手を伸ばすときも栞を挟み、戻るとすぐに同じ場所から読み始める。瑠衣が椅子を引いた音にも顔を上げない。やがて灯がページの端を指で押さえたところで、瑠衣は本から目を離した。「小さい頃から、本を読んでいたんですか?」 灯がゆっくり顔を上げる。「そうですね」「祖父が買ってくれた本を?」「最初は、そうだったと思います」 灯はそこで一度本へ目を戻した。指先が開いたページの上で止まり、しばらく動かなかった。瑠衣は灯の向かいに座ったまま、しばらく自分の本を開かなかった。ページの途中に置いた栞が少し斜めになっている。直そうとして指を伸ばし、途中でやめた。灯の本のページをめくる音が、一定の間隔で続いている。静かな部屋では、その音だけが妙にはっきり聞こえた。 灯の視線が本の文字から離れた。遠くを見るように少しだけ目を細める。「最初の一冊は、祖父と本屋へ行ったときのものです」 灯はそう言って、膝の上の本を閉じた。話すために閉じたというより、昔の場面へ手を伸ばすような動作だった。その日のことを話す灯の声は、いつもよりゆっくりしていた。瑠衣は何度か相槌を打とうとして、結局何も言わずに聞いた。本屋の棚の高さや、祖父が立っていた場所まで灯は細かく話さない。それでも、一冊を選ぶまで待っていたことだけは伝わってきた。瑠衣は膝の上で指を組み直した。「棚の前で、ずっと迷っていました。祖父は隣にいましたが、急かしませんでした」 小さな灯が棚の前に立っている。背の高い棚を見上げ、何冊か手に取っては戻している。祖父は少し離れた場所で腕を組み、その様子を見ていた。灯が一冊を手にすると、祖父はその表紙へ目を向ける。「それでいいのか」 灯は本を胸の前へ抱えたまま頷いた。祖父はもう一度表紙を見てから、その本を灯の手から受け取った。レジへ向かう背中を、灯は数歩遅れて追いかける。店を出ると、紙袋を両手で抱えた。袋の中には、選んだば
Last Updated: 2026-09-16
Chapter: 93話「いつから、ここに?」 平日の夜、瑠衣は祖父の古い手帳を机の上に開いた。昨日見つけた一行を、もう一度確かめる。「灯の本を買う」。その文字の上へ指を置きかけて、触れずに止めた。日付を見る。瑠衣自身がまだ幼かった頃だった。さらに前のページをめくる。そこにも本の購入記録がある。灯の名前が残っていた。もう一枚めくる。年が変わっている。それでも、同じ名前が見つかった。瑠衣はページの端を押さえながら、ゆっくり次の頁へ進んだ。古い紙が指先で擦れる。別の日付。別の購入記録。その中にも灯の名前がある。瑠衣は手帳を閉じず、そのまま最初のページまで戻った。店の名前の横に金額があり、その下へ小さく題名が書かれている。文字の大きさはほとんど変わらない。祖父が毎回同じように記録していたことが分かる。灯の名前を見つけたところで、瑠衣はページの角を折らないように指先で押さえた。次のページへ進む。さらにその次へ進む。記録が途切れる年もあったが、灯の名前は何度か現れた。瑠衣は手帳を閉じる前に、最初に見つけた一行へもう一度目を戻した。 土曜日の午後、灯がいつものように訪れた。二人で本を読み、途中でお茶を淹れる。いつもの時間が流れていたが、瑠衣は机の端に置いた手帳へ何度か目を向けた。灯が本を閉じたところで、瑠衣は手帳を持ち上げる。表紙を指先で撫でてから、灯の前へ置いた。「祖父の手帳を見ていたんです」「そうですか」 灯は手帳へ視線を落とした。瑠衣は開いたページを指で押さえる。「灯さんの本を買った記録が、いくつもありました」 灯はすぐに答えなかった。手帳の文字を眺めてから、カップへ手を伸ばす。取っ手を持ったまま少し考えるように指を止めた。「昔は、よく買ってもらいました」 瑠衣はその言葉の中にある「昔」を拾うように、顔を上げた。手帳へ置いていた指も動かなくなる。昨日の本棚と、古い記録が頭の中で重なった。「本を買ってもらうときって、いつも一緒だったんですか?」 灯は少し考えてから頷いた。「たぶん、そうだったと思います」 瑠衣はその答えを聞いて、手帳の文字へ目を落とした。祖父が一冊ずつ本を選び、記録を残していたことだけが静かに残った。 瑠衣は手帳を閉じずに、灯の前へ置いたままに
Last Updated: 2026-09-15
Chapter: 92話「祖父の知らない顔」 平日の仕事を終えた瑠衣は、自宅の棚から古いアルバムを取り出した。夕食を済ませてから片付けをするつもりだったが、手帳の一行が気になって先に棚へ向かった。表紙を拭いてからテーブルへ置き、留め具を外す。厚いページを指先で押さえると、乾いた紙が小さく鳴った。 最初のページには祖父が若かった頃の写真が並んでいた。まだ髪が黒く、今より細い顔で庭に立っている。隣には祖母がいて、その二人の後ろに古い家の縁側が写っていた。ページをめくると、親戚が集まった日の写真が続く。夏の庭で撮ったものもあれば、冬の炬燵を囲んだものもある。食卓を囲む大人たち。その端で椅子に座る瑠衣の母。さらに次のページには、幼い瑠衣が祖父の膝に乗っている写真があった。祖父の手には一冊の本がある。瑠衣は写真の角を指で押さえた。ページをめくる。灯の姿はどこにもなかった。何枚か戻って見直してから、瑠衣はアルバムを閉じた。留め具を戻す音が、いつもより大きく聞こえた。 翌日の夜、瑠衣は祖父が使っていた書斎の棚を整理していた。窓を閉めると、古い紙と木の匂いが少し濃くなる。実家から持ち帰った古い本や書類を一度床へ下ろし、奥に残った埃を布で拭いていく。棚の下段には、背表紙の文字が薄くなった本が何冊か残っていた。その間に手を入れると、硬い表紙が指に触れる。引き出してみると、茶色い手帳だった。角は擦れて丸くなっている。表紙を払うと細かな埃が落ちた。 表紙には何も書かれていない。開くと、日付の横に買った本の題名や店の名前が細い文字で並んでいた。子ども向けの本を三冊買った日もある。その下には、短い一行が残っていた。文字はほかの記録より少し濃く見えた。「灯の本を買う」。その前後には本の題名と金額が並んでいる。別の日には絵本を二冊、さらに別の日には児童向けの読み物を一冊。誰のために買ったものなのかまでは書かれていない。瑠衣はページを一枚戻し、日付を確かめた。それから、さっきの一行へ視線を戻した。瑠衣の指が止まった。 手帳を開いたまま、瑠衣は椅子に座った。ページの端には小さな折り目がいくつもある。ところどころ鉛筆の跡も残っていた。祖父は買った本を忘れないように記録していたらしい。瑠衣は文字を指でなぞらず、そのままページをめくった。別の月にも同じような記録があり、買った本の題名だけが几帳面に
Last Updated: 2026-09-14
Chapter: 14話 愛音が朝桐家を訪ねる機会は少し増えた。依子から呼ばれることもあれば、先日の書類について確認したいと連絡が来ることもある。剛生も以前ほど愛音を客として扱わなくなり、居間へ通すときには自分で椅子を引くようになった。 「この前は助かったよ」 「いえ」 「書類の件は、あれから確認してもらった。君が見つけたところで合っていたそうだ」 剛生はそう告げると、湯呑みを愛音の前へ置いた。以前のような沈黙はなかった。窓の外では庭師が植木の枝を払っている。小さな剪定ばさみの音が、一定の間隔で聞こえていた。 「修正もされたんですか」 「そのようだ。担当者が新しいものを持ってきた」 「よかったですね」 「ああ。あれを見つけてもらわなかったら、まだ揉めていたかもしれん」 剛生は少し笑った。 「君にこんなことを頼むとは思わなかったが、助かったよ」 「たまたま気づいただけです」 「それでも、気づいたのは君だ」 愛音は湯呑みに手を添えた。剛生はそれ以上続けず、庭へ目を向ける。 その日は、庭の木や近所の店の話から始まった。剛生は昔からある店が減ったことを話し、愛音は駅前に新しい店が増えたことを話した。依子が茶菓子を運んでくると、今度は季節の話になる。今年は雨が多い。庭の草も例年より伸びるのが早い。そんな取り留めのない話が続いていた。 「このあたりも、昔とはずいぶん変わったよ」 「駅の周りも新しい建物が増えましたね」 「そうだな。店も入れ替わる。長く続いているところを見ると、それだけで少し安心するよ」 「昔からある店は、なくなると寂しいですね」 「うん。新しいものも悪くないんだが、馴染んだものには馴染んだものの良さがある」 剛生は窓の外へ目を向けた。 「昔はこんなこと、気にもしなかったんだが」 「そういうものかもしれませんね」 「君も家ではよくやっているのか」 「できる範囲で」 「それで十分だろう」 剛生は湯呑みを持ち上げた。茶を飲みながらテレビの音に耳を傾ける。画面では昼のニ
Last Updated: 2026-09-19
Chapter: 13話 依子から連絡が来たのは、前に会ってから四日ほど経った午後だった。今度はお茶ではなく、少し相談したいことがあるという。愛音が指定された時間に朝桐家を訪ねると、依子は玄関まで出てきた。 「急に呼び出してしまってごめんなさいね」 「いえ」 「この前の話とは少し違うの。私だけではどうにもならなくて」 依子はそう言って愛音を居間へ通した。前回と同じ席には茶器が並んでいる。その横に、薄い封筒と数枚の書類が重ねられていた。 「実は主人の会社の契約書なの」 依子が封筒から書類を取り出した。紙の端は何度も触れられたらしく、少しだけ丸くなっている。 「数字が合わないところがあるみたいでね」 「数字ですか」 「ええ。契約金額と、別紙にある支払い予定の金額が合わないの。主人も担当の人に確認しているんだけれど、向こうは計算に間違いはないと言うのよ」 依子は一枚目を愛音の前へ置いた。 「こちらが本契約。こっちが追加分。合計すれば同じになるはずなのに、最後の数字だけ違うの」 愛音は書類を手に取った。紙は少し厚く、印刷された数字が細かく並んでいる。契約金額、支払日、内訳。視線を上から下へ動かしながら、指先で欄の位置を追った。 「何度も見たんだけれどね。主人も担当者も、数字ばかり見てしまっているのかしら」 依子の向かいには剛生もいた。眼鏡を外して机の上の書類を見ている。 「私も計算し直したが、どうにも分からなくてね」 剛生はそれだけ告げると、愛音の手元へ目を向けた。 愛音は返事をせず、二枚目の紙をめくった。最初の金額へ戻る。もう一度、別紙の数字を追う。合計欄で指先が止まった。 「ここです」 依子と|剛生《ごうせい》の視線が同じ場所へ集まった。 「この金額、前のページと同じ数字になっています」 「ええ。それが?」 「こちらの追加分を足す前の金額です」 愛音は二枚の紙を横に並べた。 「本契約の金額が一千二百万円。追加分が三百万円です。だから合計は一千五百万円になります。でも、この欄だけ一千二百万
Last Updated: 2026-09-19
Chapter: 12話 それから数日後、愛音は朝桐家の門の前に立っていた。依子から届いた連絡には、先日のこともあるので一度お茶でも、とだけあった。指定された時間に訪ねると、玄関の扉はすぐに開いた。 門をくぐったとき、庭の植木はきれいに刈り込まれていた。玄関脇の鉢植えにも枯れた葉はない。愛音は足元を見ながら歩き、呼び鈴を押す前に手土産の紙袋を持ち直した。 「来てくださってありがとう。わざわざ時間を作ってもらってしまって」 「いえ」 依子は愛音の手元へ目を向けた。小さな紙袋を提げている。 「まあ、手土産まで。気を遣わなくていいのに」 「近くで見つけたものです」 「そう。では、ありがたくいただくわ」 依子は両手で紙袋を受け取った。袋を脇へ置くこともせず、そのまま居間まで丁寧に運んでいく。 「こちらへどうぞ。今日はゆっくりしていってちょうだい」 案内された席には、すでに茶器が用意されていた。依子が急須を手に取り、湯呑みに茶を注ぐ。茶托の位置を整えてから愛音の前へ差し出した。 「熱いから、気をつけて」 「ありがとうございます」 「先日は急に伺ってしまったでしょう? あれから少し気になっていたの。せっかく来てもらったのだから、今日は落ち着いて話せればと思って」 「はい」 依子は自分の湯呑みを両手で包んだ。ひと口飲み、静かに置く。 「家のことは、あれから何か変えた?」 「特には」 「そう。あなたらしいわね」 愛音は湯呑みの縁へ目を落とした。依子はそれを見てから、窓の外へ視線を移す。 「この前も思ったけれど、あなたはあまり物を増やさないのね」 「必要なものだけ置いています」 「そういう考え方なの」 「はい」 「航生は昔から物が多いでしょう。仕事の資料もそうだし、買ったまま忘れているものもあるし」 「書斎にはいろいろありますね」 「でしょう? あの子は自分で片づけているつもりなのだけれど、見ているほうは気になるものよ」 依子は少し笑った。 「昔から変わらな
Last Updated: 2026-09-18
Chapter: 11話 数日後、愛音は|朝桐依子《あさぎり よりこ》の連絡先を開いた。短い文章を入力して送る。返事は思っていたより早く届いた。内容は簡単だったが、依子は話を聞くことを断らなかった。愛音は画面を閉じ、洗濯物を取り込んだ。ベランダから戻ると、畳んだ衣類をそれぞれの場所へしまっていく。 その日の午後だった。インターホンが鳴った。 愛音は手を拭いて玄関へ向かった。モニターに映っていたのは依子だった。約束をしていたわけではない。 「突然ごめんなさいね」 扉を開けると、依子は軽く頭を下げた。手には小さなバッグを持っている。 「今度、親戚との会食があるでしょう? その前に一度、こちらを見ておこうと思って」 「どうぞ」 愛音が身体を横へずらすと、依子は靴を脱いだ。玄関に上がったところで足を止める。靴箱の上に置かれた小さな花瓶へ目を向けたあと、廊下の先まで視線を伸ばした。 「まあ……思ったよりきれいにしているのね」 そのままリビングへ入る。依子の目がソファの位置を確かめ、テーブルの上へ移った。雑誌は一冊だけ。郵便物もない。テレビのリモコンが決められた場所に置かれている。 「会食の前だから、少し気になっていたの。朝桐家の人間が住む家ですもの。外から見られたときに、あまり雑然としていると困るでしょう?」 「そうですね」 「普段から、こんな感じなの?」 「だいたいは」 「航生が散らかす朝霧」 「仕事の書類を置くことはあります」 「あの子らしいわね。片づけるのは?」 「私がします」 依子は一瞬だけ愛音を見た。 「そう」 それ以上は言わず、キッチンへ向かった。 愛音も後ろからついていく。依子は食器棚を見て、並んだ皿の数を目で追う。冷蔵庫の扉を眺め、シンクへ視線を落とした。蛇口の周りに水滴がないことを確認すると、今度はコンロの脇へ目を向ける。 「水垢もないわね」 声には少しだけ感心した響きがあった。 けれど依子の視線はすぐに別の場所へ移った。 「洗濯物は?」 「もう片づ
Last Updated: 2026-09-18
Chapter: 10話 愛音は机の上に置いたファイルを開いた。 紙の端が指先に触れる。少し黄ばんだ用紙には折り目が残っていたが、文字はまだ読みやすい。ファイルそのものも、長いあいだ棚の奥にしまわれていたせいか、表面に薄く埃がついていた。 日記や時計と同じ場所に、同じだけの時間、置かれていたものだった。 最初のページをめくる。婚前契約書という文字が目に入った。その下に並ぶ日付を指でなぞり、愛音は一度手を止める。結婚する前、隆二はこの書類を見ていた。最後まで納得していなかったことだけは覚えている。何かを言われた気もする。けれど、その先は思い出さなかった。 ページをめくるたびに紙が乾いた音を立てた。愛音は机の端に置いていた振込明細を引き寄せる。梨本恵実。五千万円。名前と数字を確認してから、明細を契約書の横へ並べた。 該当する条項を探す。財産分与についての項目。その下には、婚姻関係が解消された場合の財産について細かく記されていた。さらにページをめくると、慰謝料請求権に関する条項がある。愛音はそこに貼られていた小さな付箋へ指を置いた。結婚する前、自分で貼ったものだった。当時は、こんな日が来るとは思っていなかった。それでも、念のためにと貼っておいた。 明細へ視線を戻す。五千万円という数字が紙の上にある。契約書の文字と並べて見ても、どちらも動かなかった。 愛音は明細を折り、ファイルの内側へ戻した。契約書も閉じる。表紙を手のひらで押さえたまま、しばらく動かなかった。 部屋の時計が、また一つ音を刻んだ。窓の外を、誰かの車が通り過ぎていく気配がした。 それから引き出しを開けた。中には古い通帳や印鑑ケースが並んでいる。その奥へファイルをしまおうとして、愛音は一度手を引いた。契約書の角が引き出しに触れ、乾いた音を立てる。結局、奥へ押し込むのではなく、すぐ取り出せる位置へ置いた。 翌朝も、台所にはいつもの音がしていた。炊飯器の蓋を開ける音。味噌汁を椀によそう音。椅子を引く音。愛音はいつもと同じ順番で朝食を並べる。 「今日は少し早いから」 廊下から航生の声がした。 「分かりました」 愛音は皿を一枚追加した。航生が食卓につく。新聞を開く音が続いた。愛音は自分の椅子に座り、味噌汁へ箸をつける。 「結婚記念日だし、夜は外で食べようか」 「はい」
Last Updated: 2026-09-17
Chapter: 9話 翌朝、愛音はいつも通りに洗濯機を回した。昨夜見た書斎の扉が、朝の廊下にも同じ位置にある。閉じたままのドアへ一度だけ目を向け、それから洗濯物を籠へ移した。 朝食の準備をしていると、冷蔵庫の上に置いた布巾へ手が止まる。梨本恵実という名前が、ふと浮かんだ。 愛音は布巾を水で濡らし、固く絞った。食卓を拭き、皿を並べる。名前を思い出すだけなら、それ以上のことは起きない。そうするように、いつもの手順へ戻った。 航生が起きてくる頃には、味噌汁も焼いた魚も食卓に並んでいた。「今日、帰り遅くなるかもしれない」「分かった」 航生はスマートフォンを見ながら椅子に座った。愛音は味噌汁を置き、向かいの席へ腰を下ろす。 数日後、結婚記念日を迎えた。 朝から特別なことは何もなかった。航生はいつもの時間に起き、シャワーを浴びてから書斎へ入る。愛音はその間に食器を片づけ、洗面所のタオルを替えた。 玄関へ向かう足音が聞こえる。「愛音。ネクタイどこだっけ」「二段目の引き出し」 航生が寝室へ戻ってくる。クローゼットの扉が開く音がして、ハンガーの擦れる音が続いた。 愛音はキッチンでコーヒーを淹れていた。 やがて航生がリビングへ戻ってくる。濃紺のスーツに袖を通し、鏡の前で襟元を整えていた。ソファの背にかけていたジャケットを手に取ったとき、胸ポケットから薄い紙が床へ落ちた。 紙は一度だけ裏返り、フローリングの上を滑った。 愛音はカップを置いた。「落ちたよ」 航生が振り返る。「ん?」「これ」 愛音はしゃがみ、紙を拾った。指先に伝わる感触は薄いコピー用紙とは少し違っていた。銀行の明細だった。 そのまま渡そうとして、視線が一行に止まる。 振込先。 梨本恵実。 愛音の指が紙の端を押さえた。 その下に金額がある。 五〇,〇〇〇,〇〇〇円。 桁を追う。 一、十、百、千。その先まで目を動かしてから、もう一度同じ数字を見た。 五〇,〇〇〇,〇〇〇円。 紙
Last Updated: 2026-09-17
Chapter: 11話「謎のコラボ?」 企画会議の議事録が、社内共有フォルダに上がっているのをジョフィが見つけたのは、月曜の午後だった。 「伊依さん、ちょっとこれ見て」 スマホの画面に、議事録のPDFが表示される。伊依は在庫チェックの手を止め、目を通した。 「今話題のジュエリーブランド、Angelusとのコラボレーションを提案いたします」 発言者の欄には、沙織の名前が記されていた。 伊依は数秒、画面を凝視した。聞き間違いかと思い、もう一度読み返す。文字は変わらない。沙織が、Angelusとのコラボを企画会議で発言していた。 「……はい?」 声が思わず漏れた。ジョフィが笑いを含んだ声で続ける。 「議事録によると、結構反応良かったみたいだよ。部長も乗り気だったって」 「なんで」 「知らないよ。でも面白いことになりそう」 数日後、YOR宛に一通のメールが届いた。差出人は伊依の勤める会社の広報部だった。件名は「コラボレーションのご提案」。伊依は思わず苦笑した。自分の勤め先から、自分自身が経営するブランドへの提案が来るという奇妙な構図。 添付されていた企画書を開いた瞬間、伊依の表情が固まった。 タイトルページには、Angelusのロゴを模した稚拙なデザインが貼り付けられている。伊依が丁寧に作り込んだロゴタイプとは似ても似つかない、フォントを適当に組み合わせただけの代物だった。 ページをめくる。コンセプトの欄には、こう書かれていた。 「若い女性に人気の高級ジュエリーブランドとして、当社の新商品ラインとコラボし、ノベルティグッズとして展開する」 続くページには、想定される商品案が並んでいる。会社のロゴ入りキーホルダー、社名を刻印したストラップ、そして極めつけに、Angelusのモチーフを勝手に流用した安っぽいイラストの入った、ノベルティ用の紙製ブックカバー。 「これ、ノベルティって、無料配布ってこと?」 伊依は思わず声を上げた。 「そうみたい。しかも配布先、駅前のティッシュ配りと同じ扱いになってる」 ジョフィの声にも呆れが滲んでいた。伊依はページをさらにめくった。想定価格の欄
Last Updated: 2026-09-19
Chapter: 10話「千円の価値」 週に一度の搬入作業は、伊依にとって唯一気の重い時間だった。誰かと顔を合わせなければならない。地下の静けさに慣れきった伊依にとって、他人の声も足音も、少しだけ神経を逆撫でする。 その週は、いつもと違う業者が来た。年配の男と、若い男の二人組だった。年配の方はでっぷりとした体格で、台車を押しながら若い男に指示を飛ばしている。 「おい、それじゃない。左の棚だって言っただろうが」 「すみません」 若い男が慌てて段ボールを持ち直す。二十代前半だろうか。制服のサイズが少し合っていない。動きに無駄がなく、指示のたびにきびきびと反応していた。 「お前、いつまでモタモタしてんだ。時間かかりすぎだろ」 「申し訳ありません」 若い男は謝りながらも、表情は崩さなかった。むしろ、伊依のいる部屋の入口で軽く会釈までしてくる。 「失礼します」 声には嫌味も卑屈さもなかった。ただ静かに、仕事をこなしているだけだった。年配の男は伊依のことなど眼中にないらしく、リストにサインを求める間も、若い男への小言を止めなかった。 「お前な、こんなんじゃいつまで経っても半人前だぞ」 「はい、気をつけます」 若い男はそう答えながら、伊依の方をちらりと見て、少しだけ口角を上げた。困ったような、それでいて明るさを失わない笑い方だった。 二人が去ったあと、部屋には段ボールの匂いだけが残った。伊依はしばらく、閉じたドアを見つめていた。 「ジョフィ」 「うん」 「今の若い方、調べて」 「了解」 * 数分後、ジョフィが結果を報告してきた。 「名前は|篠原祐《しのはら ゆう》。二十三歳。国立大の医学部に在籍中だね。奨学金を借りながら、このバイトと家庭教師の掛け持ちで生活費を稼いでる」 伊依はデスクに肘をつき、画面に表示された情報を眺めた。 「医者、目指してるんだ」 「はい。SNSの投稿を見る限り、地元の病院で医師不足に悩む地域出身らしくて、それが志望動機みたいです」 画面には、篠原が数年前に投稿した文章の一部が引用されていた。田舎の病院に医者が足りず、祖母が救急搬
Last Updated: 2026-09-18
Chapter: 9話「大口案件」 深夜、伊依のスマホに国際便のメール通知が届いた。差出人はドバイの法律事務所、Angelusへの問い合わせを代理で扱っている窓口だった。 「ジョフィ、これ何」 「開けてみて」 伊依は画面をタップした。本文は英語で書かれていたが、依頼主の名前は伏せられている。代理人を通しての問い合わせだった。 「クライアントは、御ブランドのシルバーコレクションに強い関心を持っています。ただし、ニッケルおよび一般的な合金への重度のアレルギーがあり、既存の宝飾ブランドでは対応が難しいとのことです」 続く文章には、詳細な医療情報が添えられていた。金属アレルギーの検査結果、反応する成分のリスト。伊依はその内容を読みながら、少しずつ表情を変えていった。 「これ、結構重いアレルギーだね」 「うん。ニッケルだけじゃなくて、真鍮も銅も反応するみたい。ほとんどの宝飾品、着けられないんじゃないかな」 伊依は資料を最後まで読み終え、椅子にもたれた。窓のない部屋の空気が、いつもより重く感じられた。 「うちの純銀、この人でも大丈夫?」 「伊依が使ってる純度、九九・九パーセントの銀だから、理論上は反応しにくいはず。でも念のため、代理人に確認取った方がいいかも」 「取って」 数時間後、返信が届いた。過去に一度だけ、純度の高い銀製品を試したことがあり、その時は反応が出なかったという。だが、それ以来、好みのデザインのものを見つけられず、諦めていたという内容だった。 「好きなデザインを、諦めていた」 伊依はその一文を、何度か読み返した。誰かに何かを諦めさせる。伊依自身、身体の傷のせいで、多くのものを諦めてきた。恋人も、普通の生活も、人に肌を見せることも。だからこそ、この依頼主の言葉が、他人事とは思えなかった。 「デザイン、任せてもらえるって」 ジョフィが続けて伝えてきた。 「参考画像は特に指定なし。クライアントの好みとして、翼や鳥のモチーフが好きらしい。あと、色は控えめなものを希望」 伊依はタブレットを手に取り、白紙のキャンバスを開いた。翼、鳥。そこから連想を広げてい
Last Updated: 2026-09-17
Chapter: 8話「悪魔と悪夢」 伊依は荘園のリビングで、ソファに座っていた。 夜だった。広い部屋には照明が落とされ、窓の外に庭の木々が黒い影を作っている。テレビはついていたが、画面には何も映っていない。伊依は膝に手を置いたまま、ぼんやりと暗い画面を見ていた。 引っ越してきてから、まだそれほど日が経っていない。広すぎる部屋にも少しずつ慣れてきた。けれど、静かすぎる夜には昔のことを思い出すことがある。 その画面が、ちらりと光った。 映ったのは、今のリビングではなかった。 施設の食堂だった。 まだ中学生だった伊依が、お盆を抱えて立っている。並んだ料理の中で、自分の皿だけカレーが妙に少ない。伊依は何も言わず、その皿を見つめていた。 まただ。 そう思った。自分だけ少ないことには、もう慣れていた。文句を言えば面倒なことになる。だから黙って食べる。それが一番だった。 「伊依ちゃん、カレーわざと少なくされてるでしょ」 隣から声がした。 一人の少年が立っている。伊依より少し背が高い。少年は自分の皿を見て、それから伊依の皿を見た。 「僕の分をあげるよ」 「……いいの?」 「うん。俺、そんなに食べないから」 少年は笑った。 伊依はすぐに手を伸ばせなかった。本当に貰っていいのか分からない。けれど少年が待っているので、恐る恐る皿を差し出した。 カレーが増えた。 たったそれだけのことだった。 なのに、胸の奥が少しだけ熱くなった。 自分にも、こうしてくれる人がいる。 そう思った。 ありがとう。 その言葉を口にしたかどうかは覚えていない。ただ、あの日のカレーの味だけは覚えていた。少なくなった皿を見て泣きそうになっていた自分に、誰かが手を差し出してくれたことも。 画面が揺れた。 今度は廊下だった。 伊依は膝を抱えて座っていた。誰かに何かを言われたのだろう。頬には涙が残っている。泣いているところを見られたくなくて、顔を膝に押しつけていた。 足音が近づいてくる。 少年だった。 何も聞かずに、伊
Last Updated: 2026-09-16
Chapter: 7話「マウント×マウント」 地下の部屋で在庫の数を数えていると、イヤホンの向こうでジョフィが妙な声を出した。 「ちょっと伊依、面白いもの見つけた」 「何」 「非常階段の踊り場のカメラ、ハッキングして見てたんだけどさ。秀一と沙織、なんか喧嘩してる」 伊依は段ボールを数える手を止めなかった。 「私に関係ある?」 「ちょっと待って、今映すから」 スマホの画面に、粗い画質の映像が浮かぶ。踊り場の隅、秀一と沙織が向かい合って何やら言い合っていた。音声はない。だがジョフィが読唇のアルゴリズムを走らせているのか、字幕のようなテキストが下に流れ始めた。 「なんで|愛美《あいみ》ちゃんにあんな優しくすんの」 沙織の口の動きから、そう読み取られた文字が並ぶ。愛美というのは、伊依の後に派遣で入ってきた女性社員の名前だった。 「別に優しくしてねぇよ。普通にしてるだけだろ」 秀一の口が動く。伊依はその映像を見ながら、ため息をついた。 「なにこれ」 「面白いでしょ。三角関係っぽい」 「興味ない」 とはいえ、なんとなく気になって、伊依は数を数えながらも画面を横目で追っていた。 事の発端は、伊依が地下に異動してからしばらくして起きたことだった。伊依の元いた総務課に、新しく派遣社員が入った。名前は愛美。年齢は伊依より少し下、二十五歳くらいだろうか。明るい性格で、すぐに周囲に馴染んでいった。 その愛美が、ある日、手首に何かを巻いて出社した。 「見てこれ、可愛くない?」 給湯室で、愛美が同僚たちに見せびらかしている場面を、伊依は偶然通りかかって目にした。銀の細いチェーンに、小さなオパールが埋め込まれたブレスレット。 伊依のデザインだった。 「Angelusってブランドの新作なんだけど、めちゃくちゃ人気で。予約制でなかなか買えないのよ」 愛美は自慢げにブレスレットを見せながら、周囲の反応を楽しんでいる。伊依はその横を、何も言わずに通り過ぎようとした。 「あ、和久井さん」 愛美が呼び止める。伊依は足を止めた。 「これ知ってます? 最近話題のブ
Last Updated: 2026-09-15
Chapter: 6話「地下の王国」 地下一階、備品管理課のドアには、擦れて読みにくくなったプレートが貼られていた。伊依はそのドアを開けた瞬間、思わず息を吸い込んだ。 埃っぽい匂い。蛍光灯が一本、点滅している。棚には段ボール箱が積まれ、コピー用紙やトナー、文房具の在庫がぎっしり並んでいた。窓はない。空調の音だけが低く響いている。 「ここが今日から伊依の職場?」 スマホのイヤホンから、ジョフィの声が届く。伊依はコートを脱ぎながら答えた。 「うん」 部屋の中央に、古びたスチールデスクがひとつ。パソコンは会社支給の、型落ちのノートだった。伊依はそれを一度も開かなかった。代わりに鞄から、自分の私物のノートパソコンを取り出し、デスクの上に置く。 「業務内容、確認してきた」 伊依は椅子に座りながら続けた。 「週に一回、業者が備品を補充しに来る。それを数えて、上に報告する。それだけ」 「マジで? それしかやることないの?」 「うん」 伊依の口元が、わずかに緩んだ。誰も見ていない場所で、こんな顔をするのは久しぶりだった。 最初の一週間で、伊依は自分なりのルールを作った。まず、会社のネットワークには一切繋がない。これはジョフィと相談して決めたことだった。 「会社のWi-Fi使うと、伊依のアクセス履歴が全部ログに残るからね。念のため、絶対繋がない方がいい」 「うん、わかってる」 伊依が取り出したのは、最新型のポケットWi-Fiだった。契約者名義もダミー会社を通している。これなら会社側から通信内容を追跡される心配はない。 「あとこれもだ。よいしょ」 私物と思わせて運んだのはポータブル発電機だった。見た目はキャリーケースに見える。週に一回荘園で充電すればいい。 「これなら会社の電気を使わなくていい」 三日目、伊依が地下の廊下を歩いて
Last Updated: 2026-09-14