Chapter: 48話「崩れ始めた企画」 午前十時、会議室のモニターに灯火書房の担当者が映し出された。 マイクの音量を確認し、簡単な挨拶が済むと、オルビット側の説明が始まる。梨香子が画面共有をしながら、資料を順に送っていった。 起用予定の俳優のプロフィール。SNSでの投稿計画。都内でのイベント案。インフルエンサーを三十名招く先行体験会。 「投稿は公開の一週間前から段階的に出していきます。ハッシュタグはこちらで統一して、トレンド入りを狙います」 スライドが切り替わるたびに、数字が並ぶ。想定リーチ数、拡散率、想定インプレッション。 モニターの中の担当者は、口を挟まずに最後まで聞いていた。目立った表情の変化もない。ただ、時折手元に視線を落として何かを書き留めている。 一通りの説明が終わり、梨香子が「以上になります」と締めくくった。 短い間の後、担当者が口を開いた。 「ありがとうございます。ひとつだけ、確認させてください」 穏やかな声だった。 「読書支援システムのご説明は、どちらで行われる予定でしょうか」 会議室の空気が、少し止まった。 梨香子は気づいていないようだった。資料の次のページを開こうとしていた。瑠衣は手元のメモを見たまま、視線を上げられなかった。担当者の質問は責めていなかった。ただ確認していた。その静けさの方が、怒声より重かった。 梨香子が次のスライドに移った。俳優のプロフィール写真が映し出された。担当者は画面を見た。何も言わなかった。その沈黙が何を意味するのか、梨香子には届いていなかった。 誰かの椅子が小さく軋む音がした。梨香子はすぐには答えず、資料を戻すようにマウスを動かした。 それから、明るい声で切り出した。 「そちらは、後半のフェーズで考えています。まず俳優さんに興味を持ってもらって、その流れで自然にシステムを紹介すれば十分かと」 自信のある口ぶりだった。良い順序を組み立てたと信じている声だった。 「認知が広がってからの方が、届く人数も増えますので」 担当者は少し頷き、それからゆっくりと言葉を選んだ。 「なるほ
Last Updated: 2026-08-03
Chapter: 47話「方向が違う」 火曜の午前、企画チームの打ち合わせが始まった。 配られた資料が、机の上を滑るように回ってくる。瑠衣は一枚目に目を落とした。 灯火書房とのタイアップ企画が正式に動き出す。表紙にはそう書かれている。ページをめくると、二枚目の上半分に大きく人名が印刷されていた。人気若手俳優、起用予定。名前の下には出演作の一覧が続いている。 その下、余白を挟んだ小さな活字で、読書支援システムの概要が三行だけ添えられていた。 瑠衣の視線が上下に往復する。読書機会の平等という言葉と、俳優の名前。同じ紙の上に並んでいるのに、文字の大きさがまるで違った。 資料の端を持つ指に、少し力が入る。 斜め向かいの席で、正木も黙ったまま同じページを見ていた。 会議室はいつも通りの空気だった。プロジェクターが立ち上がり、担当者が資料の説明を始める。視覚障害者の読書支援、電子書籍と紙の書籍の両対応、AI読み上げシステムの概要。その説明が続く間、梨香子はスマホを見ていた。資料ではなく、スマホを。 担当者の説明が終わった。梨香子がスマホを置いた。「じゃあ私から補足します」と立ち上がった。資料には目を向けなかった。 梨香子が立ち上がり、ホワイトボードの前に出た。「この俳優さん、私の知り合いなんです」 明るい声だった。手元の資料を見ずに話し始める。「事務所も乗り気で、SNSも回してもらえます。フォロワー、二百万超えてるんですよ」 誰かが感嘆の声を上げる。若手の男性社員が身を乗り出した。「それ、めちゃくちゃ強いですね」「でしょう? 絶対バズります」 梨香子は嬉しそうに頷いた。自分の企画を信じている顔だった。誰かを出し抜こうとしているのでも、手を抜こうとしているのでもない。これが一番良い形だと、本気で思っている。 男性社員たちの間で、拡散数の話が続く。ハッシュタグをどうするか、投稿のタイミングをいつにするか。 瑠衣は資料の三行を、もう一度読んだ。「本末転倒じゃないか」 斜め向かいから、小さな声がした。正木だった。誰にも届かないような音量だったが、瑠衣の耳には届いた。 顔を上げると、正木は資料を裏返して机に伏せていた。 梨香子の説明は続く。フォロワー数、拡散力、タイアップ実績。数字は並んでいたが、読書支援という言葉は一度も出てこなかった。男性社員の声が重なるたびに、梨香子の声は少
Last Updated: 2026-08-02
Chapter: 46話「思っていた形ではなく」 土曜日の午後、玄関のチャイムが鳴った。 いつもの時間、いつもの顔だった。灯は軽く会釈をして靴を脱ぎ、廊下を進んでいく。書庫の扉を開ける手つきも、椅子を引く動作も、これまでと変わらない。 書庫に入った時から、鞄を置く動作が少し遅かった。本を選ぶのにいつもより時間がかかっている。心がここにないというのがぴったりくる動作だった。瑠衣は少し首を傾げて、台所でお茶を淹れた。 瑠衣がお茶を運んでいくと、灯はもう本を広げていた。 それから一時間近く、机の上の光景はほとんど動かなかった。 灯の指は本の右端に触れたまま止まっている。視線は確かに紙面の上にあるのに、文字を追っている速さではなかった。同じ行のあたりで目が止まり、しばらくしてまた戻る。ページをめくる音が、いつもより遠い間隔でしか聞こえてこない。 湯呑みも減っていない。運んできた時とほとんど同じ位置に、同じ高さの水面のまま置かれている。表面に浮いていた湯気は、とうに消えていた。 瑠衣は本棚の整理をするふりをして、その様子を少し見ていた。 声をかけるべきか、少し迷った。 書庫に入った時から、灯の様子は普段と違った。鞄を置く動作が少し遅かった。 本を選ぶのにいつもより時間がかかった。それでも何も言わなかったので、瑠衣も何も聞かなかった。お茶を淹れて持っていった。「ありがとうございます」という返事は、いつも通りだった。 灯が書庫へ来てから、もう一時間ほど経っていた。その間、ページをめくった回数を数えていたわけではないが、ほとんど動いていないことは分かった。お茶も最初の一口から変わっていない。カップの外側に水滴がついていた。 声をかけるべきか迷った。書庫に入った時から、鞄を置く動作が少し遅かった。本を選ぶのにいつもより時間がかかった。それでも何も言わなかったので、瑠衣も黙っていた。 以前にも、灯が茶に手をつけないまま夕方を迎えたことがある。あの時は本の中に入り込みすぎて、周りが見えなくなっていた。今は違う。本が灯を掴んでいるのではなく、灯の方が本の上で立ち止まっている。 指
Last Updated: 2026-08-01
Chapter: 45話「動き始める企画」 月曜日の朝、オフィスの空気がいつもと違った。 エレベーターを降りた瞬間から、廊下の話し声が普段より多い。「出版社案件らしいよ」「大型企画みたいだね」 誰もが噂だけを口にして、詳細を知る者はいない。瑠衣は自分のデスクに着き、いつも通りパソコンを立ち上げた。メールを開き、今日の予定を確認する。周囲のざわめきは気になったが、手を止める理由にはならなかった。 修正依頼の対応が二件入っていた。メーカーとのやり取りを終えて、社内確認を済ませる。普段通りの仕事だった。ただ廊下の話し声は昼になっても続いていた。「大型案件」「出版関係」という言葉が、断片的に耳に入ってくる。瑠衣はその都度、画面に視線を戻した。午前の仕事を終えた頃、部長から声がかかった。「今日の午後、案件説明の場を設ける。第一営業局は全員参加で」 昼休み。近くの定食屋に行くと、先に正木がカウンターで食事を取っていた。瑠衣の姿を見ると軽く手を上げた。隣の席が空いていた。 腰かけて日替わり定食を食べると正木が話しかけてきた。「大型案件の噂は本当だったんだ。瑠衣さん、灯火書房って知ってる?」「名前だけなら」 それだけだった。正木は定食の味噌汁を一口飲んでから、少し声を落とした。「出版社って、うちあんまり取引ないじゃないですか。だから余計に気になって」「ですよね。珍しい案件ではあると思います」「灯火書房って、電子書籍系の会社だよね。なんか変わった社長がいるって聞いたことある」 瑠衣はカウンターに出された定食の盆を軽く見て、箸を取ろうとした手が止まった。「そうですか」 それだけ答えた。二人とも、詳細はまだ知らなかった。 会議室に部長の声が響いた。「今日はみんなに、新しい案件の概要を話す」 スクリーンに一枚のスライドが映し出される。「クライアントは、灯火書房」 瑠衣はペンを持つ手を止めた。社名だけが、他の言葉より少し大きく耳に残った。 部長がスライドを進める。「AIによる読み上げシステムの共同開発案件だ。紙の本も電子書籍も両
Last Updated: 2026-07-31
Chapter: 44話「笑い声」 土曜日、灯がいつもの時間に来た。玄関で靴を脱ぎ、揃える。「こんにちは、瑠衣さん」 自然な調子だった。瑠衣も同じ調子で返す。「こんにちは」 それだけのやり取りだったが、名前の響きだけが、少し耳の奥に残った。 書庫に降りると、灯はすでに棚の前に立っていた。今日は整理の続きをするつもりらしかった。先週の作業で三分の二まで進んだ区画の、残りの部分だった。瑠衣も自然についていく。灯が棚の状態を確認しながら、どこから手をつけるかを決めてい
Last Updated: 2026-07-30
Chapter: 43話「探していたもの」 土曜日、灯は書庫の階段を降りた。 いつもの棚へ向かう。三段目、右から二冊目。そこにあるはずの本が、なかった。 棚を上から下まで見る。隣の棚も見る。珍しいことだった。この家の本の並びは、灯の頭の中の地図と完全に一致している。狂うことなど、これまでなかった。 少しの間、灯はその場に立ったままだった。眉間に軽く皺が寄る。記憶をたどる。貸したか。動かしたか。思い出せない。 この家の本は、灯が自分で決めた順番に従って並んでいる。出版社別、年代順、版ごと。数万冊の位置を、灯は体で覚えていた。それが狂うということは、誰かが動かしたか、自分が動かして忘れたか、どちらかだっ
Last Updated: 2026-07-29