author-banner
団紡るう
団紡るう
Author

Novels by 団紡るう

結婚式当日、妹と寝た婚約者を退け、叔父の妻となる

結婚式当日、妹と寝た婚約者を退け、叔父の妻となる

29歳のOL・瑠衣は、結婚式を一か月後に控えていた。 しかし婚約者の雅之が妹・真衣を妊娠させたことで婚約は破棄。結婚式まで妹に乗っ取られ、両親からも「妹のメンタルが云々」と家を追い出されてしまう。 居場所を失った瑠衣が出席したのは、自分のものだったはずの結婚式。そこで出会ったのは、親戚中から変人扱いされる独身の叔父・相沢灯だった。披露宴の片隅で交わした会話をきっかけに、灯は瑠衣へ一軒の空き家の鍵を差し出す。だがその叔父には、誰も知らない秘密があった――。結婚式の端っこから始まる、年の差再生ラブストーリー。
Read
Chapter: 142話「おめでとうの後で」
 翌日も灯火書房の午前中はいつも通りに始まった。瑠衣は届いた資料を受け取り、日付を確認してから管理番号順に並べていく。確認済みのものには印をつけ、差し戻しが必要な書類は別のファイルへ移した。昨日の午後に使った一覧表を開き、残っている項目をひとつずつ確かめる。ペン先が止まったところで、瑠衣は机の端に置いていたメモを手に取った。 おめでとう。 そこに書いてあるわけではない。藤堂から渡されたものも、何かに記された文字もない。それでも資料をめくる手がわずかに止まると、休憩スペースで聞いた声が浮かんだ。あのとき藤堂は笑っていた。いつもと変わらない調子で立ち上がり、カップを返却口に置いて仕事へ戻った。 何に対してのおめでとうだったのか。灯に気持ちを伝えたことなのか。それとも、その先にある何かまで含んでいたのか。考えようとしても、ひとつの答えに収まらない。瑠衣はメモを元の位置へ戻し、資料の端を揃えた。ずれた紙を一枚ずつ直してからファイルを閉じ、次の束を机に置く。まだ確認していない数字がいくつも並んでいた。 午後になると、瑠衣は保管棚から古い資料を取り出していた。背表紙の番号を照合していると、藤堂が隣の通路を通りかかった。片手に書類を持ち、別の棚へ向かうところだった。藤堂は足を止めずに資料を棚へ収め、背表紙を指で押して位置を整えた。瑠衣も手元のファイルを戻し、一覧表へ確認済みの印をつける。 ふと顔を上げたとき、藤堂と目が合った。 藤堂は少し頷いた。 瑠衣も小さく頭を下げた。藤堂はそのまま通路を抜けていき、瑠衣は棚から次の資料を取り出した。背表紙の番号を確かめ、ファイルを開く。紙の間に挟まっていた付箋が一枚めくれていたので、指先で押さえて元に戻した。 その日の仕事が終わる頃には、机の上に広げていた資料もほとんど片づいていた。瑠衣は最後のファイルを棚に戻し、一覧表の該当箇所に印をつける。ペンを置いてから、明日確認する書類を机の左側へまとめた。藤堂とはその後も何度か近くですれ違ったが、仕事以外の話はしなかった。 土曜日の朝、瑠衣はいつものように二人分のお茶を用意した。湯呑みをテーブルに置き、読みかけの本を手元へ寄せる。窓の外では風に揺れた枝が細かく動いていた。時計を見てから玄
Last Updated: 2026-11-03
Chapter: 141話「言った方がいいんじゃない」
 午前中の灯火書房では複合機が紙を送り出す音とキーボードを叩く音が交互に聞こえていた。瑠衣は届いた資料を机の上に広げて日付と管理番号を確かめながら分類していく。古いものは左へ、確認の必要なものは手前へ。付箋の色を分けて一覧表に印をつけると次の束に手を伸ばした。数字をひとつ見落としていたことに気づき、さっき確認したページへ戻る。該当箇所に印をつけ直し、隣の資料と照合してからファイルへ収めた。  少し離れた机では藤堂朱音が書類を確認していた。眼鏡をかけ直し、赤ペンで一箇所に線を引いてから隣のページへ移る。ときおり電話が鳴り誰かが短く返事をする。瑠衣も内線を取り、担当者に確認を済ませると聞き取った内容を資料の余白に書き留めた。確認事項をメールで送信し、返ってきた返信に目を通す。藤堂が席を立って棚からファイルを取り出すときも、瑠衣は手元の仕事を続けていた。窓から差す光は机の端まで届いていたが、紙を読むのに邪魔になるほどではない。いつも通りの午前中だった。  昼休みになり、瑠衣は最後の資料をファイルに収めた。机の上を片づけてから弁当を持ち、休憩スペースへ向かう。藤堂は先に来ていて、飲み物を机に置きスマートフォンを伏せたところだった。瑠衣が隣の椅子に腰を下ろして弁当の蓋を開けると、藤堂も包みをほどいた。二人とも最初は何も話さず、箸を動かしていた。瑠衣は朝のうちに確認した資料のことを思い出し、午後にもう一度見直そうと頭の中で予定を組み直す。 「ちょっといい?」 「はい」  藤堂は箸を持ったまま瑠衣の方へ顔を向けた。仕事の確認かと思い、瑠衣も食べる手を止めて向き直る。 「社長のこと、好きでしょ」  瑠衣の手が止まった。箸の先が弁当箱の縁に触れたまま動かない。顔を上げるまでに、ほんの少し間があった。藤堂の表情には、質問への答えを待つ人の探るような様子がない。思いついたことを口にしたというより、ずっと知っていたことを確かめる必要もなく伝えたような顔だった。 「……なんで」 「なんとなく」  藤堂はそれ以上続けず、卵焼きをひと口食べた。瑠衣も箸を動かそうとしたが、つかんだブロッコリーを一度弁当箱に戻してしまう。藤堂は急かす様子もなくお茶を飲んでいる。いつもなら仕事の話をひとつふたつ交
Last Updated: 2026-11-02
Chapter: 140話「いつもと違う土曜日」
 土曜日の朝。瑠衣は台所で紅茶を淹れていた。茶葉を量ってポットに入れ、沸かした湯を注ぐ。蒸らしている間に湯呑みを二つ並べ、テーブルの上に置いてあった本を端へ寄せた。窓から差し込む光がテーブルの木目を照らしている。カーテンを少し開けると、外の空気が入り込み、紅茶の香りが部屋に広がった。  ポットから紅茶を注ぎ、二つのカップに均等に分ける。片方を自分の席へ置き、もう片方は向かい側へ運んだ。椅子の位置を直し、テーブルの端に置いてあったしおりを本に挟み直す。玄関のほうへ目を向けると、まだチャイムは鳴っていなかった。瑠衣はカップを持ち上げ、ひと口飲んだ。紅茶はちょうどいい温度になっていた。  いつの間にか当たり前になっていた。  玄関のチャイムが鳴ったのは、それから間もなくのことだった。瑠衣はカップをソーサーに戻して立ち上がり、廊下を抜けて扉を開けた。 「こんにちは」 「こんにちは」  灯が靴を脱いで上がる。揃えた革靴を玄関の端へ置き、鞄を持ち直してから瑠衣の後に続いた。瑠衣はその足元を見ていた。灯が靴を揃える手つきも、置く位置も、これまで何度も見ている。けれど今日は、灯が顔を上げるまで視線を戻さなかった。  いつもの場所に、いつもの革靴がある。  瑠衣は玄関を離れ、先に部屋へ戻った。灯が鞄をいつもの場所へ置く。テーブルに並べた紅茶を見つけ、片方のカップに手を伸ばした。 「用意してくださったんですね」 「はい。ちょうど淹れたところです」 「ありがとうございます」  瑠衣は自分の席に座り、灯が向かいへ腰を下ろすのを待った。二人で紅茶を飲み、それからそれぞれ本を開く。窓辺の光は少しずつ移り、テーブルの上に置かれたカップの影がゆっくりと短くなっていった。  ページをめくる音だけが部屋に響いていた。瑠衣は読みかけの箇所を追いながら、向かいに座る灯の手元を何度か見た。灯は本を読むとき、背もたれに深く寄りかからない。片手でページを押さえ、もう片方の手をテーブルに置いている。読み進める速度もいつもと変わらなかった。  ふと、灯が自分より少し先のページを読んでいることに気づいた。瑠衣は自分の本を閉じず、視線だけを上げた。灯がページの途中で指を止め、
Last Updated: 2026-11-01
Chapter: 139話「深く知るということ」
 月曜日。瑠衣はいつもより少し早く出勤し、机の上に届いていた資料を種類ごとに分けた。確認が必要な箇所に付箋を貼り、日付を確かめてからファイルへ収める。廊下の向こうでは社員が出勤の挨拶を交わし、複合機から印刷された紙が出てくる音も聞こえた。 灯はすでに仕事を始めていた。デスクに向かい、書類を確認しながら必要な箇所に印をつけている。ときおり手を止めて本を開き、数行読んでからまた書類へ戻る。その姿はいつもと変わらない。瑠衣が資料を持って近づくと、灯は顔を上げて受け取った。「ありがとうございます。確認しておきます」「お願いします」 それだけのやり取りを終え、瑠衣は自分の机へ戻った。ファイルを開き、整理した資料を順番に並べていく。日付を確かめ、抜けている書類がないか一枚ずつ指で追った。手を動かしている間にも、ふとした拍子に先週の声が浮かんだ。 瑠衣さんがいるから、そう思います。 資料の端を揃えた瑠衣は、次の束を手元へ引き寄せた。確認を終えた書類を棚へ戻し、空いた場所に新しいファイルを差し込む。背表紙の向きを整えてから、机に残った付箋を一枚ずつ片づけた。 昼休みになると、瑠衣は給湯スペースでお茶を用意していた。紙コップを手にした御厨が通りかかり、棚に置かれた本へ目を向ける。灯が先ほどまで読んでいた本だった。瑠衣が湯呑みを持ち上げると、御厨が何気ない調子で声をかけてきた。「社長って、昔から本好きなんですかね」「そうみたいですね」 瑠衣は湯呑みを両手で持ち、少し冷ましてから口をつけた。御厨は棚の本を眺めていたが、やがて思い出したように続けた。「なんか、最近特に楽しそうで」 瑠衣の手が湯呑みの縁で止まった。御厨は特に返事を待つ様子もなく、手にしていた紙コップを持ち直している。「……そうですか」「ええ。まあ、気のせいかもしれませんけど」 御厨は軽く手を振り、そのまま自分の部署へ戻っていった。呼び止める者もなく、廊下には昼休みの話し声が戻る。瑠衣は湯呑みを置き、使ったスプーンを洗ってから給湯スペースを出た。机に戻る途中で藤堂とすれ違い、軽く会釈を交わす。午後の予定を確かめるため
Last Updated: 2026-10-31
Chapter: 138話「ここにいていい」
 土曜日の午後。瑠衣はテーブルの上を片づけてから時計を見た。灯が来るまでには、まだ少し時間がある。窓辺には先週と同じように柔らかな光が差し込み、カーテンの裾が風に揺れていた。瑠衣は本を手に取ったものの、すぐには開かず表紙を指でなぞる。瑠衣は本をテーブルへ戻し、ずれたコースターをそっと直した。 玄関のチャイムが鳴る。瑠衣は立ち上がり、廊下を抜けて扉を開けた。「こんにちは、瑠衣さん」「こんにちは。どうぞ」 灯が靴を脱いで上がる。いつもと同じ挨拶を交わし、いつもと同じように鞄を置いた。上着を脱ぐ動作にも変わったところはない。先週はここで、灯の話を聞いていた。言葉が途切れたときの沈黙も、最後に残った言葉も、まだ覚えている。けれど、今日の灯は何も切り出さずに上着を椅子の背へ掛けた。瑠衣も何も尋ねず、湯呑みを二つ用意した。 急須に茶葉を入れて湯を注ぐ。立ち上る湯気が薄くなったところで、瑠衣は湯呑みを盆に載せた。テーブルに置くと、灯が顔を上げる。「ありがとうございます」「どういたしまして」 瑠衣は向かいの椅子を引いた。湯呑みを持ち上げて一口飲むと、まだ少し熱かった。灯もお茶を口に運び、静かに息をつく。瑠衣はその向かいで本を開いた。先週の続きを尋ねることもできた。それでも、目の前に開いたページを見つめているうちに、問いは口に出ないまま胸の内に留まった。 灯も鞄から本を取り出した。二人はそれぞれ読みかけの箇所を探し、紙をめくる。向かいでは灯が静かにページを追っている。湯呑みから立つ湯気が消えても、どちらも席を立たなかった。 昼が近づくと、瑠衣は本を閉じて立ち上がった。「そろそろ、お昼にしますね」「はい。何か手伝いましょうか」「お皿を並べてもらえますか?」「分かりました」 台所で簡単な昼食を作っている間に、灯は食器棚から皿を出してテーブルに並べた。箸の向きを揃え、湯呑みを端へ寄せる。瑠衣が料理を運ぶと、灯は椅子を引いて場所を空けた。二人で昼食をとり、食べ終えた皿を台所へ運ぶ。水の流れる音が響き、洗い終えた皿を伏せると、灯が布巾でテーブルを拭いた。瑠衣はその横で湯を沸かし直し、午後のお茶を用意する。言葉を
Last Updated: 2026-10-30
Chapter: 137話「新しい家族」
 土曜日の午後、瑠衣は湯を沸かしながら窓の外を見た。先週と同じ時間に、灯が来る。あの日、灯は父に新しい家族ができたことと、祖父が何も聞かずに迎え入れてくれたことを話した。最後に聞いた「それで十分でした」という言葉が、まだ耳に残っている。けれど、続きを尋ねるために今日の時間を用意したわけではなかった。話すかどうかを決めるのは灯自身だ。 瑠衣は台所で湯呑みを二つ並べたとき、先週の灯の手元を思い出していた。閉じた本に置かれた指と、話す前に落とされた視線。あのとき聞いたことを、もう一度確かめるのは簡単ではない。けれど、聞かずにいることだけが気遣いではないのかもしれなかった。 呼び鈴が鳴り、瑠衣は火を止めて玄関へ向かった。灯はいつものように挨拶をし、靴を揃えて部屋に入る。瑠衣がお茶を出すと、灯は礼を述べて湯呑みに手を添えた。二人は先週と同じ席に着き、机の上に本を置いた。瑠衣は湯気の立つ湯呑みを少し脇へ寄せ、灯がページを開くのを待ってから、自分の本も開いた。 窓の外では、向かいの家の庭木が風に揺れていた。瑠衣はそちらへ目を向け、すぐに机へ視線を戻した。湯呑みから立つ湯気は、少しずつ薄くなっている。いつもの土曜日と同じように時間は流れていたが、先週の話だけは、まだ二人の間に置かれたままだった。 しばらくは読書が続いた。瑠衣は文字を追いながら、ときおり向かいの様子を確かめた。灯がページをめくるたび、紙の音が小さく響く。話の続きを待っていることを態度に出さないようにするほど、目の前の文章が頭に入りにくくなった。それでも瑠衣は本から顔を上げず、灯が自分から話し始めるまで口を開かなかった。 やがて灯が本から視線を上げた。「先週の話の続きなんですが」「はい」 瑠衣はしおりを指で挟み、ゆっくり本を閉じた。灯は湯呑みに目を向けてから、手を机の上へ戻した。「新しい家族、というのは」 言葉がそこで途切れた。瑠衣は急かさずに待つ。灯が顔を上げるまで、指先を本の表紙に置いたまま動かさなかった。「……続けてください」「父が再婚しました。私が小学生の頃です」「そうですか」「相手の方に、子どもがいました」
Last Updated: 2026-10-29
つつましく、たくましく。~離婚した私は、超ハイスペ御曹司に溺愛されています

つつましく、たくましく。~離婚した私は、超ハイスペ御曹司に溺愛されています

西条愛音は起業家の夫・朝桐航生のもとで三年間、家事だけの妻を装って暮らす。実は国産抗がん剤の主席研究員という正体は誰にも明かしていない。養父の危篤時に頭を下げても金を貸さなかった航生が、想い人へ五千万円を送っていたと判明し、愛音は婚前契約書を盾に離婚を決意。義両親を味方につけ静かに準備を進め、正体公開とともに航生たちを追い詰めていく。復讐ではなく、愛音の価値を見誤った者たちが自ら崩れていく物語。
Read
Chapter: 60話
 夕食の支度を終えた愛音が廊下を通りかかったとき、書斎の扉が少しだけ開いていることに気づいた。中から航生の声が聞こえる。仕事の電話なら珍しくもない。けれど、いつもより声が低く、語尾に妙な柔らかさが混じっていた。「分かってる。今は無理だって。あとで連絡するから」 愛音は足を止めた。扉の隙間から見えた航生は、机に片手をついてスマートフォンを耳に当てていた。パソコンの画面には何かの資料が開かれているが、視線はそちらに向いていない。返事を待つように黙ったあと、航生の口元が少し緩んだ。「そんなに気にしなくていい。ちゃんと考えてるから」 仕事相手に向ける声とは違う。愛音がそう感じたのは、航生と長く暮らしてきたからかもしれない。家で電話をするときの彼は、相手が誰であっても要件を先に済ませたがる。忙しさを理由に話を切り上げることも多い。それなのに今は、相手の言葉を待つ時間さえ惜しんでいないようだった。 航生がふと廊下のほうへ顔を向けた。愛音は反射的に手にしていたタオルへ目を落とし、歩き出す。足音を立てすぎないよう気をつけるつもりはなかったが、自然と歩幅が小さくなった。「じゃあ、また連絡する」 背後で通話が切れる音がした。続いて椅子の脚が床を擦る。愛音は振り返らず、洗面所へ向かった。タオルを棚にしまい、蛇口をひねる。水が流れる音の向こうで、書斎の扉が閉まった。 誰と話していたのか。確かめようと思えば、今なら何か聞けるかもしれない。けれど、何を尋ねるというのだろう。仕事の電話だったと答えられれば、それ以上は追及できない。愛音が見たのは、航生が誰かと親しげに話していたという事実だけだった。 手を拭きながら、愛音の頭に別の声が蘇った。 航生の退院ではなく、隆二が退院した日。愛音がその報告をしようと電話をかけたとき、受話口の向こうから聞こえた若い女性の声。 ――航生さぁん、まだぁ? あの甘えるような呼びかけを聞いた瞬間のことは、今でも覚えている。愛音はその場で何も尋ねず、通話を終えたあとに手帳へ書き留めた。声。女。若い。『航生さん』。短い記録だったが、聞き間違いではないと忘れないために残したものだった。 愛音は濡れた手をもう一度タオ
Last Updated: 2026-11-03
Chapter: 59話
 TinkerBellの作業室で、愛音は検証結果をまとめた資料を開いていた。画面には完了した項目と未確認の項目が並んでいる。前回の進捗確認で説明したとおり、遅れている工程を急いで終わらせるより、確実に確認を進める必要があった。とはいえ、使える時間が限られている現状では、すべてを同じ順番で進めるわけにもいかない。 愛音は作業予定の表を更新し、優先順位を見直した。検証の一部を先に進めれば次の判断に必要なデータが揃う。ただし、その場合は別の確認が後ろへずれる。どちらを選んでも影響は残るため、研究責任者として決めなければならなかった。 資料を整理していると、創一郎から連絡が入った。進捗について少し話したいという内容だった。愛音は画面に目を戻し、最新の数値を確認してから返信した。説明する内容は決まっている。問題は、その方針をどこまで認めてもらえるかではなく、自分の判断として筋道を立てて伝えられるかだった。 指定された時間にオンラインの打ち合わせが始まると、画面の向こうに創一郎の姿が映った。彼は手元の資料に目を通してから顔を上げた。「進捗表を確認しました。前回の報告から、検証はどこまで進みましたか」「予定していた確認のうち、こちらの項目は完了しています。残っているのは結果の照合と記録の整理です。現段階では研究の方向性を変更する必要はないと考えています」 愛音は共有画面を切り替え、完了した項目と未完了の項目を示した。数値の根拠と確認手順を順番に説明する。創一郎は途中で口を挟まず、要所で資料へ目を落としながら聞いていた。「今後の進め方については、どう考えていますか。こちらから希望を出すこともできますが、まずは愛音さんの意見を聞きたいです」 愛音は一瞬だけ指を止めた。 希望を聞かれたのだ。進捗を報告する場なのだから、質問そのものは不思議ではない。それでも、答えを急かされず、自分の考えを先に求められることに、わずかな戸惑いがあった。「私は、次の報告までに一次確認を終えることを優先したいです。その結果を見てから追加の検証が必要か判断したほうが、作業の重複を避けられます。記録の整理も並行して進めますが、確認の精度を落としてまで期限に合わせることは避けたいと考えていま
Last Updated: 2026-11-02
Chapter: 58話
 TinkerBellの会議室には、開発資料を映したモニターと、進捗表を印刷した紙が並んでいた。愛音は席に着くと、手元の資料を開き、日付と数値をもう一度確かめた。今朝までに更新した部分には付箋をつけてある。紗英が隣へ座り、パソコンを起動したところで、会議室の扉が開いた。 入ってきた女性を見て、紗英の指が一瞬止まった。以前の進捗確認で顔を合わせていた代理人ではない。女性は二人に軽く会釈し、向かい側の席へ資料を置いた。「初めまして。如月綾瀬と申します。本日から投資家側の窓口を担当します。よろしくお願いします」「研究責任者の西条愛音です。こちらはプロジェクト管理を担当している遠野紗英です。よろしくお願いいたします」 愛音は立ち上がり、落ち着いて頭を下げた。綾瀬も同じように会釈を返したが、表情からは歓迎なのか警戒なのか読み取れなかった。紗英が以前の担当者について何か尋ねかけたように見えたものの、すぐに口を閉じて資料へ目を落とす。代理人が交代した理由は、説明されなかった。 綾瀬は席に着くと、手元の資料を一枚めくった。「まず、以前の進捗について確認させてください。前回の報告では、予定していた工程に遅れが出ていました。特に以前の進捗報告で遅れが明らかになった時点について、理由を伺えますか」 愛音は指先を資料の端に添えた。以前の報告時点。記録に残っている数字と工程は、すぐに説明できる。けれど、その遅れが生まれた時間の内訳まで、仕事の資料に書かれているわけではなかった。「当初の計画に対して、実作業に充てられる時間を十分に確保できませんでした。そのため、検証と記録の整理が予定より後ろへずれています。確認が必要な工程を飛ばして帳尻を合わせることは避けたので、遅れが表面化しました」「作業時間を確保できなかったのは、研究上の問題ですか。それとも人員や環境の問題でしょうか」 綾瀬の声に責めるような響きはなかった。問いは簡潔で、答えを曖昧にすれば次の質問が来ることも分かった。愛音は資料の工程表を開き、該当する欄を示した。「研究上の問題だけではありません。私自身が作業に使える時間が予定を下回ったことが主な要因です。現時点で、実験手順や結果の再現性に問
Last Updated: 2026-11-01
Chapter: 57話
 自室で手帳を開いた愛音は、ページの余白にペンで丸を三つ書いた。二つ目の丸をなぞり、さらにその内側へ小さな丸を重ねる。横に貴子と書いたところでペン先が止まった。前日に紗英と話した内容を思い返し、愛音は手帳を閉じた。スマートフォンを取り、貴子の連絡先を開く。先日はお騒がせしました。お詫びに昼食をご馳走させてください。よろしければお仕事のお話も伺えたら嬉しいです。そう打って送信した。 返信を待つ間、愛音は洗濯物を取り込んで畳み、掃除機をかけた。窓を開けて空気を入れ替え、洗面所の鏡を拭く。洗濯かごを空にして、取り込んだタオルの端を揃えながら棚へ戻した。スマートフォンは棚の上に置いたままで、手に取るたびに時間を確かめることもしなかった。三時間ほど経った夕方、通知音が鳴った。画面には駅前のホテルのレストラン名と、しょうがないわね、という短い返事が表示されている。愛音は指定された店を確認し、返事を送ってからスマートフォンを伏せた。手帳をもう一度開き、貴子の名前の横に置いたペンを揃える。丸の外側には何も書き足さず、ページを閉じて引き出しへしまった。外出の支度を済ませ、鍵をかけたか、指先でもう一度確かめた。 ホテルのレストランに着くと、貴子は窓際の席に座っていた。バッグを隣の椅子に置き、メニューを開いている。愛音が近づくと、貴子は腕時計に目を落としてから顔を上げた。「お待たせしました。今日はありがとうございます」「忙しいのに、わざわざ来てあげたのよ」 愛音は向かいの席に座り、メニューを開いた。貴子はページをめくる手を止め、一番高いコースを指で示す。愛音も同じものを注文した。貴子がメニューを閉じるのを見届けてから、愛音は自分のメニューを揃えてテーブルの端へ置いた。「貴子さんの選ばれるものは、いつも間違いがないですね」 貴子は少し顎を上げ、バッグを椅子の背に掛け直した。前菜が運ばれてくると、愛音はナイフとフォークの位置を確かめるように手元を整えた。貴子がひと口食べてから、愛音も同じようにナイフを入れる。皿の上の料理を小さく切り分け、口に運んでからナプキンを膝に置き直した。「最近、ニュースを見ていて、製薬の業界って噂が早いんだなと思いました。航生さんも、朝に興奮していて」 貴
Last Updated: 2026-10-31
Chapter: 56話
 あれから数日が過ぎても、朝の手順は変わらなかった。目覚ましが鳴ると愛音は台所へ立ち、炊飯器の蓋を開けて米の具合を確かめた。味噌汁を温め直し、卵を溶いてフライパンへ流す。箸で端を寄せながら形を整え、焼き上がった卵を皿へ移す頃には、テレビから天気予報が聞こえていた。窓の外は薄曇りで、予報士が午後の降水確率を伝えている。 航生が寝室から出てきた。いつもより口元が緩み、手首には見慣れない腕時計が光っている。新しい革ベルトはまだ硬そうで、航生は食卓へ向かう途中にも文字盤を覗いた。スマートフォンを箸の脇へ置き、画面を上にしたまま椅子に座る。愛音は味噌汁を二つの椀によそい、航生の前へ滑らせた。椀の向きを揃え、箸置きの位置を直してから自分の席についた。 箸が皿に触れる音が続く。航生は新聞を広げず、食事の合間にもスマートフォンへ目を落としていた。通知が来るたびに画面が明るくなり、彼は内容を確かめてから伏せることなく、手元へ引き寄せていた。愛音はご飯を一口食べ、味噌汁を飲んだ。湯呑を少しずらして箸を置き、焼いた卵を二つに分ける。いつもと同じ器、同じ席、同じ朝の番組。窓の向こうで車が一台通り過ぎ、テレビの天気予報士が傘のマークを指し示した。愛音が最後の一口を食べ終える頃、天気予報が終わった。 画面が情報番組の話題コーナーに切り替わり、女性キャスターが明るい声で次の話題を紹介した。スタジオの背景には企業のロゴや街の映像が並び、画面の隅には小さく「業界の注目ニュース」と表示されている。「続いては、業界の噂です。製薬ベンチャーのTinker Bellが、画期的な新薬の開発に成功した模様、と関係者の話から分かりました」 画面の下に、社名が大きく表示された。愛音は急須を手に取り、航生の湯呑へ茶を注ぎ始めた。「来春にも大手が出資を決める見通しとのことです」 キャスターは手元の資料を見ながら短く補足し、コーナーは三十秒ほどで終わった。画面の社名はすぐに消え、何事もなかったように別の映像へ切り替わった。画面は次の話題へ移り、スタジオには別の映像が流れ始める。愛音の手は急須を傾けたまま止まっていた。茶が湯呑の縁まで上がり、表面が小さく揺れる。愛音はそこでようやく気づき、注ぐのをやめて急須を戻した。 内容
Last Updated: 2026-10-30
Chapter: 55話
 タクシーを降りると、隆二の家の門が夕方の光を受けていた。庭の木は枝先を伸ばし、門柱のそばに落ちた葉が風に押されている。愛音は紙袋を持ち直し、もう片方の手で鞄から合鍵を取り出した。鍵についた小さな傷を親指で確かめてから、鍵を回して玄関を開けると、閉め切っていた家の空気が玄関にこもっていた。「窓、開けるね」 隆二が靴を脱いで居間へ向かう間に、愛音は廊下と居間の窓を開けた。外の空気が入り、カーテンの裾が揺れる。居間の隅に置かれた時計は、家を空けていた間も変わらず時を刻んでいた。隆二は居間の椅子に腰を下ろし、足元へ鞄を置いた。愛音はエプロンを取らず、袖を肘までまくって台所へ入る。米を計り、ボウルに入れて水を注ぐ。指先を水に沈めると、冷たさが手首まで伝わった。米を研ぐ手は淀みなく動き、水を替えて鍋に移す。火にかけてから卵を割り、箸で溶いた。小さなフライパンを温め、卵焼きを手早く巻き上げる。漬物は冷蔵庫から出して食べやすい大きさに切り、小鉢へ移した。 米を研いだ水を捨てようとしたとき、一度だけボウルの縁から水がこぼれた。愛音は手を止め、台の端を見下ろした。水が細く広がっている。布巾を取って拭き、濡れた指を一度振ってから、再び鍋の様子を確かめた。居間から隆二が台所を見ていたが、声はかからない。愛音はまな板を洗い、使った道具を乾いた布巾の上へ揃えて置いた。お粥の火を弱め、焦げつかないよう木べらで鍋底をなぞる。卵焼きを切り分け、漬物の小鉢を並べる。湯気の立つお粥を器に移す頃には、窓から入る風も少し落ち着いていた。 食卓にお粥と卵焼き、漬物を並べると、愛音は隆二の向かいに座った。隆二は箸を取り、お粥を一口すくった。器を傾ける角度を確かめるようにして口へ運び、何も言わず二口目をすくう。愛音は急須を持ち上げ、隆二の湯呑に茶を注いだ。湯気が立ち上る間、隆二は器の縁を見つめていた。「あの家に、お前の居場所はあるのか」 急須を傾けていた愛音の手が止まった。茶が湯呑の縁近くまで満ちている。愛音は少しだけ角度を戻し、急須を持ったまま顔を上げた。隆二は愛音を見ず、お粥の表面に浮かぶ湯気を追っている。「さっきの電話のあと、顔が変わった」「……仕事の電話だったから」
Last Updated: 2026-10-29
7×8 〜◯◯が好きすぎるおとこのはなし

7×8 〜◯◯が好きすぎるおとこのはなし

ほのぼの短編ホームコメディ。 技術者として働く24歳の麻倉優香は、ある日、56歳の父・光司の異変に気づく。 急に機嫌がよくなり、母・祐実を目で追い、妙に優しくなった父。 母も父の変化を不審に思っている。 まさか、浮気? 家族を守るため、優香は技術者らしく父親の行動を分析する。しかし、証拠を集めれば集めるほど、父親の行動には不可解な矛盾が増えていく。 そして、ついに判明した父親の秘密。 56歳の父は、○○に恋をしていた。 しかも、本人は大真面目だった。 父親の浮気疑惑から始まった調査は、やがて優香自身が知らなかった両親の姿を明らかにしていく。
Read
Chapter: 第8話「父の行動原理がわからない」
 優香は一週間分の記録を机に並べていた。  ノートには光司の行動と、そのときの状況が細かく書かれている。母を見つめていたこと。スマホを見て笑っていたこと。菓子を買って帰り、食器を洗い、料理を褒められて舞い上がっていたこと。最初は気になった出来事を順番に記録していただけだったが、こうして見返すと、いくつかの共通点が浮かび上がってくる。  光司の機嫌は、祐実の反応によって大きく変わっていた。  優香はペンで該当する箇所に印をつけた。母が笑ったとき。礼を言ったとき。何気ない話に付き合ったとき。どの場合も父の表情は明るくなっている。反対に、母が忙しくて気づかなかったり、休みたくて会話を切り上げたりすると、光司は目に見えて元気をなくしていた。  単に妻を気遣っているだけなら、ここまで反応に差が出るだろうか。  優香は椅子の背にもたれた。  父が何かを隠しているのは確かに見える。スマホを見て笑い、近づくと画面を閉じる。以前より身だしなみを気にし、母の予定を何度も尋ねるようになった。けれど、外出の頻度も帰宅時間も以前と大きく変わっていない。  浮気相手と会っているという仮説は、どうにも行動と噛み合わなかった。  かといって、浮気ではないと断定する材料もない。連絡だけを取り合っている可能性だってある。優香はノートの余白に疑問符を書き込み、別のページへ移った。  父が母に何かを謝りたいのだとしたら、どうだろう。  後ろめたいことがあるから急に優しくなり、母の機嫌を気にしている。そう考えれば、菓子を買ったり家事を手伝ったりする行動にも説明はつく。だが、光司が何かを隠しているように見える理由までは分からない。  そもそも、何かを償おうとしている人間が、あれほど嬉しそうに母の反応を待つものなのだろうか。  優香はペン先を止めた。  もう一つ、考えられる可能性がある。  父は母に対して、以前より強い感情を抱くようになったのではないか。  そう考えると、今までの行動が少し違って見えた。母を目で追い、目が合うと慌てて視線をそらす。何気ない言葉に喜び、褒められただけで一日中機嫌がよくなる。母が自分に関心を向けないと、あからさまに落ち込む。
Last Updated: 2026-11-03
Chapter: 第7話「その一言で舞い上がる男」
その日の夕食は光司が作ることになった。 祐実の体調が少しずつ戻ってきたとはいえ、まだ疲れやすい様子が続いていたため、優香が家事を分担しようと提案したのだ。すると光司が珍しく自分から手を挙げた。「今日は俺が作るよ」 祐実は少し驚いた顔をしたものの、素直に頷いた。「じゃあ、お願いしようかしら」「任せておけ」 光司は張り切って台所に立った。冷蔵庫を開けて食材を確認し、献立を考えながら包丁を手に取る。慣れない手つきではあったが、以前よりもずっと積極的だ。優香が横を通ると、父は鍋の中を覗き込みながら得意げに笑った。「今日はちょっと頑張ってみるか」「いつもそれくらい頑張ればいいのに」「うるさいな。たまにはいいだろ」 口ではそう返しながらも、光司はどこか嬉しそうだった。 やがて食卓に料理が並んだ。焼いた肉に野菜炒め。それに味噌汁とご飯。特別な献立ではないが、光司なりに工夫したらしい。野菜の切り方もいつもより丁寧で、皿の盛りつけまで気にしていた。「いただきます」 三人が食事を始める。祐実は野菜炒めを一口食べ、少し目を見開いた。「おいしい。ありがとう」 何気ない一言だった。 ところが光司は箸を持ったまま固まった。「……そうか?」「ええ。味付けもちょうどいいわ」 祐実はもう一口食べて微笑んだ。 その瞬間、光司の顔がぱっと明るくなった。頬が緩み、目元まで嬉しそうになる。さっきまで料理の出来を気にしていた様子が嘘のようだった。「そうか。いや、よかった」 光司は照れくさそうに笑った。だが、すぐには食事に戻らず、祐実がもう一度料理を口に運ぶのを眺めている。 優香は箸を止めた。 また始まった。 母が料理を褒めただけだ。特別な言葉でもなければ、大げさに喜ぶような出来事でもない。それなのに父は、まるで長年の努力が報われたかのような顔をしている。「お父さん、そんなに嬉しいの?」 優香が尋ねると、光司は慌ててこちらを向いた。「別に。作ったも
Last Updated: 2026-11-02
Chapter: 第6話「母の体調不良と父の暴走」
蒸し暑さで目が覚めたのは深夜だった。  祐実は布団の中で寝返りを打ったものの、なかなか眠り直せなかった。首筋に汗が滲み、胸元から顔にかけて急に熱がこみ上げてくる。掛け布団を足元へ押しやり、しばらくじっとしていると、少しずつ熱が引いていった。  けれど、ようやく落ち着いたと思った頃には目が冴えていた。時計を見ると午前三時を過ぎている。隣では光司が静かな寝息を立てていた。  祐実は起こさないようにそっと起き上がり、枕元の水を飲んだ。最近はこういう夜が増えている。日中はいつも通り動けているつもりでも、夜中に目が覚めると翌朝まで疲れが残った。  翌朝も、すっきりしない頭を抱えたまま台所に立った。朝食を用意し、洗濯機を回し、出勤の準備をする。いつもと同じ手順をこなしているのに、今日は一つ動くたびに体が重かった。 「祐実。大丈夫か?」  食卓についた光司がこちらを見ていた。 「ええ。ちょっと寝不足なだけよ」 「顔色が悪いぞ。どこか具合でも悪いんじゃないか?」 「大丈夫。昨日ちょっと寝つきが悪かったの」  祐実は味噌汁を置きながら笑ってみせた。心配してくれるのはありがたいが、詳しく説明する気力がなかった。光司はまだ何か聞きたそうにしていたものの、祐実が席につくとようやく箸を取った。  その日の仕事は普段より長く感じられた。午後になると頭がぼんやりし、同じ書類を何度も確認してしまう。帰宅してからも夕食の支度と洗濯物の片づけが待っていた。ひと通り済ませた頃には、足が重くて立っているのも億劫になっていた。  祐実はリビングのソファに腰を下ろした。冷房はついているのに、体の内側にはまだ熱がこもっている気がする。目を閉じて少し休もうとしたところで、台所から光司が顔を出した。 「祐実。冷たいお茶を持ってきたぞ」 「ありがとう。そこに置いておいて」  光司はグラスをテーブルに置いた。祐実が礼を言うと、いつものように嬉しそうな顔をしたが、すぐに眉を寄せる。 「まだ暑いのか? 冷房を下げた方がいいか?」 「ううん。このままで大丈夫」 「そうか。でも、顔が赤いぞ。熱があるんじゃないか?」 「熱はないと思うわ。ちょっと休めば平気だから」  祐実は目を閉じた。これでようやく静かに休める。そう思ったのも束の間、光司が再び動き
Last Updated: 2026-11-01
Chapter: 第5話「父の外出予定を解析する」
優香は父の行動を記録するノートに新しい項目を追加した。 帰宅時間。休日の外出。家にいるときの様子。 浮気をしているのなら、誰かと会うために家を空ける時間があるはずだ。仕事を理由に帰宅が遅くなったり、休日に一人で出かけたりすることも考えられる。もちろん、それだけで浮気と決まるわけではないが、これまでの父の変化を考えれば確認しておきたい点だった。 優香はまず、帰宅時間から調べることにした。 光司は平日の夕方になると、ほぼ決まった時間に帰ってくる。仕事が長引いた日は少し遅れることもあるが、母が夕食の支度を終える頃には玄関の鍵が回る。帰宅してからも、特に用事がなければ外へ出ることはなかった。 以前と比べて帰りが遅くなった様子もない。 優香はノートに記録をつけながら眉を寄せた。 仕事帰りに誰かと会っている可能性はある。しかし、帰宅時間だけを見れば不審な点は見つからなかった。 次は休日だ。 土曜日の朝、優香がリビングへ行くと、光司はソファで新聞を読んでいた。テーブルには飲みかけのコーヒーが置かれ、テレビからは天気予報が流れている。いつも通りの光景だった。「お父さん、今日どこか行くの?」 新聞をめくっていた光司が顔を上げた。「いや。特に予定はないけど」「ふうん」「優香は出かけるのか?」「私は午後から買い物」「そうか。気をつけてな」 会話はそこで終わった。光司は再び新聞へ目を落とす。休日に一人で出かける予定もなく、誰かと会うために準備をしている様子もなかった。 優香は台所へ向かいながら考えた。 父は最近、身だしなみを気にするようになった。スマホを見て笑うことも増えた。母への態度も明らかに変わっている。それなのに、外出の予定は以前と変わらない。 何かを隠しているように見えるのに、行動には不自然な空白がない。 その日の午後、優香が買い物から帰ると、光司はリビングでテレビを見ていた。着替えた様子もなく、朝とほとんど同じ場所に座っている。祐実は台所で夕食の下ごしらえをしていた。「ただいま」「おかえり。買い物はどう
Last Updated: 2026-10-31
Chapter: 第4話「不自然な優しさには裏がある」
父の光司が母の祐実に対して妙に優しくなったのは、それから数日後のことだった。 仕事から帰ってきた光司は紙袋を手にしていた。リビングでくつろいでいた優香が顔を上げると、父は袋を持ったまま台所へ向かい、夕食の支度をしている祐実のそばへ立った。「これ。好きだっただろ?」 光司が差し出したのは和菓子屋の紙袋だった。中には祐実が以前から好んでいる菓子が入っているらしい。「あら、どうしたの?」「帰りに見かけたから買ってきたんだ」「覚えててくれたの? ありがとう」 祐実が笑顔を向けると、光司の顔が一気に明るくなった。「いや、まあ。たまにはな」 照れくさそうに頭をかく父を見て、優香は手元のスマホを持ち直した。 今の反応は記録しておこう。 菓子を買ってきたこと自体は何もおかしくない。長年連れ添った妻の好みを覚えているのも自然なことだ。問題は、礼を言われた瞬間の光司の様子だった。まるで予想以上のご褒美をもらったかのように、頬が緩みきっている。 祐実が紙袋を開けて中身を確かめている間も、光司はそばを離れなかった。何かを期待するように妻の顔を見ている。「あとでお茶と一緒にいただこうかしら」「うん。そうするといいよ」 光司は満足そうに頷いた。 優香は画面に短く入力した。 十八時二十分。母の好きな菓子を購入。母がお礼を言うと非常に嬉しそうな反応。 記録を終えたところで、光司がこちらを見た。「何してるんだ?」「スマホ見てるだけ」「そうか」 父はそれ以上聞かず、再び祐実の方へ向き直った。 その視線を見て、優香は小さく息を吐いた。母に喜んでもらいたいだけなら、あんなに何度も反応を確かめる必要はないのではないか。 翌日には、さらに奇妙なことが起きた。 優香が大学時代から使っている資料を整理していると、台所から水の音が聞こえてきた。覗いてみると、光司が食器を洗っている。祐実は少し離れた場所で翌日の食材を確認していた。「お父さんが洗い物してるの?」 優香が思わず声をかけると、光司は
Last Updated: 2026-10-31
Chapter: 第3話「お母さんも気づいていた」
夕食の支度を手伝っていた優香は、母の祐実が何度も時計を気にしていることに気づいた。父の光司はまだ帰宅していない。いつもなら仕事が終われば決まった時間に帰ってくるため、特別遅いわけでもなかった。 祐実は味噌汁の火を弱めると、ふと手を止めた。「ねえ、優香。最近のお父さんってどう思う?」 思いがけない質問に優香は顔を上げた。「どうって?」「何だか変じゃない?」 やはり母も気づいていたらしい。優香は手に持っていた箸を食卓へ置いた。「やっぱりそう思う?」「優香も気づいてたの?」「うん。ここ数日だけど」 祐実は少し迷ったあと、流しの縁に手を置いた。「実はね。ここ数週間くらい前からなのよ」 優香は母の顔を見つめた。自分が異変を意識し始めたのはつい最近だ。けれど、祐実はもっと前から夫の変化を感じ取っていたらしい。「最初は気のせいだと思ってたの。年齢のせいかしらとか、仕事で何かあったのかしらとか。でも、ちょっとずつ変わってきて」「例えば?」「急に服装を気にするようになったのよ」 祐実は洗い終えた皿を水切りかごへ置いた。「今までは私が何を着ていこうと何も言わなかったのに、自分のシャツを選ぶときに妙に時間をかけたりするの。先週なんて、出かける前に鏡を何度も見てたのよ」「お父さんが?」「そう。髪まで気にしてね。何かあるのって聞いたら、別にって」 優香の頭の中で、父の最近の様子がつながり始めた。スマホを見ては嬉しそうに笑い、誰かが近づくと慌てて画面を閉じる。母の一挙一動を目で追い、目が合うと不自然に視線をそらす。 そこに服装へのこだわりが加わった。「それだけじゃないのよ。私が出かけるときも、帰りは何時になるのか聞いてくるようになって」「今までは聞かなかったの?」「必要があれば聞いてきたけど、最近は何度も確認するの。友達と出かけるって話したら、何時に帰るのかとか、夕飯は外で食べるのかとか。そんなことまで気にする人じゃなかったのに」 祐実は困ったように笑った。笑顔を作ってはいるが、目元には戸惑いが残っている。「それにね。私が今日あったことを話すと、前よりずっと熱心に聞くのよ。昔から話を聞いてくれない人じゃなかったけど、適当に相槌を打って終わりだったの。ところが最近は細かいことまで聞いてくるし、私が笑うとお父さんまで嬉しそうにするの」 優香は
Last Updated: 2026-10-30
地下の女王 ――底辺を選んだ私は、頂点を目指します。

地下の女王 ――底辺を選んだ私は、頂点を目指します。

火事で両親を失い、背中に大きな傷を抱える和久井伊依(わくい・いより)。会社では地味な事務員として見下されていた彼女には、誰にも知られていないもう一つの顔があった。FXで巨額の資産を築き、匿名ブランド「Angelus」を成功させる天才デザイナー。やがて「追い出し部屋」と呼ばれる地下の備品管理課へ異動した伊依は、そこを誰にも邪魔されない自分だけの王国に変えていく。地下に隠された才能と財力が、やがて世界を動かし始める――。
Read
Chapter: 57話「しあわせねこ」
 荘園から会社に戻った伊依は、久しぶりに、いくつか土産を持参していた。「これ、鳴沢温泉のお土産です」 伊依は、地下の倉庫近くで顔を合わせた同僚たちに、小さな紙袋を配って回った。中身は、「しあわせねこ」という名前のついた、可愛らしい猫の焼印が施されたお饅頭だった。「ふーん、地味な温泉行ったんだ」 秀一が、袋を受け取りながら、鼻で笑った。「私も別に興味ないけど」 沙織も、そう言いながら、しっかりと饅頭を受け取っている。伊依は、その様子を見て、内心で苦笑した。 バカにしながらも、ちゃっかりもらうあたりが、バカらしいところだった。「うわぁ、可愛い!」 来々は、饅頭の包装を見て、目を輝かせた。「これ、猫さんですか?」「うん」 伊依は、頷いた。「でも、なんで″しあわせねこ″なんですか?」 来々が、興味津々に尋ねる。伊依は、少し思い出しながら答えた。「なんでも、昔、温泉が枯れた時に、一匹の黒猫が、新しい温泉の場所を見つけ出したって伝説があるんだって」 「黒猫さん、可愛い〜」 来々は、饅頭を大事そうに両手で持ちながら、頬を緩めた。「でも、鳴沢温泉って、マイナーな温泉ですよね」「そうだね」 伊依は、頷いた。「名物は、″しあわせねこ″の置物とか、グッズみたい」「へぇぇ! 興味あります! 行ってみたい!」 来々は、興奮気味に声を上げた。伊依は、その反応に、少し驚きながらも、笑みをこぼした。    数日後、来々は、愛美を誘って、鳴沢温泉の観光案内所へと足を運んでいた。「初めまして。鳴沢温泉観光課の、御門ナツキいいます」 案内所で対応してくれたのは、まだ若い男性職員だった。関西訛りの、少し柔らかな口調が印象的だった。「ステラ・トレーディング株式会社の営業の、浜内です」「同じく、近藤と申します」 愛美が、丁寧に頭を下げた。「急な問い合わせ、ご対応いただきありがとうございます」
Last Updated: 2026-11-03
Chapter: 56話「温泉地にて」
 疲れた時は、身体を癒すに限る。伊依は、鳴沢温泉に足を運んでいた。 この温泉地で最も大きく、最も歴史のある旅館、「伊勢谷旅館」。木造の趣ある建物が、山あいの静けさに、しっとりと馴染んでいた。「和久井様、ようこそいらっしゃいませ」 玄関先で迎えてくれたのは、和装の女性だった。「女将の伊勢谷清子です。何なりとお申し付けください」「お世話になります」 伊依は、丁寧に頭を下げた。「こちらの自慢は、温泉巡りになっております。色んな種類のお風呂がありますので、ぜひご堪能くださいね」「はい」    部屋に案内され、荷物を解きながら、伊依はふと気づいた。 しもた、背中の火傷の跡……。 温泉に入るということは、当然、背中を晒すことになる。伊依は、一瞬、躊躇いを覚えた。だが、ロビーで見た限り、この時間帯の宿泊客は、それほど多くなかった。「まあ、大丈夫だろう」 伊依は、自分に言い聞かせるように呟いた。    夕方、伊依は大浴場の露天風呂へと向かった。木々に囲まれた開放的な湯船、湯気が、山の冷たい空気の中に、静かに立ち昇っている。「あぁ〜、生き返る」 湯船に浸かった瞬間、思わず声が漏れた。連日の疲労が、じんわりと溶けていくようだった。「ふふ、分かります」 突然、隣から声がかかった。伊依は、驚いて振り返った。「疲れが一気に抜けますよね」    品の良さそうな年配の女性が、少し離れた場所で、湯船に浸かっていた。「申し訳ございません、騒いでしまって」 伊依は、慌てて頭を下げた。「いいのよ」 女性は、穏やかに笑いながら答えた。「不思議なものでね、このお風呂に浸かってると、心が素直になって、言葉に出ちゃうのよ。私も初めて来たときなんて、あなたより大声出しちゃったわ」「ははは……よく来られるんですか?」   「月一は、静養に来るのよ」 女性は、湯面に視線を落としな
Last Updated: 2026-11-02
Chapter: 55話「たまには失敗もする」
地下の部屋に、伊依の悲鳴が響いた。「しまったぁぁぁ」モニターを見つめたまま、伊依は両手で頭を抱えていた。「あ」ジョフィの声にも、珍しく戸惑いが滲んでいた。「FX損失出したぁ」伊依は、椅子に沈み込みながら、力なく呟いた。ドル円のポジションが、予想外の急落に見舞われ、含み損が一気に膨らんでいた。   「大丈夫」ジョフィが、すぐに切り替えるように答えた。「株で取り返す。ちょうどタイミング的にいい銘柄がある」「ありがとう、ジョフィ」伊依は、少しだけ肩の力を抜いた。長年の付き合いの中で、ジョフィの分析力には、絶大な信頼を寄せていた。「しかし珍しいね」ジョフィが、続けた。「伊依が失敗するなんて。疲れてる?」   伊依は、しばらく考え込んだ。「疲れてるかも」正直な答えだった。ここ最近、ハーリドとの攻防、ジョフィを狙ったハッキング事件、そして日々の業務の合間を縫っての、Angelusとブライダル注文の対応。振り返れば、休みらしい休みも、あまり取れていなかった。「うーん」ジョフィが、少し考えるような間を置いてから、提案した。「伊依、旅行に行かない?」   「旅行」伊依は、その言葉を、口の中で転がしてみた。「一人旅かぁ」「うん」「有名どころは嫌だなぁ」伊依は、少し顔をしかめた。人気の観光地は、それだけ人目につく可能性も高い。荘園の生活に慣れてはいても、伊依はまだ、大勢の視線に晒される場所を、本能的に避ける癖が残っていた。   「いい温泉地があるよ」ジョフィが、すぐに提案した。「隣の県になるんだけど、鳴沢温泉っていう、人が少ない穴場」「まじか」伊依は、少し身を乗り出した。「いいねぇ」「観光地化されてなくて、宿の数も少ない。静かに過ごすには、ぴったりだと思う」   「調べて」伊依は、指示を出した。ジョフィは、すぐ
Last Updated: 2026-11-01
Chapter: 54話「祝福の鳥」
 地下の部屋に、Angelusの新規注文が届いた。伊依は、いつも通り、注文者の情報に目を通した。「これ……」 差出人の名前に、伊依は思わず手を止めた。総務課の事務職、名前だけは、社内で何度か見かけたことのある男性社員だった。「知り合い?」 ジョフィが、尋ねる。伊依は、首を振った。「名前くらいしか知らない」 注文内容を確認すると、そこには婚約指輪の依頼が記されていた。伊依は、少し考え込んだ。「うちの事務職の給料で、頑張ったなぁ」 伊依は、注文の予算欄を見ながら、静かに呟いた。決して安くはない金額だった。「無理してない?」 伊依は、少し心配になり、ジョフィに確認を頼んだ。「大丈夫」 ジョフィが、すぐに調べを進めた。「愛美の時とは違う。ちゃんとこつこつ貯めて、支払ってるね」「ほう」 伊依は、その報告に、静かな安堵を覚えた。愛美のように、借金をしてまで無理をしているわけではない。地道に、大切な時のために、コツコツと積み立ててきたお金だった。 ブライダル関連の注文は、通常の販売ルートとは、別の流れで進められる。伊依はYORとして、注文者と直接、チャットでやり取りをしながら、デザインのイメージを詰めていく。「どんな形がご希望ですか」 伊依は、丁寧なメッセージを送った。「あの、ちょっと変な形なんですが、可能でしょうか」 注文者からの返信には、少し戸惑いが滲んでいた。「どのようなデザインですか」「彼女、子供の頃から可愛がっていたインコがいまして」 注文者は、少し言葉を選びながら、続けた。「そのインコが、最近、天国に行って、落ち込んでるんです」「なるほど……」 伊依は、その一文を、静かに読み進めた。画面の向こうで、彼が、大切な人のために、どれほど心を込めて、この贈り物を考えているかが、伝わってくるようだった。「だから、鳥をモチーフにしてほしいんです」 注文者は、続けた。「できますで
Last Updated: 2026-10-31
Chapter: 53話「地下の女王の意外な(?)趣味」
 社員食堂で、来々が定食を頬張りながら、ふと尋ねてきた。「伊依さんは、休日は何をしてるんですか?」「読書したり、映画を見たり、ゲームしたり。買い物に行ったりかな」 伊依は、味噌汁を飲みながら、当たり障りのない答えを返した。もちろん、FXやAngelusの仕事のことは、話に出さない。「わぁ〜。大人の普通の休日って感じで、素敵です!」 来々は、目を輝かせながら言った。伊依は、少し首を傾げた。「来々の、大人の普通ってどういう基準なの」「なんとなくです!」 来々の答えに、伊依は思わず苦笑した。    その日の夕方、荘園の家に帰った伊依を、玄関先で待ち構えていたのは、大量の段ボール箱だった。「伊依〜」 ジョフィの声が、リビングから響いてくる。伊依は、荷物の山を前に、少し気まずそうな顔をした。「はい」「また大量に届いたんだけど?」 ジョフィの声には、隠しきれない呆れが滲んでいた。伊依は、視線を逸らしながら答えた。「えへ、アパートじゃなかなかできないからさぁ」「だからって、大量注文、大概にしなよ?」「家広いから、いいじゃん」 伊依は、開き直ったように言い返した。「そうじゃない」 ジョフィが、真剣な声で続けた。「緋音や聖が知ったら、ドン引きするよ」 伊依の意外な隠れ趣味。それは、ぬいぐるみ作りだった。 地下の部屋にいた頃から、伊依はこっそり、この趣味を続けてきていた。手芸店で買い集めた、様々な色や質感の布地。詰め物用の綿。小さなガラスの目玉パーツ。荘園の家に移り住んでからは、その注文量も、これまで以上に増えていた。「別に、悪いことしてるわけじゃないでしょ」 伊依は、段ボールを開けながら、少し不満げに言った。「悪いことじゃないけどさ」 ジョフィが、苦笑しながら続けた。「伊依のイメージと、ぬいぐるみ作りって、ちょっと結びつかないっていうか」「うるさい」 伊依がこの趣味を始めたきっかけは、はっきりとは覚えていなかった
Last Updated: 2026-10-30
Chapter: 52話「梅干し令嬢と酸っぱい大富豪」
 フードコートのテーブルで、緋音は、いつになく複雑な表情を浮かべていた。伊依は、ラーメンをすすりながら、その様子に気づいた。「どうしたんですか?」「伊依さん……私、やらかしちゃったかもしれない」 緋音は、両手で顔を覆いながら答えた。伊依は、箸を置き、少し身を乗り出した。「詳しく」「ハーリドさんがね」 緋音は、渋々といった様子で話し始めた。「前回の来日で、日本食を食べてないって言ってたのね」「まぁ、ビジネスで来てますからねぇ」 伊依は、頷いた。ハーリドの視察は、あくまで仕事目的だった。観光や食事を楽しむ余裕など、なかったのだろう。「だから、好きな食べ物は何ですか、って聞いたら、意外なことを言い出したの」「意外?」「あっちの国では、甘いものはとことん甘くて、胃もたれするんだって」 緋音は、続けた。「だから、酸っぱいっていう概念がなくて、興味があるって言ってたの」「なるほど」 伊依は、興味深そうに相槌を打った。中東の菓子文化を、伊依もどこかで聞きかじったことがあった。蜂蜜やシロップをふんだんに使った、濃厚な甘さが主流だという話は、確かに納得できるものだった。   「だから私」 緋音は、少し声を小さくしながら続けた。「ハーリドさんに、送っちゃったんだ」「何をですか」 伊依は、少し身構えながら尋ねた。緋音は、恥ずかしそうに答えた。「紀州産の、最高級の梅干し」「ぶっ」 伊依は、思わず飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。「wwww」 テーブルに突っ伏しながら、伊依は、笑いを堪えきれなかった。「だよね、笑うよねww」 緋音も、諦めたように笑いながら続けた。「お兄ちゃんに呆れられた」「わ、私が笑ったのは」 伊依は、涙目になりながら、なんとか言葉を絞り出した。「バカにしてるんじゃなくて、可愛いなって思ったんですよ」「そっちの方が恥ずかしいよ! 一周回
Last Updated: 2026-10-29
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status