「星が、綺麗……」
ため息交じりに、ぽつりとつぶやく。
その声は、静かな夜の闇へと溶けていった。
時刻は、夜の九時を少し過ぎたところ。
ふと腕時計に目を落とすと、針は、Lとは逆の形を描いていた。仕事も佳境を迎え、最近は残業続きの日々。
会社を出たのが夜八時前。 駅まで歩き、電車に揺られ、最寄り駅からまた歩く。それほど遠くない自宅までの帰路が、いつもより長く感じられる。
疲れた体をうんと伸ばしながら、何気なく空を見上げた。
すると、珍しい星の瞬きが目に飛び込んできた。だから、思わず声が漏れてしまった。
普段は、星なんて滅多に見ることができない。
いや、見えていたとしても、きっと気づきもしないのだ。みんな、疲れたように俯いているか、スマホに夢中の人ばかりだから。
そういえば――
私の働く会社は、そのスマホにとって欠かせない精密機器を作っている。 主に半導体を取り扱う大手企業だ。そこでOLとして働いている。
とても忙しいけれど、仕事にやりがいを感じていた。私には三つ年の離れた弟、|新《あらた》がいる。
私が二十六歳で、新が二十三歳。彼にあまり苦労はさせたくない。そう思い、大手企業を選んだ。
無事に就職はできたものの……想像以上に忙しく、毎日クタクタだった。
「姉さん!」
聞き慣れた声に、顔を上げる。
目の前には、元気よく手を振る新の姿。ニコニコと微笑みながら、こちらへ駆け寄ってくる。
少し息を弾ませながら、私の前に立った。
「新、また迎えにきてくれたの?」
「うん、本当は駅まで行きたかったんだけど、ちょっと遅れちゃって、ごめんね」
「そんなの、いいのに。いつもありがとう」
新は、来れる日は毎日のように、こうして私を迎えに来てくれる。
『姉さんが心配なんだ』そう言って、譲らないのだ。しっかり者の弟で、ありがたいような、ちょっと心配なような……。
私が微笑みかけると、新は嬉しそうに可愛らしい笑みを返してくれた。
歩き出した私に、新が寄り添うように並ぶ。とても可愛い、私の弟――|佐原《さはら》新。
私たちは、ずっと二人だった。 今も二人で暮らし、仲睦まじく生活している。かつては、養護施設でお世話になっていたこともあった。が、今はこうして自立できていることに、日々感謝している。
そう、私たちには、もう両親がいない。
母は、幼い頃に亡くなった。
そして、父は――。「姉さん? どうしたの?」
新が心配そうに覗き込んできた。
しまった。
少し、考え込んでしまっていたらしい。「ううん、なんでもない! ね、今日の晩御飯は何?」
私は思考を打ち消すように、わざと明るく問いかけた。
「え? ……さあね、お楽しみだよ」
「何、それー」
気持ちを悟られないように、できるだけ明るく振る舞う。
過去を思うと、いまだに胸が|疼《うず》く。
新は心配症だから、これ以上、心配かけたくない。
そう。あの、悲しい恋を――思い出してしまうから……。
【二〇一五年 杏】 あれは、私が十六歳の時のこと。 また話はそこへ戻る。 あの朝、私は校門の前で佇むあなたを見た。 そこからすべてが始まった。 |月ヶ瀬《つきがせ》|修司《しゅうじ》に出会ったのは、十年前の春のこと。 修司は転校生だった。 あの時、校門の前にいた彼が、まさか今日から私のクラスメイトになるなんて思いもしなかった。 高校に進学してから、まだ一か月。 クラスにはまだ馴染めていない子もいる。そんな中、さらに転校生が加わるというのだから、教室は騒然としていた。 ガラガラと教室の扉が開き、先生に連れられて修司が入ってくる。 その瞬間、私は息をのんだ。 あの人だ。 黒髪を少し無造作に流した端正な顔立ち。 凛とした佇まいと、どこか物憂げな雰囲気。 私は瞬きするのも忘れ、彼を見つめる。 その視線に気づいたのか、修司がこちらに視線を向けた。 ――目が合う。 トクン……鼓動が跳ねる。 彼がふっと笑う。 私は恥ずかしくて急いで視線を逸らした。 ドクンドクン……。 まだ私の心臓は激しい音を奏でていた。 転校生の登場に、クラスはさらにざわめき出す。 自己紹介を済ませた修司は、空いていた席に腰を下ろした。 こうして、修司はクラスの一員となった。 授業が終わると、すぐに修司のまわりには人が集まった。「どこから来たの?」「趣味は?」「部活は入るの?」 転校生への通過儀礼というか、恒例行事というか。 いつの時代も、転校生というものは質問攻めにされるものだ。 私は、その輪の外から彼を眺めていた。 本当は私も話しかけたかった。 でも、そんな勇気もなく……。 彼の姿を見ているだけでも、こんなに胸がざわめくのに。 話しかけるなんて。 まあ、外見もイケてるし、人当たりもいい。 笑顔が素敵だし……モテるんだろうなあ。 結局、私は話しかけることができず、ただ遠くから見つめることしかできなかった。 しかし、そんな私にも幸運の女神が微笑んだ。 放課後。 いつものように、一人で帰り道を歩いていた。 今日の夕飯は何にしようかな、なんて考えながら。「ねえ、一緒に帰ろう」 突然、背後から声をかけられ、振り返る。 そこにいたのは——月ヶ瀬修司。 にっこりと微笑む修司を目の前に、私は呆然と立ち尽く
【二〇二五年 杏】 二十六歳になった私は、大手企業に勤めるごく普通のOLとして忙しい毎日を送っていた。 その日も朝から会社は慌ただしく――「はい、こちら佐原です。……はい、確認して折り返します!」 次々にかかってくる発注の電話に追われ、私は慌ただしくメモを取る。 フロア中に電話の音や話し声が響き渡り、あちこちで人が忙しなく動き回っていた。 その間を、私は書類の山を抱え、小走りに駆け抜けていく。 積み上げた書類がずり落ちそうになり、慌てて持ち直そうとしたその時だった。「きゃーっ!」 甲高い女性の悲鳴が突然響いた。 思わず足を止めた私は、声のした方向へ視線を向ける。 何が起きたのだろう。 好奇心と不安が入り混じる。 気づけば、私の足は、吸い寄せられるようにそちらへと踏み出していた。 私の部署からほど近い、廊下の一角。 そこに人だかりが出来ていた。 私はゆっくりと近づいていく。 すると、その人だかりの中心から怒声が飛んだ。「てめえら、何見てやがる!」「きゃっ!」「押さえろ!」 人並が動き、少しの隙間ができた。 私は静かに近づいてそっと覗き込む。 そこには、信じられない光景が広がっていた。 数人の男性社員が、暴れる男を取り押さえようとしている。 まるで映画のワンシーンのようだ。「何が起きてるの……?」 呆然としていると、どよめきが起こった。 人だかりが突然乱れ、中にいた人たちが床に倒れ込んだ。 人々がそれぞれ逃げ惑う中、三人の男性たちが一人の男を押さえ込んだ。「うぅっ……くそっ!」 男の手からナイフが床に落ち、乾いた音が響く。 私は息を呑んだ。 刃物……!?「おい、警察はまだか!?」「さっき呼んだから、もうすぐ着くはずだ!」 周囲がざわめき、騒ぎを聞きつけた社員がさらに集まってきた。 男は既に取り押さえられ、観念したように力なく地面に伏していた。 私はほっと胸を撫で下ろした。 すると、ふと手元の書類のことを思い出す。 ここにいても、私に何ができるわけでもないし……。 そう思った私は、そそくさと仕事へと戻ることにした。 しかし、仕事をしている私の頭の中は、先程の事件のことでいっぱいだった。 集中できない。 いったい、どうなったんだろう。 私の意識と視線は、廊下のほ
【二〇一五年 杏】 少しだけ、話を過去に戻そう。 あれは私、佐原|杏《あん》が十六歳、高校一年生の頃のことだった。「父さん、起きて! 遅刻しちゃうよ!」 布団の中でぽかんと口を開け、眠りこけている父に、私は思い切りダイブした。「うっ!」 私の重みに驚いて、父が目を覚ます。 眠たそうに目を擦りながら、父は私を見て優しく笑った。「ああ、おはよう、杏」 私は父のこの笑顔が大好きだった。 優しくて、見ていると心がぽかぽかする。 次に、隣でのんきに寝ている弟の頬を軽く叩いた。「う~ん……何?」「何? じゃないでしょ、早く起きて」 |芋虫《いもむし》みたいに体を丸めてもぞもぞ動くだけで、起きる気配のない弟、新。 イラッとした私は、布団を勢いよく剥ぎ取ってやった。「さ、寒いよ~。姉ちゃん、何すんだよ」 新は不機嫌そうに眉を寄せ、私を睨む。 私も負けじと睨み返した。「ふーん、そんな態度取るんだ。じゃあ朝ごはん抜きね」「えっ!? わかったよ……起きるよ」 観念したように、新はゆっくりと起き上がり、布団を片付け始める。 その様子を横目で見つめていた私は、勝った、とばかりに胸を張った。 そんな私たちを見ていた父が笑う。「杏の料理が食べられないのは困るもんなあ」 のんびり笑う父を私がギロッと睨むと、父は慌てて着替え始めた。「もう、本当に子どもなんだから」 私は二人を見つめながら大げさにため息をついた。 そして、朝食の準備をするため、急いで台所へと向かった。 「ごちそうさまでした」 空になった食器を前に、父と新が手を合わせる。 二人とも綺麗に完食。 いつも気持ちよく食べてくれるので、作った私も気分がいい。「さ、お母さんに挨拶して」 出かける支度を手早く済ませ、私たちは仏壇の前に集まった。 仏壇には、小さな写真が飾られている。 写真には、笑顔の美しい女性が写っていた――私の母だ。 母は、私が幼い頃に亡くなった。 とても優しくて、綺麗な人だった。 思い出せる記憶もほとんどなかったが、母が私たちに深い愛情を与えてくれていたことだけはわかる。 愛というのは、目に見えなくても確かにそこに存在していて―― 人の心にずっと残り続けるものだと思うから。 私と新、そして父の心には、これからもずっと母の愛
「星が、綺麗……」 ため息交じりに、ぽつりとつぶやく。 その声は、静かな夜の闇へと溶けていった。 時刻は、夜の九時を少し過ぎたところ。 ふと腕時計に目を落とすと、針は、Lとは逆の形を描いていた。 仕事も佳境を迎え、最近は残業続きの日々。 会社を出たのが夜八時前。 駅まで歩き、電車に揺られ、最寄り駅からまた歩く。 それほど遠くない自宅までの帰路が、いつもより長く感じられる。 疲れた体をうんと伸ばしながら、何気なく空を見上げた。 すると、珍しい星の瞬きが目に飛び込んできた。 だから、思わず声が漏れてしまった。 普段は、星なんて滅多に見ることができない。 いや、見えていたとしても、きっと気づきもしないのだ。 みんな、疲れたように俯いているか、スマホに夢中の人ばかりだから。 そういえば―― 私の働く会社は、そのスマホにとって欠かせない精密機器を作っている。 主に半導体を取り扱う大手企業だ。 そこでOLとして働いている。 とても忙しいけれど、仕事にやりがいを感じていた。 私には三つ年の離れた弟、|新《あらた》がいる。 私が二十六歳で、新が二十三歳。 彼にあまり苦労はさせたくない。そう思い、大手企業を選んだ。 無事に就職はできたものの……想像以上に忙しく、毎日クタクタだった。「姉さん!」 聞き慣れた声に、顔を上げる。 目の前には、元気よく手を振る新の姿。 ニコニコと微笑みながら、こちらへ駆け寄ってくる。 少し息を弾ませながら、私の前に立った。「新、また迎えにきてくれたの?」「うん、本当は駅まで行きたかったんだけど、ちょっと遅れちゃって、ごめんね」「そんなの、いいのに。いつもありがとう」 新は、来れる日は毎日のように、こうして私を迎えに来てくれる。 『姉さんが心配なんだ』そう言って、譲らないのだ。 しっかり者の弟で、ありがたいような、ちょっと心配なような……。 私が微笑みかけると、新は嬉しそうに可愛らしい笑みを返してくれた。 歩き出した私に、新が寄り添うように並ぶ。 とても可愛い、私の弟――|佐原《さはら》新。 私たちは、ずっと二人だった。 今も二人で暮らし、仲睦まじく生活している。 かつては、養護施設でお世話になっていたこともあった。が、今はこうして自立できていることに