Mag-log in翌年の春、私はもう一度フェアリーランドを訪れた。一緒に来た同僚が尋ねた。「前にも来たことある?」私は答えた。「一度だけ」同僚は私の手を引き、メリーゴーラウンドへ駆けていった。「じゃあ、これはきっと乗ったことあるよね?」私は一瞬、言葉を失った。それから首を横に振った。「ないよ」その日は列が長かった。私たちは40分以上並んだ。自分の番が来ると、白い馬を選んだ。音楽が流れ、木馬が上下に動きだした。隣では、子どもが声を上げて笑っていた。ふいに2年前、時哉の隣に立ち、一度乗ってみたいと言ったことを思い出した。時哉は言った。「いつも、もう子供じゃないって言ってただろ?どうして今日に限って甘えるんだ」あの頃の私は、こういうものを好きなのは幼稚なのだと、本気で思っていた。あとになって、ようやくわかった。メリーゴーラウンドに乗りたいと思うことは、幼稚ではない。愛する人に一度付き合ってほしいと願うことも、恥ずかしくはない。何かを望んだ私が、間違っていたわけではない。ただ、求める相手を間違えただけだった。降りると、同僚がかぼちゃの馬車型ポップコーンバケットを買ってくれた。「さっきからずっと見てたよね。ほら」私は数秒、目を見開いた。それから、受け取った。「ありがとう」一度逃したものでも、あとから手にできることはある。ただ、それをくれる相手が、昔と同じ人とは限らない。夜、花火が始まった。人々がいっせいに城のほうへ駆けていく。私は観覧席を予約していなかった。ただ、人波の一番後ろに立った。花火が上がると、大型スクリーンが目に痛いほどまぶしく輝いた。そばでは誰かが目を閉じ、願い事をしていた。同僚が肩で私を軽く小突いた。「願い事しないの?」私は空を見つめた。そして、ふっと笑った。「しない」2年前も、私は願い事をしなかった。あの頃、たった1つ残っていた願いは、時哉のもとを離れることだった。その願いは、やがてかなった。花火がかなえたわけではない。あのとき初めて、自分で自分を救うことを選んだからだ。ポケットの中で、スマートフォンが震えた。知らない番号からの短いメッセージだった。【4周年、おめでとう】私は長いこと見つめていた。誰なのかは尋ねなかった。返事もし
6か月後、私は一度、かつて暮らしていた街へ戻った。友人の結婚式があった。招待状が清浜市に届いたとき、私はそれを長いこと見つめたが、それでも出席した。結婚式が終わり、ホテルを出た時、時哉が入口に立っていた。一瞬、足を止めた。6か月ぶりに見た時哉は、ずいぶん痩せていた。昔は黒い服を好んでいたのに、今はごくありふれた灰色のコートを着ているだけだった。時哉は近づいてこなかった。ただ、その場に立ったまま尋ねた。「少しだけ話せないか?」私は断らなかった。私たちは街角のコンビニへ行った。昔、けんかをすると、時哉はいつもそこで温かいコーンスープを1本買って私の機嫌を取った。今回は、何も買わなかった。席に着くと、時哉は古びた紙袋を私の前に差し出した。中には、家に置いてきた白いシャツが入っていた。婚姻届を出す日に着るつもりだったもの――私が3度もアイロンをかけたもの。私の指がわずかに止まった。「どうしてまだ持っていたの?」「捨てられなかった」時哉は少し笑った。「おまえに渡していいのかも、わからなかった」私は何も言わなかった。時哉はテーブルを見つめた。「あのあと、役所へ行って、3時間も座った」私は時哉へ目を向けた。「職員に、誰を待っているのかと聞かれて、婚約者を待っていると答えた。婚約者はどこにいるのかと、また聞かれた」時哉の声がかすれた。「何と答えればいいのか、わからなかった」コンビニの中で誰かが冷蔵ケースを開け、冷気が流れてきた。時哉はうつむいていた。「夕花、あの日おまえが経験したことを、あとになって1つずつ考え直した。おまえは6時に起きて、白いシャツにアイロンをかけた。俺は9時30分に着くと約束した。なのに最後は、一人ぼっちにさせて……それなのに俺は、『たった一週間だ』って言った」そこまで言って、時哉は長いこと黙った。「あれがどれほど最低な言葉だったか、今になってわかった」私は窓の外を見た。「時哉。もういいよ」時哉の目の縁がたちまち赤くなった。「もう一度だけ、謝りたい。戻ってきてほしいからじゃない。許してほしいからでもない。ただ……」声が一度、途切れた。「おまえには、まだ本当の意味で謝れていなかった」私は白いシャ
その後、詩乃が一度だけ清浜市に来た。私を訪ねてきたわけではない。全ては時哉から聞いた。その日、住まいの前で私を待っていた時哉は、珍しく近づいてこなかった。「明日、帰る」私はうなずいた。「うん」時哉は長いこと立っていた。「今日、詩乃が会いに来た」私はそのまま立ち去ろうとした。すると、時哉が不意に尋ねた。「夕花、俺はずっと、おまえのほうが詩乃より我慢できると思っていたんだろうか」私は足を止めた。時哉はうつむき、少し笑った。ひどく痛々しい笑い方だった。「詩乃が泣くと、大変なことが起きたと思った。おまえが泣かなければ、何も問題はないと思った。詩乃が怖いと言えば、すぐ駆けつけた。おまえがつらいと言っても、俺はいつも『分かってくれ』って我慢させた」時哉は私を見つめた。「それはおまえのほうが大人だからだと、本気で思っていた。今になって、違ったとわかった。俺がおまえに甘えて、傷つけていただけだった」鼻の奥がつんとした。私は顔をそむけた。時哉がついにわかってくれた。けれどよりによって、私が去ったあとだった。時哉の声は次第に小さくなった。「今日、詩乃に聞かれた。どうして昔は何でも付き合ってくれたのに、今は会おうともしないのかって。俺は、前はずっと、おまえが去るはずはないと思っていたからだと答えた。……詩乃は泣いた。ずっと前から俺のことが好きだったと」私は黙って聞いていた。驚きはしなかった。時哉は続けた。「俺はずっと、詩乃に必要とされることを楽しんでいたんだと気づいた。同時に、おまえに愛されることにも甘えていた。ひとりには自分が大切な存在だと思わせてもらい、もうひとりには帰る家が永遠にあると思わせてもらっていた」時哉の目は真っ赤だった。「どちらも手放したくなかった。その結果、おまえを失った」私は遠くの街灯を見つめた。長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。「時哉。私を傷つけていることに、今初めて気づいたわけじゃない」時哉の体がこわばった。「私は泣いたし、けんかもしたし、何度もあなたに聞いた。そのたびに、あなたはちゃんとわかっていたはずよ。ただあの頃は、私があなたの元を去るはずなんてないと、高を括っていただけ……だから、怖くもなかったんでしょう?」その
時哉はすぐには清浜市を離れなかった。私の会社の近くに宿を取った。1日目には、ブラックコーヒーが届いた。私は受付から返してもらった。2日目は、私がいつも飲んでいた胃薬だった。受け取らなかった。3日目には、マンゴーのミルクレープが届いた。それを見て、私は数秒固まった。そして、別れてから初めて時哉にメッセージを送った。【私はマンゴーアレルギーよ】1分もしないうちに、時哉から電話がかかってきた。私は出なかった。代わりにメッセージが届いた。【前はよく食べていただろう?】その言葉を見つめたまま、長いこと返事をしなかった。昔、詩乃はマンゴーのミルクレープが好きだった。時哉は買うたびに、2つ用意した。1つは詩乃へ。もう1つは、ついでのように私へ。時哉の気分を損ねたくなくて、いつも2口ほど食べた。あとで胃が苦しくなってから、こっそり捨てていた。時哉は、私が食べたことだけは覚えていた。けれど、そもそも好きではないことには一度も気づかなかった。その晩、時哉は夜11時まで住まいの前で待っていた。私が帰ってきたときも、まだそこに立っていた。あのマンゴーのミルクレープは、もう捨ててあった。「どうして言わなかった?」私は足を止めた。「何を?」「マンゴーアレルギーのこと」時哉の声はひどくかすれていた。私は思わず笑った。「言ったよ」時哉の体がこわばった。「いつ?」「2年目の夏。あなたが詩乃に誕生日ケーキを買ってきて、私がひと口食べたあと、発疹が出たじゃない?」私は時哉を見つめた。「薬局へ連れて行ってくれたわよね。でも途中で詩乃から『もうろうそくを吹き終わった』って電話が来て、あなたは私を薬局の前に置いて、そのまま行った」時哉の顔から、少しずつ血の気が引いていった。私では、とっくに忘れたつもりでいた。けれど、胸の奥に沈んでいただけの悔しさもあるのだ。少し触れただけで、今も痛む。「そのあとは?」時哉はかすかな声で尋ねた。「ひとりで家に帰った」「どうして俺に言わなかった?」危うく、その言葉に笑いそうになった。「時哉。私はあのとき、あなたの隣にいたんだよ」時哉は完全に言葉を失った。……その日から、時哉が食べ物を届けてくることはなくなった。ただ毎晩
清浜支社が仮住まいを用意してくれた。部屋はとても狭かった。1LDKで、窓の外には高架が見えた。最初の夜は、よく眠れなかった。午前2時に目が覚めたとき、無意識にベッドの反対側へ手を伸ばした。誰もいない。私は一瞬固まり、ゆっくりと手を引っ込めた。4年かけて身についた癖が、1晩で消えるはずもない。朝、会社へ向かう途中で朝食を買いに店へ寄り、いつものように口にした。「コーヒーを2つ。ブラックを1つと……」店の人が2つ目を用意し終えたところで、ようやく気づいた。「すみません、1つで大丈夫です」誰かのもとを離れるというのは、背を向けたその瞬間だけのことではない。その後に訪れる数えきれない瞬間のたびに、ひとりで生きる方法をもう一度学び直していくことなのだ。4日目、時哉がやってきた。仕事を終えて会社を出ると、道端に立つ時哉が目に入った。数日会わなかっただけなのに、目の下には濃い隈ができていた。手には、私が買えなかったかぼちゃの馬車型ポップコーンバケットまで持っている。私を見つけると、時哉はすぐに歩み寄ってきた。「どうして連絡先をブロックした?」私は足を止めた。「別れたから」時哉の顔がたちまち険しくなった。「俺は別れるなんて言ってない」いかにも時哉らしい言葉だった。自分が認めさえしなければ、私は永遠に離れられないとでもいうように。時哉はポップコーンバケットを差し出した。「これが欲しかったんだろう?買ってきた」私は受け取らなかった。「もういらない」時哉の手が宙で止まった。「夕花、ここ数日のことで、4年間のすべてを捨てるのか?」私は時哉を見つめた。ここまで来ても、時哉はまだ、ここ数日のことにすぎないと思っている。「数日じゃない、4年だよ」時哉はきつく眉を寄せた。「詩乃にはもうSNSの投稿を消させたし、これからは俺たちのことに口を出させないとも言った」口を出すね。今になっても、問題は詩乃が口を挟んだことだと思っている。急に、ひどく疲れた。「時哉、帰って」「帰らない」時哉は1歩近づき、私の手首をつかんだ。「一緒に家へ帰ろう。結婚式の準備は、もう手配し直してる。婚姻届だっていつでも出せる。詩乃が嫌なら、これからは会う回数も減らす」時哉はたく
飛行機が離陸してから、機内Wi-Fiを繋いだ。時哉からは、まだ連絡がなかった。メッセージ画面には、昨夜のひと言が残っていた。【薬は飲んだか?】あのときの私はまだ、時哉はただ物事の優先順位をつけるのが苦手なだけだと思っていた。けれどあとになって分かった。誰かにいつも後回しにされるのなら、それは優先順位をつけられないからではない。自分が、それほど大切ではないからだ。私は会話履歴を削除し、スマートフォンの電源を切った。3か月前、会社から清浜市に異動しないかと声をかけられていた。そのときは断った。婚姻届を出したら結婚式の準備を始めようと、時哉が言っていたから。これからは仕事で無理をしなくていい、自分が養えるとも言っていた。私は本当に、それを信じてしまった。飛行機が着陸すると、私はあのメールへ改めて返信した。【異動をお受けします】送信を終え、私はスーツケースを引いて空港を出た。清浜市には小雨が降っていた。ここへ来たのは初めてだった。見慣れた通りも、私の帰りを待つ明かりもない。けれどなぜか、私はほっとしていた。……その頃、時哉は家に帰っていた。玄関の明かりは消えていた。時哉は何気なく、車の鍵を棚の上に放った。「夕花」返事はなかった。時哉は靴を履き替え、リビングへ向かった。指輪はまだテーブルにあった。婚姻届もある。その隣には、家の鍵が置かれていた。時哉の表情が険しくなった。「また何を怒ってるんだ?」時哉はスマートフォンを手に取り、夕花に電話をかけた。電源が切られている。二度目も、やはり電源は切られたままだった。時哉は眉をひそめ、位置情報の共有画面を開いた。画面には何も表示されなかった――4年前に設定した位置情報の共有は、夕花によって解除されていた。時哉は数秒立ち尽くしたあと、寝室のドアを勢いよく開けた。クローゼットを開けると、中身がごっそり半分近く消えていた。夕花が普段着ていた服も、パソコンも、免許などの書類も、すべてなくなっていた。浴室からは、歯ブラシが1本消えていた。靴箱からも、何足かの靴が消えていた。夕花が毎晩抱いて眠っていたベッド脇の古い枕まで、持ち去られていた。腹を立てて二日ほど外泊するというただ事ではないと、時哉はようやく気づ