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私は、誰の身代わりだったのか

私は、誰の身代わりだったのか

By:  福餅あんCompleted
Language: Japanese
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私、見上紗世(みかみ さよ)は付き合って2年になる柏木晃人(かしわぎ あきと)の家へ、初めて挨拶に行った。 晃人のおばあさんは、嬉しそうに私に贈り物を手渡してくれた。けれど、口にしたのは私ではない女性の名前だった。 戸惑う私に、晃人は焦ったように笑って取り繕った。 「ばあちゃん、歳だからさ。名前をよく間違えるんだよ」 何度もハルネじゃないと言ったのに、おばあさんは首を横に振るばかりだった。 「これね、ずっと前から用意してたのよ。だって、ハルネちゃんでしょう?晃人と結婚してくれるなんて、本当にうれしいわ」 喜ぶ顔を曇らせたくなくて、私は話を合わせるしかなかった。 ところが後日、社内の懇親会に、本社社長の娘が姿を現す。 晃人が彼女を呼ぶ声を、私ははっきりと聞いた。 ――茅島晴音(かやしま はるね)、と。

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Chapter 1

第1話

晴音が個室に足を踏み入れた瞬間、全員の視線が彼女に集まった。

大きく巻いた髪に、鮮やかな赤のワンピース。仕事に疲れきった社員たちの中で、彼女だけが別世界の住人のように華やいで見える。

まっすぐ晃人のもとへ向かう晴音を見て、隣に座る田中さんが目を輝かせた。

「来た、来たわよ……!まさかこんなドラマみたいな再会を目の前で見られるなんてね」

ピコン、とスマホが鳴った。見ると、「はるあき推し会」というLINEグループに追加されていた。

晃人を除く支社の全員が入っているらしい。

田中さんがスマホを手にすると、グループには続きを催促するメッセージが次々と流れた。この支社で最も社歴が長い彼女なら、昔のことも知っていると思われているのだ。

私はできるだけ存在感を消しながら、画面から目を離せずにいた。

田中さんは二人のほうをそっと窺うと、ものすごい勢いでメッセージを打ち始めた。

【茅島さん、3年前に本社からうちの支社へ研修に来てたの。そのとき柏木支社長といい雰囲気だったんだって】

【若くして支社長になったエリートと、華やかで勝ち気な社長令嬢。当時はみんな、二人をこっそり推してたのよ】

【でも、すぐに茅島さんが海外留学したから終わったと思ってた。まさか今も連絡を取り合ってたなんてね】

私が入社した頃には、晴音はすでに留学していた。晃人からそんな話を聞いたこともない。

私はグループにそっと書き込んだ。

【茅島さんほどの人なら、ずっと独身だったとは限らないんじゃないですか】

【柏木支社長だって、もういい年ですし。3年もたっているなら、どちらかが結婚していてもおかしくないですよね】

田中さんは笑いながら首を振り、私にだけ聞こえる声で囁いた。

「それだけじゃないの。二人、高校の同級生だったらしいわよ。紗世ちゃんはまだ若いから分からないでしょうけど、初恋の相手って男には特別なのよ。手に入らなかった相手ほど、忘れられないものだから」

彼女は軽く顎を上げ、みんなに後ろを見るよう合図した。

その視線を追うと、晃人が晴音の腰を支えていた。

寄り添う二人は、どこから見てもお似合いだった。

昨夜まで晃人の指にあった結婚指輪は、今はない。

胸の奥が詰まり、痛んだ。

田中さんに気づかれる前に、私は薬指からダイヤの指輪を抜き、慌ててバッグへ押し込んだ。

昨日受け取ったばかりの婚姻届受理証明書が、その中で静かに私を嘲笑っているようだった。

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第1話
晴音が個室に足を踏み入れた瞬間、全員の視線が彼女に集まった。大きく巻いた髪に、鮮やかな赤のワンピース。仕事に疲れきった社員たちの中で、彼女だけが別世界の住人のように華やいで見える。まっすぐ晃人のもとへ向かう晴音を見て、隣に座る田中さんが目を輝かせた。「来た、来たわよ……!まさかこんなドラマみたいな再会を目の前で見られるなんてね」ピコン、とスマホが鳴った。見ると、「はるあき推し会」というLINEグループに追加されていた。晃人を除く支社の全員が入っているらしい。田中さんがスマホを手にすると、グループには続きを催促するメッセージが次々と流れた。この支社で最も社歴が長い彼女なら、昔のことも知っていると思われているのだ。私はできるだけ存在感を消しながら、画面から目を離せずにいた。田中さんは二人のほうをそっと窺うと、ものすごい勢いでメッセージを打ち始めた。【茅島さん、3年前に本社からうちの支社へ研修に来てたの。そのとき柏木支社長といい雰囲気だったんだって】【若くして支社長になったエリートと、華やかで勝ち気な社長令嬢。当時はみんな、二人をこっそり推してたのよ】【でも、すぐに茅島さんが海外留学したから終わったと思ってた。まさか今も連絡を取り合ってたなんてね】私が入社した頃には、晴音はすでに留学していた。晃人からそんな話を聞いたこともない。私はグループにそっと書き込んだ。【茅島さんほどの人なら、ずっと独身だったとは限らないんじゃないですか】【柏木支社長だって、もういい年ですし。3年もたっているなら、どちらかが結婚していてもおかしくないですよね】田中さんは笑いながら首を振り、私にだけ聞こえる声で囁いた。「それだけじゃないの。二人、高校の同級生だったらしいわよ。紗世ちゃんはまだ若いから分からないでしょうけど、初恋の相手って男には特別なのよ。手に入らなかった相手ほど、忘れられないものだから」彼女は軽く顎を上げ、みんなに後ろを見るよう合図した。その視線を追うと、晃人が晴音の腰を支えていた。寄り添う二人は、どこから見てもお似合いだった。昨夜まで晃人の指にあった結婚指輪は、今はない。胸の奥が詰まり、痛んだ。田中さんに気づかれる前に、私は薬指からダイヤの指輪を抜き、慌ててバッグへ押し込んだ。昨日受け取っ
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第2話
次の瞬間、晃人からメッセージが届いた。【さっきはわざと触れたんじゃない。向こうが急によろけてきたんだ】社内恋愛を禁じる規定はない。けれど私と晃人は、会社ではただの上司と部下だ。陰で余計なことを言われたくなくて、交際していることは社内の誰にも明かさなかった。盛大な式も挙げず、親戚や友人にもまだ知らせていない。私たちが夫婦だと証明するものは、婚姻届受理証明書一枚だけだった。それだって、病状が悪化した晃人のおばあさんを安心させるために、急いで籍を入れただけだった。上機嫌な晴音は、全社員に刺身の盛り合わせをご馳走すると気前よく宣言した。歓声が上がる中、私の青ざめた顔に気づく者はいなかった。店員が刺身を運んでくると、晴音が私のそばにやってきて、ふいに声をかけてきた。「今は晃人の秘書をしているんですって?ここ数年、ずいぶん息が合ってたそうね」胸が跳ねた。それでも顔には出さず、軽く微笑んだ。「仕事ですから」晴音は私の顔をじっと見つめ、やがて笑った。「こうして見ると、あなた、少し私に似ているわね。晃人があなたを採用したのも、それが理由だったりして。だって、学歴や経歴だけじゃ、うちの会社にはふさわしくないもの」私はゆっくりと笑みを消した。秘書室の中で、私の学歴が一番低いのは事実だ。けれど晴音の言う「ふさわしくない」は、会社のことだけじゃない。険悪な空気を察した田中さんが、慌てて間に入った。「紗世ちゃんも頑張ってるけど、やっぱり茅島さんは別格ですよね。柏木支社長とも昔からお似合いだって、社内でも評判なんですよ!お二人のうれしいご報告、楽しみにしてますね!」晴音は照れたように唇を綻ばせる。「もうすぐよ。そのときはみんなにも何かお礼をしなくちゃね」立ち去り際、彼女は意味ありげに私の肩を叩いた。田中さんがため息をつき、心配そうに忠告してくる。「紗世ちゃん、そろそろ次の職場探しとく?」私が目を瞬くと、彼女は諭すような口調で続けた。「あの様子じゃ、茅島さん、紗世ちゃんを追い出す気なんじゃない?さっきのも、遠回しに辞めろってことでしょ」スマホの待ち受けには、晃人と私の後ろ姿が写っている。しばらくそれを見つめたあと、私はきっぱりと言った。「そんなことはありません。あき……柏木支社長は、私情を仕
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第3話
「もう、あの二人、尊すぎる!」隣の席の新人が、落とした箸を拾おうとテーブルの下へ身をかがめた。次の瞬間、興奮した様子で顔を上げ、私の太腿を叩く。痛みに息を呑み、訝しげに見ると、彼女は私の耳元へ顔を寄せた。「今、箸を拾ったときに何が見えたと思います?これ、例のプレゼントも期待できそうですよ!」何だろうと思い、テーブルの下を覗く。そこには、晃人と晴音が手を握り合っていた。吐き気が一気に込み上げ、必死に堪える。震える手で、私は新人の腕を強く掴んだ。「……ごめん、急に具合が悪くなって、先に帰るね。支社長に聞かれたら、そう言っといてくれる?」彼女は数秒ぽかんとしたあと、力強く頷いた。「任せてください。何かあったら、すぐ実況しますから」普段は二人で社内の噂話を楽しんできた。まさか自分が、その渦中に放り込まれる日が来るとは思わなかった。泣き顔よりひどい笑みを浮かべ、私は逃げるように店を飛び出した。数歩も行かないうちに、晃人からメッセージが届く。【どうして急に出ていった?】【顔色が悪かったけど、具合でも悪いのか】【そこで待ってて。今から行く】冷たい風に当たると、少しだけ頭が冷えた。私と晃人は、ちゃんと籍を入れた夫婦だ。たとえ最初から私を誰かの身代わりにしていたとしても、本人に確かめるべきだろう。もし本当なら、離婚すればいい。道端のベンチに腰を下ろし、スマホのインカメラで自分の顔を何度も見た。晴音と似ているところを探そうとしたが、見つからなかった。やがて店から出てきた晃人が、私の首にマフラーを巻く。彼はペットボトルのキャップを開けて私に差し出すと、ポケットから痛み止めを取り出した。「また生理痛?ちゃんとお腹温めてた?とりあえず薬飲んで。家まで送るから」薬を受け取らず、私は冷ややかに問い返した。「私を送ったら、茅島さんはどうするの?」わざと晴音の名前を強調し、晃人の反応を探る。数秒の沈黙のあと、彼は確信を込めて言った。「見てたんだな、テーブルの下で晴音に手を掴まれたの」
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第4話
私が黙り込むと、晃人はため息をついた。「向こうが俺に気があるのは確かだけど、俺たちの間には本当に何もない。信じてくれよ、な?」「じゃあ、私と茅島さんは似てる?」晃人は低く笑い、私の額を指先でつついた。「まさか、自分が晴音の代わりだとでも思ってるのか?何考えてるんだよ。晴音は留学してただけだろ。死んだわけじゃないんだから。好きだったら、わざわざ身代わりなんか探さずに会いに行ってるよ」「じゃあ、どうして指輪を外してたの?私が買った安い指輪じゃ、みっともない?」晃人はすぐにポケットから指輪を取り出した。「今日は人が多かったから、なくすといけないと思って。それに、会社には内緒にしたいって言ったのは紗世だろ?指輪のことを聞かれたら、何て答えていいか分からないし」自分で望んだことなのに、胸がちくりと痛んだ。支社のみんなが、二人をくっつけようとしているせいかもしれない。「だめ。ちゃんと着けて。もう外さないで」晃人は素直に指輪を差し出した。「分かった。じゃあ、紗世が着けて」「晃人、もし離婚したくなったら、ちゃんと言ってね。引き止めたりしないから」晃人は私の頭を優しく撫で、甘く笑った。「そんな日は来ないから、安心して」歩き出して間もなく、晃人のスマホが鳴った。電話の向こうで何か言われたらしく、晃人は眉をひそめた。「分かった。すぐ向かう」通話を切ると、晃人は私を見た。「紗世、急用ができた。先に帰っていて」秘書をしているからこそ、突然かかってくる電話ほど緊急性が高いと分かっていた。それでも私と一緒にいるときの晃人は、断れる用件ならいつも断っていた。「茅島さんから?」晃人は首を横に振り、安心させるように私の頬を撫でた。「違うよ。先に帰ってて。できるだけ早く戻るから」疑うことなく、私は晃人が手配してくれた車に乗った。まだ家にも着かないうちに、新人から店内の写真が送られてきた。【茅島さん、酔いつぶれたみたいです。電話一本で、帰ったはずの柏木支社長が戻ってきました!】【これ、もう愛でしょ!】【このお姫様抱っこ!この体格差!もう無理、尊い!!】全身から血の気が引き、私は画面を凝視した。気づけば、泣きながら笑っていた。2年もの間、誰かの身代わりだったとも知らずに愛されて
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第5話
「昨日の夜、どんだけ激しかったんですかね。久々の再会で、燃え上がっちゃったんでしょうね」新人の子が楽しそうにはしゃぐ横で、私は黙ってパンをかじっていた。どうにか感情を押し殺し、パソコンを開いて離婚届の用紙を探し始めた。しばらくすると、晃人の秘書の高橋が私の席にやってきて、指先で机を叩いた。「見上さん、本日付で解雇です。会社からは、給与1年分を特別退職金としてお支払いします。ただし、条件があります。今すぐ荷物をまとめて、会社を出ていってください」昨日、田中さんに言われたことが頭をよぎる。私は訳が分からないまま顔を上げた。「誰の指示ですか。柏木支社長ですか、それとも会社ですか」高橋は無表情のまま腕時計を確認した。「私は柏木支社長の指示で動いているだけです。荷物をまとめるなら、あと20分以内にお願いします」怒りが爆発し、私は机の上の物をすべてごみ箱へ放り込んだ。トイレに駆け込み、晃人へ電話をかけたが、電源が入っていないという音声が流れるだけだった。「悪あがきはやめなさい。お金をもらってさっさと出ていけば、今までのことは大目に見てあげるわ」鏡越しに、晴音が薄笑いを浮かべている。スマホを強く握りしめ、私は平静を装った。「私と晃人のことに、口を出さないで」晃人は筋を通す人だ。たとえ離婚したくなり、私を解雇すると決めたとしても、顔も見せず、何の説明もしないまま終わらせるとは思えない。「どうして電話に出ないのか、知りたい?父が、私と結婚するなら本社の副社長にすると言ったの。晃人は受け入れたわ。今朝早く東央市へ向かって、父と結婚の話をしている。あなたと出世、どっちを取るかなんて、昨日のうちに決めてたのよ。信じられないなら、家に帰って確かめてみれば?」帰宅する間も、震えが止まらなかった。この2年、晃人と過ごした日々が何度も頭に浮かぶ。同僚に関係を公表しなかったことを除けば、晃人は私を申し分ないほど大切にしてくれた。しかも公表しないでほしいと言ったのは、私のほうだ。これは、晴音が私たちを引き裂くために仕組んだことかもしれない。会社を辞めても、私と晃人が法律上の夫婦であることに変わりはない。そう自分に言い聞かせていた。けれど、テーブルに離婚協議書が置かれているのを見た瞬間、もう自分を騙せ
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第6話
新幹線の座席でスマホを充電し、ようやく電源を入れた。すると、LINEの通知が次々と画面に現れた。未読メッセージは99件を超えていた。晃人は画面を見つめ、昨夜の出来事を思い返した。昨夜、茅島社長から直々に電話があり、晴音を無事に家まで送るよう頼まれた。社長直々の頼みとあっては、晃人も断りづらかった。ところが、帰り道で車が故障してしまった。しかも周囲には民家が一軒もなく、携帯の電波も届かなかった。電波の入る場所を探して歩き回り、ようやく紗世にメッセージを一通送ることができた。その途中で結婚指輪を落とし、蚊にもあちこち刺されてしまった。結局、車内で一晩を明かすことになった。おまけに、スマホの充電まで切れてしまった。翌朝、近くの町まで歩いてロードサービスを手配すると、タクシーで駅へ向かった。本社での報告に間に合わせるため、そのまま新幹線に飛び乗った。晃人がLINEを開く。紗世とのトーク画面に表示された、署名済みの離婚協議書。その写真を見た瞬間、わずかに残っていた理性が吹き飛んだ。すぐに電話をかけたが、何度鳴らしても紗世は出ない。そこで初めて、着信履歴に残る十数件の不在着信が、すべて紗世からだったことに気づいた。それに、会社から提示された金とは何のことだ。何が起きているのかも分からないまま、晃人は次の停車駅で降り、榎代市へ戻る新幹線の切符を買った。その直後、スマホが鳴った。「晃人君、今どこにいる?本社の役員たちは、もう君の報告を待っているんだぞ」茅島社長の声にも、晃人の焦りは収まらなかった。「申し訳ありません。どうしても外せない用事ができました。報告は日を改めさせてください」「勝手なことをされては困る。皆が待っているんだぞ。本社への異動をずっと希望していたんだろう?今回の報告次第では、その望みも叶えてやれる」晃人は数秒黙ったあと、はっきり告げた。「申し訳ありません。ですが、今はどうしても譲れないものがあります」電話を切り、スーツケースを引いてホームへ急いだ。榎代市へ戻ると、家はもぬけの殻だった。テーブルには、署名された離婚協議書が一枚、取り残されている。クローゼットの紗世が使っていた側は、すっかり空になっていた。玄関には、紗世が買ったお揃いのスリッパが、ゴミ袋に放り込まれたまま置かれて
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第7話
晴音は目を見開き、声を張り上げた。「晃人、待ちなさい!あんな女一人クビにしたくらいで、会社まで辞める気? あの女は、私の代わりでしかなかったんでしょ?今の地位が誰のおかげだと思ってるの?父がいなければ、大学にも行けなかったくせに。支社長にまでしてもらった恩を忘れたの?」無数の視線が晃人へ注がれる。晃人は臆することなく、乾いた笑いを漏らした。「茅島家のために5年も働いた。恩なら、とっくに返した。こんな目に遭うくらいなら、あのとき助けてもらわなければよかった。それに、紗世はお前の身代わりなんかじゃない。俺の妻だ。他の男とホテルに行っておいて、俺と一緒だったなんて嘘までついたよな。お前のせいで紗世と離婚することになったら、絶対に許さない」オフィスにいた全員が、言葉を失った。表面上は静まり返っていたが、社内のLINEグループには凄まじい勢いでメッセージが流れている。【推しカプ終了……柏木支社長、茅島さんに全然気なかったんだ】【聞き間違いじゃないよね?柏木支社長と紗世さん、結婚してたの?】【待って、紗世さんもグループにいたよね!? 奥さん本人の前で支社長と茅島さんのカプ推してたってこと!? 無理、恥ずかしすぎるw】やり取りに夢中な社員たちは、一人の新人がこっそり晃人の後を追って外へ出たことに気づかなかった。会社の前で見覚えのない新人に呼び止められ、晃人は眉をひそめた。新しく入社した人だけでも何十人といるうえ、彼女の顔にはまるで見覚えがない。新人は前置きもなく、晃人の目の前へスマホを差し出した。画面には、晴音が昨夜インスタへ投稿した写真が表示されている。「紗世さん、何か誤解してるんじゃないでしょうか」3年前、晴音の告白を断った直後に、晃人は彼女のアカウントをブロックしていた。晴音が紗世のアカウントを探し出し、こっそりフォローしていたことなど知らなかった。まして、誤解を誘う写真を投稿するとは思いもしない。昨夜連絡が取れなくなった時間さえ、晴音に都合よく利用されたのだ。3年の留学を経ても、彼女は何ひとつ変わっていなかった。晃人は怒りのあまり笑みを浮かべ、冷ややかな目である人物に電話をかけた。
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第8話
榎代市を離れたあと、私はそこで知り合った人たちの連絡先をすべて削除した。会社で起きていたことなど、何ひとつ知らなかった。実家に着くと、母がちょうどスーパーへ出かけるところだった。私を見るなり、母は何度も目をこすった。見間違いではないと分かると、駆け寄ってきて強く抱きしめる。「あら、紗世! 帰ってきたのね! 晃人君は一緒じゃないの?まあ、あの人も忙しいものね。仕方ないわよね。もう、わざわざ迎えに来なくてもよかったのに。お父さんも私も、榎代市までちゃんと行けるんだから」婚姻届を出したとき、私は真っ先に母へ知らせた。晃人のおばあさんは外出が難しいため、母は父と一緒に榎代市へ行き、まずは両家で食事をしようと提案していた。結婚式はあとで挙げればいい、と。その食事会さえ開かないうちに、私たちは離婚することになった。私はしばらく黙ったあと、口を開いた。「晃人は来ないよ。これからも、もう来ない」「どういうこと?」母は周囲を見回し、慌てて私の腕を引いて家へ入った。何度も事情を尋ねられ、私はゆっくりと言った。「いい知らせが二つあるんだけど、どっちから聞きたい?一つ目は、晃人に離婚を切り出されたこと。もう一つは、十分すぎる解決金を受け取ったこと。これで一生、生活には困らないし、お父さんとお母さんのそばにいられるよ」母は苛立たしげに私を睨んだ。「どこがいい知らせなのよ!婚姻届を出して、まだ何日もたっていないでしょう。いったい何があったの?」「私と結婚したのは、おばあさんのためだったの。本当に好きな人が帰ってきたんだから、離婚するのも当然でしょ。これ以上こじれる前に別れられたんだから、むしろよかったんじゃない?」母はたちまち怒り出した。「晃人君、うちの娘を何だと思ってるのよ!そんな男とは別れて正解よ!」母が味方になってくれたことで、私は安心して実家に落ち着いた。翌日、母はお見合い写真を何枚も持って、私の部屋をノックした。「佐藤さんに頼んだのよ。いい人ばっかりなんだから! 普通じゃなかなか紹介してもらえないのよ。晃人君にも思い知らせてやらなきゃ! あんな男と別れたって、もっといい人はいくらでもいるんだから!」私は笑うしかなかった。「お母さん、そんなにムキにならなくても。男がいなきゃダメってわけじゃないん
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第9話
「見上紗世さん?本当に紗世さんですか?同姓同名の別人かと思いましたよ」訝しげに顔を上げると、見合い相手が勢いよく向かいの席へ座った。「覚えてませんか?中学で同じクラスだった藤原直人(ふじわら なおと)です」私は気まずさを隠しながら頷いた。昔の知り合いに会うと分かっていたら、母への義理だけで来たりはしなかった。中学の3年間で、クラスの顔ぶれは何十人も入れ替わった。おまけに、高3のときに高熱を出してから、昔のこともよく覚えていない。「ずっと県外で働いてたんですよね?紗世さんまでお見合いに来てるなんて、意外でした」私は笑った。「今は恋愛も結婚もする気がないんです。母に言われて、とりあえず来ただけで。用事があるなら、先に帰っても大丈夫ですよ。母にはご縁がなかったって言っておきますから」直人は軽く手を振った。「いやあ、僕も似たようなもんですよ」共通点が分かると、かえって会話は弾んだ。食事が終わると、直人は映画にも誘ってくれたが、私は笑顔で断った。田舎は噂が広まるのが早い。食事だけなら、昔の同級生と会ってただけで済む。でも、一緒に映画まで観に行ったら、明日にはもう婚約したことになってそうだ。直人と外へ出ると、ちょうど雨が降り始めていた。「よかったら送りますよ。雨も降ってきましたし」直人の申し出を断ろうとした瞬間、刺々しい声が割って入った。「俺がいるのに、なんでお前が俺の妻を送るんだ?」晃人が私の腕を掴み、ぐいっと引き寄せた。全身が濡れている。雨宿りに入った店で、偶然私たちを見つけたのだろう。直人は数秒固まり、目を見開いた。「えっ、結婚してるんですか?なのにお見合いに?」晃人の険しい表情を見ると、直人は適当な理由をつけて立ち去った。私は晃人の手を振りほどく。「今頃、茅島さんと結婚式の準備をしているんじゃなかったの?」少し考えて、ふと思い当たった。「ああ、そうだった。離婚届、まだサインしてもらってなかったね」晃人は歯を食いしばった。「するわけないだろ。離婚協議書だって、とっくに破り捨てた。誰が離婚するなんて言った?俺の妻は紗世だけだ。これからもずっと」私は平然と答えた。「必要なら、離婚協議書はまた作るよ。私と結婚したのは、おばあさんを安心させるためだったんでしょう
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第10話
私が呆然としていると、晃人は話を続けた。「2年も付き合っているのに、紗世が結婚の話を一度もしてくれなかったから、おばあちゃんの病気を口実にした。それは悪かったと思ってる。でも、晴音とのことは誤解なんだ。もう一度だけ、俺を信じてくれないか」その手を振りほどき、私は首を横に振って笑った。「おばあさんが私を晴音と呼んだときも、晴音とのことは何も話してくれなかったよね。どう信じろっていうの?それに、私がどうして怒ってるのか、全然分かってない」晃人は私のことを誰より理解していると思っていた。けれど、そうではなかったらしい。「離婚の手続きなら、いつでも協力するよ。それ以外の話なら、聞く気はない」晃人はその場に立ち尽くし、いつまでも動かなかった。ちょうど呼んでおいたタクシーの運転手から電話がかかってきた。私は迷わず背を向けた。帰宅すると、母がすぐに駆け寄り、相手とどうだったか尋ねてきた。上の空で適当に答え、そのままベッドへ入った。翌朝早く、数日間の出張を終えた父が帰ってきた。玄関を開けに行くと、ドアの外から驚いた声が聞こえる。「晃人君、どうしてここに?ずぶ濡れじゃないか。早く中に入って、風呂で温まらないと風邪を引くぞ」ドアが開き、玄関先の晃人と目が合った。あんなに頭の切れる晃人が、濡れたまま一晩中うちの前にいたなんて。父はここ数日ずっと出張中で、心配させたくなかった私は離婚の話をしていない。父に中へ入るよう勧められたが、晃人は首を横に振った。「私が悪いんです。とてもお邪魔できる立場じゃありません」何も知らない父は戸惑い、母は晃人を睨みつけた。だが、責める間もなく、晃人は目を閉じ、その場に崩れ落ちた。晃人はそのまま病院へ運ばれた。病室に戻ると、目を覚ました晃人が点滴の針を抜き、ベッドから下りようとしていた。私は呆れて声をかけた。「39度6も熱があるのに、勝手に点滴抜いてどこ行く気?」晃人は叱られた子どものように、おとなしくベッドへ戻った。「また紗世がいなくなったのかと思った。昨日、一晩中考えたんだ。今までのこと、ちゃんと反省してる」「そう。それで?」
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