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ひとりの時間を楽しめるようになった

ひとりの時間を楽しめるようになった

By:  狐坂Completed
Language: Japanese
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交際4周年の記念日を祝い直すため、朝倉時哉(あさくら ときや)は私をフェアリーランドへ連れていくと言った。 私の親友・柳原詩乃(やなぎはら しの)は熱を出していたのに、彼はそれでも詩乃を連れてきた。 「詩乃はこの日をずっと楽しみにしてたんだ。水を差さないでくれ」 私は2か月遅れの記念日ケーキを見つめ、うなずいた。 けれど入園の際、チケット係は時哉と詩乃を見ると、笑顔で2枚のステッカーを差し出した。 「朝倉様、柳原様。今夜もお城の3周年記念コースを回られますか?システムでは、あとは花火をバックに最後の記念写真を撮れば、すべて揃います」 私はその場に立ち尽くした。 時哉は顔色ひとつ変えずにステッカーを受け取り、何気なく詩乃のスカートの裾に貼った。 「スタッフの企画だよ。何でも真に受けるな」 詩乃は、時哉がこの日のために用意したプリンセスドレスを着ていた。彼女は当然のように時哉の腕に絡み、慣れた様子で私を列の最後尾へ連れていった。 パレードの間、時哉は詩乃のためにカメラを構えていた。 ジェットコースターが急降下すると、詩乃は悲鳴を上げて彼の胸に飛び込んだ。 私が一度だけ乗りたいと言ったメリーゴーラウンドだが、時哉は眉をひそめた。 「いつも、もう子供じゃないって言ってただろ?どうして今日に限って甘えるんだ」 日が暮れ、お城の花火が始まろうとしていた。 前もって予約しておいた観覧エリアに着くと、そこには詩乃の手を取って立つ時哉がいた。 スタッフが、両腕いっぱいのバラを詩乃に手渡しているところだった。 「柳原様、朝倉様がご予約になった3周年の花火サプライズをご用意しております」 私は手の中のカップケーキに目を落とした。 列に並んで買った、200円のものだ。 その一方で、詩乃が抱えるバラは観覧スペースを埋め尽くすほどだった。 花火が上がると、大型スクリーンに1行の言葉が映し出された。 【詩乃が毎年この日を迎えるたび、いつも時哉がそばにいますように】 記念写真は3年前から順に流れていった。 1年目、詩乃は時哉の肩にもたれていた。2年目、時哉は詩乃にキャラクターのカチューシャを着けてやった。3年目、時哉は花火の下で身をかがめ、詩乃の額に口づけた。 私が失望を重ねた一年一年の裏で、彼女にはこんなにも華やかな一日が用意されていたのだ。 花火は変わらず美しかったけれど、私はもう願い事をしなかった。 願いは口に出せば、かなわなくなるから。 そして私に残されたただひとつの願いは、彼のもとを去ることだった。

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Chapter 1

第1話

花火が終わると、人々は出口へ押し寄せた。

詩乃はあのバラの花束を抱えていた。熱で顔は真っ赤なのに、それでも花を誰かに預けるのが惜しいらしい。

時哉は詩乃のショールを整えてやった。

「先に救護室で熱を測ろう」

詩乃が小声で言った。「でも、夕花はまだ写真を撮ってないよ。お城の前で1枚撮りたいって言ってなかった?」

時哉はそこで初めて私を見た。

今夜がそもそも誰の記念日だったのか、ようやく思い出したようだった。

「撮りたいのか?」

私は時哉を見つめた。

その手にはまだ詩乃のスマートフォンがあり、画面にはさっき撮った花火との記念写真が表示されていた。

3周年記念コースの最後の記念写真。

詩乃がずっと待ち望んでいたこの日は、今日始まったものではなかったのだ。

私は首を横に振った。

「もういい」

時哉がわずかに眉をひそめた。

「今度はどうした?」

詩乃はせきをし、時哉の袖を指でぎゅっとつかんだ。

「時哉、夕花は怒ってるんじゃない?私、先に帰ろうか。来るべきじゃなかったよね」

そう言いながら、詩乃は私にバラを押しつけようとした。

時哉はすぐにその手を押さえた。

「熱があるのに、無理をするな」

それから私を振り返った。「小暮夕花(こぐれ ゆうか)、そんな不機嫌な顔をするな。詩乃は具合が悪いんだ。今日は詩乃の夢をかなえるのに付き合ってやったと思えばいい」

「じゃあ、私の夢は?」

口にした自分自身が、その言葉に驚いた。

時哉も言葉を止めた。けれど、すぐに小さく笑った。

「こういうおとぎ話を一番信じてなかったのは夕花だろ?どうして今日に限って、プリンセスの夢をめぐって詩乃と張り合うんだ?」

私は顔をそむけようとした。

けれど視線を落とした瞬間、よりによって詩乃のスカートの裾が目に入った。

【朝倉様&柳原様】

急に喉がひどく詰まったように感じた。

私が黙っているのを見て、時哉は手を伸ばし、私をそばへ引き寄せた。

「もういい、意地を張るな。詩乃が熱を測り終えたら、さっき言ってたポップコーンバケットを買いに付き合う」

私は一瞬、目を見開いた。

あのポップコーンバケットは、売店の前でほんの少し長く眺めただけだった。そのとき時哉はうつむいて詩乃のメッセージに返信していたから、まったく気づいていないと思っていた。

けれど時哉は、意外にも覚えていた。

心がほだされかけたそのとき、詩乃の体がふらりと揺れた。

時哉はほとんど反射的に私を放し、詩乃の腰を支えた。

「詩乃?」

「大丈夫。ちょっと寒いだけ」

時哉は上着を脱いで詩乃の肩に掛けると、私が持っていたホットココアまで取り、ストローを差して詩乃の口元へ運んだ。

「少し飲め」

私は空になった手を見下ろした。

そのホットココアは、時哉がさっき15分並んで買ってきたものだった。

甘さ控えめで、少しぬるめ。

私に渡したとき、時哉はこうも言っていた。「胃が弱いんだから、冷たいものは飲むな」

今、詩乃はストローをくわえ、柔らかな声で言った。「ちょうどいい甘さ」

時哉は詩乃の髪を軽くなでた。

「いつもこのくらいの甘さだろ?」

私の手から、少しずつ温度が失われていった。

私が4年間味わってきた甘さは、ほかの人にも与えられていたのだ。

救護室で、看護師は詩乃に微熱があるので、これ以上風に当たらないほうがいいと言った。

時哉はすぐ運転手に、一番近い出口まで車を回すよう頼んだ。

私は2人のあとをついていった。手の中の200円のカップケーキは、もう押し潰されていた。

車に乗るとき、詩乃はごく自然に助手席のドアを開けた。時哉が片手を上げて詩乃の頭をかばう。その動きは、とても初めてとは思えないほど自然だった。

私は車の脇に立っていた。

時哉は私を振り返り、少しよそよそしい口調で言った。

「夕花は後ろに座ってくれ。詩乃は車酔いするから」

後部座席には、詩乃のバラ、カチューシャ、ショール、それに3周年の記念ギフトボックスが積まれていた。

乗り込むと、バラの枝が膝に刺さった。

バックミラー越しにそれを見た時哉が、花をどけようと手を伸ばした。

けれど詩乃は、花束をそっと押さえた。

「潰さないで。時哉がずっと前から用意してくれてたものなの」

時哉の手は宙で止まり、やがて引っ込められた。

「夕花、少し横にずれてくれ」

車窓の外、夜空にはまだ、先ほどまで花火が咲いていた煙の跡が残っている。

私はうつむき、スマートフォンを開いた。

3分前、詩乃がSNSを更新していた。

【3年目、ついに最後の1枚までそろったよ】

添えられた写真では、時哉が詩乃のためにバラを掲げ、2人の頭上で花火が咲いていた。

コメント欄で、誰かが尋ねていた。

【これ、どう見てもプロポーズじゃない?】

詩乃は照れた顔の絵文字をひとつ返していた。

時哉は何も説明しなかった。

私は航空券の予約アプリを開き、長いこと画面を見つめていた。そして最後に、3日後の清浜市行きの片道航空券を1枚買った。

そこに、お城はない。

時哉もいない。

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松坂 美枝
松坂 美枝
いつもの結婚前に他所の女を大事にしまくる彼氏に失望して離れて彼氏が後悔しまくる話 結婚しても直らないからねこういう奴は 主人公が懇切丁寧に説明してくれて良かった
2026-09-26 09:36:08
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10 Chapters
第1話
花火が終わると、人々は出口へ押し寄せた。詩乃はあのバラの花束を抱えていた。熱で顔は真っ赤なのに、それでも花を誰かに預けるのが惜しいらしい。時哉は詩乃のショールを整えてやった。「先に救護室で熱を測ろう」詩乃が小声で言った。「でも、夕花はまだ写真を撮ってないよ。お城の前で1枚撮りたいって言ってなかった?」時哉はそこで初めて私を見た。今夜がそもそも誰の記念日だったのか、ようやく思い出したようだった。「撮りたいのか?」私は時哉を見つめた。その手にはまだ詩乃のスマートフォンがあり、画面にはさっき撮った花火との記念写真が表示されていた。3周年記念コースの最後の記念写真。詩乃がずっと待ち望んでいたこの日は、今日始まったものではなかったのだ。私は首を横に振った。「もういい」時哉がわずかに眉をひそめた。「今度はどうした?」詩乃はせきをし、時哉の袖を指でぎゅっとつかんだ。「時哉、夕花は怒ってるんじゃない?私、先に帰ろうか。来るべきじゃなかったよね」そう言いながら、詩乃は私にバラを押しつけようとした。時哉はすぐにその手を押さえた。「熱があるのに、無理をするな」それから私を振り返った。「小暮夕花(こぐれ ゆうか)、そんな不機嫌な顔をするな。詩乃は具合が悪いんだ。今日は詩乃の夢をかなえるのに付き合ってやったと思えばいい」「じゃあ、私の夢は?」口にした自分自身が、その言葉に驚いた。時哉も言葉を止めた。けれど、すぐに小さく笑った。「こういうおとぎ話を一番信じてなかったのは夕花だろ?どうして今日に限って、プリンセスの夢をめぐって詩乃と張り合うんだ?」私は顔をそむけようとした。けれど視線を落とした瞬間、よりによって詩乃のスカートの裾が目に入った。【朝倉様&柳原様】急に喉がひどく詰まったように感じた。私が黙っているのを見て、時哉は手を伸ばし、私をそばへ引き寄せた。「もういい、意地を張るな。詩乃が熱を測り終えたら、さっき言ってたポップコーンバケットを買いに付き合う」私は一瞬、目を見開いた。あのポップコーンバケットは、売店の前でほんの少し長く眺めただけだった。そのとき時哉はうつむいて詩乃のメッセージに返信していたから、まったく気づいていないと思っていた。けれど時哉は、意外
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第2話
家に着いたときには、もう午前1時になっていた。玄関に立つ詩乃の顔は、ひどく青ざめていた。「夕花、私、2人の邪魔をしちゃった?」私が口を開く前に、時哉はもう詩乃を支えてリビングへ入っていった。「今夜はここに泊まれ」私は時哉を見上げた。「ここは私たちの家だよ」「分かってる」その口調は落ち着いていて、当然のことを言っているようだった。「まだ熱が下がってない。夜中に1人で帰すのは危ない」詩乃は目を赤くして私を見た。「それなら私、ソファで寝るよ。夕花を嫌な気持ちにさせたくないから」時哉が眉をひそめた。「熱があるのに、ソファで寝られるわけないだろ」そう言うと、時哉はまっすぐ寝室へ入っていった。戻ってきたその手には、私の白いルームワンピースと、私が長く使ってきた薄手のブランケットがあった。そのブランケットは去年の冬、手足が冷える私のために、時哉がわざわざ買ってくれたものだった。私は夜になると布団を蹴るから、これを抱いて寝れば少し暖かいと言っていた。今、そのブランケットを時哉は詩乃の腕に載せた。「今夜だけ、これで我慢してくれ」私は手を伸ばして止めた。「それはだめ」時哉が私を見る。その目には、わずかないら立ちが浮かんでいた。「詩乃はこんなに熱があるのに、ブランケット1枚くらい貸せないのか?」「そういうことじゃない」「じゃあ、何なんだ?」時哉は声を抑えた。「夕花、今夜はもう十分疲れた。これ以上けんかをふっかけないでくれ」ブランケットを抱えた詩乃の目から、急に涙がこぼれた。「時哉、夕花を責めないで。夕花がいつも自分の物をとても大切にしてるのは、私も分かってるから」詩乃が聞き分けよく振る舞うほど、私は譲ろうとしない悪者に見えた。時哉は数秒黙り、ブランケットを詩乃の腕に押し戻した。「シャワーを浴びてこい」詩乃はうなずき、私のそばを通るとき、小さな声で言った。「夕花、ありがとう」私は答えなかった。時哉は詩乃のために湯を用意し、救急箱から熱冷ましシートも取り出した。薬を探しながら、時哉はついでに胃薬を1箱取り出し、ローテーブルに置いた。「夜、何も食べてないだろ。あとで2錠飲んで、また胃を痛めるなよ」私はその胃薬を見つめた。ひどく滑稽だった。時哉は、私
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第3話
翌朝、私は6時には目を覚ました。白いシャツに3回アイロンをかけ、髪をまとめてはほどき、結局は以前、時哉が似合うと言ってくれた髪型を選んだ。7時過ぎ、時哉から電話がかかってきた。その声は少し低かった。「すぐそっちへ行く。朝食も買った。ブラックコーヒーも」私はスマートフォンを強く握った。「分かった」20分後、時哉の車が道端に止まった。歩み寄ろうとしたとき、後部座席の窓が下がった。中には詩乃が座っていて、額にはまだ熱冷まし用のシートが貼られていた。詩乃は私に微笑んだ。「夕花、私もついでに病院でもう1度診てもらうの。2人の邪魔はしないから」時哉は車を降り、私に朝食を差し出した。「少し食べとけ。これから時間がかかりそうだ」私は袋に目を落とした。おにぎりは私が好きな店のもので、コーヒーも確かにブラックだった。けれど次の瞬間、車の中から、詩乃が苦しそうに声を漏らした。「時哉、少し息が苦しい」時哉の顔色がすぐに変わった。彼はドアを開け、詩乃の額に触れた。「どうしてこんなに熱いんだ?」詩乃は時哉の手首をつかんだ。「私のことはいいから、先に夕花と手続きしてきて。今日は大事な日でしょ」けれど詩乃がそう言えば言うほど、時哉がここを離れるはずはなかった。時哉は私を見た。「先に受付番号を取っておいてくれ。詩乃を病院へ連れていって、点滴を受けさせたら戻る」私は時哉を見つめた。「時哉、今日は入籍する日でしょ」「分かってる」「でも、受付時間を過ぎたら今日手続きできなくなる」「間に合う」時哉は確信に満ちた口調で言った――私に約束するときは、いつだってそうだった。そうして私は1人で手続き窓口のある庁舎へ入った。受付番号が3回呼ばれても、時哉はまだ来なかった。窓口の表示番号は、すでに私の受付番号を過ぎていた。職員は婚姻届と本人確認用の書類を私に返した。「受付番号を取り直していただくしかありません」私は書類を抱えてその場に立ち尽くしていた。するとそのとき、スマートフォンの画面が明るくなった。詩乃から写真が1枚送られてきた。時哉はうつむいて詩乃の会計をしていて、スマートフォンは詩乃の膝に載っていた。詩乃はそこに、ひと言添えていた。【夕花、ごめんね。今日は本当なら、2人にと
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第4話
家に帰ると、リビングにはまだ明かりがついていた。テーブルには、新しいケーキが置かれていた。今度は、チョコレートプレートにこう書かれていた。【4周年おめでとう!夕花、もう機嫌直して】ダイニングテーブルの脇に立っていた時哉が、指輪の箱を取り出した。「今日は言いすぎた」その指輪は、以前私が何気なく褒めたデザインだった。時哉はすべて覚えていたのだ。それなのに、どうして時哉はいつも、私がすっかり失望しきるまで待ってから、それを持ち出してなだめるのだろう。私は顔をそむけ、返事をしなかった。時哉はしばらく黙ったあと、うつむいて指輪の箱を開け、声を和らげた。「もう1度だけ信じてくれ。来週は、絶対に遅れない」けれど次の瞬間、時哉がテーブルに置いたスマートフォンの画面が明るくなった。詩乃からメッセージが届いていた。【時哉、コメント欄でみんなに浮気相手だって責められてる】【私、もう本当に耐えられない】【夕花はまだ怒ってるの?ひと言だけ説明してもらえないかな?】時哉はすぐに画面を消した。私は時哉を見た。時哉は私の視線を避け、指輪の箱を閉じた。「SNSに投稿してくれ。今日、婚姻届を出せなかったのは、夕花の体調が悪かったからだと」私は小さく笑った。結局、詩乃が招いた騒ぎの後始末を私にさせたいのだ。私は指輪を押し返した。「投稿しないよ」時哉の顔がたちまち険しくなった。「詩乃は明日、チャリティー活動のイメージ審査を受ける。こんな話が広まったら、大きな影響が出る。夕花、これ以上みっともない騒ぎにするな」時哉は歩み寄り、私の肩をつかんだ。「ひと言投稿すれば、ウェディングフォトも、結婚式も、婚姻届も、全部予定どおりにする。夕花のお母さんにも、俺から説明する」「お母さん」という言葉を聞き、胸の奥がぎゅっと縮んだ。「お母さんに何を言ったの?」時哉は私の視線を避けた。「午前中に、入籍のことを聞かれた。夕花の気持ちが不安定で、急に日程を変えたと答えた」私はその場で固まった。お母さんは昨夜、夜通しアルバムをめくり、おばあちゃんがくれたブレスレットを着けるかと私に尋ねていた。婚姻届を出すのはめでたいことだから、ちゃんと華やかにしないとね、とお母さんは言った。けれど時哉の話では、私が
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第5話
飛行機が離陸してから、機内Wi-Fiを繋いだ。時哉からは、まだ連絡がなかった。メッセージ画面には、昨夜のひと言が残っていた。【薬は飲んだか?】あのときの私はまだ、時哉はただ物事の優先順位をつけるのが苦手なだけだと思っていた。けれどあとになって分かった。誰かにいつも後回しにされるのなら、それは優先順位をつけられないからではない。自分が、それほど大切ではないからだ。私は会話履歴を削除し、スマートフォンの電源を切った。3か月前、会社から清浜市に異動しないかと声をかけられていた。そのときは断った。婚姻届を出したら結婚式の準備を始めようと、時哉が言っていたから。これからは仕事で無理をしなくていい、自分が養えるとも言っていた。私は本当に、それを信じてしまった。飛行機が着陸すると、私はあのメールへ改めて返信した。【異動をお受けします】送信を終え、私はスーツケースを引いて空港を出た。清浜市には小雨が降っていた。ここへ来たのは初めてだった。見慣れた通りも、私の帰りを待つ明かりもない。けれどなぜか、私はほっとしていた。……その頃、時哉は家に帰っていた。玄関の明かりは消えていた。時哉は何気なく、車の鍵を棚の上に放った。「夕花」返事はなかった。時哉は靴を履き替え、リビングへ向かった。指輪はまだテーブルにあった。婚姻届もある。その隣には、家の鍵が置かれていた。時哉の表情が険しくなった。「また何を怒ってるんだ?」時哉はスマートフォンを手に取り、夕花に電話をかけた。電源が切られている。二度目も、やはり電源は切られたままだった。時哉は眉をひそめ、位置情報の共有画面を開いた。画面には何も表示されなかった――4年前に設定した位置情報の共有は、夕花によって解除されていた。時哉は数秒立ち尽くしたあと、寝室のドアを勢いよく開けた。クローゼットを開けると、中身がごっそり半分近く消えていた。夕花が普段着ていた服も、パソコンも、免許などの書類も、すべてなくなっていた。浴室からは、歯ブラシが1本消えていた。靴箱からも、何足かの靴が消えていた。夕花が毎晩抱いて眠っていたベッド脇の古い枕まで、持ち去られていた。腹を立てて二日ほど外泊するというただ事ではないと、時哉はようやく気づ
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第6話
清浜支社が仮住まいを用意してくれた。部屋はとても狭かった。1LDKで、窓の外には高架が見えた。最初の夜は、よく眠れなかった。午前2時に目が覚めたとき、無意識にベッドの反対側へ手を伸ばした。誰もいない。私は一瞬固まり、ゆっくりと手を引っ込めた。4年かけて身についた癖が、1晩で消えるはずもない。朝、会社へ向かう途中で朝食を買いに店へ寄り、いつものように口にした。「コーヒーを2つ。ブラックを1つと……」店の人が2つ目を用意し終えたところで、ようやく気づいた。「すみません、1つで大丈夫です」誰かのもとを離れるというのは、背を向けたその瞬間だけのことではない。その後に訪れる数えきれない瞬間のたびに、ひとりで生きる方法をもう一度学び直していくことなのだ。4日目、時哉がやってきた。仕事を終えて会社を出ると、道端に立つ時哉が目に入った。数日会わなかっただけなのに、目の下には濃い隈ができていた。手には、私が買えなかったかぼちゃの馬車型ポップコーンバケットまで持っている。私を見つけると、時哉はすぐに歩み寄ってきた。「どうして連絡先をブロックした?」私は足を止めた。「別れたから」時哉の顔がたちまち険しくなった。「俺は別れるなんて言ってない」いかにも時哉らしい言葉だった。自分が認めさえしなければ、私は永遠に離れられないとでもいうように。時哉はポップコーンバケットを差し出した。「これが欲しかったんだろう?買ってきた」私は受け取らなかった。「もういらない」時哉の手が宙で止まった。「夕花、ここ数日のことで、4年間のすべてを捨てるのか?」私は時哉を見つめた。ここまで来ても、時哉はまだ、ここ数日のことにすぎないと思っている。「数日じゃない、4年だよ」時哉はきつく眉を寄せた。「詩乃にはもうSNSの投稿を消させたし、これからは俺たちのことに口を出させないとも言った」口を出すね。今になっても、問題は詩乃が口を挟んだことだと思っている。急に、ひどく疲れた。「時哉、帰って」「帰らない」時哉は1歩近づき、私の手首をつかんだ。「一緒に家へ帰ろう。結婚式の準備は、もう手配し直してる。婚姻届だっていつでも出せる。詩乃が嫌なら、これからは会う回数も減らす」時哉はたく
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第7話
時哉はすぐには清浜市を離れなかった。私の会社の近くに宿を取った。1日目には、ブラックコーヒーが届いた。私は受付から返してもらった。2日目は、私がいつも飲んでいた胃薬だった。受け取らなかった。3日目には、マンゴーのミルクレープが届いた。それを見て、私は数秒固まった。そして、別れてから初めて時哉にメッセージを送った。【私はマンゴーアレルギーよ】1分もしないうちに、時哉から電話がかかってきた。私は出なかった。代わりにメッセージが届いた。【前はよく食べていただろう?】その言葉を見つめたまま、長いこと返事をしなかった。昔、詩乃はマンゴーのミルクレープが好きだった。時哉は買うたびに、2つ用意した。1つは詩乃へ。もう1つは、ついでのように私へ。時哉の気分を損ねたくなくて、いつも2口ほど食べた。あとで胃が苦しくなってから、こっそり捨てていた。時哉は、私が食べたことだけは覚えていた。けれど、そもそも好きではないことには一度も気づかなかった。その晩、時哉は夜11時まで住まいの前で待っていた。私が帰ってきたときも、まだそこに立っていた。あのマンゴーのミルクレープは、もう捨ててあった。「どうして言わなかった?」私は足を止めた。「何を?」「マンゴーアレルギーのこと」時哉の声はひどくかすれていた。私は思わず笑った。「言ったよ」時哉の体がこわばった。「いつ?」「2年目の夏。あなたが詩乃に誕生日ケーキを買ってきて、私がひと口食べたあと、発疹が出たじゃない?」私は時哉を見つめた。「薬局へ連れて行ってくれたわよね。でも途中で詩乃から『もうろうそくを吹き終わった』って電話が来て、あなたは私を薬局の前に置いて、そのまま行った」時哉の顔から、少しずつ血の気が引いていった。私では、とっくに忘れたつもりでいた。けれど、胸の奥に沈んでいただけの悔しさもあるのだ。少し触れただけで、今も痛む。「そのあとは?」時哉はかすかな声で尋ねた。「ひとりで家に帰った」「どうして俺に言わなかった?」危うく、その言葉に笑いそうになった。「時哉。私はあのとき、あなたの隣にいたんだよ」時哉は完全に言葉を失った。……その日から、時哉が食べ物を届けてくることはなくなった。ただ毎晩
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第8話
その後、詩乃が一度だけ清浜市に来た。私を訪ねてきたわけではない。全ては時哉から聞いた。その日、住まいの前で私を待っていた時哉は、珍しく近づいてこなかった。「明日、帰る」私はうなずいた。「うん」時哉は長いこと立っていた。「今日、詩乃が会いに来た」私はそのまま立ち去ろうとした。すると、時哉が不意に尋ねた。「夕花、俺はずっと、おまえのほうが詩乃より我慢できると思っていたんだろうか」私は足を止めた。時哉はうつむき、少し笑った。ひどく痛々しい笑い方だった。「詩乃が泣くと、大変なことが起きたと思った。おまえが泣かなければ、何も問題はないと思った。詩乃が怖いと言えば、すぐ駆けつけた。おまえがつらいと言っても、俺はいつも『分かってくれ』って我慢させた」時哉は私を見つめた。「それはおまえのほうが大人だからだと、本気で思っていた。今になって、違ったとわかった。俺がおまえに甘えて、傷つけていただけだった」鼻の奥がつんとした。私は顔をそむけた。時哉がついにわかってくれた。けれどよりによって、私が去ったあとだった。時哉の声は次第に小さくなった。「今日、詩乃に聞かれた。どうして昔は何でも付き合ってくれたのに、今は会おうともしないのかって。俺は、前はずっと、おまえが去るはずはないと思っていたからだと答えた。……詩乃は泣いた。ずっと前から俺のことが好きだったと」私は黙って聞いていた。驚きはしなかった。時哉は続けた。「俺はずっと、詩乃に必要とされることを楽しんでいたんだと気づいた。同時に、おまえに愛されることにも甘えていた。ひとりには自分が大切な存在だと思わせてもらい、もうひとりには帰る家が永遠にあると思わせてもらっていた」時哉の目は真っ赤だった。「どちらも手放したくなかった。その結果、おまえを失った」私は遠くの街灯を見つめた。長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。「時哉。私を傷つけていることに、今初めて気づいたわけじゃない」時哉の体がこわばった。「私は泣いたし、けんかもしたし、何度もあなたに聞いた。そのたびに、あなたはちゃんとわかっていたはずよ。ただあの頃は、私があなたの元を去るはずなんてないと、高を括っていただけ……だから、怖くもなかったんでしょう?」その
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第9話
6か月後、私は一度、かつて暮らしていた街へ戻った。友人の結婚式があった。招待状が清浜市に届いたとき、私はそれを長いこと見つめたが、それでも出席した。結婚式が終わり、ホテルを出た時、時哉が入口に立っていた。一瞬、足を止めた。6か月ぶりに見た時哉は、ずいぶん痩せていた。昔は黒い服を好んでいたのに、今はごくありふれた灰色のコートを着ているだけだった。時哉は近づいてこなかった。ただ、その場に立ったまま尋ねた。「少しだけ話せないか?」私は断らなかった。私たちは街角のコンビニへ行った。昔、けんかをすると、時哉はいつもそこで温かいコーンスープを1本買って私の機嫌を取った。今回は、何も買わなかった。席に着くと、時哉は古びた紙袋を私の前に差し出した。中には、家に置いてきた白いシャツが入っていた。婚姻届を出す日に着るつもりだったもの――私が3度もアイロンをかけたもの。私の指がわずかに止まった。「どうしてまだ持っていたの?」「捨てられなかった」時哉は少し笑った。「おまえに渡していいのかも、わからなかった」私は何も言わなかった。時哉はテーブルを見つめた。「あのあと、役所へ行って、3時間も座った」私は時哉へ目を向けた。「職員に、誰を待っているのかと聞かれて、婚約者を待っていると答えた。婚約者はどこにいるのかと、また聞かれた」時哉の声がかすれた。「何と答えればいいのか、わからなかった」コンビニの中で誰かが冷蔵ケースを開け、冷気が流れてきた。時哉はうつむいていた。「夕花、あの日おまえが経験したことを、あとになって1つずつ考え直した。おまえは6時に起きて、白いシャツにアイロンをかけた。俺は9時30分に着くと約束した。なのに最後は、一人ぼっちにさせて……それなのに俺は、『たった一週間だ』って言った」そこまで言って、時哉は長いこと黙った。「あれがどれほど最低な言葉だったか、今になってわかった」私は窓の外を見た。「時哉。もういいよ」時哉の目の縁がたちまち赤くなった。「もう一度だけ、謝りたい。戻ってきてほしいからじゃない。許してほしいからでもない。ただ……」声が一度、途切れた。「おまえには、まだ本当の意味で謝れていなかった」私は白いシャ
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第10話
翌年の春、私はもう一度フェアリーランドを訪れた。一緒に来た同僚が尋ねた。「前にも来たことある?」私は答えた。「一度だけ」同僚は私の手を引き、メリーゴーラウンドへ駆けていった。「じゃあ、これはきっと乗ったことあるよね?」私は一瞬、言葉を失った。それから首を横に振った。「ないよ」その日は列が長かった。私たちは40分以上並んだ。自分の番が来ると、白い馬を選んだ。音楽が流れ、木馬が上下に動きだした。隣では、子どもが声を上げて笑っていた。ふいに2年前、時哉の隣に立ち、一度乗ってみたいと言ったことを思い出した。時哉は言った。「いつも、もう子供じゃないって言ってただろ?どうして今日に限って甘えるんだ」あの頃の私は、こういうものを好きなのは幼稚なのだと、本気で思っていた。あとになって、ようやくわかった。メリーゴーラウンドに乗りたいと思うことは、幼稚ではない。愛する人に一度付き合ってほしいと願うことも、恥ずかしくはない。何かを望んだ私が、間違っていたわけではない。ただ、求める相手を間違えただけだった。降りると、同僚がかぼちゃの馬車型ポップコーンバケットを買ってくれた。「さっきからずっと見てたよね。ほら」私は数秒、目を見開いた。それから、受け取った。「ありがとう」一度逃したものでも、あとから手にできることはある。ただ、それをくれる相手が、昔と同じ人とは限らない。夜、花火が始まった。人々がいっせいに城のほうへ駆けていく。私は観覧席を予約していなかった。ただ、人波の一番後ろに立った。花火が上がると、大型スクリーンが目に痛いほどまぶしく輝いた。そばでは誰かが目を閉じ、願い事をしていた。同僚が肩で私を軽く小突いた。「願い事しないの?」私は空を見つめた。そして、ふっと笑った。「しない」2年前も、私は願い事をしなかった。あの頃、たった1つ残っていた願いは、時哉のもとを離れることだった。その願いは、やがてかなった。花火がかなえたわけではない。あのとき初めて、自分で自分を救うことを選んだからだ。ポケットの中で、スマートフォンが震えた。知らない番号からの短いメッセージだった。【4周年、おめでとう】私は長いこと見つめていた。誰なのかは尋ねなかった。返事もし
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