廊下の空気は、外よりも静かだった。雨の音はガラス越しにかすかに聞こえていたが、遠すぎて現実味がない。傘を持たずに訪ねてきたせいで、鶴橋の肩には濡れたシャツがまとわりつき、肌の冷たさがじんわりと染みていた。けれど、今はそれもどうでもよくなっていた。
「…あの、俺──」
去ろうとしていた足が止まり、喉の奥でせり上がってきた言葉が、鶴橋の口から自然とこぼれ落ちた。こんなふうに言うつもりではなかった。何かを伝えたくて来たわけでもなかった。ただ、目の前の人間の暮らしのなさ、そのままどこにもつながっていかないような沈黙に、どうしても声をかけずにはいられなかった。
「今里さんのこと、好きです」
一瞬、時間が止まったようだった。
何かがぶつかる音も、誰かが呼ぶ声もなかった。ただ、二人のあいだに置かれたその言葉だけが、空気を裂いた。
今里は、ゆっくりと目を見開いた。わずかに眉が動き、息を呑んだように喉が揺れた。その視線はまっすぐ鶴橋を捉え、何か言いたげに見えたが、すぐに瞼が伏せられる。
長い睫毛の影が落ちる。視線が床に落ちたその瞬間、鶴橋の胸の奥が、ひとつ音を立てた。
「……俺みたいなん、触らん方がええ」
吐き出すような、けれどとても静かな声だった。怒鳴るわけでも、苦笑するわけでもなく。ただ、過去からゆっくりと引き上げられたような、淡い拒絶。
それは決して、傷つけるための言葉じゃなかった。むしろ、優しすぎるほどだった。優しさに包んで、言葉の輪郭を曖昧にしようとするような、そんな声音だった。
鶴橋は、返す言葉が見つからなかった。
目の前の男は、怒っているわけじゃなかった。引いているわけでも、軽んじているわけでもない。ただ、その言葉の奥には、もう誰にも触れさせたくない、そんな思いがひっそりと埋まっていた。
「なんで、ですか」
絞り出すような声だった。聞いてどうするのか、自分でもわからなかった。ただ、それを聞かずに立ち去ることが、今この場所ではできなかった。
今里は、答えなかった。
代わりに、視線をほんの少しだけ鶴橋に向け
舗道のアスファルトには、まだところどころに水たまりが残っていた。降り続いていた雨はようやく止んだらしく、雲の切れ間から少しだけ薄明るい空が覗いている。マンションのエントランスを出た鶴橋は、傘もささずにそのまま足を止めた。湿った空気のなかで、ゆっくりと深呼吸をひとつ。肺の奥まで入り込んできたのは、雨上がり特有の匂いだった。アスファルトの湿気、街路樹の葉から落ちるしずく、遠くの排水溝から立ちのぼる水気と、ほんの少しだけ混じる土の匂い。それらが混ざり合い、静かに、彼の胸の奥へと沈んでいく。手には何もない。忘れ物を届けたわけでもなければ、言葉が交わされたあとに残る余韻も、心地よいものとは言いがたい。ただ、胸のどこかが熱く、そしてひやりと冷たかった。(あんな顔で…あんな言い方で…)思い出そうとしなくても、今里の表情はくっきりと浮かんできた。玄関先でのあの一瞬。目を見開いたあと、すぐに逸らされた視線。感情を消すように伏せられた睫毛の動き。鶴橋の中では、それらがまだリアルすぎるほどに生きていた。「俺みたいなん、触らん方がええ」その言葉の意味を、頭では理解できていなかった。ただ、胸に落ちていくときだけ、確かな痛みを残した。今まで、誰かに何かを拒まれたことがなかったわけじゃない。それでも、あんなふうに丁寧に、やわらかく突き放されたのは、初めてだった。今里の声は決して責めるようなものではなく、むしろこちらを守ろうとしているようにさえ思えた。けれど、それがいっそう切なかった。守るということは、受け入れないということでもあったからだ。鶴橋は、ポケットに入れた手をぐっと握りしめた。冷たい指先が、シャツの中の体温と対照的で、それだけでもう胸の奥が不安定に揺れていた。振り返れば、マンションの入口はもう見えなかった。歩道の先には人影がほとんどなく、車の音も遠くに途切れがちに響くだけだった。世界が、妙に静かだった。(それでも…)心のどこかで、言い訳のように、あるいは祈るように、ひとつの思いが繰り返されていた。(それでも、好きやと思ってもうた)あの人の暮らしぶりを見
廊下の空気は、外よりも静かだった。雨の音はガラス越しにかすかに聞こえていたが、遠すぎて現実味がない。傘を持たずに訪ねてきたせいで、鶴橋の肩には濡れたシャツがまとわりつき、肌の冷たさがじんわりと染みていた。けれど、今はそれもどうでもよくなっていた。「…あの、俺──」去ろうとしていた足が止まり、喉の奥でせり上がってきた言葉が、鶴橋の口から自然とこぼれ落ちた。こんなふうに言うつもりではなかった。何かを伝えたくて来たわけでもなかった。ただ、目の前の人間の暮らしのなさ、そのままどこにもつながっていかないような沈黙に、どうしても声をかけずにはいられなかった。「今里さんのこと、好きです」一瞬、時間が止まったようだった。何かがぶつかる音も、誰かが呼ぶ声もなかった。ただ、二人のあいだに置かれたその言葉だけが、空気を裂いた。今里は、ゆっくりと目を見開いた。わずかに眉が動き、息を呑んだように喉が揺れた。その視線はまっすぐ鶴橋を捉え、何か言いたげに見えたが、すぐに瞼が伏せられる。長い睫毛の影が落ちる。視線が床に落ちたその瞬間、鶴橋の胸の奥が、ひとつ音を立てた。「……俺みたいなん、触らん方がええ」吐き出すような、けれどとても静かな声だった。怒鳴るわけでも、苦笑するわけでもなく。ただ、過去からゆっくりと引き上げられたような、淡い拒絶。それは決して、傷つけるための言葉じゃなかった。むしろ、優しすぎるほどだった。優しさに包んで、言葉の輪郭を曖昧にしようとするような、そんな声音だった。鶴橋は、返す言葉が見つからなかった。目の前の男は、怒っているわけじゃなかった。引いているわけでも、軽んじているわけでもない。ただ、その言葉の奥には、もう誰にも触れさせたくない、そんな思いがひっそりと埋まっていた。「なんで、ですか」絞り出すような声だった。聞いてどうするのか、自分でもわからなかった。ただ、それを聞かずに立ち去ることが、今この場所ではできなかった。今里は、答えなかった。代わりに、視線をほんの少しだけ鶴橋に向け
ドアの隙間から通されたのは、玄関脇のわずかなスペースだった。内側から閉じられた扉の音が、ぴたりと密室をつくる。今里は何も言わず、スリッパを差し出したあと、淡々と鞄をソファの脇に置いて小さく頷いた。「すみません、散らかってて」その言葉とは裏腹に、部屋は整っていた。床には埃ひとつなく、靴もきちんと並び、台所の流し台は乾いていた。小さなダイニングテーブルには何も置かれておらず、壁際に並んだ書棚はファイルで埋まり、その背表紙が整然と縦を揃えている。だが、鶴橋はすぐに、それが「整っている」こととは少し違うと気づいた。家具は最低限。テレビも、観葉植物もない。カーテンは片側だけ、わずかに開いているが、そこから差し込む光は中途半端で、部屋の中を照らしきっていなかった。蛍光灯も点けられてはいたが、それもひとつだけ。冷たい白色の光が、壁に影を刻んでいる。空気が妙に澄みすぎていて、息を吐く音さえ邪魔に感じた。どこかから、時計の秒針の音だけが聞こえてくる。規則的な、単調な、誰にも干渉されないままの時間。「…思ったより、綺麗ですね」言葉を選んだつもりだったが、自分でも無理があると感じた。綺麗だ。けれど、それは“誰かが丁寧に暮らしている”という印象とは違っていた。何もない。何も足されていない。そのまま生きているのに、生きている気配がほとんど残っていない部屋だった。今里は黙ってうなずくと、キッチンの端に置かれた電気ポットに水を入れ、スイッチを押した。その手つきも、無音のように見えた。「…一人暮らし、長いんですか」問いかけは、無理やり口から出た。何か話していないと、この沈黙に自分が飲まれてしまいそうだった。今里はマグカップを棚から出しながら、少しだけ間を置いて答えた。「そうですね。もう、十年くらいになります」淡々とした声。そこに情感はなかった。十年。十年も、誰にも気配を乱されず、こうして静かに暮らしてきたのかと思うと、胸がざわついた。「ここ、寂しくないですか」自分でも驚くほど、率直な言葉が出た。相手にとっては、無礼かもし
金曜日の夕方、雨はもう降っていないのに、空はまだその名残を引きずっているようだった。街の色は褪せ、アスファルトには薄く水の膜が残っていた。人の足取りだけが速くなり、どこか皆、冷たさから逃げるように駅へ向かっていた。鶴橋蓮も、いつもの帰り道を辿るはずだった。だが、改札の手前で、ふと立ち止まった。かばんの中を探った拍子に、紙の端がひらりと出てきた。A4のクリアフォルダ。その中には、今里が週明けに提出予定の書類が入っていた。昼に見せてもらったあと、うっかり自分のデスクに持ち帰ったことを今、ようやく思い出した。(あかん、これ…月曜までにいるやつやったっけ)社内チャットはすでにオフライン。戻るには遅いし、ポストに入れるにしても宛先がない。悩む間もなく、気づけば歩き出していた。駅と反対方向。地図アプリを開かなくても、なぜか足が道を覚えている。今里の住んでいる地域は、会社の健康診断の書類で一度見たことがあった。駅から少し外れた、住宅街の中の静かなエリア。そこに彼が住んでいる理由など、考えたこともなかった。けれど、今は…その空気に触れたくなっていた。歩道の脇に咲く小さな白い花が、雨に濡れて重たげに揺れている。コンクリートに囲まれた景色に、人の気配は少なかった。ふと足を止め、見上げた先に現れた建物は、想像していたよりずっと無機質だった。三階建ての低いマンション。ベランダには何もなく、洗濯物さえ見当たらない。玄関扉はすべてグレーに統一され、余計な飾り気はなかった。(…ここか)目の前に立って、初めてその確信に触れた気がした。どうしてここだとわかったのか、自分でも説明がつかなかった。けれど、何の迷いもなく、呼び鈴に指が伸びた。静かなチャイムの音が、玄関の内側へと吸い込まれていく。しばらくして、足音。間もなく、内側からゆっくりとドアノブが回った。鶴橋の心臓が、小さく跳ねた。音を立てずに扉が開く。その隙間から、部屋着姿の今里が現れた。薄いグレーの長袖カットソーに、くたっとした黒のルームパンツ。首元は少し開いていて、鎖骨のラインがそのまま見えた。髪は乱れていないのに、乾ききっ
夜のエントランスは、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。自動ドアの外にはまだ街灯が灯りきらず、薄暗い空にわずかな暮色が残っている。天気予報は晴れのままだったが、風は冷たく、早春の夜気が肌に触れると、背筋が自然と強張った。エレベーターホールから続くロビーの奥、ガラス扉の前で、今里がそっと一礼した。「お先に失礼します」低く落ち着いた声。その声を聞くだけで、今日という一日が終わったのだと感じる。鶴橋は、手元のバッグを持ち直しながら、何気ないふりでその背中を見送った。同じ言葉、同じ時間。けれど、今夜は少し違っていた。今里の姿が、ドアの向こうへとゆっくり消えていく。後ろ姿は細く、そして少しだけ疲れて見えた。だが、その肩の動きは静かで、どこか凛としていた。ジャケットの裾が揺れ、足元の影が伸びている。そのすべてが、妙に目に焼きつく。気づけば、口が動いていた。「…今里さ──」声が漏れかけた瞬間、喉の奥が引きつって、言葉が途切れた。その一歩先を、踏み出せなかった。なんでもないふうを装って、鶴橋は手にしていたジャケットの襟を直した。別に寒かったわけでもない。ただ、何か動かさないと、胸のざわめきに耐えられなかった。「なんで、呼ぼうとしたんやろ」心の中でそう呟いてみたが、自分でもはっきりとは答えが出なかった。ただ確かなのは、「名前を呼びたくなる」というその衝動が、今までの誰にも抱いたことのない感情だったということ。呼びたい。言葉として発したい。それは、ただの礼儀や、業務上のやり取りとは違う。もっと個人的な感情、もっと近づきたいという欲求の芽生えだった。一緒にいる時間は長くない。話すことも、特別多くはない。けれど、いつの間にか、その姿を探している。声を聞いていたいと思うようになっている。目が合わなくても、そこにいるだけでいいと思っている。今里澪という人物が、ただ“職場の同僚”ではなくなっていく実感。それは静かで、けれど確かなものだった。ロビーの照明が少し暗くなり、自動ドアが音もな
夕方のオフィスは、いつもより静かだった。午後五時を回ったところで、営業チームの数人が早めに外回りに出ていたせいか、席の半分が空いている。蛍光灯の光は変わらないのに、人の気配が薄くなっただけで、空間が広くなったような錯覚すらある。そんな中で、今里澪の背中だけが、黙々と動いていた。鶴橋は、ファイルを整理するふりをして、何度目かの視線をそちらに送った。デスクに広げられた数枚の書類に目を落とし、ホチキスの針を打ち直し、ラインマーカーで数値の訂正をしている。そういった作業は、本来、アシスタントに任せてもいいようなことだった。だが今里は、自分の手でやる。彼の手は細く、節立っている。けれど動きには無駄がなく、紙をめくる際には必ず軽く指で空気を抜くように撫でる。気を抜けば、何も感じない程度の動作だ。だが、そこに無意識の丁寧さがにじんでいた。(やっぱり、すごい人やな)胸の奥で、自然とそんな言葉が浮かぶ。この“すごさ”は、誰かに褒められるためのものじゃない。誰かに評価されるためでもない。たぶん、彼自身が納得できるかどうかだけのために、こうして修正を重ねている。その一点にだけ集中するような、淡々とした姿勢。その背中を見ていると、鶴橋の中に、どうしようもなく“知りたい”という気持ちが湧きあがってくる。なんでそんなに丁寧なんやろ。誰も見てへんところで、なんでそんなに正確にやるんやろ。…そもそも、なんでここにおんねんやろ。ふと、今里がわずかに顔を上げた。視線が、鶴橋の方に向いた。その刹那、目が合いかけた気がした。けれど、お互いに反射的に目を逸らした。何もなかったかのように、鶴橋はファイルのページをめくり、今里もまたペンを握り直す。その一瞬には、言葉も笑顔もなかった。ただ、そこにあったのは、無数の感情の粒だった。尊敬、好奇心、静かな予感。それらが名前を持たないまま、すこしずつ重なっていく。理解したい、ではもう足りない。もっと知りたい。