定時を目前にして、フロアには少しずつ片付けの気配が漂いはじめていた。パソコンを落とす音、椅子を引くわずかな音、コートの袖を通すざらりとした布の擦れる音。それらが静かな夕方の空気を、機械的に満たしていく。
窓の外はすでに暮色が降り始め、ガラス越しの街は冷たい色に沈んでいた。ネオンにはまだ早い時間。けれど街は確実に、昼の明るさを手放しつつある。
鶴橋は手元の書類を読みながら、まったく内容が頭に入っていないことに気づいていた。行を追っては戻り、また追っては止まる。集中できていないのはわかっていたが、視線をどこに向けても気持ちは落ち着かなかった。
そのときだった。視界の端に、立ち上がる人影が映る。
今里だった。スーツの裾を整え、肩に鞄をかける動作は、いつものように無駄がなく静かだった。誰に声をかけるでもなく、ただ黙って、出口へと歩きはじめた。
その背中が鶴橋の席の横を通りかかる。
瞬間、鶴橋の手が止まった。ペンを握っていた指がゆるみ、書類の角が机にぱた、と落ちる。何も考える暇もなく、ただ顔を上げていた。
「…今里さん」
呼ぶ声は出なかった。ただ口が動いただけだった。けれど、今里は足を止めなかった。鞄の重さを左肩に移し替えるような仕草をして、そのまま歩を進めていく。
歩幅は変わらない。音もしない。けれどその背中は、どこか遠く感じられた。まるでガラスの向こう側にいるような、声の届かない場所に立っているような、そんな距離感だった。
(なんでや…なんで、こんなときに、何も言えへん)
胸の奥がざわついた。唇が開きかけるたびに、言葉にならない音が喉で絡まって止まる。何かを言わなければならないと思うのに、どうしても一歩が踏み出せない。
今里の背が、少しずつ小さくなる。出口のドアが近づき、手が伸び、ノブに触れる。
その瞬間、鶴橋の口から、無意識に声がこぼれた。
「…また、明日」
言ってから、自分が何を言ったのかに気づいた。明日。そう、いつものように、仕事が終わる時間に交わす、当たり前の挨拶。でもその“明日”が、も
午前八時四十五分。オフィスの空気は、どこか湿り気を帯びていた。前夜の雨が舗道にまだ残り、窓の向こうでは曇天が街を鈍い光で包んでいる。普段通りの始業時間、社員たちは次々と出社していたが、今日は誰もが無意識に声のボリュームを落としていた。笑い声も、椅子を引く音も、ひそやかに聞こえる程度だった。今里は、いつも通りの時間に席につき、静かにPCの電源を入れていた。シャツの襟元はわずかに湿気を含んでいるように見えたが、それすらも彼の静謐さのなかに溶け込んでいた。指先はためらいなくキーボードを叩き、視線はモニターの一点に集中している。机の上は整然とし、ファイルもペン立ても歪みなく並べられていた。その様子は、まるで何も起きていない朝の風景だった。けれど、それが“最後”であることを知っている人間にとっては、むしろその完璧さが残酷に映る。佳奈は、彼の二つ隣の席からちらりと視線を向けていた。けれどすぐに書類に目を落とす。村瀬も、今里の姿を見た途端に会話を止め、そっと口を閉じた。皆、どこかで察していた。何かが変わってしまう日なのだと。だがそれを口にするには、朝の空気はあまりに脆すぎた。鶴橋は自席に腰を下ろし、ディスプレイの裏から今里の背中を見ていた。背筋は真っ直ぐで、肩には余計な力も入っていない。穏やかで、落ち着いていて、いつもと何も変わらない。なのに、その“変わらなさ”が、今はただ怖かった。心のどこかでまだ信じていたのかもしれない。あれは一時の感情で、思い直してくれるんじゃないかと。退職届なんて、ただの形式で、誰かが止めれば引き戻せるんじゃないかと。けれど、その背中はすでに遠くにいる。言葉をかける隙もないほど、確かな距離のなかにいた。喉がひどく渇いていた。水を飲んでも、その乾きは癒えなかった。鶴橋は右手で胸のあたりを押さえた。息が、少しだけ詰まっている気がした。あのとき、ベンチでふと笑った表情を思い出す。慣れてるんで、という軽さの裏に、どれほど深い沈黙があったのだろう。誰にも見せず、誰にも言わずに、彼はただ静かにこの場所から離れていこうとしている。それを止める言葉は、鶴橋の口の中にはもうあった。ずっと前から、ずっと言いたかっ
帰宅ラッシュの電車は、吐き出された人々でぎゅうぎゅうに膨れ上がっていた。扉が開くたびに少しずつ入れ替わる乗客の波の中で、鶴橋は奥のほう、窓際の吊り革につかまったまま、揺れに任せて立ち尽くしていた。シャツの襟元にはじっとりと汗がにじみ、スーツの背中もいつの間にか湿っていた。窓の外には、闇に沈んだ街の灯りが流れていく。けれどそれらの風景は、目に入っていながらまるで心に届いてこなかった。ポケットに入れていたスマホが、わずかに手のひらに当たる。握りしめた拳を緩めて取り出し、ロック画面を解除する。その動作だけで、なぜか心拍が早まるのを感じた。LINEのアプリを開く。通知はない。画面の一番上に並んだ名前のひとつに、自然と視線が止まる。今里 澪。たったそれだけの文字列なのに、胸の奥がぎゅっと縮こまる。開いて、何か打とうとする。けれど指は動かず、すぐに画面を閉じる。そしてまた開く。何度もそれを繰り返すたびに、自分がどれほど臆病になっているかを思い知る。(なんで…)心の中で、声が反響する。(なんで俺、今日、あんな背中に何も言えへんかったんや)閉まる直前のドアのように、わずかに開いていた隙間があった。あの一瞬、言えたはずの言葉がいくつもあった。引き止めることも、理由を問うことも、せめて「辞めんとってください」と言うことも。それなのに、喉の奥で全部がつかえて、結局何ひとつ口にできなかった。電車が大きく揺れた。つり革を握る指先に力が入る。まるで、その力で自分の情けなさを抑え込もうとしているかのようだった。やがて降りる駅に着き、人の流れに押されながらホームに足を下ろす。自動改札を抜けたあとも、足はまるで自分のものではないように重く、階段のひとつひとつがやけに長く感じられた。アパートに着いたのは、午後八時を少し回った頃だった。外の廊下に響く自分の足音が、こんなにも大きいとは思わなかった。玄関の鍵を開けると、薄暗い室内が迎えてくる。スイッチに手を伸ばしかけたが、躊躇してそのまま灯りを点けずに入った。鞄を置き、ジャケットを脱ぐ。ネクタイを緩め、ソファに沈む。何もかもが鈍く、
定時を目前にして、フロアには少しずつ片付けの気配が漂いはじめていた。パソコンを落とす音、椅子を引くわずかな音、コートの袖を通すざらりとした布の擦れる音。それらが静かな夕方の空気を、機械的に満たしていく。窓の外はすでに暮色が降り始め、ガラス越しの街は冷たい色に沈んでいた。ネオンにはまだ早い時間。けれど街は確実に、昼の明るさを手放しつつある。鶴橋は手元の書類を読みながら、まったく内容が頭に入っていないことに気づいていた。行を追っては戻り、また追っては止まる。集中できていないのはわかっていたが、視線をどこに向けても気持ちは落ち着かなかった。そのときだった。視界の端に、立ち上がる人影が映る。今里だった。スーツの裾を整え、肩に鞄をかける動作は、いつものように無駄がなく静かだった。誰に声をかけるでもなく、ただ黙って、出口へと歩きはじめた。その背中が鶴橋の席の横を通りかかる。瞬間、鶴橋の手が止まった。ペンを握っていた指がゆるみ、書類の角が机にぱた、と落ちる。何も考える暇もなく、ただ顔を上げていた。「…今里さん」呼ぶ声は出なかった。ただ口が動いただけだった。けれど、今里は足を止めなかった。鞄の重さを左肩に移し替えるような仕草をして、そのまま歩を進めていく。歩幅は変わらない。音もしない。けれどその背中は、どこか遠く感じられた。まるでガラスの向こう側にいるような、声の届かない場所に立っているような、そんな距離感だった。(なんでや…なんで、こんなときに、何も言えへん)胸の奥がざわついた。唇が開きかけるたびに、言葉にならない音が喉で絡まって止まる。何かを言わなければならないと思うのに、どうしても一歩が踏み出せない。今里の背が、少しずつ小さくなる。出口のドアが近づき、手が伸び、ノブに触れる。その瞬間、鶴橋の口から、無意識に声がこぼれた。「…また、明日」言ってから、自分が何を言ったのかに気づいた。明日。そう、いつものように、仕事が終わる時間に交わす、当たり前の挨拶。でもその“明日”が、も
風が鳴っていた。昼休みの屋上は、空の青さに反して冷たく、吹き抜ける風が無遠慮に袖口から入り込んでくる。鶴橋は指先をすぼめてライターに火をつけようとするが、風にあおられてはすぐに消されてしまった。何度か試してみたが、火は最後まで煙草の先に届かない。ふと手を止めて、煙草ごとポケットに押し戻す。鉄のフェンスの向こうには、無数のビル群が並んでいる。どれも均質なガラスの壁に陽を受けて、まぶしいほどに光っていた。下では車の流れが絶えず、けれどこの屋上だけが、世界から切り離されたように静かだった。背後で扉の開く音がした。鶴橋が振り返るより早く、誰かの足音がコンクリートを踏んで近づいてくる。振り向くと、そこにいたのは今里だった。細い体を覆うスーツの襟が、風に少しだけ揺れている。手にはいつものように薄い缶コーヒー。けれど、いつものようにそれを飲む様子はなかった。視線が合ったわけではない。けれど、互いに相手の存在を意識していた。屋上にふたりきり。言葉をかわさずにいられるほどの間柄では、もはやなかった。「…なんで、辞めるんですか」鶴橋の口から出た言葉は、問いというよりも、掠れた息に近かった。風に押し返されそうなほど小さな声だったのに、なぜかはっきりと空間に落ちた。今里は立ち止まり、鶴橋のほうを見ようとはせずに、ただ風の吹く方向を眺めるようにしていた。その横顔は、どこか遠いものを見ているようで、今ここにいない人のようだった。「…俺がここにおったら、鶴橋くんまで壊してまうから」答えは簡潔で、静かだった。怒りも、哀しみも、どこにも混じっていない。けれどその響きは、深い水底から届くような重さを持っていた。鶴橋は息を止めた。その言葉が何を意味するのか、瞬時には理解できなかった。けれど、じわじわと胸の奥に沈み込んでいくにつれて、それがただの“自己都合の退職理由”ではないと気づいていった。「壊してまう、って…なんのことですか」問いかけながら、自分の声に自信がなかった。問いというより、縋るような響きになっていた。今里は缶コーヒーの表面を指先でな
ボールペンが机を転がる音が、異様に大きく響いた。耳の奥で、その音がずっと反響しているようだった。鶴橋は指先の力を失った自分に気づく間もなく、ただ机の下に目を落とす。床に落ちたペンを拾おうと腰を浮かしかけたが、動きはぎこちなく、どこかうわの空だった。「…今里さん、辞めるんやって」佳奈の声は、驚きと戸惑いを交えた小さな囁きだった。だが、鶴橋にはその言葉だけが異様な鮮明さで耳に突き刺さった。まるで周囲の音がすべて消えて、彼女の一言だけが無音の中で響いたかのようだった。「辞めるって、誰が…?」そう訊こうとしたが、喉が詰まり、言葉が舌の先で崩れていく。うまく出せないまま、視線だけが勝手に動いた。反射的に、デスクの向こうを見渡す。今里はいつもの席にいた。背筋をまっすぐに伸ばし、モニターに向かって資料を確認している。デスクの上は整っていて、ペン立ての中も乱れはない。隣に置かれたクリアファイルには、きっちりと仕分けされた書類が差し込まれている。どこも、いつもと変わらない。だが、それが逆に不気味だった。こんな日常の中で、本当に“辞める”なんてことがあり得るのか。鶴橋の中に、まず浮かんだのは“否定”だった。いや、違うやろ、という感情が、先にあった。「佳奈さん、それ、誰から聞いたんですか」やっとのことで声に出すと、自分の声がわずかにかすれていた。佳奈は目を伏せたまま、声を落とす。「人事部の子がぽろっと言ってた。今朝、退職届出されたって…封筒に自分で名前書いて、ちゃんとした手続きで」「…そんなん、嘘やろ」鶴橋は思わず口走った。そんなわけがない、と即座に返した自分に、次の瞬間強烈な違和感が押し寄せた。なぜ、こんなに即座に否定したのか。それは、現実を受け入れたくなかっただけだった。今里が辞める。そう聞かされた瞬間、胸の奥で何かが崩れた感触があった。形を持たないはずの何かが、自分の中でしっかりと存在していたことに、ようやく気づかされた。手元のペンを拾いながら、鶴橋はもう一度視線を上げ
朝の空気は、少しひんやりとしていた。外は曇りがちで、窓の向こうに広がる街並みも、どこか色を失ったように見える。始業のチャイムにはまだ少し間があり、オフィスフロアはまだ眠っているような静けさに包まれていた。数人の社員がちらほらと自席につき始め、プリンターの立ち上がる音だけが規則的に響く中、今里の足音はひどく軽かった。管理部の小さな受付窓口。木製のカウンターの上に、今里はそっと一枚の封筒を置いた。手元を見つめたまま、事務担当の若い女性に静かに頭を下げる。彼女がそれを受け取ろうとする指先よりも、今里の指は一瞬早く、まるで何かを断ち切るようにすっと引いた。「お手数ですが、こちらの処理をお願いします」声はいつもの調子と変わらない。けれどその抑揚のなさに、受付の女性はわずかにまばたきをしてから、言葉少なにうなずいた。「かしこまりました」と告げるその声の奥に、どこか戸惑いの色が混じっていたのは、たぶん、目の前の男の静けさが異様だったからだ。封筒の上には、黒いボールペンで書かれた文字がきちんと整列していた。退職願。提出日。所属部署名。いずれも乱れはなく、まるで何度も書き慣れたような筆跡にすら見えた。それを見届けた今里は、一礼をして踵を返す。その後ろ姿に、受付の女性が「おつかれさまでした」と声をかけようとするが、その言葉は声帯を通らずに宙で消えた。なにかを察していた。いや、言ってはいけないような空気が、その背中にあった。フロアに戻るまでの廊下。今里は誰とも目を合わせない。掲示板の前で話し込む若手社員たちの横を通っても、何も耳に入ってこなかった。脳のどこかが、すでに遮断されていた。自席につき、PCの電源を入れる。画面が光を放ち、メールボックスが開く。定型の業務連絡。クライアントからの返信。未処理のチェック項目。そのすべてが、もう自分には関係ないもののように感じられた。だが手は止めない。作業を進めるふりではなく、実際に処理をし、業務をこなしていく。その姿に違和感はない。いや、逆にあまりにも変わらないせいで、周囲はその異質さに気づくことができない。視線はモニターに向けられていたが、どこも見ていなかった。指だけが動き、画面の中の数字や文字を移動させる。頬のライ