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心で応える

作者: 中岡 始
last update 最終更新日: 2025-08-30 12:57:57

小さな公園の一角、ビルの裏手にある古びたベンチにふたりは腰を下ろしていた。日が落ち、空は藍に沈み、街の明かりがぽつぽつと灯り始めている。遠くで車のクラクションが鳴り、それに続くように風が木の葉をかすかに揺らした。空気は昼間の熱を残しながらも、どこか乾いていて、呼吸の音がやけに耳に残る。

沈黙が長く続いていた。言葉が見つからないわけではない。ただ、その一言が持つ重みを互いに知っているからこそ、無闇には切り出せない時間が流れていた。

ベンチの背にわずかにもたれながら、今里が小さく息をついた。その音が夜の空気に溶けた直後、ぽつりと低い声が漏れる。

「ほんまに、ええの?」

視線は前を向いたまま。鶴橋を見ようとはしなかった。だが、その問いがどこから発せられたものか、鶴橋にははっきりとわかった。

「俺とおったら、また振り回されるかもしれへん。あんたの時間、ぐちゃぐちゃにしてしまうかもしれん」

冗談めいた口調だったが、その声には揺れがあった。唇の端だけがわずかに持ち上がっていたが、目元は笑っていなかった。夜の光がその頬に薄く影を落とし、わずかに震える睫毛が、何かを耐えるように瞬いた。

「俺な…今でも、たまに壊れたままやって思うときあるねん。急に呼吸がうまくいかへんようになったり、理由もないのに心がぐらぐらして…せやのに、笑ってる自分が一番気持ち悪くて、余計に疲れるねん」

告白とも懺悔ともつかない声だった。けれど、それは明らかに“本音”だった。鶴橋は、その言葉の奥に、誰にも見せてこなかった今里の心の風景を感じ取っていた。

しばらくの間、風の音だけが流れる。葉擦れが静かに耳を撫で、足元に落ちる街灯の光がふたりの影をぼんやりと伸ばしていた。

鶴橋は、ふっと細く息を吐いてから、まっすぐに前を見据えたまま、言った。

「それでも、ええんです。俺は、今里さんが、壊れたままでも、笑えへん日があっても、それごと…受け止めたいんです」

今里が、ゆっくりと鶴橋のほうを見た。その目は何かを試すように静かで、けれどほんの少しだけ、濡れたような光を含んでいた。

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