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第10話

Author: たぬき
安浩の大きな助けを求める声が、不気味な沈黙に包まれていた空気を切り裂いた。慌てて振り返ると、いつの間にか安浩が湖に落ち、必死にもがきながら「ママ!」と叫んでいた。

思考より先に体が動き、私は息を呑む間もなく湖へ飛び込み、安浩を抱き上げて確かめた。

振り返ったその時、俊成もまた水面で苦しげにもがいていることに気づいた。けれど私の視界には安浩しか映らず、彼が助けを求めて私の名を呼んでいたことさえ気づかなかった。

気づけば晋佑が俊成を救い上げていた。

安浩は怯えきって私の裾を握りしめ、申し訳なさそうに顔を伏せて言った。

「ママ、ごめんね」

そして続けて、小さな声で「ママ、泳ぐのすごく上手なんだね」とつぶやいた。

私は彼の濡れた頬をそっと拭い、優しく微笑んだ。

「大丈夫。あなたはママの子供だから、ママが守るのは当たり前よ。ここを出たら、ママが泳ぎを教えてあげる。いい?」

安浩の瞳が輝き、力強くうなずいた。

「うん!」

一方、俊成は男の傍らに立ち、歯を鳴らしながら震え、私を恨めしそうに見つめていた。

「マ、ママ……どうして僕を助けてくれなかったの」

しゃくりあげながら、途切れ途切れに言葉を絞り出す。

男は私が安浩を落ち着かせる様子を見て、俊成の手を引き寄せ、私の前に連れてきた。

「としちゃんも、あなたが産んだ子供だ。本当に放っておけるのか?」

私は驚き、泣きじゃくる俊成を見つめ、申し訳なさそうに目を伏せた。

「ごめんね。でもあの瞬間、私には安浩しか見えなかったの。あなたには広子やお父さんがいるけれど、安浩には私しかいない。だから、彼を守らなきゃいけなかったの」

そして、冷ややかに男を見据え、はっきりと言い放った。

「私はあなたの言葉を何ひとつ覚えていないし、思い出したくもない。私の子供は安浩だけ。あなたたちのことには興味もない。今はただ安浩と幸せに暮らしたいだけ。だから、どうか私たちを解放して」

男の顔は青ざめ、瞳の光は消え失せていた。彼はただ俯き、沈黙を貫くことで、私が折れるのを待っているように見えた。

その時、広子が一歩前に出て口を開いた。

「旦那様……森永さんを行かせてあげてください。彼女を手放すことこそが、森永さんにできる唯一の償いです」

あの日を境に、男は俊成を連れて家に戻った。

私は安浩と共に、システムから支払われた
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