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第100話

Author: ラクオン
彼はとても忙しかった。

自分に妻がいることすら、忘れるほどに。

梨花は息を整え、ふと振り返って彼を見た。

「どうして分かったの?」

「......勘だよ」

彼女が否定しようともしないのを見て、一真は驚きもしなかった。

だが、胸の奥にずっしりと詰まった石のようなものが呼吸を妨げる。

その違和感が眉間にまで影を落とした。

梨花はうっすらと笑った。

「気づかれないと思ってたのに」

「僕って、そんなにダメな夫だったか?」

「いい夫だったよ」

梨花は微笑みを深める。

「桃子の前では、ね」

夫としては失格。

でも、愛人としてはきっと優秀だった。

彼女は真剣に言ったつもりだったが、それが一真の耳には皮肉にしか響かなかった。

彼は深く息を吐き、胸の痛みをごまかすように声を低くした。

「すぐに桃子には引っ越してもらう。そしたら、あなたを迎えに行くよ」

「また今度ね」

梨花は唇の端を少しだけ上げた。

それ以上、はっきり言葉にはしなかった。

だが、その軽くて柔らかい「また今度ね」のひと言が、一真の心をかえって強く締めつけた。

言いようのない焦燥感に駆られ、彼は思わず彼女の手首を掴んだ。

「どういう意味?戻ってこないつもりなのか?」

本当は、うなずきたかった。

正直に、「うん」と答えたかった。

でも、まだあの離婚届が手元にない今、軽率な言動はできない。

「そんなことないよ。考えすぎ。綾香を待たせてるから。行くね」

そう言って彼女は手を振り払うと、カシミアのコートの前を整え、大きく一歩を踏み出した。

一真は車の中に戻り、しばらくじっと座っていた。

梨花の、あの淡々とした目の奥の冷たさだけが、ずっと脳裏に焼きついて離れなかった。

彼女は、以前のような彼女じゃなかった。不安が胸の奥に広がっている。

かつて感じたことのない感情が静かに彼を蝕んでいく。

けれど、どんなに不安になろうと、ひとつだけ確かなことがあった。

自分が「首を縦に振らない限り」、梨花は永遠に「鈴木家の奥さん」なのだ。

その事実が、彼を唯一安心させる材料だった。

レストランは黒川グループのビルの向かいにあった。

梨花は先にグループ本社の地下駐車場で車を取ってから帰宅した。

玄関で指紋認証をしている時、室内から何か激しい物音が聞こえてきた。

扉を開けた瞬間
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