Masuk梨花は頭を抱えたくなり、彼のズボンの裾を下ろして立ち上がると、淡々と言った。「薬なんて持ってないわ」黒川家に戻らない限り、塗り薬を持ち歩く習慣などない。今や、あの組織が動き出すまでは、篤子でさえ、軽々しく彼女に手を出せないはずだ。竜也は眉をひそめ、殿様のように腕を差し出した。「薬が家にあるなら、俺を家まで送れ」「……」すでに日は暮れている。梨花は社長室を出たら、そのまま帰宅するつもりだった。しかしなんとも奇妙な感覚に襲われた。関係を断ち切ろうとしているはずなのに、なぜか断ち切れず、かえってますます絡み合っていくようだ。彼女が動かないのを見て、竜也はスマホを取り出した。「警察呼ぶぞ?」「……」梨花は歯噛みしながらも折れた。彼の権力は絶大だし、実際に手を出してしまったのは事実だ。警察沙汰になれば、彼女に勝ち目はない。下手をすれば数日は拘束されるだろう。彼女は観念して男の腕を掴み、支えながら階下へ向かった。オフィスを出る際、菜々子がその姿を目にしたが、手助けに来る勇気はなかったようで、「頑張って」という視線だけを送った。ちょうど外出から戻った孝宏と一郎が、地下駐車場に車を停めたところで、梨花が竜也を支えてビルから出てくるのを目にした。「旦那様の足の怪我、悪化したのか?歩くのも辛そうじゃねぇか?」一郎はそう言うなり、シートベルトを外して助けに行こうとした。竜也は昨夜、一真と殴り合った後、一真の捨て台詞に腹を立て、ダイニングテーブルを蹴り飛ばそうとしたのだ。結局、ひっくり返ったのはテーブルの方だったが。その代償に、向こうずねも負傷した。とはいえ、今朝出かける時はそこまで酷くなかったはずだ。事情を察していた孝宏は、一郎をひっつかんで止めた。「余計なことすんな。旦那様はコツを掴んだんだよ」「コツって何の?」孝宏はニヤリと笑った。「同情を引くコツさ」梨花は孝宏たちの車に気づかず、竜也も特定の車を指定しなかったため、そのまま彼を自分の車に乗せた。帰宅する道すがら、彼女はずっと沈黙していたが、助手席の男が遠慮なく彼女を見つめ続けているのを感じていた。夕暮れの光が車窓から差し込み、二人の間には、ここ数日感じられなかった久々の穏やかな空気が流れていた。光と
そうでなければ、今こんな風に好き勝手されてはいなかったはずだ。「会社だから何だ?」男は全身から傍若無人なオーラを放っていた。彼女の唇から離すと、今度は美しい目元に細かく口づけを落としていく。「梨花、一真と復縁なんてしてみろ。会社でキスするだけじゃ済まさないぞ。お前たちの結婚式にも、家にも乗り込んでやる」竜也は怒りのあまり、なりふり構わぬ暴言を吐いた。「一真の目の前で、こうしてキスしてやろうか?」「頭おかしいんじゃないの!?」梨花も怒りが頂点に達し、彼の弁慶の泣き所を思い切り蹴り上げた。「竜也、一体何がしたいのよ!?」「ぐっ……」竜也は彼女が本気で蹴ってくるとは思わず、無防備な状態で直撃を受けた。その問いかけに、竜也は怒りのあまり笑い出した。「俺が何を求めて、何がしたいかだと?見てわからないのか?感じないのか?」俺が求めるものなど、他にあるはずがない。お前が欲しいのだ。他に何がしたいというのか。……その言葉に、梨花の表情が強張った。そうだ。彼の言いたいことは、とっくにわかっていたはずだ。あの日、彼はあれほど明確に伝えていたのだから。彼女の心も揺れ動いていた。もう少しで彼と和解するところだった。けれど今、どうしても自分を納得させることができない。長年、慎重に一人で生きてきた彼女は、感情というあやふやなものを最優先にすることなど、とうの昔にやめてしまった。彼女はかつて、能ある鷹は爪を隠し、忍耐強く振る舞うことが最重要だと知っていた。そして今も、自分が何をすべきかをよく理解している。梨花は彼を見つめ、深く息を吸い込むと、不意にあの質問を投げかけた。「竜也、もし私とお祖母様が同時に川に落ちたら、どっちを助ける?」篤子の世代の女性で泳げる人は少ない。竜也も、祖母が全く泳げない金槌であることをよく知っている。彼は眉をぴくりとさせたが、逃げる様子もなく、即座に答えた。「両手で一人ずつ助ける」大した自信だ。梨花は思わず親指を立てて「すごい」と皮肉ってやりたい衝動を抑え、冷ややかに笑った。「助ければいいわ。お祖母様だけ助けてあげて」そう言うと、彼女は彼の手を振りほどいて立ち去ろうとした。ここに来る前からわかっていた。データの確認なんて、彼の
あくまで人目を忍ぶ契約関係にすぎないのに。彼のその言い方は、まるで梨花が薄情な裏切り者であるかのように聞こえた。頭ごなしに浴びせられた言葉に、梨花は居心地の悪さを感じた。思わず後ずさり、デスクに半ば腰掛けるような体勢になった。しばらくうつむいて沈黙した後、ようやく目の前の男を見上げた。目の前には、何としても納得のいく説明を引き出そうとする男の顔がある。梨花は胸のつかえを逃がすように大きく息を吐き出すと、冷然と言い放った。「竜也。別れを決意した人間に必要なのは、心を鬼にする強さだけよ。それは、あなたが私に教えてくれたことでしょう?」かつて自分が彼に向けた愛と信頼は、今の彼が自分に向けるそれよりもずっと大きかった。それでも、彼はゴミのようにあっさりと彼女を捨てたのだ。お互いに一度ずつ捨て合う。公平な話だ。それに、梨花は自分に非があるとは微塵も思っていない。黒川家が、彼の祖母である篤子が、彼女の両親を死に追いやったのだから。――そうでしょう?その無言の問いかけは、竜也の心臓を鋭くえぐった。彼は瞼を震わせ、さりげなく視線を逸らしたが、机についた手は力が入りすぎて微かに震えていた。再び梨花を見たとき、彼はいつもの傲慢で冷淡な表情に戻っていた。赤くなった目元以外に感情の揺らぎは見えない。声も威圧的である。「そうか。じゃあ、違約金はどう支払うつもりだ?一真と復縁するなら、彼が喜んで肩代わりしてあげるんだろう?」彼はさらに追い詰めた。「今すぐ一真に電話して、金を振り込ませようか」本気で電話をかけようとする彼を見て、梨花は慌ててその手を止めた。「竜也!」「なんだ?」竜也は彼女を見下ろし、皮肉たっぷりに言い放った。「そんなに怖いか?愛しい彼氏に俺との関係がバレるのが」彼女の顔色から血の気が引いていくのを見て、竜也の胸のつかえは一瞬だけ和らいだ。たとえ傷つけ合うことになっても、昨日のような無関心よりはずっとマシだ。彼は冷酷な侵略者のように、一歩一歩彼女を追い詰め、余計な考えを捨てさせようとした。そうして、彼女を無理やりにでも自分の元へ引き戻そうとしているのだ。顔色は真っ白になったが、梨花は負けじと顎を上げ、彼に対抗した。「ええ、死ぬほど怖いよ」挑発された竜也
菜々子は一瞬呆気にとられた。そこまで公私を分けるつもりなのか?竜也の顔色は優れない。「それとも、俺が呼ぼうか?」「……」はいはい、喧嘩中ってわけね。菜々子は気を利かせて部屋を出ると、梨花に電話をかけ、上がってくるように伝えた。電話を切ろうとした時、菜々子は付け加えた。「気をつけて。社長、明らかに機嫌が悪いわよ」「わかった」梨花は頷き、フィードバックデータを手に取って上の階へ向かった。社長室の前に立つと、梨花は音もなく息を吸い込み、ドアをノックした。「入れ」中から、男の低く冷たい声が聞こえた。梨花は少し目を伏せ、ドアを開けて中に入った。デスクの前まで歩み寄り、資料を彼の手元に置くと、静かで涼やかな声で言った。「治験薬のフィードバックデータです。予想よりも良い結果が出ています。もう少し経過観察をして、問題がなければ発売に向けた準備に入れます」彼女は薄化粧で、淡い色のシルクシャツに黒のタイトスカートを合わせている。スカート丈はふくらはぎまであり、仕事モード全開といった装いだが、それは今の彼女の態度そのものだった。小さな顔には余計な感情など一切浮かんでおらず、彼とまともに目を合わせようとさえしない。全身から、もう彼とは無関係だというオーラを発していた。竜也は腹を立て、皮肉を込めた口調で言った。「一真と話す時も、そんなに堅苦しいのか?」「……」梨花は眉をひそめ、無意識に顔を上げて彼を一瞥した。まさか、その一目で呆然とするとは。彼の実力は一真よりずっと上だ。昨夜の喧嘩で怪我をするはずがないのに、どうしてあんなに強く殴られた痕があるのか。完璧な顔に浮かぶ青あざが、やけに目障りだ。梨花は無関心を装うつもりだったが、結局我慢できずに尋ねた。「一真に殴られたの?」「ああ、殴られた」竜也はあっさりと答えた。まるで彼女がそう聞くのを待っていたかのように。「あいつに殴られた俺を差し置いて、まだ復縁するつもりか?」もし同情を引く作戦が使えるなら、それも悪くない。プライドよりも実益だ。言葉の端々から告げ口のような響きが感じられ、梨花は頭が痛くなった。「彼と復縁しようがしまいが、あなたにはもう関係ないわ」契約は無効になったのだから、彼が自分に干渉する筋
その言葉はあまりに酷く、耳障りなほどだった。だが綾香は全く意に介さず、廊下の壁に軽く背を預け、赤い唇を緩やかに綻ばせた。「海人先生が喜んで答えてくれるなら、どんな立場でもいいわよ」つまり、彼がどう思おうと勝手だということだ。海人は冷ややかな目で彼女を見つめ、問いを投げ返した。「どんな立場なら、俺が喜んで答えると思う?」「それなら、元カノってことでいいわ」綾香は気のない様子で笑ったが、その目元は艶やかだ。「どうせ昔から、青海のこと嫌いだったでしょ?」綾香と青海は、世間で言う幼馴染だ。同じ下町で育ち、記憶力が良ければ、互いに裸で走り回っていた子供時代さえ思い出せるほどの間柄だ。小学校から大学まで、ずっと一緒だった。彼女が大学で海人と付き合い始めたばかりの頃、まだ青海にそのことを伝える前に、彼は女子寮の下でラブソングを歌って彼女に告白したのだ。綾香はすぐに断り、二人は友達関係を続けると約束した。だが、海人はそれが許せなかった。彼は常に青海を目の敵にし、綾香が青海と個人的に関わることを禁じてきた。今、彼女がその名を口にしただけで、海人は息が詰まりそうになった。「俺がアイツを嫌いだと知っていて、まだ関わっているのか?」「ねえ、海人」綾香は呆れて笑い出しそうになった。「私たち、とっくに別れてるのよ。もう何年経ったか忘れたの?」もうすぐ六年になる。もし梨花と竜也が仲直りにならなければ、彼らの接点など二度となかったはずだ。海人は氷のように冷たい声で冷笑した。「思い出させてやろうか。お前が青海と怪しい関係になったのは、俺たちが別れてからじゃない……」パシン――綾香は猛然と手を振り上げ、彼の頬を平手打ちした。そして、彼の反応を待つこともなく、怒りに震えながらハイヒールを鳴らし、エレベーターホールへと歩き去った。その一撃に、海人は少し呆気にとられた。叩かれた頬に触れ、怒るどころか、ふっと笑みをこぼした。まだ叩いてくれるのか。それはつまり、まだ気になるという証拠だ。海人は近くにいた同僚に見られたことなど気にも留めず、すぐに後を追った。エレベーターの前で彼女を呼び止めた。「そういえば、なぜ梨花は急に竜也を無視し始めたんだ? 一真と復縁するためか?」彼は親
「……」孝宏は言葉を失った。同情を引くことの何が悪いのか。好きな女性が他の男と逃げるよりはマシだろうに、と心の中で呟いた。彼が口を開く前に、突然竜也のスマホにビデオ通話の着信が入った。竜也は気だるげに眉を寄せ、通話に出た。「真っ昼間から何だ?」海人はちょうど病棟から出てきたところで、片手を白衣のポケットに突っ込んでいた。「お前が怪我したって聞いたから、見舞いだよ」竜也は冷淡な声で返した。「見舞いか、それとも野次馬か?」「……ごほっ」海人はむせたように咳払いをし、画面越しに竜也の顔の傷を見た。「梨花ちゃん、気が気じゃないだろ?」……どいつもこいつも、痛いところばかり突いてくる。昨夜、梨花は彼が一真と喧嘩したことを知っているはずなのに、メッセージ一つ寄越さなかった。今朝、エレベーターホールで待ち伏せしようとしたが、綾香から、彼女は夜明けとともに診療所へ行ったと告げられただけだった。なんて仕事熱心なことだ。竜也は苛立ちを隠さずに言った。「用がないなら切るぞ」海人が親友に追い打ちをかける機会を逃すはずがない。「まだ彼女に無視されてんのか?」「……」竜也が言い返そうとした瞬間、海人は何かを見つけたようで、一方的に通話を切った。三秒後、ボイスメッセージが届いた。【梨花ちゃんの親友を見つけた。待ってろ、俺がこの色気を使って内情を探ってきてやる】竜也は思わず吹き出しそうになった。誰のために色気を使うんだか。そもそも相手がそんなもの求めているかどうかも怪しいのに、よくもまあ恩着せがましく言えるものだ。綾香は少し急いでいるようだった。病棟に入るとエレベーターホールへ直行し、ハイヒールを鳴らして早足で進む。スカートの裾がその動きに合わせて揺れていた。海人は後を追ったが、彼女が乗ったエレベーターには間に合わなかった。幸いここは私立病院で、公立病院ほど患者は多くない。この時間帯なら利用者はさらに少ない。海人はエレベーターが止まった階を確認し、そこへ向かった。ナースステーションの看護師が彼を見て、親しげに声をかけた。「海人先生、外来に戻ったんじゃなかったんですか?忘れ物ですか?」「いや」海人はカウンターに片手を置き、廊下の方に目をやりながら尋ね