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「私が離婚した原因は、二人で話し合うべき事を色々放置してしまった結果なの。永田君も貴女も……お互い言うべきことを言えてなくてまるで私達を見てるみたいで……つい口出ししたくなっちゃった。ね、お願いだから……どうか貴女は間違えないで? でないと私――貴女を私みたいに夫を寝取られた不幸な女にしたくなっちゃう」「えっ」 その言葉に思わず声を上げた美千花に、稀更がどこか悲しそうな笑顔を向けて。 今度は律顕にも聞こえるくらい声のトーンを上げて言い放った。「大丈夫。二人はまだ間に合うから。ちゃんと話し合って、悪い奴らに付け入る隙を与えないで? 自覚してないだろうけど二人とも異性からの人気、高いんだからね?」 まるで自分自身に言い聞かせるみたいに発せられた言葉とその表情に、美千花は勘違いなんかじゃなく、稀更は夫の事が好きなのかも?と思ってしまった。 ニコッと微笑んで「じゃあね」と手を振って去っていく稀更に、律顕が「隙なんか作らねぇし、与えさせるつもりもねぇよ」とつぶやいて。 その、いつもとは少し雰囲気の違う口調と凛とした横顔に、美千花は改めて〝この男の事が好きだ〟と実感させられた。 *** 「すまない、美千花。嫌な思いしなかった?」 稀更の気持ちに勘付いて、我知らずキュッと身体をすくませていた美千花に、律顕がいつも通り表情を和らげて優しく問いかけてから、床頭台の上に持っていた荷物を置いた。 美千花がコクリと頷くのを見てホッとしたように「良かった」とつぶやいてから、 「下着とかよく分からなかったから適当に詰めてきたけど……気に入らなかったらごめん。それと……準備する為に君の引き出しを勝手に開けさせてもらったよ?」 と眉根を寄せる。 確かに下着類を律顕に見られたと思うと少し恥ずかしかった美千花だけれど、夫婦だからそんなの構わないはずだ。 それに、何より今は緊急事態。 なのにわざわざそんな事を気にして謝ってくれる律顕が、普段から如何に自分に配慮してくれ
「一人目の時にはつわりなんて全然なかったから大丈夫だとタカを括ってたら何の事はない。二人目はガラッと体質が変わったみたいにしんどくて参っちゃった」 そこで稀更は美千花を慈愛に満ちた目で見詰めると、 「とにかくニオイに過敏になったのが辛かった」 稀更の言葉に、美千花は「分かります」と実感を込めて頷いた。「永田君が私に美千花さんのつわりの相談をしてきたのもきっと、私が当時しょっちゅう休んでいたのを覚えていたからだと思う」 身近な女性で、聞けそうな相手が稀更しかいなかったから、自分が相談先に選ばれただけだと言外に含めるようにして、「最終的には奥さん本人にどうして欲しいか聞きなさいよ?って言ったんだけどね」と吐息を落とした。「そういえば西園先輩……律顕に何てアドバイスをなさったんですか?」 さっき聞けなかった事を聞くチャンスだと思った美千花だ。 じっと稀更を見つめて真剣な顔をしたら、 「あくまでも私の場合はだよ?って前置きして言ったの。『旦那のニオイが堪らなく嫌だったからそっとしておいて欲しかった。自分から極力離れていて欲しいって思ってた』って」 言ってから、「ごめんね。もっと別の言い方をすれば良かったって反省してる」と稀更が頭を下げてきた。 先程も、稀更から「ごめんなさい」とその事で謝られたのを思い出した美千花だ。 フルフルと首を横に振って、「私と律顕に会話が足りていなかったのが全ての元凶です」と、ずっと心の奥底に引っかかっていた事を告白した。 実際、今稀更が告げた言葉はあながち間違ってはいない。 寧ろ、美千花自身が律顕に対して抱いていた不満とピッタリ合致しているくらいだ。 ただ、問題があるとすれば――。「私からちゃんと言えていたら……つわりが収まるまでの間だから、申し訳ないけどワガママを許してね?って付け加えられていたと思います」 そこがなかったから……きっとこんなにも拗れてしまったんだと思う。 ***
「私が離婚したの、もう知ってるかな?」 小さく吐息を落とすと、タンポポの綿毛に向かって話しかけているみたいな静かな声音で言って、稀更が美千花を見詰めてきた。 まるで知られたくない事を打ち明ける時の内緒話みたいな雰囲気に、一瞬知っていると答えるのはどうだろうと思った美千花だ。 けれど、蝶子から聞かされて知っていた手前、下手に知らないふりをするのもおかしいかな?と考え直して素直に頷く。「そっか。公言してる訳じゃないけどやっぱみんな知ってるよね」 美千花の反応にほぅっと吐息を落とした稀更が、寂しそうに眉根を寄せて微笑んでから続けた。「西園はね、旧姓なの。仕事では面倒だから旧姓のままでいたんだけど……結局今となってはそれで良かったのかなって思ってる」 離婚すると届出をしない限り、姓が変わった側は男女の別なく旧姓に戻るらしい。 稀更の婚姻後の姓は〝野田〟だったのだが、会社では便宜上結婚前と変わらず〝西園〟のままにしていたと稀更が言って。 美千花は、稀更の結婚後の姓が〝西園〟なんだとずっと思っていたから正直驚いてしまった。 稀更の告白に「えっ」と驚きの声を上げたら、「美千花さんが入社した時には私、もう既婚者だったからね。苗字の事なんて気にしないよね」と微笑まれた。 でも考えてみれば美千花が入社した時だって。もっと言えば稀更が第二子出産の為の産休に入った時だって、彼女はずっと変わらず西園だったわけで。 美千花は、どうしてその事に思い至れなかったんだろうと恥ずかしくなった。 恐らく美千花にとって稀更は、単純に〝西園先輩〟以外の何者でもなかったのだ。 それは美千花が稀更を個人として見ようとしていなかった現れな気がして申し訳なく思ってしまう。 今思えばまったくもって馬鹿な話だが、律顕が美千花に告白してくれた時だって、稀更は既に有夫だったわけだ。 だからこそ美千花が稀更との恋人関係を疑った時、律顕は「有り得ない」と一蹴したのだと、今なら実感を伴って思える。
蝶子とランチしたあの日、商店街で彼らを偶然見かけてしまった事は、美千花の心の中だけに仕舞ったはずだった。 律顕にでさえ問えないままに今日まで来てしまったパンドラの箱。 それをいとも簡単にこじ開けて、稀更はその上で「本当に何とも思ってないの?」と再度問いかけてくる。 そんな稀更の言動に、さすがに耐え切れなくなった美千花だ。 「本当は……すっごくすっごく気になってます。……当たり前じゃないですかっ」 もうこれ以上何も聞かせないで欲しい。 律顕との事は二人でちゃんと解決していくから。 両手で耳を塞いで俯いた美千花に、稀更が小さく吐息を落とした。 「だったら……その気持ち、ちゃんと彼に伝えなきゃダメだよ? 何も言わずに我慢ばっかりしてたら、私達みたいになっちゃう」 稀更の声音が、ふわりと和らいだ気がして、美千花は恐る恐る顔を上げて。 すぐそばの稀更と目が合ったと同時、 「ごめんね。入院中なのに意地悪な言い方ばかり。……しんどかったよね、本当にごめんなさい」 言いながら頭を下げてきた彼女に、美千花は心底驚かされた。 「だけど――永田君も貴女もお互い余りにも本音をぶつけ合ってないみたいだったから……凄く気になってしまって」 「……でも」 (例えそうだとしても西園先輩には関係ないよね?) そう思った美千花だ。 そんな不満が顔に出ていたらしい。 「部外者の癖にって思ってるよね? 私も同感」 ――でもごめんね、と付け加えてから稀更が続ける。 「貴女が私たちを喫茶店で見かけたあの日。――実は永田君から『妊
「――永田、美千花さん?」 カーテンの向こうから窺う様に声をかけられて、美千花は目を覚ました。 夢現、ぼんやりとした頭のまま「……はい」と答えてから、少し遅れて(誰だろう?)と思って。 「西園稀更です」 そう名乗られて、一気に覚醒した。 「入っても……?」 稀更の凛とした声音に、寝乱れた格好のままな事に気後れして戸惑った美千花だ。 きっと仕切りの向こう。彼女は記憶の中にある通り、キチッとスーツを着こなして身綺麗にしているに違いない。 でも、律顕が不在の今、稀更に話を聞けるのはチャンスかも知れない、とも思って。 「……どうぞ」 どうせ入院中だ。 少々の事は相手も目を瞑ってくれるだろう。 「すみません、こんな格好で」 伊藤医師から極力寝たきりで過ごす様言われている美千花だ。 別に切迫流産の危機だとかそう言う訳ではないのだけれど、道端で倒れた事を思うと、もう少し体力が回復するまでは彷徨くなと言いたいらしい。 ほんの少しベッドのリクライニングを上げたものの、ほぼ寝そべった状態のまま客を迎え入れた美千花に、稀更は首を振って気にしないで、と意思表示してくれた。 「私こそ急に押しかけてごめんなさい。律、あっ、――美千花さんのご主人から色々聞いてたものだからつい……」 西園稀更は美千花や蝶子が入社した時、総務本部財務部ではなく同じ本部の枝、総務本部総務部受付課に籍を置いていた。 腰まである艶やかな黒髪と、色白の肌、キリッと整った理知的な目鼻立ち、営業で培った話術で他の受付嬢らを束ね、教育係を任されていたのだ
「美千花。食事、ちゃんと摂れてなかったんだね」 律顕に曇った顔で言われて、責められているように感じた美千花は途切れ途切れ、小さな声で「ごめ、なさ……ぃ」と謝った。 だが家で食事をしなくなっていた律顕は、そのせいで美千花がちゃんと食べられていなかった事に気付けなかった自分に腹が立つと言って。 美千花の方は夫のその姿に、その事を律顕に相談出来なかった自分を悔やんだ。 二人の赤ちゃんにも関わる問題なのに、どうして自分は律顕ともっとしっかり向き合おうとしなかったんだろう、と思って。 (避けられている本当の理由を聞くのが怖くて強く出られなかったとか、赤ちゃんには関係なかったのに……) 幸いお腹の中の胎児は問題なく元気にしていると言われたけれど、こんな事を繰り返していたら取り返しがつかなくなってしまうと気付いた美千花だ。 さっき医師に聞いたら、今は十五時半過ぎ辺りらしい。 「律顕、お仕事は……」 夫が会社を休んだ事は知っていた美千花だったけれど、一縷の望みを賭けて聞いてみたのだ。 ここで素直に律顕が休んでいた事を話してくれて、その理由も包み隠さず教えてくれたなら。 「美千花がこんな時に仕事どころじゃないよ。気にしないで?」 なのに律顕は今日休んだ事なんてなかったみたいにそう答えて眉根を寄せた。 (何で嘘なんて……) 気を失っていた時間と、目覚めてから診察等を受けた時間を考慮すると、律顕は美千花がここに運ばれて、本当にすぐ駆け付けてくれたんだと思う。 だけど――。 「蝶子――受、付の奥、田さんから、今日は律、顕、お仕事休ん、だって……聞、いたよ?」 ベッドの中。