LOGIN初めこそ、この壮大な世界に興奮したし、感動もした。
だが、いざ前へ進むとなると、あまりにも広すぎる世界にため息が出てしまう。もう何時間歩いたのかわからない。
白ウサギに呼びかけても返事はないし、何よりも永遠と景色が変わらないので、自分がどこまで進んでいるのかもわからない。
扉ももうとっくに見えなくなってしまっている。流石に疲れた。
帰りたい。ふと帰ることを考えたのだが、そういえば帰り方が全くわからないことに気がついた。
何も考えずにここまで来てしまったが、帰りはどうしたらいいのだろう。確か絵本の不思議の国のアリスでは、何やかんやで夢オチでした、目が覚めたらお姉ちゃんの膝の上でしたって話じゃなかったっけ?
これも夢だとして帰りたくなったら目覚めてしまえばいいのかな?夢ならばと思い、頬をつまんでぐーっと思いっきり引っ張ってみる。
「痛い」
痛みを感じるということはここが夢ではなく、現実だということなのか。
夢ではないのならますます帰り方がわからない。白ウサギを追いかけるよりも帰り方を深く考え始めていた時だった。
「あっれー?人形が動いてる」
どこからか可笑しそうに笑う声が聞こえてきたのだ。
「……?誰かいるの?」
どこから声が聞こえたのかわからず辺りを見渡す。
誰かが居ればそれは大いに助かる。
白ウサギの行方やこの不思議な世界からの帰り方など聞きたいことがたくさんある。「返事をして!!誰かいるの!!?」
なかなか辺りを見渡しても誰も見当たらないので、今度は大きな声で誰かに呼びかけてみる。
するとドスンッと突然上の方から大きな何かが降ってきた。いや、何かではない。
降ってきたのは、ピンクと紫の服を着た派手な見た目の美少年だった。
ふわふわのピンクの髪には紫の猫耳。
「アナタもしかしてチェシャ猫?」
私が知っているチェシャ猫とは随分身なりが違うが、色や猫耳、あと何よりそのニヤニヤしている表情が、いかにも私が知っている不思議の国のアリスのチェシャ猫にそっくりだったので本人に聞いてみた。
ちなみに私の中でのチェシャ猫はそもそもこんな綺麗な美少年ではなくて、ただの色の派手な猫だ。「あれれー?俺のこと知ってんの?喋るお人形さん?」
チェシャ猫が私の言葉を聞き、にんまりと笑う。
「知ってる。あと私は人形じゃない」
そんなチェシャ猫に私は人形ではないことを真剣な表情で伝えた。
先ほど聞こえたチェシャ猫の声も「人形」と、私のことを言っていた。
人形ではないのでしっかり否定しないと。「うっそだー。こんなに小さいのに人形じゃない訳ないじゃん」
「え、ちょ、うわっ!?」
だがしかし、私の言葉はチェシャ猫にあっさり否定されて、更には親指と人差し指で体を掴まれて、持ち上げられてしまった。
「た、高い高い高いっ!」
親指と人差し指だけで持ち上げられてしまった体は、不安定なうえに、今にも下へと落とされそうで、その高さに恐怖心を覚え、どんどん顔から血の気が引いていく。
「あははっ、面白ーい」
怖がる私の姿を見て愉快そうにチェシャ猫が笑った。
なんて性格の悪い猫なんだ!「おっ、降ろしてよ!!それかしっかり私のこと持って!!」
宙ぶらりんの足がぶらぶらと揺れる様を見ながら、チェシャ猫に私は必死で訴える。
だが、その姿が余計に滑稽だったのだろう。「嫌。君は今日から俺の人形だから俺の好きにする」
と、何とも楽しそうに否定された。
その楽しそうな表情は喩えるなら新しいおもちゃを与えられた子どものようだ。
人形じゃないってさっきも言ったのに!!
恨めしくて恨めしくてチェシャ猫を睨みつける。
すると、チェシャ猫の左手に見覚えのあるものが見えた。「ねぇ、チェシャ猫、そのキノコをちょっと見せて?」
チェシャ猫が持っていたものは、おそらく赤と黄色のキノコのようなものだった。
ちらりとしか見えていないが、あれは多分不思議の国のアリスでアリスが元のサイズに戻る為に食べていたキノコだ。「これ?えー、どうしよっかなー?」
私がキノコらしきものをよく見ようとすると、チェシャ猫はさっとそれを自分の後ろに隠した。
ほんっと意地悪な猫!
「見せてくれたら面白いものを見せてあげる!」
だが、チェシャ猫の性格はここまでのやり取りで何となくわかっていた。
意地悪だけど好奇心旺盛で楽しいことがきっと好きなタイプだ。 でなければ、小さな私を見つけて捕まえて、こんなことなんてしないだろう。「面白いことー?それって君をこうやってからかうことよりも面白いことなの?」
「え、ってぎゃあああ!!!!?」
私の言葉を聞いて何故かチェシャ猫は私の体を左右にぶんぶん降り始める。
落ちる!落ちる!落ちる!
「たっ、楽しい!たっ楽しいことだから!ほっ保証するぅぅぅぅ!!」
ぶんぶん振り回されながらも必死で言葉を発し、チェシャ猫を説得する。
するとチェシャ猫は少し考えて、「ふーん。これより面白くなかったらもっと酷いこと……いやいや楽しいことしてあげるから」
と、それはそれは私にとっては怖い笑みを浮かべた。
……恐ろしい。
最悪チェシャ猫がお気に召さなかったら、何としてでもチェシャ猫からは逃げなくては。
恐ろしさを感じながらも、ゴクリと生唾を飲んで、無言で何度もコクコクとチェシャ猫に向かって私はうなずいてみせる。
そんな私を見たチェシャ猫は自分の後ろから楽しそうにキノコを私に見せた。それは間違いなく絵本で見たことのある気がするあのキノコで。
やったー!これで多分元のサイズに戻れる!
「で、これの何が面白いのさ」
「面白いのはこれからなの!そのキノコ私に一口ちょうだい!」
「……?わかった」
何が面白いのか訳が分からない様子のチェシャ猫が、私に言われるままキノコを小さくちぎって私に手渡す。
これで元のサイズに戻れるはずだ。
私はチェシャ猫から受け取ったキノコを口の中に入れた。
するとシューッと、小さくなった時と同様に謎の音を立てながら、私の体はどんどん大きくなり始めた。「え?ええ?」
驚くチェシャ猫を他所に、手のひらサイズから元のサイズへどんどんどんどん私の体は大きくなっていく。
そして元の大きさに戻った私を持ちきれなくなってしまったチェシャ猫は、驚きのあまりバランスを崩し、倒れ、その上に馬乗りになるように私は乗っていた。
「元に戻った!」そんな馬乗り状態よりも、元に戻ったことに感動し、嬉しさのあまり声をあげる。
これで移動が何倍も、いや何千倍も楽!
少し周りを見渡せば、あの小さな扉はたった5メートルくらい先にあった。
やっぱり、小さな体だと全然進めていなかったのだ。「あはははっ、何これ!超面白い!」
私の下でチェシャ猫が楽しそうに笑う。
「君本当に人形じゃなかったんだね、あぁ予想外過ぎて最高に面白かったよ。ねぇ、名前はなんて言うの?」
「ア、アリス!!アリスよ!!」
チェシャ猫に声をかけられて、改めて気づいたのだが、私は今チェシャ猫の体の上。
流石に恥ずかしくなってきたので、すぐにチェシャ猫の上から降りようとしたのだが、チェシャ猫が腰にサッと腕を回してきたので、そこから身動きが取れなくなってしまった。
な、何で!?
「へぇ、アリスって言うんだ。ねぇねぇもっと面白いもの見せてよ?」
楽しそうに私を見つめてチェシャ猫が笑う。
この状況で美少年に腰を抱き寄せられてドキドキしない女子高生なんているのだろうか。
私はうるさすぎる心臓に心の中で「静かになれ!落ち着け!」と何度も何度も叫び続けた。「私はね白ウサギを追ってここへ来たの。チェシャ猫は白ウサギがどこへ行ったか知ってる?」
何とか平静を保ちながらも、今聞きたいことをチェシャ猫に質問する。
「あとそれから元の世界への帰り方も聞きたいんだけど」
質問したいことは山積みだ。
白ウサギはどこ?元の世界への帰り方は?ここは一体どこなの?地球の裏側なの?ブラジルなの?
頭の中で質問を整理するよりも早く疑問が口から出てしまう。「うーん、白ウサギの行方は知らないな。それよりも俺は〝元の世界〟って話の方が興味あるね」
チェシャ猫が私の腰を持ったままスッと上半身を起こす。
至近距離で見つめ合う形になり、改めて私は思った。 なんだこの態勢。「元の世界って言うのは言葉の通り元の世界だよ。私が生きていた世界。ここはブラジルで合ってる?」
かなり長く落ちていたので、ここは日本の裏側、ブラジルなのかもしれない。
そう思ってチェシャ猫を見つめると「ブラジル?」と不思議そうな表情を浮かべていた。そのリアクションはブラジルを全く知らないリアクションだ。
「チェシャ猫はブラジルを知らないの?」
「知らないね。聞いたことも見たこともないよ。それはどのくらい面白いものなの?」
不思議に思って聞き直せば、チェシャ猫も不思議そうに私を見つめる。
私とチェシャ猫の会話は全くと言っていいほど噛み合っていない。「ブラジルは面白いものでも何でもないよ。ブラジルは国だから」
「へぇ。で、国って何?」
「へ?」
1つ説明すれば、また1つ新たな疑問が生まれてしまうことに私は驚き、チェシャ猫をまじまじと見つめる。
国って言葉自体知らないの?
「国は……えっとなんて説明すればいいんだろう……あの簡単に言えば1つの地域といいますか、何というか……」
上手く国の意味を説明する言葉が見つからず、どんどん声が小さくなってしまう。
難しい……。
「よく分からないけどアリスは俺の知らないことを知っているみたいだね、面白いなぁ」
困っている私とは裏腹に興味深そうにチェシャ猫が私を見つめて笑う。
「この世界はとっても狭くて退屈だと俺は思っているんだよね。毎日同じで、いつもなーんにも変わらない。今日が終わったらまた今日が始まるだけ。だからいつも〝ここ〟にはいないアリスを見つけた時、俺、すっごいワクワクしたんだよね」
チェシャ猫がおかしそうに意味の分からないことを私に言う。
何も変わらない?今日が終われば今日が始まる?
明日が来るのではなく? 言葉の綾でそう言っているだけなのか?「全く同じ1日なんてないはずだよ?よく見れば違うんじゃない?小さな私がここにいたように」
「え?おかしなことを言うね、アリス。全く同じ1日なんだよ。アリスが今日ここにいたことがおかしなことなんだよ」
「?いや、確かに私がいたことはおかしなことになるかもだけど、それでも同じなんて…」
「同じだよ?全部ね」
チェシャ猫と私。
互いが互いにおかしなものでも見るような目を向ける。 私たちは根本的に何かが違うらしい。 話が全く噛み合わない。「アリス、知りたいことがあるなら帽子屋の所へ行けばいいよ」
首を傾げ続ける私にチェシャ猫は見かねたように私にそう提案してきた。
「あそこはお茶会の会場だからね。この世界の情報ならあそこが一番集まりやすいし、帽子屋は何より頭がいい。俺は帽子屋が話す話が好きなんだ」
チェシャ猫がニンマリと私に笑う。
「まだまだ一緒に遊んでいたいけど、アリスのこと気に入ったからアリスのやりたいことに協力するよ」
どうやら私はチェシャ猫に気に入られたらしい。
笑顔こそ先ほどの私で遊んでいる時の背筋が凍るような笑顔だったが、言葉はどう考えても私に協力的な言葉だった。「ありがとう、チェシャ猫」
「いいよいいよ。きっと帽子屋ならアリスが知りたいこと、教えてくれるだろうし、白ウサギの行方もわかるかもしれないよ?」
お礼を口にする私にチェシャ猫がやっぱりニンマリ笑う。
「よし、そうと決まれば早速お茶会へ行こう」
チェシャ猫はそう言うと、やっと私の腰から手を離した。
なので、私は急いで、チェシャ猫の上から降り、その場に立った。 そしてチェシャ猫も後を追うようにその場から立ち上がると「俺も一緒に行くから。こっちだよ」と言い、私の手を取って歩き出した。side白ウサギ「私はここに残りたい」裁判後、〝不思議の国のアリス〟の主人公と同じように意識を手放したアリスが次に目覚めた場所は、僕の小さな家だった。そして全てを知ったアリスは僕に力強くそう答えた。「…っ!アリス!」嬉しさのあまり思わず、僕はアリスに飛びつく。あぁ、やっと。やっとだ。ついにアリスを手に入れた!アリスがこの世界に残ることを決めた時、僕は歓喜で震えていた。ーーーやっとアリスがこの世界を選んでくれたから。アリスがこの世界を選ぶまで、僕は何度も何度も同じ時間を繰り返した。アリスは毎回、そして今回も、初めてこの世界で冒険していると思っているが、それはもう何十回と繰り返されてきたことだった。この世界の住人の誰も知らない真実。同じことを何度も何度も繰り返された世界。誰もが昨日と今日が、今日と明日が、同じであったこと、あることを知らない。…まぁ勘の鋭い者は薄々気づいていたかもしれないが。だが、そんなことどうでもいい。全てはアリスに正しい答えである、こちらの世界を選ばせる為に。アリスはいつもあちらの世界を選んだ。何故か帰ることに執着していた。アリスを殺した世界だというのに。いやこれには語弊がある。正しくは殺そうとした世界、だ。アリスは僕に「私はもうあっちでは死んでいるの?」と、自分の生死を尋ねた。僕はそんなアリスに「死んでいる」と答えたが、実はアリスはまだあちらで辛うじて生きていた。きっと体に魂を戻せば息を吹き返すだろう。だがそれがどうしたという?あのまま生きたってアリスはただ死んだように、死を望みながら、生きることしかできなかったはずだ。
帽子屋屋敷を出て、次に向かった場所はもちろん白ウサギが待っている女王様のお城。女王様のお城は帽子屋屋敷の倍広く、最初の頃は1人だとよく迷子になっていたが、ここでの生活も長いので、もう迷子になることはなくなった。今日も歩き慣れた廊下を歩いて、目的の場所へ向かっていると、メイドさんたちに会い、目的の場所へではなく、何室もある内の中で、1番豪華な応接室に案内された。「あぁ!私の可愛いアリス!」そこにはすでにソファに腰掛けている女王様と白ウサギがいた。そして私が部屋に入るなり、女王様は満面の笑みを私に向けた。「こんにちは!女王様!」私もそんな女王様に応えるように笑みを浮かべる。すると女王様はいつもの調子で「相変わらず愛らしい娘ね」とうっとりした顔で私を見た。「アリス、こっちへおいで」「うん」白ウサギに手招きで呼ばれ、私は白ウサギの隣に座る。女王様は机を挟んで、向かい側にゆったりと座っている。「女王様、白ウサギ、お仕事お疲れ様。はい、これ差し入れだよ」席に着くなり、私は手に持っていた袋からクッキーが入っている箱を取り出した。女王様の表情は、私がいるからなのか、とても上機嫌でにこやかだが、目の下には化粧でも隠し切れていない濃い隈があるし、どこか疲れたがある。それに対して白ウサギは飄々としているが。「帽子屋のお茶会のクッキーだよ。味はとっても保証します」「やったぁ!ありがとう、アリス」「さすが、私のアリスだわ。丁度甘いものが食べたかったのよ。そこのメイド、このクッキーに合う紅茶を用意しなさい」私作のクッキーではないのだが、このクッキーがとても美味しいことを、私は知っている。
「アリスー!起きてー!朝だよー!」目覚まし時計の代わりに、白ウサギの声が私に朝を告げる。この世界に留まることを決めて何日、何週間、何ヶ月経ったのかわからない。でも私は随分長いことここで生きた気がする。「まだぁ…あと5分…」「そう言って30分も寝続けてるでしょ!今日は帽子屋のところに行くんだよね?」まだまだ眠たい私は布団に潜って再び寝ようとしたが、それはバサァッ!と勢いよく白ウサギに布団を剥がされたことによって、阻止されてしまった。「うぅー!布団…っ」「はい、起きるー。おはよー」必死に布団を取り返そうとする私をひらりとかわして、白ウサギは私が起き上がらないと取れないような場所に布団を置く。…これはもう起きるしかない。ここは白ウサギと共に暮らしている小さな一軒家。もちろん帽子屋屋敷や女王様のお城みたいに豪華絢爛、超巨大な建物ではない。ごくごく普通の2人で住むには丁度よいサイズの木の家だ。ちなみに私がこの世界に残ることを決めた時に寝ていた部屋もこの家の部屋だった。今ではそこが私の部屋だ。いつもの水色のワンピースに袖を通して、身支度をする。それから白ウサギが用意してくれていた朝食を白ウサギと共に食べ始めた。「そういえば白ウサギは帽子屋の所には行かないの?」「うん。僕もアリスと行きたい気持ちは山々なんだけど、お城での仕事があってね」温かいスープを口にしながら、白ウサギを見つめれば、白ウサギが残念そうな顔をしてこちらを見る。あれからこの世界はいろいろ変わり、白ウサギはこの世界での何と宰相のようなポジションをすることになったらしい。なので、時折こうやって、お城に行かなければならない日があった。「そっか…。残念だね。あ!あとで差し入れ持って行くよ」「本当!忘れないでよ?アリス」2人でクスクス笑い合いながら朝食を食べる。幸せだなぁといつもこういった瞬間にふと感じた。何気ない日常に幸せを感じられる。元に戻る選択をしていれば、得られなかった幸せだ。本当にここへ残る選択をしてよかったと心から思った。*****この森を少し歩けば、帽子屋屋敷に着く。何度も歩いて見慣れてしまった帽子屋屋敷までの道のり。そういえば、この森でチェシャ猫に会ったんだよね。小さな私の上から降りてきた。それがチェシャ猫だった。「アーリス」チェシャ猫との出会
瞼をゆっくりと開ける。まず私の視界に入ったのは、見慣れない天井だった。それから下に感じるのはふわふわのマットレス。それだけで私は知らない部屋のベッドの上で寝ていたことを察した。全部思い出した。私は榊原アリス。この夢のような物語は全て私が望んだことだった。生きることを諦め、自殺した私が。…私は死んだのか。「アリス」目を覚ました私に誰かが優しく声をかけてきた。この声は…「白ウサギ」体を起こして私に声をかけてきた声の主の名前を呼ぶ。ずっと私は白ウサギを探していた。会いたかった。ここへ迷い込む前からずっと。その白ウサギが今、私の目の前にいる。「…っ」気がつくと涙が溢れていた。真実を知ったことによって、白ウサギへの印象が随分変わった。私の願いを叶える為に、白ウサギはどれほど頑張ってくれたのだろう。頑張って頑張ってやっと私に会えた時、私が死にかけていたなんて。だから白ウサギはたまに泣きそうな、悲しそうな顔をしていたのだ。「泣かないで、アリス。笑って」泣き始めた私に対して、白ウサギは泣きじゃくる子どもをあやすように、優しくそう言って笑った。白ウサギの細く長い指が、私の涙を丁寧に拭う。「し、白ウサギ、ごめんね」「どうして謝るの」「だって、私は白ウサギが頑張っていたのに死のうとした…」「だから何?」止まらない涙を拭いながらも、謝る私に白ウサギが今度はおかしそうに笑う。「あんな形でしかアリスは救われなかった。ただそれだけだよ。肉体が死んでしまっても、魂さえ生きていれば魔法でどうにでもなるし。僕の方こそ遅くなってごめんね」そして最後はまたあの悲しそうな笑顔を浮かべて、私をまっすぐ見つめた。「ねぇ、白ウサギ」私の涙も落ち着いてきたところで、白ウサギの名前を再び呼ぶ。「何?」「ここはアナタが魔法で私の為に作り出した世界なんだよね?」「そうだよ」「世界が同じ1日を繰り返すのも、同じことしかできない登場人物たちも全て?」「そう」 私の質問に白ウサギがにこやかに淡々と答えていく。「アリスの望みは〝不思議の国のアリスのように冒険したい〟でしょ?だから毎日この世界はアリスの為に〝不思議の国のアリス〟の物語として動いているんだよ」「その登場人物たちには、私や白ウサギみたいに意思はあるの?」「もちろん。彼らは知らず知らずのうち
私の名前は榊原アリス。日本有数の由緒ある一族、榊原家の娘、だった。家族は姉が2人と兄が2人。それから両親がいて大きなお屋敷には祖父母や使用人、たくさんの人がいた。あぁ、だけどそうだった。あそこにはたくさんの人がいたけれど、私の味方なんて誰一人いなかった。あそこには私の居場所などなかった。いや、あそこだけではない。世界中どこを探しても、そんな場所はなかった。何故なら私の髪が生まれつき色を持たず、日本人でありながら真っ白な髪だったから。血筋や伝統を重んじる榊原家において、私はただただ異質なものでしかなかった。「お前なんて産まなければよかった。お前は榊原の恥よ」物心ついた頃からそう実の母親に言われて生きてきた。榊原の恥と言われ、なるべく表舞台に私が立たないように幼少期からずっと家に閉じ込められて。幼い私の世界はあの家が全てだった。そして、その全てである家の中で、私はいつも孤独だった。「嫌っ!痛いっ!」グイッと白く長い私の髪を掴まれて、私は悲鳴にも聞き取れる声を上げる。「うるせぇな」「気持ち悪いんだよ」「化け物」私を囲って歪んだ笑みを浮かべる兄弟たち。彼らは毎日私を虐めた。「はっ離して!」頭皮と髪の境目が引き裂かれそうだ。だが、どんなに痛くても実際には、なかなか引き剥がされることはなく、髪と一緒に体が上へと持ち上げられていく。「気持ちが悪い」「何でそんな色なの?」「普通じゃない」「化け物」「近寄るな」「こっち見んな」「お前なんて生まれて来なければよかったのに」私に悪意を向けるのは決して兄弟たちだけではない。両親や祖父母、私の家族と呼べる存在は、全員私を見るたびに私に悪意をぶつけてきた。終わらない言葉の暴力。心も体も痛くて痛くて。抵抗しようともがいても、私にはなんの力もない。幼い私はただただその暴力を無力にも全て受けることしかできなかった。…だが、しかし。12歳の春。あの春だけは私は1人ではなかった。「白ウサギ!」私と同じ真っ白な子ウサギ。私はその子ウサギに大好きだった絵本、〝不思議の国のアリス〟から白ウサギの名前をもらい、〝白ウサギ〟と名付けた。この子ウサギの白ウサギは、榊原家の敷地内で弱っていた所を、たまたま私が見つけて、誰にも内緒で保護した子だった。そして私の部屋でこっそり飼っていた。白ウサギは名
ギィィィィッと、重みのある低音と共にゆっくりと扉が開かれる。「うわぁ…」扉の向こうに広がっていた世界は、絵本そのものの裁判会場で、思わずこんな時だが、感嘆の声が漏れてしまった。赤と白と黒のみで統一されたおかしな空間。罪人席には、帽子屋、チェシャ猫、ヤマネの姿があり、裁判長席には大きな座り心地の良さそうな椅子に腰掛けた女王様の姿がある。「…連れて来たぞ」「…」私たちがいるのは、そのちょうど中間あたりで、三月ウサギは裁判会場に入るなり、最悪の機嫌で女王様に声をかけた。だが、女王様は微笑むだけで返事を一切しない。無視だ。さらに目も笑っていない。「アリスよく来たわね、こちらへいらっしゃい」相変わらず目の笑っていない女王様が、私にそう優しく声をかけ、手招きをする。「…っ」なんて恐ろしい笑顔なのだろう。あまりにも美しく、そして他者の心を恐怖心で支配する女王様の笑みを見て、私は思わずその場で硬直してしまった。「あら?どうしたのかしら?早くいらっしゃい、私の可愛いアリス」そんな私を見てクスクスと少女のように女王様が笑う。いつまでもこうしている訳にはいかない。私の目的は帽子屋たちを助けることなのだから。私は意を決して、女王様の元へ一歩、また一歩と歩みを進めた。そして、やっとの思いで女王様の元へ辿りつくと、女王様はそんな私を見て満足げに微笑んだ。「アナタを待っていたのよ、アリス」「…」私はそんな女王様を恐れることなく、まっすぐ見つめた。恐ろしく、何よりも美しい、この女王様から、何度も言うが、私は帽子屋たちを助けなければならないのだ。今は怯んでいる場合ではないのだ、と自分を鼓舞する。「挑発的な眼差し、嫌いじゃないわ」何も言わず、ただ女王様を見つめ続けるだけの私に愉快そうに女王様はその瞳を細める。「さて、それでは裁判を始めましょうか」それから女王様は私から名残惜しそうに視線を逸らすと、裁判会場全体に目を向け、会場にそのよく通る声を響かせた。ーーーーついに裁判が始まるのだ。まず最初に口を開いたのは、女王様と帽子屋たちの間に立っていた、身なりの整った中年男性だった。「帽子屋、チェシャ猫、眠りネズミ、三月ウサギ。彼らの罪状は反逆罪でございます。先日のクロッケー大会の時、彼らはあろうことか我らが崇拝すべき絶対の存在であられる女王様に







