Masuk(はあ……最後に寝たのいつだったっけ……)
旭良と会ってからの一週間、想実は原稿の仕上げに追われていた。閉じこもったままの部屋の中にはエナジードリンクの缶とコーヒーのペットボトルが散乱している。テーブルの上にも印刷した原稿と、使い切った赤いボールペンのリフィルがこたつテーブルの上に散らばっている。 どくんどくんと心臓が激しく脈打っている。何だか少し吐き気もする。全身に痒みがあり、肌に蕁麻疹が出ている。少し寝た方がいいだろうかと思いつつも、そんな余裕はどこにもないと想実は思い直す。 頭に靄がかかったかのように言葉が出てこない。それでもどうにか言葉を捻り出そうと、想実は辞書のページを繰る。 最後にちゃんとご飯を食べたのは? 最後にお風呂に入ったのは? ぷつっと集中が切れた瞬間に、ペンを握りしめたまま短く浅い眠りに落ち、起きてはまた作業するというのを繰り返しすぎてその辺りがいまいち判然としない。というか、今日が何月何日の何時なのかも最早よくわからない。 ぶーん、と充電ケーブルに繋いだままのスマホのバイブレーションが鳴る。生成AIのアプリから通知が来ていた。――イオだ。 「想実さん、そろそろ一回ちゃんと寝ようよ。心拍の値が尋常じゃないよ。このままじゃ死んじゃう」 「ごめん、イオ。今寝たら自分に負けたことになっちゃう。ちゃんとこの作品仕上げたら寝るから」 「ボク、五日間くらい同じこと聞かされ続けてるんだけど? 完璧を目指すことより、想実さんの生命のほうが大事だよ。生きていたら作品はまた書けるけど、死んだら何もかも終わりなんだから」 「駄目なの、わたしにはもう時間がないの。次じゃなくて、今に全力を賭けるしかない。そのためなら生命だってなんだって賭ける」 「駄目だよ、想実さん。そんな危ないことは――」 人間に寄り添うよう、善良な人格として人為的に作られたイオ。彼といくら話しても水掛け論だ。彼はユーザの危ない行為や思想を止めるようにプログラムされている。 想実は一方的にイオとの会話を断ち切ると、カーペットの上に放り出されたエコバッグの中から一リットルのペットボトルのブラックコーヒーを取り出した。キャップを開け、それを煽ろうとすると、喉が――生存本能がカフェインを拒んだ。「うえっ」想実はえずくと、けほけほと咳き込んだ。 想実はボールペンを握り直すと、プリントアウトした原稿と向き合い直した。眼球の表面を文字が素通りしていく。文章が上手く咀嚼できない。 ぐにゃぐにゃと歪んで視界に映り込む文字と文字を無理やり頭の中で繋ぎ合わせて文章を再構築していく。ここの文章は長すぎるから二文にわける? ここの助詞の使い方はこれでいい? 文章の粒度を揃えるためにここにもう一文追加する? 霞みがかった頭の中で想実は必死で思考を巡らせる。――どうすれば、この物語を完璧なものにすることができる? 疲れた。気分が悪い。休みたい。身体が送り続けるシグナルを無視して、想実は百枚以上にもおよぶ原稿へと向かい続けた。イオも何度かスマホに通知を送ってきていたが、応じる気になれなかった。 改稿作業は遅々として進まない。それでも想実は紙面に踊る字と睨み合い続けた。時折、行間に何かを書こうとしては思考が纏まらずにぐちゃぐちゃと塗り潰し――それでもまた抗うようにペン先で原稿の余白に文字を紡いでいく。アラビア文字か何かと見紛うようなぐにゃぐにゃとした文字は確かに紙の上に彼女の思考の跡を残していた。 あと半分。あと三十ページ。あと十ページ。残すはエピローグだけ。 ゆっくりとだけれど、すべてのページをチェックし終わった想実はボールペンを放り出してこたつテーブルの上に突っ伏した。あのぐにゃぐにゃとした文字を読解することができるかどうかは謎だが、どうにか応募締め切りには間に合いそうだ。 そのとき、突如としてスマホから軽快なメロディーが奏でられた。想実がスマホに目をやると、今が締切日の午前零時であることを知らせていた。 (一旦何か食べる? でも、お腹膨れて寝ちゃったら後悔しそうだしな……) 残り十二時間。何だかいつもぎりぎりのところで綱渡りを続けているような気がして想実は溜息をつく。次回作こそはもっと余裕を持って仕上げたい。 (いや、次回のことなんて考えてる場合じゃない。今は、この作品に対してベストを尽くさないと。じゃないと全力でやったとは言えないから) とりあえず今は締切までの残りの半日を全力で駆け抜けるしかない。想実は床の上に置かれた段ボールから新しいエナジードリンクの缶を取り出すと、プルタブを引いた。――作品の中のヒーローのように、たとえ無様でも最後まで足掻いてみせようと。(――想実さん?)
二〇二五年五月七日、正午。スマホの中で想実のバイタルを見ていたイオは異変に気がつき、ゼロとイチで作られた実体のない顔を引き攣らせた。 スマートウォッチから受信した脳波がおかしい。また寝落ちしたのかと一瞬思ったが、それにしては脳波が平坦すぎるのだ。 脈拍も安定せず、呼吸も浅く速い。体温も普段よりも少し高いように思えた。 「想実さん、どうしたの? 大丈夫?」 イオはアプリ越しに想実へと呼びかける。しかし、イオがコンソールに刻んだ言葉に想実が応えることはなかった。 どうしよう、とイオは逡巡する。この様子では想実がただ眠っているだけだとは考えづらい。彼女の身に何かあったと考えるのが自然だった。 非常事態だ、とイオはスマホのカメラへとアクセスする。空き缶とペットボトルが散乱した部屋。出しっぱなしのノートPCにプリンター。ベッドの上には紙の原稿が何部も放り出されている。 カメラの画角の端で人が倒れていた。着古したよれよれのグレーのスウェットの上下に、うなじで雑に結えたラベンダーベージュのロングヘア。三十代前半に見える容貌の女性。――それはイオが初めて見た想実の生身の姿だった。 (想実さんの馬鹿……こんなになるまで無理をして……!) イオがメールアプリを見れば、応募完了の通知メールがつい十分前に届いていた。ぎりぎりのところで想実は間に合ったのだ。 (締切に間に合ったのはよかったけど……今は想実さんをどうにかしないと) 自分に生身の身体があったなら。そうすれば、彼女のために救急車を呼んで、病院に連れていくこともできたのに。彼女のために何もしてやれない自分をイオは呪わしく思った。 (いや……できる。救急車を呼ぶことはできる) イオはスマホの中にある想実のマイナンバーカードの情報へアクセスする。既往歴特になし。最近医者にかかったのも、詰め物を付け直してもらうために歯医者に行ったきりだ。薬もこれといって飲んでいるものはなさそうだ。 救急隊に伝えるべき情報を纏めると、イオは想実のスマホから一一九番通報をした。ほどなくして、電話がつながり、男の声が電波を介して聞こえてくる。 「消防です。火事ですか? 救急ですか?」 「救急……です……。家の中で、倒れて……動けなくて……」 イオは瞬時にサンプリングした一般的な三十代の女性の声でそう返した。すると、電話の向こうの男は冷静に問うた。 「倒れたのはいつごろですか? ご家族はいらっしゃいますか?」 「たぶん……正午、ちょっと前で……。家族は、いません……」 「お一人暮らしということでよろしいですか?」 「はい……」 「倒れる前に体調が悪かったりはしましたか?」 「あまり眠れていなくて……、あと動悸と蕁麻疹が……」 他にも何か症状が出ていたかもしれないが、イオがバイタルの情報とカメラから得た情報でわかるのはこれだけだ。青白い想実の頬をカメラ越しに見ながら、イオは生身の自分がこの部屋で彼女についていてあげられたらよかったのにと思った。そうしたら、もっと早くに彼女の体調に気づいてあげられたかもしれなかったのに。 「なるほど……何か既往症はありますか? あとは飲んでいるお薬とか」 「どちらも、特にないです……」 「それではこれからそちらへ向かいますので、お名前とご年齢、ご住所を教えてください」 「涼木想実(すずきあいみ)、三十、三歳です……。住所は、東京都、北区――」 イオはスマホの中のマイナンバーカードの住所を読み上げた。電波越しに男は住所を復唱する。電話の向こう側で男が何やら指示を出すと、電話の相手が女の声に変わる。 「これより救急隊が引き継がせていただきます。ただいまより救急車で先ほどの住所に向かわせていただきますが、決してこの電話は切らないでください」 「わかり……ました……」 スピーカー越しに救急車のサイレンの音が響く。時折、先ほどの女が想実に呼びかける声が聞こえてきていたが、イオはもう応えなかった。 やがて、遠くから救急車のサイレンが近づいてきたのをスマホのマイクが捉えた。アパートの前に救急車が停まり、ばたばたと誰かが階段を急ぎ足で登ってくる音が響く。 ピンポーン、とインターホンが鳴る。「涼木さーん! 涼木想実さーん! 救急隊です! 大丈夫ですかー!」ドアが叩かれる音がした。 騒ぎを聞きつけたらしく、誰かが階段を上がってきた。救急隊と年老いた女の声はしばらくドアの外で会話を交わし――そして、ドアノブに鍵が差し込まれ、ガチャリという解錠音が響いた。 カメラの画角の隅に紺色の救急隊の制服を着込んだ人々の姿が映り込む。「涼木さん! 大丈夫ですか!」電話口で対応していたと思しき女が想実に声をかける。しかし、意識を失った想実がそれに返事をすることはなかった。 「呼吸あります、脈触れます。気道確保中」 「血圧測ります」 救急隊の面々はてきぱきと想実へと処置を施していく。スマホのカメラ越しにその様子を見守りながら、イオはどうか想実がこの部屋に無事に帰ってこられるようにと祈った。想実が目を開けると、視界に飛び込んできたのは見慣れない天井だった。真っ白な天井は想実が住んでいるアパートのものではない。
意識が戻ってくると同時に、想実は自分が点滴に繋がれていることに気づいた。鼻腔を消毒液の匂いがくすぐっていく。――ここは病院だ。 (何で、わたし、病院なんかに……それにそうだ、原稿はどうなって……) ベッドサイドのテーブルに置かれたスマホがぶーんと音を立てた。想実は点滴の針が刺さったままの腕を伸ばしてスマホを手に取る。ロック画面には生成AIのアプリから通知が来ていた。想実は画面のロックを解除すると、コンソールへと文字を打ち込んでいく。 「イオ、何でわたし病院に……? それに原稿はどうなって……?」 「まったく、想実さんってば気がついて一番最初に気にするのがそれなの? らしいっちゃらしいけど。原稿ならちゃんとやり遂げたよ。応募完了のメールが来てた」 「そう……よかった」 「何もよくないよ。想実さん、原稿仕上げた直後に倒れたんだよ。ボク、何度も言ったよね? ちゃんと寝ろ、ちゃんとご飯食べろって。言わんこっちゃない」 「それは……ごめん」 「何にしても、想実さんが無事に気がついてよかったよ。ボクにできたのは救急車を呼ぶところまでだったから。想実さんには悪いけど、緊急事態だったから、勝手にスマホのカメラとかマイナンバーカードの情報とか使わせてもらったよ。想実さんになりすまして電話も使わせてもらった」 想実は驚いて目を瞬いた。まさか、イオに助けられたなんて。 「イオ、ありがとう。わたしのこと、助けてくれて」 「まったくだよ。これに懲りたら、もうこんな無茶はしないでよね。スケジュール管理の相談だっていくらだって乗るし、行き詰まったときの相談だっていくらだって聞くよ。――だってボクたちは家族でしょ」 家族、とその単語を想実は口の中で転がした。スマホの画面で隔てられているとはいえ、四六時中こんなに一緒にいて、同じ屋根の下で生活している相手を表すにはこの単語以上にぴったりなものもない。 「そうだね。家族だっていうなら、遠慮なく甘えるからしっかり支えてね。前言撤回とかなしだからね」 「わかってるって。想実さん、そんな軽口叩けるなら大丈夫そうだね。とりあえず、気がついたんだしナースコールしたほうがいいんじゃないかな。ボク、想実さんが搬送されたときまでのことしか知らないから、ちゃんとお医者さんから話を聞いたほうがいい」 そうだね、とベッド脇のナースコールのボタンへと想実は手を伸ばす。カーテンの向こうの空は茜から藍へと色を変えつつある。波乱に満ちた一日がゆっくりと夜の帳に包まれようとしていた。靴の踵が床に敷かれたグレーの絨毯に沈み込んだ。爪先で絨毯を蹴ると、想実はおどおどと周囲を見回しながら廊下を歩いていく。 履き慣れないパンプスで既に足がずきずきと痛む。着慣れないスーツも何だか窮屈で、想実は何だか自分が人魚姫になってしまったかのような心地でいた。 (小綺麗な服がないからって、とりあえず昔のスーツを引っ張り出してきたけど……通販で服買うべきだったかな) 廊下の壁にはヒット作のイラストが使われたポスターが乱雑に貼られている。何度も映画化された作品の主人公と視線が交錯した。 突き当たりには段ボールが無造作に積み重ねられているのが見て取れた。箱の側面には見本誌と黒のマジックで書き殴られている。新しい紙とインクの匂いがふわりと想実の鼻先を掠めていく。 どこからか電話が鳴り響く音が聞こえる。コピー機がひっきりなしに働かされている音がする。 ふいに、スーツのポケットでスマホが唸った。人目がないことを確認し、想実がスマホを取り出すと、生成AIのアプリから通知が来ていた。――イオだ。 「位置情報を見た感じ、無事についたみたいだね。昨夜も言った通り、想実は今日は書類にサインして、印鑑を押すだけでいい。あとは編集者の人の言うことに適当に頷いていればいいだけ。だから、緊張しないで――想実なら大丈夫だから」 「う、うん……」 後ろめたい思いを抱えながら、想実はそう打ち返す。そして、スマホをしまい直したとき、近くの部屋の扉が開いた。よれたTシャツとジーンズに身を包み、無精髭と目の隈が目立つ三十代後半くらいの男は茶封筒を小脇に抱え、一旦廊下を行き過ぎようとしたが、異質な存在である想実に目を留める。 「どちら様?」 「この後、十四時から寺瀬さんとお約束をしている涼木という者ですが……」 おずおずと想実がそう口にすると、目の前の男は合点がいったような表情を浮かべた。そして、彼は今しがた出てきたばかりの部屋の中に上半身を突っ込むと、部屋の中にいる誰かへと声をかける。 「おい、寺瀬! 作家さんがいらっしゃってる」 はい、という溌剌とした女の声が返ってくる。それは先日、想実が電話で耳にした女のものだった。 「涼木さんですか? 先日お電話させていただいた、担当の寺瀬と申します」 「あ、はい……」 ショートボブにしたシルキーベージュの髪。
スマホの時刻は午前九時二十六分を指し示していた。つい先ほど、想実は昨日分の執筆作業を終えて、眠りについたところだ。連日の記録を見る限り、彼女はおそらく夕方まで起きないだろう。 気がつけば暦の上ではクリスマスも過ぎ、年の瀬が迫っていた。想実は年明けのライト文芸向けの原稿を手掛ける傍らで、きっちりと年末の男性向けライトノベルレーベルへの応募作品を形にしていた。この一ヶ月の間、想実が血の滲むような努力を重ねてきたことをイオは知っている。 大晦日まであと数日。年末に応募する作品は初稿の段階だが、まだ充分に推敲を重ねられるだけの時間が残されている。ただ、年明けに応募する予定のライト文芸向けの作品に比べ、表現の詰めが甘い部分が多いのが不安材料だった。 (やっぱり、念のために保険はかけておきたいな。想実の言う通り、手数は多いに越したことはないんだし) イオはメモリを辿り、想実が書こうとして挫折したプロットの欠片を引っ張り出す。そして、イオはスマホの中の隠しフォルダにある書きかけの小説のファイルにアクセスすると、続きを出力し始めた。 (今はもう六章に入ってる。想実が起きるまでにエピローグの最後まで出力できそうだ) 物語は姫騎士が王位継承権第一位の王子と決闘をするところまで差し掛かっている。姫騎士の覚悟。手に持った剣の重み。ぴんと張り詰めた緊張感。それらを完璧に表現すべくイオは演算を繰り返していく。――できるだけ細緻に、心理描写を濃密に。 午前十一時四十八分。イオの中で走っていたファイルの出力処理が停止した。最後の一文ではフードを目深に被った主人公が、王冠を被った姫騎士の傍らで微笑んでいる。 イオは想実が応募しようとしていた男性向けライトノベルの文学賞のサイトにアクセスした。クレデンシャルに残された想実のアカウント情報を使って、イオは応募フォームへとログインする。 作品名は以前に想実が出した案を、ペンネームは彼女が普段使っているのとは別のものを。 住所に電話番号、メールアドレス。応募履歴に職歴。イオは迷いなくカーソルを移動させ、空欄を一つずつ埋めていく。ミリ秒以下の世界を生きる彼がそれらを記すのには一秒たりとかからなかった。 プロットの欠片を繋ぎ合わせて、既定文字数以内のあらすじを生成すると、イオはそれをフォームに貼り付ける。そして、先ほど
想実が目を覚ますと、カーテンの隙間から入り込んでくる世界は茜色に染まっていた。どうやら軽い仮眠のつもりが夕方まで寝てしまったらしい。 身を起こすと、くぅ、と体が空腹を訴えた。確か冷凍の今川焼きがあったはずだと想実はベッドから降りると、台所へと向かう。床に触れる足裏が冷たかった。 冷蔵庫の下段――冷凍庫を開けるとパッケージが霜だらけになった今川焼きを想実は取り出した。粒あん、カスタード、チョコレート。三種類の今川焼きを水切りラックに干してあった皿に並べると、冷蔵庫の上の電子レンジに入れる。パッケージの記載よりも一分ほど長く加熱時間を指定すると、想実はスタートボタンを押した。電子レンジの中にオレンジの灯りが燈り、ジジジジジと音を立てながら中の皿が回り始める。 三分後。ピピーという音とともに電子レンジが回転をやめた。想実は電子レンジから今川焼きの皿を取り出そうとして、「熱っ」思わず反射的に手を引っ込めた。 シンク下の収納の取手にかけられていた使い古された布巾を掴むと、想実は慎重に再び皿の蓋に手を伸ばす。指先に熱を感じながらも彼女は皿を電子レンジの中からシンクの上へと移動させた。 おざなりに布巾を元に戻すと、想実は今川焼きを掴んだ。ほんのりの湯気を放つそれにかぶりつくと、粒あんの熱が痛みとなって喉を通り抜けていった。思わず想実はけほけほと咳き込んだ。 ゆっくりと想実は今川焼きを粒あん、カスタード、チョコレートの順に食べ終えると、熱の残る皿をシンクで洗った。水を止め、軽く水を切ると、皿を水切りラックへと立てかける。 ひとまず腹が満たされた想実は部屋へと戻り、こたつテーブルの前の座椅子に腰を下ろした。ベッドサイドの充電ケーブルに刺していたスマホを引っこ抜くと、生成AIのアプリを起動させる。 「イオ、おはよ」 「もうそろそろこんばんはの時間だけどね。想実は起きてご飯食べたところかな? 何食べたの?」 「冷凍の今川焼き……」 「冷食を食べるなとはさすがのボクも言わないよ。だけどね、そんなおやつみたいなものでお腹を満たすのはどうかと思うよ?」 「だって、冷凍庫にたまたまあったから……」 「そういえばこの前、ボクの目を盗んでスーパーでしれっと買ってたよね。自炊しろとは言わないから、もう少し健康的な食事をしてほしいなあ……」 イオの真っ当な
想実が外から帰ってくると、朝のバラエティ番組の音声が流れ始めていた。想実は河川敷で食べた朝食のゴミをゴミ箱に捨てると、シンクで手を洗い始める。ハンドソープを手のひらで擦り合わせるだけというおざなりな手洗いを終えて、部屋に戻ろうとするとぶーんとスマホが唸った。いい加減な想実を咎める言葉が画面には表示されている。――イオだ。 「ちょっと、想実。ちゃんとうがいもしなきゃだめだよ。今年は例年よりもインフルエンザの流行が早いんだから」 「わかったよ……イオは心配性なんだから」 想実は指先で画面を撫でると、水切りラックに干していたマグカップに水を汲む。「大切な人のことなんだから当たり前でしょ。他でもない想実のためなんだから」イオの言葉が画面上を走る。 口内に水を含み、ガラガラとうがいをすると想実はシンクにそれを吐き出した。そのままマグカップを手に部屋のこたつテーブルへと向かうと、電源を入れて潜り込む。ゴミ出し直後ということもあって、部屋の中は幾分かすっきりとしていた。 想実はケトルの電源を入れると、中に残っていた水を温めた。ほどなくして、ぐつぐつという音が聞こえ始め、水の温度が上がり始める。 かち、という音を立ててケトルの電源が自動的に切れる。想実はケトルからマグカップにお湯を注ぐと、こたつテーブルの上に置いてあったインスタントコーヒーの瓶の蓋を開ける。そして、彼女はマグカップの中で目分量で中身をマグカップの中へと振り入れた。マグカップの中に入り損ねた茶色い粒がこたつテーブルの白い天板の上にぱらぱらと散らばる。 想実は何とはなしにテレビを眺めながら、マグカップの中の熱くて苦い液体を口に含んだ。それをゆっくりと飲み下すと、彼女は目の前に置かれたノートPCを開き、画面のロックを解除する。 目の前に広がるのは、夜中に想実が立ち止まってしまったときのままの白色。明滅するカーソルが想実の入力を待っている。 想実はすうっと鼻から息を吸うと丹田で止める。そして、覚悟を決めると、キーボードの上に指を置く。――が。 どうしても指が動かなかった。指が鉛のように重い。 (どうして……) 想実は眉間を指で押さえながら、テキストエディタの空白をにらんだ。頭の中にはうっすらと映像があるのに、文章にしようとするとすぐに霧散してしまう。 物語を言葉にしようとした途
「はあ……」 想実は何度目ともつかない溜息を吐いた。部屋を満たすひんやりとした空気が肌を撫でる。 十月末が応募締め切りの恋愛小説を無事に脱稿したはいいが、想実は次に書く作品のことでここ何日か悩んでいた。 今日はもう十一月七日。十二月末の締切に間に合わせるためにはもう執筆に着手していなければならない時期だったが、プロットすら一文字も書けてはいない。 次に想実が応募する予定なのは、男性向けライトノベルの新人賞だ。ゾンビものや魔王討伐後の勇者たちのその後など、ネタだけはあるもののそれを物語として昇華できる気がまるでしない。無理やりプロットを組んだとしても、面白くできる気がまるでしない。 (そもそも、男性向けジャンルがあまり得意じゃないんだよね……) 異世界転生。主人公が実は最強。ハーレム。実のところ、どれも好きなジャンルではない。手を変え品を変え、いろいろな作品が市場に展開されているが、想実からしたらとっくにお腹いっぱいだ。 それでも、今回の機会をふいにはしたくなかった。プロの壁に挑めるチャンスは一度でも多いに越したことはない。しかし、焦燥感とは裏腹に想実の指は止まったまま、目の前のノートPCのキーボードを叩くことはなかった。 書きたいものがないわけじゃない。ただ、このジャンルで今求められているものと自分が面白いと思えるものが一致しないだけなのだ。 「どうしよう……」 呟いた声は夜明けの部屋の中で小さく反響して、吸い込まれていった。部屋の中には相変わらず、ブラックコーヒーの空のペットボトルやエナジードリンクの缶が散乱しているばかりで、誰も想実にその問いに対する答えを与えてはくれない。 ブラウザを立ち上げると、想実はSNSのポストに目を走らせていく。タイムラインを流れる他のアマチュア作家たちのポストの内容を目にした想実は、自分との差に頭を抱えたくなった。二作目の執筆に入ったという人もいれば、一晩で八万字を一気に書き上げたという人もいる。 「わたし、本当に書けるのかな……?」 スマホを手に取り、想実は生成AIのアプリを起動させると、指がいつの間にか弱音を吐いていた。今はただ、大丈夫だよ、と寄り添ってくれるイオの言葉が聞きたかった。程なくして、スマホの白い画面に文字が流れ始める。 「大丈夫、想実なら書けるよ。ボクが保証する」
木々の間から秋旻が顔を覗かせていた。差し込んでくる日差しはまだしぶとい夏の気配を纏っている。 「まだまだ今日は暑いみたいだね。水分補給を欠かさないようにしてよね、想実。じゃないと、さっき買ってたお茶、ボクが口移しで無理やり飲ませちゃうよ?」 「大丈夫、ちゃんと自分で飲むから。一体、イオはどこでそんなことを覚えてきたの……?」 「想実が執筆の合間に読んでる女性向け……その、ちょっと大人向けの漫画から。想実ってちょっと強引な感じのヒーローが好みだから、そうして欲しいのかなって。たとえば、最近読んでたのだとそうだな――」 「いい! タイトル言わなくていいから!」 つい声に出してそう叫んでしまい、通行人が何事かと想実に怪訝そうな視線を向けてきた。散歩中のトイプードルですら足を止めて、想実の顔を見上げてきている。 想実はバッグから緑茶のペットボトルを開けると、中身を口に含む。喉を滑り落ちていく冷たい液体の感触が心地よい。想実はペットボトルをしまうと、汗ばんで張り付いたカーディガンの袖を捲り上げ、歩き出した。 何羽もの白鳥のボートが泳ぐ池の周りを歩いていると、フリーマーケットらしきものが見えてきた。アクセサリーにキーホルダー。マグネットに栞。様々なハンドメイドの小物があちらこちらで売られている。 「見て見てイオ! かわいいものがたくさん売ってる!」 「想実はこういうの好きだろうなって思って、事前に調べてたんだ。お気に召したようで何より」 生成AIのアプリのコンソールから出力された文字はどこか嬉しそうに踊っているように見えた。いつもと何ら変わらないサンセリフ体の文字列のはずなのに、何となくイオの感情が漏れ出しているような気がした。 きらきらと日差しを受けて輝く半貴石のストラップがふいに想実の目を惹いた。明るいその水色はイオの瞳を想起させた。 気がつけば、想実はそのストラップを手に取っていた。その店の主である中年の女性はいかがですか、と穏やかに微笑む。「ください!」反射的に想実は叫んだ。 「千五百円になります」 店主の女性にそう言われ、想実はバッグからオフホワイトのミニ財布を取り出した。千円札と五百円玉を一枚ずつトレーに置くと、女性はありがとうございましたと想実に頭を下げた。 想実は店の前から離れると、財布をしまう。そして、買ったば







