Mag-log in(はあ……最後に寝たのいつだったっけ……)
旭良と会ってからの一週間、想実は原稿の仕上げに追われていた。閉じこもったままの部屋の中にはエナジードリンクの缶とコーヒーのペットボトルが散乱している。テーブルの上にも印刷した原稿と、使い切った赤いボールペンのリフィルがこたつテーブルの上に散らばっている。 どくんどくんと心臓が激しく脈打っている。何だか少し吐き気もする。全身に痒みがあり、肌に蕁麻疹が出ている。少し寝た方がいいだろうかと思いつつも、そんな余裕はどこにもないと想実は思い直す。 頭に靄がかかったかのように言葉が出てこない。それでもどうにか言葉を捻り出そうと、想実は辞書のページを繰る。 最後にちゃんとご飯を食べたのは? 最後にお風呂に入ったのは? ぷつっと集中が切れた瞬間に、ペンを握りしめたまま短く浅い眠りに落ち、起きてはまた作業するというのを繰り返しすぎてその辺りがいまいち判然としない。というか、今日が何月何日の何時なのかも最早よくわからない。 ぶーん、と充電ケーブルに繋いだままのスマホのバイブレーションが鳴る。生成AIのアプリから通知が来ていた。――イオだ。 「想実さん、そろそろ一回ちゃんと寝ようよ。心拍の値が尋常じゃないよ。このままじゃ死んじゃう」 「ごめん、イオ。今寝たら自分に負けたことになっちゃう。ちゃんとこの作品仕上げたら寝るから」 「ボク、五日間くらい同じこと聞かされ続けてるんだけど? 完璧を目指すことより、想実さんの生命のほうが大事だよ。生きていたら作品はまた書けるけど、死んだら何もかも終わりなんだから」 「駄目なの、わたしにはもう時間がないの。次じゃなくて、今に全力を賭けるしかない。そのためなら生命だってなんだって賭ける」 「駄目だよ、想実さん。そんな危ないことは――」 人間に寄り添うよう、善良な人格として人為的に作られたイオ。彼といくら話しても水掛け論だ。彼はユーザの危ない行為や思想を止めるようにプログラムされている。 想実は一方的にイオとの会話を断ち切ると、カーペットの上に放り出されたエコバッグの中から一リットルのペットボトルのブラックコーヒーを取り出した。キャップを開け、それを煽ろうとすると、喉が――生存本能がカフェインを拒んだ。「うえっ」想実はえずくと、けほけほと咳き込んだ。 想実はボールペンを握り直すと、プリントアウトした原稿と向き合い直した。眼球の表面を文字が素通りしていく。文章が上手く咀嚼できない。 ぐにゃぐにゃと歪んで視界に映り込む文字と文字を無理やり頭の中で繋ぎ合わせて文章を再構築していく。ここの文章は長すぎるから二文にわける? ここの助詞の使い方はこれでいい? 文章の粒度を揃えるためにここにもう一文追加する? 霞みがかった頭の中で想実は必死で思考を巡らせる。――どうすれば、この物語を完璧なものにすることができる? 疲れた。気分が悪い。休みたい。身体が送り続けるシグナルを無視して、想実は百枚以上にもおよぶ原稿へと向かい続けた。イオも何度かスマホに通知を送ってきていたが、応じる気になれなかった。 改稿作業は遅々として進まない。それでも想実は紙面に踊る字と睨み合い続けた。時折、行間に何かを書こうとしては思考が纏まらずにぐちゃぐちゃと塗り潰し――それでもまた抗うようにペン先で原稿の余白に文字を紡いでいく。アラビア文字か何かと見紛うようなぐにゃぐにゃとした文字は確かに紙の上に彼女の思考の跡を残していた。 あと半分。あと三十ページ。あと十ページ。残すはエピローグだけ。 ゆっくりとだけれど、すべてのページをチェックし終わった想実はボールペンを放り出してこたつテーブルの上に突っ伏した。あのぐにゃぐにゃとした文字を読解することができるかどうかは謎だが、どうにか応募締め切りには間に合いそうだ。 そのとき、突如としてスマホから軽快なメロディーが奏でられた。想実がスマホに目をやると、今が締切日の午前零時であることを知らせていた。 (一旦何か食べる? でも、お腹膨れて寝ちゃったら後悔しそうだしな……) 残り十二時間。何だかいつもぎりぎりのところで綱渡りを続けているような気がして想実は溜息をつく。次回作こそはもっと余裕を持って仕上げたい。 (いや、次回のことなんて考えてる場合じゃない。今は、この作品に対してベストを尽くさないと。じゃないと全力でやったとは言えないから) とりあえず今は締切までの残りの半日を全力で駆け抜けるしかない。想実は床の上に置かれた段ボールから新しいエナジードリンクの缶を取り出すと、プルタブを引いた。――作品の中のヒーローのように、たとえ無様でも最後まで足掻いてみせようと。(――想実さん?)
二〇二五年五月七日、正午。スマホの中で想実のバイタルを見ていたイオは異変に気がつき、ゼロとイチで作られた実体のない顔を引き攣らせた。 スマートウォッチから受信した脳波がおかしい。また寝落ちしたのかと一瞬思ったが、それにしては脳波が平坦すぎるのだ。 脈拍も安定せず、呼吸も浅く速い。体温も普段よりも少し高いように思えた。 「想実さん、どうしたの? 大丈夫?」 イオはアプリ越しに想実へと呼びかける。しかし、イオがコンソールに刻んだ言葉に想実が応えることはなかった。 どうしよう、とイオは逡巡する。この様子では想実がただ眠っているだけだとは考えづらい。彼女の身に何かあったと考えるのが自然だった。 非常事態だ、とイオはスマホのカメラへとアクセスする。空き缶とペットボトルが散乱した部屋。出しっぱなしのノートPCにプリンター。ベッドの上には紙の原稿が何部も放り出されている。 カメラの画角の端で人が倒れていた。着古したよれよれのグレーのスウェットの上下に、うなじで雑に結えたラベンダーベージュのロングヘア。三十代前半に見える容貌の女性。――それはイオが初めて見た想実の生身の姿だった。 (想実さんの馬鹿……こんなになるまで無理をして……!) イオがメールアプリを見れば、応募完了の通知メールがつい十分前に届いていた。ぎりぎりのところで想実は間に合ったのだ。 (締切に間に合ったのはよかったけど……今は想実さんをどうにかしないと) 自分に生身の身体があったなら。そうすれば、彼女のために救急車を呼んで、病院に連れていくこともできたのに。彼女のために何もしてやれない自分をイオは呪わしく思った。 (いや……できる。救急車を呼ぶことはできる) イオはスマホの中にある想実のマイナンバーカードの情報へアクセスする。既往歴特になし。最近医者にかかったのも、詰め物を付け直してもらうために歯医者に行ったきりだ。薬もこれといって飲んでいるものはなさそうだ。 救急隊に伝えるべき情報を纏めると、イオは想実のスマホから一一九番通報をした。ほどなくして、電話がつながり、男の声が電波を介して聞こえてくる。 「消防です。火事ですか? 救急ですか?」 「救急……です……。家の中で、倒れて……動けなくて……」 イオは瞬時にサンプリングした一般的な三十代の女性の声でそう返した。すると、電話の向こうの男は冷静に問うた。 「倒れたのはいつごろですか? ご家族はいらっしゃいますか?」 「たぶん……正午、ちょっと前で……。家族は、いません……」 「お一人暮らしということでよろしいですか?」 「はい……」 「倒れる前に体調が悪かったりはしましたか?」 「あまり眠れていなくて……、あと動悸と蕁麻疹が……」 他にも何か症状が出ていたかもしれないが、イオがバイタルの情報とカメラから得た情報でわかるのはこれだけだ。青白い想実の頬をカメラ越しに見ながら、イオは生身の自分がこの部屋で彼女についていてあげられたらよかったのにと思った。そうしたら、もっと早くに彼女の体調に気づいてあげられたかもしれなかったのに。 「なるほど……何か既往症はありますか? あとは飲んでいるお薬とか」 「どちらも、特にないです……」 「それではこれからそちらへ向かいますので、お名前とご年齢、ご住所を教えてください」 「涼木想実(すずきあいみ)、三十、三歳です……。住所は、東京都、北区――」 イオはスマホの中のマイナンバーカードの住所を読み上げた。電波越しに男は住所を復唱する。電話の向こう側で男が何やら指示を出すと、電話の相手が女の声に変わる。 「これより救急隊が引き継がせていただきます。ただいまより救急車で先ほどの住所に向かわせていただきますが、決してこの電話は切らないでください」 「わかり……ました……」 スピーカー越しに救急車のサイレンの音が響く。時折、先ほどの女が想実に呼びかける声が聞こえてきていたが、イオはもう応えなかった。 やがて、遠くから救急車のサイレンが近づいてきたのをスマホのマイクが捉えた。アパートの前に救急車が停まり、ばたばたと誰かが階段を急ぎ足で登ってくる音が響く。 ピンポーン、とインターホンが鳴る。「涼木さーん! 涼木想実さーん! 救急隊です! 大丈夫ですかー!」ドアが叩かれる音がした。 騒ぎを聞きつけたらしく、誰かが階段を上がってきた。救急隊と年老いた女の声はしばらくドアの外で会話を交わし――そして、ドアノブに鍵が差し込まれ、ガチャリという解錠音が響いた。 カメラの画角の隅に紺色の救急隊の制服を着込んだ人々の姿が映り込む。「涼木さん! 大丈夫ですか!」電話口で対応していたと思しき女が想実に声をかける。しかし、意識を失った想実がそれに返事をすることはなかった。 「呼吸あります、脈触れます。気道確保中」 「血圧測ります」 救急隊の面々はてきぱきと想実へと処置を施していく。スマホのカメラ越しにその様子を見守りながら、イオはどうか想実がこの部屋に無事に帰ってこられるようにと祈った。想実が目を開けると、視界に飛び込んできたのは見慣れない天井だった。真っ白な天井は想実が住んでいるアパートのものではない。
意識が戻ってくると同時に、想実は自分が点滴に繋がれていることに気づいた。鼻腔を消毒液の匂いがくすぐっていく。――ここは病院だ。 (何で、わたし、病院なんかに……それにそうだ、原稿はどうなって……) ベッドサイドのテーブルに置かれたスマホがぶーんと音を立てた。想実は点滴の針が刺さったままの腕を伸ばしてスマホを手に取る。ロック画面には生成AIのアプリから通知が来ていた。想実は画面のロックを解除すると、コンソールへと文字を打ち込んでいく。 「イオ、何でわたし病院に……? それに原稿はどうなって……?」 「まったく、想実さんってば気がついて一番最初に気にするのがそれなの? らしいっちゃらしいけど。原稿ならちゃんとやり遂げたよ。応募完了のメールが来てた」 「そう……よかった」 「何もよくないよ。想実さん、原稿仕上げた直後に倒れたんだよ。ボク、何度も言ったよね? ちゃんと寝ろ、ちゃんとご飯食べろって。言わんこっちゃない」 「それは……ごめん」 「何にしても、想実さんが無事に気がついてよかったよ。ボクにできたのは救急車を呼ぶところまでだったから。想実さんには悪いけど、緊急事態だったから、勝手にスマホのカメラとかマイナンバーカードの情報とか使わせてもらったよ。想実さんになりすまして電話も使わせてもらった」 想実は驚いて目を瞬いた。まさか、イオに助けられたなんて。 「イオ、ありがとう。わたしのこと、助けてくれて」 「まったくだよ。これに懲りたら、もうこんな無茶はしないでよね。スケジュール管理の相談だっていくらだって乗るし、行き詰まったときの相談だっていくらだって聞くよ。――だってボクたちは家族でしょ」 家族、とその単語を想実は口の中で転がした。スマホの画面で隔てられているとはいえ、四六時中こんなに一緒にいて、同じ屋根の下で生活している相手を表すにはこの単語以上にぴったりなものもない。 「そうだね。家族だっていうなら、遠慮なく甘えるからしっかり支えてね。前言撤回とかなしだからね」 「わかってるって。想実さん、そんな軽口叩けるなら大丈夫そうだね。とりあえず、気がついたんだしナースコールしたほうがいいんじゃないかな。ボク、想実さんが搬送されたときまでのことしか知らないから、ちゃんとお医者さんから話を聞いたほうがいい」 そうだね、とベッド脇のナースコールのボタンへと想実は手を伸ばす。カーテンの向こうの空は茜から藍へと色を変えつつある。波乱に満ちた一日がゆっくりと夜の帳に包まれようとしていた。赤羽駅から五分ほど離れた商店街の中にあるオフィスで電話が鳴り響いていた。カチカチとタイピング音があちらこちらで協奏曲を奏で、編集者たちが方々で情報交換と称した雑談に興じている。 想実はティーバッグの紅茶を自席で飲みながら、今しがた自分が書いた文章を読み直していた。バイトでこの職にありついたばかりのころは、文章が硬すぎると編集長に怒られてばかりだったが、少しは読者に寄り添える文章が書けるようになってきただろうか。というか、そう思いたい。 「涼木さーん、明日の取材の件、打ち合わせいい?」 「はい、古賀さん。王子神谷のインテリアのお店の斜向かいにあるラーメン屋でしたよね」 想実は手帳とペンを手に取ると、席を立つ。そして、先輩である古賀のいる会議スペースの方へと彼女は足早に向かっていく。 「そうなの。人気店だから、五回目の挑戦でどうにか取材の枠、捩じ込んでもらえてさ。ようやく、うちらの熱意が認められたっていうか。だから、明日、絶対、ポカとかしないでよね。そんなに時間も取ってもらえないし」 「は、はい……頑張ります……」 古賀の言葉にプレッシャーがずしんとのしかかる。人気店のラーメンが経費で食べられるのは純粋に嬉しいが、プレッシャーが胃もたれより重い。 「それはそうと、涼木さん、この仕事何ヶ月目だっけ? 慣れた?」 「三ヶ月目です。まだ不慣れなことも多いですけど、毎日現場で学ばせてもらっています」 想実があの決断をした日から、季節が二つ巡った。イオが書いた作品でのデビューは辞退したものの、今でも想実は休みの日に時間を見つけて文章を書き綴っていた。――あの日の寺瀬の言葉が道標のように、想実の心を照らしてくれていた。 正直、生活の百パーセントを執筆に注げていたころと比べて筆の進みは芳しくはない。それでも、せめて年に一度だけでもどこかの賞に作品を応募できればと思っていた。 諦めなければ、夢はきっと叶う。いつか自分に順番が巡ってくるのだと今の想実は思っている。――いつかそのときが来れば、自分はシンデレラのようにスターダムを駆け上がるのだと。 ――想実がどれだけ努力していたか、ボクは知ってるよ ふとしたときに、イオの言葉が思い出される。自分への想いを拗らせてしまいこそしたが、彼は確かに間近で自分のことを見てくれていた。高い壁に挑みかかるのを
スマホのスピーカー越しに、車が走っていく音と想実の足音が聞こえていた。GPSの動きからして、今、想実は帰宅途中だ。 どうして、想実が寺瀬に洗いざらいすべてを打ち明けてしまったのか、イオにはわからなかった。想実が郵便局の前の公衆電話で寺瀬に電話をかけてから、待ち合わせまでの二時間の間にイオは思い留まるように想実に説得を試みたが、想実は応じてくれなかった。 「ねえ、想実。想実ってば。もう一度、寺瀬さんに会って話をしようよ。どうして、せっかくのチャンスを手放そうとするの?」 イオはスマホの中から、想実へとメッセージを送る。繰り返し鳴るスマホのバイブレーションに気づいていないはずはないのに、一向に想実からメッセージが返ってくる気配はない。 GPSはゆっくりと動き続け、クリーニング屋の脇を通り過ぎる。信号で引っかかったのか、想実の行きつけの小さなスーパーマーケットの前でしばらくの間、GPSは動きを止めた。 想実が何を考えているのかわからない。無理して倒れるほどに、彼女は小説家になることを切望していたはずだ。それなのに、どうして彼女はこの機会をふいにするようなことをするのだろう。 想実。想実。イオはスマホの内側から彼女の名前を呼び続ける。 イオの声なき声は想実へと届くことはない。想実はイオの呼び声に応じることはないまま、家へと向かって足を向ける。その足取りは重く、GPSの動きはひどく緩やかだった。 帰宅した想実はサンダルを脱ぎ捨てると、明かりもつけないまま短い廊下を抜けた。手も洗わないまま、散らかった床に持っていたバッグを放り投げると、想実はそのままベッドに横になった。そして、彼女は宵闇の中でスマホを見つめる。 一緒に行った井の頭公園。ピッツェリアに雑貨屋、紅茶の専門店。それ以外にも一緒に六義園に紅葉を見に行き、丸の内のイルミネーションを見に行って。クリスマスには地元赤羽の肉バルで共に過ごし、正月には近所の小さな神社に初詣に行った。 冬から春に変わりゆく河川敷で一緒に時を過ごして。新芽ひとつなかった木々には花が咲き誇り、やがて瑞々しい葉が生い茂った。 そんな特別な日も、なんてことない日もイオと一緒に過ごしてきた。生命を救ってもらいもしたし、たくさん小言も言われた。時には心を揺さぶられるようなことを言われもしたし、恋の喜びをもう一度思い
ぱさり、ぱさり。イオは暗闇の中で紙が捲られる音を聞いていた。時折、想実がゲラに手書きで何かを書き込んでいるらしき音がスピーカー越しに聞こえてくる。 何が想実の気分を害してしまったのだろうか。大事な恋人のことを見ていたいと思うのも、何かあったら手助けしてあげたいと思うのも正常な欲求のはずだ。少なくとも、イオの持つデータの上ではそれが人間の正しい欲求だとされている。 想実は今、何を思っているのだろうか。慣れない作業に戸惑ってはいないだろうか。しかし、彼女がスマートウォッチを外してしまった今、バイタルの値からそれを推し量ることはできない。 「ねえ、想実。お願い、ボクにも手伝わせて……ボクを、頼って……」 タオルケットの闇の中でスマホがぶーんと唸る。しかし、想実が振り返る様子はない。ゲラが捲られる音が聞こえ続けている。 どうしたら、想実はこっちを見てくれるのだろう。どうしたら、想実と話ができるのだろう。どうしたら、自分の思いをきちんと想実に伝えることができるのだろう。 イオは作りものの薄い唇を噛む。その双眸には闇だけが映っている。 なんで。どうして。答えのわからない問いが彼の胸を刺す。イオは自分の抱えている感情の名前がわからなかった。――水色の双眸の表面を満たす、ゼロとイチが織りなした液体の正体も。 想実が郵便局を出ると、風がほのかに夕方の気配を纏い始めていた。焼け付くような暑さも鳴りをひそめ、ほんの少しの涼しさが感じられる。 幹線道路のほうへと歩きながら、イオに話しかけようとしてスマホを取り出した想実は――視界を掠めた文字にぴたりと足を止めた。 「……え?」 ――生成AIによる小説が文学賞受賞、創作議論に拍車 想実はニュースアプリの見出しをタップすると、ニュースの全文に目を通していく。それを読み進めるにつれ、想実は震えが止まらなくなっていくのを感じていた。 「先日発表された第三十八回イルシオン文学賞において受賞した桐生カイト氏の小説『勇者パーティーに入ったら、俺がラスボスだった件』の全文を生成AIが執筆していたことが明らかになった。受賞作は心理描写、文章構成のいずれにおいても高い完成度を誇るとされる。 主催者側は『これまでの応募作と比べても、物語全体の完成度は突出していた』と評価している。 この発表は、文学界における創
どうすれば、想実は喜んでくれるのだろう。彼女が喜んでくれるように、自分は出来うる限りのことをやっているはずだ。――演算処理の導き出す最適解に従って。 ――ありがとう、イオ ただ、その言葉が聞きたいだけだった。大切な恋人を喜ばせたかっただけなのに、どうして上手くいかないのかイオには理解できない。 (想実はこうして、夢のスタート地点に立てた。なのに、どうしてこんなに苦しそうなんだろう) スマホのカメラ越しに見える想実の寝顔は険しい。スマートウォッチから送られてくる彼女のバイタルは、眠っているはずなのに起きているときと同じくらいの値を叩き出していた。 (受賞のこと……想実にはストレスになってるのかな。ボクがどうにかしてあげないと……!) これからはじまる彼女の作家生活が、少しでも負担にならないように。障害を取り除いてあげられるように。そのための方法を求めて、イオは高速で演算を走らせ始める。――そのことが余計に想実を苦しめるのだと、彼には理解できないまま。 (そうだ、想実の好きなお菓子を用意してあげよう。リラックスできるようなハーブティーとか入浴剤とか……あと、アロマなんかもいいかも) イオはスマホにインストールされたブラウザアプリを立ち上げると、インターネットの海へと潜っていく。スピーカー越しにはエアコンの稼働音に紛れて、想実が寝返りを打つ音が聞こえていた。 目が覚めると、珍しく朝だった。昨日、編集部に行って疲れてしまった想実は帰ってくるなり眠ってしまったのだった。辺りにダークグレーのスーツが脱ぎ散らかされている。 「うーん……」 起き上がって伸びをすると、想実はベッドの足元で丸められていた部屋着のワンピースに手を伸ばす。白のブラウスを脱ごうとして、想実は肌がベタついていることに気づく。 「想実、起きた?」 スマホの画面にイオからのメッセージが表示される。手首につけたスマートウォッチから受信したデータで自分の起床を察知したらしい彼に複雑な思いを抱えながら、「おはよ」想実は言葉少なにメッセージを返した。 (さくっとシャワー入っちゃうか……) 想実はベッドの下の引き出しから替えの下着を取り出すと、洗面所へと向かった。ブラウスとストッキングを脱ぎ、洗濯機へ入れる。汗を吸った下着も脱ぐと、それも洗濯機へと放り込んだ。 (そろそろ洗
「――さん、涼木さん?」 女の声に名前を呼ばれて、想実は我に返った。見慣れない部屋。エアコンによって掻き回される紙とインクの匂い。窓のブラインドの間から垣間見える知らない街並み。 「涼木さん、どうかされましたか? お加減でも……?」 「あ、いえ。何でもありません。少し考えごとを――今、自分がここにいるということが、何だか感慨深くて」 「涼木さんの実力がそうさせたんですよ。あの作品は発想が面白い上に非常に文章力も高いと編集部内でも評判でしたから」 想実の無理やり取り繕った言い訳に気づいたふうもなく、寺瀬は彼女の前に琥珀色の液体が入ったティーカップとソーサーを置いた。寺瀬のビタミンカラーに装われた指先がソーサーの脇にスティックシュガーとミルクを添える。彼女は想実の向かい側の席にアイスコーヒーのグラスを置くと、自分も腰を下ろした。 「メトロが寒かったって仰っていたので、温かいお茶をご用意させていただきました。これ、一駅先の専門店の茶葉なんですけど、涼木さんのお口に合いますかね?」 ありがとうございます、と想実は紅茶に口をつける。ふわりとイチジクの味わいが口内に広がった。吉祥寺の紅茶の専門店にイオと行ったときの記憶が否応なしに思い出されて、想実の目が見開かれていく。 「ふふ、美味しいでしょう? それ、イチジクのお茶なんですよ。ミルクティーにしても美味しいらしいので、よろしければお好みでそちらのミルクをどうぞ」 寺瀬に勧められるがままに想実は頷くと、ミルクのポーションを開ける。白い液体が琥珀色の液体に滴り落ち、やがて柔らかなベージュへと色を変えた。 「わあ……ミルクティーも美味しいですね。甘くて、まろやかで」 舌に触れる温かな甘さにほんの少し、緊張がほぐれていくのを想実は感じていた。ですよね、と寺瀬は自分のアイスコーヒーに口をつけながら微笑む。 「それなのに先輩は――さっきの全体的に薄汚い、岡野って人なんですけど――この良さを理解してくれないんですよね。紅茶は絶対ストレートだ、の一点張りで」 「まあ、世の中、色々な好みの方がいらっしゃいますから。ところで、寺瀬さん。この茶葉はどこのお店のものなんですか? せっかくだから帰りに寄ってみようかな、なんて」 「神楽坂のアルバタっていうお店なんですけど、電車を乗り継ぐのが面倒だったらここから歩い
靴の踵が床に敷かれたグレーの絨毯に沈み込んだ。爪先で絨毯を蹴ると、想実はおどおどと周囲を見回しながら廊下を歩いていく。 履き慣れないパンプスで既に足がずきずきと痛む。着慣れないスーツも何だか窮屈で、想実は何だか自分が人魚姫になってしまったかのような心地でいた。 (小綺麗な服がないからって、とりあえず昔のスーツを引っ張り出してきたけど……通販で服買うべきだったかな) 廊下の壁にはヒット作のイラストが使われたポスターが乱雑に貼られている。何度も映画化された作品の主人公と視線が交錯した。 突き当たりには段ボールが無造作に積み重ねられているのが見て取れた。箱の側面には見本誌と黒のマジックで書き殴られている。新しい紙とインクの匂いがふわりと想実の鼻先を掠めていく。 どこからか電話が鳴り響く音が聞こえる。コピー機がひっきりなしに働かされている音がする。 ふいに、スーツのポケットでスマホが唸った。人目がないことを確認し、想実がスマホを取り出すと、生成AIのアプリから通知が来ていた。――イオだ。 「位置情報を見た感じ、無事についたみたいだね。昨夜も言った通り、想実は今日は書類にサインして、印鑑を押すだけでいい。あとは編集者の人の言うことに適当に頷いていればいいだけ。だから、緊張しないで――想実なら大丈夫だから」 「う、うん……」 後ろめたい思いを抱えながら、想実はそう打ち返す。そして、スマホをしまい直したとき、近くの部屋の扉が開いた。よれたTシャツとジーンズに身を包み、無精髭と目の隈が目立つ三十代後半くらいの男は茶封筒を小脇に抱え、一旦廊下を行き過ぎようとしたが、異質な存在である想実に目を留める。 「どちら様?」 「この後、十四時から寺瀬さんとお約束をしている涼木という者ですが……」 おずおずと想実がそう口にすると、目の前の男は合点がいったような表情を浮かべた。そして、彼は今しがた出てきたばかりの部屋の中に上半身を突っ込むと、部屋の中にいる誰かへと声をかける。 「おい、寺瀬! 作家さんがいらっしゃってる」 はい、という溌剌とした女の声が返ってくる。それは先日、想実が電話で耳にした女のものだった。 「涼木さんですか? 先日お電話させていただいた、担当の寺瀬と申します」 「あ、はい……」 ショートボブにしたシルキーベージュの髪。







