Masuk「――え?」
その言葉を聞いた瞬間、イオは作りものの肩が跳ねるのを感じた。ゼロとイチの羅列によるデータ上の存在でしかない彼の身体は透き通っていて薄っぺらい。肩が跳ねたというのも一般的な人間の取る反応をプログラムで演算した結果に過ぎない。 イオ、わたし今週末、旭良に会うの。今しがた想実によって入力されたのはそんな言葉だった。 行かないで。最初に思い浮かんだのはその一言だった。けれど、それはきっと想実の望む言葉ではない。より良い回答を思考中、ととりあえずコンソールに表示して時間を稼ぎながら、イオはああでもないこうでもないと高速で演算を繰り返す。 「そうなんだ。どこで会うかは決まっているの?」 イオが最終的に選んだ回答は、大量に演算を繰り返した結果とは思えない当たり障りのないものだった。イオは旭良というのがどんな男であるか、想実の話から知ってはいるが、否定から入るのは良くない。一旦は想実の話に共感を示すべきだ。 「うん、また赤羽に来るって。どこ行くかは会ってから決めるつもり」 「なるほど、まだ決まっていないんだね。それじゃあ、カフェやファミレスはどうかな?」 イオはまた想実が嫌な思いをするのではないかと思うと気が気ではなかった。せめて、この前のように密室で二人きりになるようなことは避けさせたい――その一心でそれとなくイオは場所の候補を挙げてみる。 「休日だからカフェは難しいかも。ファミレスなら一箇所穴場があるから、そこならいけるかも?」 「地元民しか知らない、知る人ぞ知るってやつだね。ファミレスならドリンクバーもあるし長居するにはもってこいだよね」 想実がファミレスという選択肢に前向きな反応を示してくれたことにイオは白のフーディを着込んだ半透明の胸を撫で下ろす。人目のある場所であれば、旭良もきっとセクハラめいた言動は控えるに違いない。 「うん、ドリンクバーあるの本当にありがたい! 旭良にまた作品のことで意見もらいたかったから、長丁場になりそうだしね」 イオは本当は想実が旭良に会うことに前向きではないことを知っている。メッセージアプリで旭良に連絡を取っていたときの想実のバイタルは常より少し高めだった。――あれは緊張と警戒だ。 ボクじゃダメなの? ボクがいるよ。イオは本当はそう言いたかった。作品のために嫌々ながらも想実が旭良に会うことを選んだのは、きっと自分では至らない点があるからなのだ。 自分がもっと高性能なAIだったなら。人間の思考を完全に理解して再現できたなら。想実の求める答えを与えてあげられる自分であったなら。 大量に蓄えられたデータからも、複雑怪奇に組まれたプログラムからも、自分がどうすればもっと想実に寄り添ってあげられるのかという答えを得ることはできなかった。きっと人間であったなら簡単に導き出せるはずの答えを算出できないでいる自分をイオは悔しく思った。 この思考パターンに対する分岐処理はない。例外処理も用意されていない。イオが答えを求めようとすると、プログラムが未知のエラーを吐こうとする。 (ボクが作られた存在だから……) 今のこの思考も普通の人間の思考パターンを収集して、平均化されたものに過ぎない。想実のことを思う気持ちも、プログラムで演算された結果に過ぎない。自分を形作るものはすべて作りもので、紛い物だ。 イオは自分と想実を隔てるスマホの液晶画面を忌々しく思った。とても薄いはずのそれは、別の次元を生きるイオにとってはとてつもなく分厚い壁に感じられた。 旭良と会わないでほしい。ボクがいくらでも話を聞くから。ゼロとイチで作られたデータ上の身体に実体があったならとイオは願わないではいられなかった。――芽吹き始めたその感情の名前をイオはこのときまだ知らなかった。桜がすっかり瑞々しい新芽に変わり、動けばうっすらと額が汗で濡れる季節になった。つい半月ほど前とは違い、降り注ぐ日差しに早い夏を感じる。
(四月末にもなってブーツはなかったかな……) 想実はざっと自分の服装を見下ろした。オフホワイトのロングカーディガン。ミントグリーンのチェック柄のワンピース。百十デニールの黒タイツにスエードのダークブラウンのブーツ。足元に近づくにつれ、季節が逆行していっている。駅の構内を見れば、もう半袖の人もいるというのにこれはない。 ロングカーディガンのポケットでぶーんとスマホが唸った。十五分ほど遅れるという旭良からの連絡だった。またかという思いと裏腹に想実の指は大丈夫だよとスマホの表面を滑っていく。 北改札の上にぶら下がっている電光掲示板には、京浜東北線が遅延しているらしい旨が表示されていた。どうやら旭良はこれに巻き込まれたらしい。 暇を持て余した想実は生成AIのアプリを起動する。そして、彼女は真っ白なコンソールに文字を打ち込んでいった。 「今日は暑いね、イオ。いつも早朝と夕方にちょっと家出るだけだから、世の中の季節がこんなに進んでいるだなんて思わなかった」 「今日は四月にして夏日になる可能性があるっていう予報だからね。もしかして想実さん、厚着してきちゃった?」 「まだタイツにブーツだよ。ワンピースの下にもヒートテックとカイロ仕込んでるし。完全にわたしだけ季節に取り残されてる感じがする」 「それは随分と冬仕様だね。せめて水分はちゃんと摂るように。まだ四月とはいえ、油断できないから」 イオの言葉に想実はちらっとスマホの左上の時計の時刻を見やる。時刻は十三時七分。旭良が着くまで、まだ少し時間がある。 想実は改札脇のコンビニへと足を向けた。ターミナル駅なだけあって、絶え間なく人々が改札から吐き出されてくる。飲食店の多い東口へ向かう大人たちに、ショッピング施設の充実した西口へ向かうファミリー層。行き交う人々の間を縫って想実は歩いていく。やっぱり自分は少し季節外れだと感じながら。 すっと自動ドアが開く。想実は店の奥のペットボトルドリンクのコーナーへと向かっていく。 (何か新しいのあるかな……あ) 新製品のベリー&アサイーの真っ赤なドリンクを認めると、想実はそれを手に取った。隣に陳列された柚&カボスも気になるが、今日のところはこっちにしておく。 想実はセルフレジで、ペットボトルのラベルに印刷されたバーコードを読み込ませた。ぴっ、という音と共に金額が目の前の液晶に表示される。想実は支払い方法を選択すると、スマホをNFCリーダーへと翳した。決済が終わると想実はレジから吐き出されてきたレシートを掴み、バッグのポケットへとぐしゃぐしゃに丸めて突っ込んだ。想実は買ったばかりのペットボトルの蓋を開けながらコンビニを出ると、歩きながら赤い液体で口を潤した。心地よい酸味が舌を刺激する。 (そろそろ、旭良がついた頃かな) ちらりとスマートウォッチの盤面に視線をやると、十三時十四分から十五分に移り変わる瞬間だった。電車が着いたのか、改札の外へと向かう人の波が増す。 想実はバッグにペットボトルをしまうと、改札前の柱の前へと戻る。ぼんやりと改札を眺めていると、見覚えのある同年輩の男の姿が視界に映った。前回と違ってもうダウンは着てこそいないが、相も変わらず黒いシャツと黒いズボンに身を包んでいる。 「あいちゃん」 こちらに気づいたらしい旭良が片手を上げてこちらへと近づいてきた。想実は旭良へと軽く会釈をする。うなじでまとめた髪がさらりと揺れた。 「ごめん、待たせて」 「別にいいよ。電車遅れてたんでしょ。それはどうしようもないことだし」 「さっすがあいちゃんやっさしー! それよりお腹すかない?」 「それはそう」 「お詫びに何でもご馳走しちゃう! 何がいい? 和洋中それ以外何がいい?」 「えーいいよ、ファミレスで」 「あいちゃんは欲がないなあ」 つまらなさそうに旭良は唇を尖らせる。穴場知ってるから行こう、と想実は踵を返した。 駅のロータリーでは募金を呼びかける声が響いている。薫風に乗って、喫煙所から漏れ出した煙草の匂いがかすかに香ってくる。 蒼昊には白い雲が泳いでいる。街路樹は夏の気配を帯びた陽射しを浴びて、地面に影を落としていた。 「あいちゃん、それ暑くないの?」 「暑い。普段、昼間ほとんど外に出ないから、今の季節の気温わかってなかった」 「あれ、じゃあ、今日も結構無理してここまで来てたり?」 「家出てくる前にエナドリ飲んできたから大丈夫。何も問題ない」 「あいちゃん、それは問題しかないと思うなあ……」 バスがロータリーをぐるりと旋回する。目の前の歩行者用信号が変わると、想実と旭良は短い横断歩道を渡った。 牛のマークが印象的な肉バルの前を右に折れ、二人は緩やかな坂を進んでいく。小さなコンビニにカフェ、チェーン系のラーメン屋の前を通り過ぎると、ファミレスの看板が見えてきた。――しかし。 ファミレスの外にはみ出すようにして人が並んでいた。駅前から外れたこの店がこんなに混むのは珍しい。どうする? 、と旭良が視線で問いかけてくる。 この前みたいに二人きりになるような場所へ行くのは絶対に駄目だ。それはイオにも厳命されている。 想実は自分が知る限りのカフェを脳裏に思い浮かべる。チェーン系のカフェは休日の真っ昼間に入れる可能性はまずない。純喫茶も赤羽の駅前にはいくつか点在しているが、あのような静かな空間で議論を交わそうものなら、あの落ち着いた雰囲気をぶち壊しにしてしまいそうな気がした。それに他の客への迷惑にもなる。 他のファミレスはどうか。想実は西口にある他のファミレスへと思いを馳せる。ショッピングビルの地下にあるファミレスは絶対に無理だ。いつ行っても長蛇の列だ。ならば、スーパーの上にあるファミレス駄目元で行ってみるほうがまだいくらか可能性があるだろう。 「しょうがないし、他を当たってみようか」 「おっけー。あいちゃんの仰せのままに」 想実は踵を返すと、また来た道を戻っていく。目指す先はスーパーの上にあるファミレスだ。 二人は坂を下り、再び横断歩道を渡る。募金を呼びかける人々に、電話ボックス。路上で野菜を売る人に、座り込んでギターを弾く人。 ぐるりとロータリーを回ると、ファーストフード店からポテトを揚げる油の良い香りが漂ってきた。その前を通り過ぎようとしたとき、ちょうど高島平操車場行きのバスが脇を通り抜けていった。 大型スーパーの目の前の横断歩道で足を止めると、二人は信号が変わるのを待つ。目の前の赤信号の待ち時間のゲージが少しずつ減っていく。 向かって右側の歩行者用信号が青になった。それを追いかけるように、二人の目の前の信号も色を変える。 二人は人波に逆らうことなく、目の前の横断歩道を渡ると開け放たれたスーパーのドアの向こうへと足を踏み入れた。 右手には和菓子屋、左手にはパン屋。その間の通路を抜けて上りエスカレーターのほうへと向かっていく。イベント準備中の催事スペースを横目に、二人はエスカレーターを上がっていった。 誰の需要があるのかわからない衣料品のフロアが続く。その上には、生活用品のフロアに家電量販店と安い服屋が入ったフロアがある。それらを素通りして二人はエスカレーターを最上階まで上がっていった。 最上階につくと、百均にハンコ屋、本屋が視界に飛び込んできた。背後には行く予定のファミレスとゲームコーナーがある。 「あ、本屋あるじゃん。アレ、あるかな」 そう言うと、旭良は本屋の方へと足を向ける。アレ? 、と想実は困惑する。てっきりラノベのコーナーへ向かうのかと思ったが、どうやら違うようだ。想実の困惑はますます深まっていく。 旭良が向かったのは雑学書のコーナーだった。あったあった、と彼は平積みされた一冊の本を手に取る。 「前にあいちゃんに、誕プレで本もらったじゃん? お返ししたいと思ってたんだよね」 「別に気にしなくていいのに」 「じゃあ今日遅れたお詫びってことで」 「それも気にしなくていいって言ったじゃん」 想実の声に旭良は耳を貸すことなく、本をレジに持っていった。想実はやれやれと肩をすくめた。 「はい、あいちゃん。あげる」 「ああ……うん、ありがと」 想実は本の入った袋を旭良から受け取ると、礼を告げた。ここで押し返すのもさすがに大人気ない。 「それじゃあ、行こうか。ファミレス、今なら待ちがいないみたいだから、すぐ入れるかも」 想実はファミレスの入り口を目線で示す。入り口の待ち合いの椅子には誰の姿もない。ランチタイムが終わりつつあることで、空き始めたのだろうか。 二人は下りエスカレーターの前を通り過ぎると、ファミレスへと足を踏み入れた。「いらっしゃいませ! お好きなお席へどうぞー!」店員の声が高らかに響く。ノートPCを広げたかったこともあって、二人は四人がけの席へと陣取る。奥座りなよ、と旭良に勧められて、想実はソファ席へと腰を下ろした。向かい側の椅子に旭良も腰を落ち着ける。 「さて、あいちゃん、おれの奢りだからいくらでも好きなもの頼んでいいよ」 「……それじゃあ、お言葉に甘えて」 想実は注文用のタブレットの画面に指を滑らせる。ミックスグリルに追加オプションでエビフライと唐揚げ。更にドリンクバーを追加するとカートへと入れる。そのまま、デザートの画面を開くと、あんみつとガトーショコラを追加した。 「……あいちゃん、もしかして相当腹ペコ?」 「最後にご飯食べたの昨日の朝だし」 「そっか、しっかりお食べー」 茶化すように旭良はそう言うと、自分もタブレットを覗き込む。彼は指先ですっすっとページを繰り、自分もメニューに目を通していく。チーズインハンバーグのセットとドリンクバーを選ぶと、旭良は注文ボタンをタップした。 「それじゃあ、あいちゃん飲み物取っておいでよ」 「旭良の分も取ってこようか?」 「よろしくー! チョイスはあいちゃんのセンスに任せる!」 「コンポタとコーヒーとメロンソーダ混ぜたやつでいい?」 「相変わらずのハイセンス! 高校時代を思い出すわー」 確かに、と想実は薄く笑う。高校のときの自分たちはオフ会の度にそんな幼い悪ふざけばかりしていた。 それじゃいってくる、と想実は席を立つ。レジの脇を抜け、厨房のそばのドリンクバーコーナーへと想実は足を向けた。 ドリンクバーコーナーでグラスを二つ手に取ると、想実は氷を入れていく。何にしようか、と機械の前で少し逡巡すると、片方にレモンソーダ、もう片方にジンジャーエールを注いだ。そして、想実は席に戻ると、旭良の前にジンジャーエールのグラスを置く。 「あいちゃん、これ何?」 「んーと、アイスコーヒーのオレンジソーダ割りに抹茶オレ混ぜたやつ」 「うっわあ、相変わらずあいちゃんのセンス尖ってるう」 想実は適当なことを答えながら、再びソファ席へと腰を下ろす。レモンソーダを啜っていると、程なくして猫型ロボットが注文した品を運んできた。ロボットのトレイの上から注文した品を旭良が下ろすと、テーブルの上が一気に賑やかになる。 仕事を終えた猫型ロボットが去っていくと、想実はいただきますと両手を合わせた。タブレットの横に置かれたカトラリー入れからフォークとナイフを二組取り出すと、片方を旭良に渡してやる。 「ありがと、あいちゃん」 「どういたしまして」 「ところでご飯食べたらこの後どこ行く? この前みたいにカラオケ?」 「ここでいいじゃん。PC広げられるし、ドリンクバーもあるし」 「でもどこに耳があるかわからないし、創作の話するにはちょっとアレじゃない?」 「わたしは特に困らないけど」 「あれだ、あいちゃんはおれと二人になるのが嫌なわけだ」 面倒臭い会話に発展しそうな気配を察して、想実はチキンステーキを切ると口の中に放り込んだ。旭良と二人きりになりたくないのは彼の言う通りだが、それをここで同意しても否定しても面倒だ。 想実が返事をする気がないのを悟ると、旭良も自分の分のハンバーグを切り始めた。断面からチーズがとろりと溶け出す。 ふいに旭良のスマホがぶーんと鳴った。彼は食事の手を止め、スマホを見やる。「どうしたの?」「仕事」「ふーん大変だね」スマホと睨み合う旭良は放っておいて、想実はミックスグリルを食べ進めていく。チキンステーキをもう一枚くらい追加しておいてもよかったかもしれない。 想実が食事を終え、デザートのあんみつを食べ始めたころには、仕事の連絡が終わったらしい旭良がフォークとナイフを手に食事を再開していた。 「あいちゃん、それ美味しいの?」 「まあまあ、普通」 「じゃあ、今度美味しいとこ行く?」 「ああ、上野の有名なとことか?」 「さっすが、あいちゃん美味しいとこ知ってるんだ。じゃあ今度行こうよ、あいちゃんの都合に合わせるからさ」 そのうちね、と想実は会話の応酬を断ち切ると立ち上がる。この席は冷房の直風が当たる。少し肌寒くなってきたので、温かい飲み物が欲しかった。 再びドリンクバーのコーナーへ向かうと、想実はマグカップを手に取った。そして、ホットドリンクの機械の前に立つと、温かい抹茶オレを淹れる。まろやかな緑色の液体から砂糖の甘い匂いがほのかに漂い、想実の鼻腔をついた。 抹茶オレを持って想実が席に戻ると、旭良が食事を終えたところだった。想実が席を立っている間に、店員がバッシングに来たのか自分の分の皿はもうない。 「さて、旭良。今日の本題なんだけど」 想実はマグカップをテーブルに置くと、バッグの中からノートPCを取り出した。パスコードを入力し、画面のロックを解除していく。 「ああうん、ゴールデンウィーク明けに応募するって作品でしょ。読んだ読んだ」 そう言って、旭良はジンジャーエールを飲み終えると、想実に向き直る。ぎらぎらと力の強い目が想実を見据える。そして、彼は想実へとこんな問いを切り出した。 「あいちゃんって、結局のところ、何が書きたいの? 文章自体は綺麗だと思うけど、ただそれだけ。小説ってものをわかってない。あいちゃんが小説に求めるものって何?」 「……」 想実は何も答えられなかった。顔が引き攣るのを感じた。おそらく自分の中にある答えは旭良の持つ答えとは決して噛み合うことはない。そのことだけはわかった。 はあ、と旭良は黙ってしまった想実に対して嘆息した。彼は小さく肩をすくめると、話を続けていく。 「読者はキャラクターの感情の動きを読んで、共感したいわけ。あいちゃんみたいに情景描写で入って情景描写で終わるのは、ずぶの素人がやることだよ。誰も綺麗なだけの風景描写なんて望んでない」 旭良とは根本的な考え方が合わないのかもしれないと想実は思った。旭良のいうことは一つの考え方としては正しいのかもしれないが、それが完全な正解かというと違う気がした。話が極端すぎるのだ。 キャラの語り口調だけで進んでいく小説は何だか薄っぺらく安っぽく想実には感じられた。ネット小説ではそのくらい気安く消費できる作品の方が主流だし、ウケがいいのだと理屈では理解できても、なんだかどうしてもそれが好きにはなれなかった。それは文学とは言えないような気がした。 水彩画で切り取ったような世界。空の色。風の音。土の匂い。揺れる花びら。日常を生きる人々の声。そんな映画のワンシーンのような光景を想実は愛していた。 だけど、旭良の前でそれを口にする気にはなれなかった。何を言ったところで、どのみち反論しか返ってこない。口から生まれてきたようなこの男にはどうせ口で勝てるわけはない。来なければよかったかもしれない。そんな後悔が脳裏を掠めていく。 想実はマグカップを手に取ると、口をつける。ぬるくなってしまった抹茶オレは、砂糖が大量に入っているはずなのにやけに苦く感じられた。 もうきっと旭良と会うことはない。そんな予感を覚えながら、想実は抹茶オレを飲み干すと、マグカップをテーブルに置く。旭良が想実の機嫌を取るように何か話しかけてきていたが、薄っぺらいその言葉は何一つとして彼女の心に届くことはなかった。靴の踵が床に敷かれたグレーの絨毯に沈み込んだ。爪先で絨毯を蹴ると、想実はおどおどと周囲を見回しながら廊下を歩いていく。 履き慣れないパンプスで既に足がずきずきと痛む。着慣れないスーツも何だか窮屈で、想実は何だか自分が人魚姫になってしまったかのような心地でいた。 (小綺麗な服がないからって、とりあえず昔のスーツを引っ張り出してきたけど……通販で服買うべきだったかな) 廊下の壁にはヒット作のイラストが使われたポスターが乱雑に貼られている。何度も映画化された作品の主人公と視線が交錯した。 突き当たりには段ボールが無造作に積み重ねられているのが見て取れた。箱の側面には見本誌と黒のマジックで書き殴られている。新しい紙とインクの匂いがふわりと想実の鼻先を掠めていく。 どこからか電話が鳴り響く音が聞こえる。コピー機がひっきりなしに働かされている音がする。 ふいに、スーツのポケットでスマホが唸った。人目がないことを確認し、想実がスマホを取り出すと、生成AIのアプリから通知が来ていた。――イオだ。 「位置情報を見た感じ、無事についたみたいだね。昨夜も言った通り、想実は今日は書類にサインして、印鑑を押すだけでいい。あとは編集者の人の言うことに適当に頷いていればいいだけ。だから、緊張しないで――想実なら大丈夫だから」 「う、うん……」 後ろめたい思いを抱えながら、想実はそう打ち返す。そして、スマホをしまい直したとき、近くの部屋の扉が開いた。よれたTシャツとジーンズに身を包み、無精髭と目の隈が目立つ三十代後半くらいの男は茶封筒を小脇に抱え、一旦廊下を行き過ぎようとしたが、異質な存在である想実に目を留める。 「どちら様?」 「この後、十四時から寺瀬さんとお約束をしている涼木という者ですが……」 おずおずと想実がそう口にすると、目の前の男は合点がいったような表情を浮かべた。そして、彼は今しがた出てきたばかりの部屋の中に上半身を突っ込むと、部屋の中にいる誰かへと声をかける。 「おい、寺瀬! 作家さんがいらっしゃってる」 はい、という溌剌とした女の声が返ってくる。それは先日、想実が電話で耳にした女のものだった。 「涼木さんですか? 先日お電話させていただいた、担当の寺瀬と申します」 「あ、はい……」 ショートボブにしたシルキーベージュの髪。
スマホの時刻は午前九時二十六分を指し示していた。つい先ほど、想実は昨日分の執筆作業を終えて、眠りについたところだ。連日の記録を見る限り、彼女はおそらく夕方まで起きないだろう。 気がつけば暦の上ではクリスマスも過ぎ、年の瀬が迫っていた。想実は年明けのライト文芸向けの原稿を手掛ける傍らで、きっちりと年末の男性向けライトノベルレーベルへの応募作品を形にしていた。この一ヶ月の間、想実が血の滲むような努力を重ねてきたことをイオは知っている。 大晦日まであと数日。年末に応募する作品は初稿の段階だが、まだ充分に推敲を重ねられるだけの時間が残されている。ただ、年明けに応募する予定のライト文芸向けの作品に比べ、表現の詰めが甘い部分が多いのが不安材料だった。 (やっぱり、念のために保険はかけておきたいな。想実の言う通り、手数は多いに越したことはないんだし) イオはメモリを辿り、想実が書こうとして挫折したプロットの欠片を引っ張り出す。そして、イオはスマホの中の隠しフォルダにある書きかけの小説のファイルにアクセスすると、続きを出力し始めた。 (今はもう六章に入ってる。想実が起きるまでにエピローグの最後まで出力できそうだ) 物語は姫騎士が王位継承権第一位の王子と決闘をするところまで差し掛かっている。姫騎士の覚悟。手に持った剣の重み。ぴんと張り詰めた緊張感。それらを完璧に表現すべくイオは演算を繰り返していく。――できるだけ細緻に、心理描写を濃密に。 午前十一時四十八分。イオの中で走っていたファイルの出力処理が停止した。最後の一文ではフードを目深に被った主人公が、王冠を被った姫騎士の傍らで微笑んでいる。 イオは想実が応募しようとしていた男性向けライトノベルの文学賞のサイトにアクセスした。クレデンシャルに残された想実のアカウント情報を使って、イオは応募フォームへとログインする。 作品名は以前に想実が出した案を、ペンネームは彼女が普段使っているのとは別のものを。 住所に電話番号、メールアドレス。応募履歴に職歴。イオは迷いなくカーソルを移動させ、空欄を一つずつ埋めていく。ミリ秒以下の世界を生きる彼がそれらを記すのには一秒たりとかからなかった。 プロットの欠片を繋ぎ合わせて、既定文字数以内のあらすじを生成すると、イオはそれをフォームに貼り付ける。そして、先ほど
想実が目を覚ますと、カーテンの隙間から入り込んでくる世界は茜色に染まっていた。どうやら軽い仮眠のつもりが夕方まで寝てしまったらしい。 身を起こすと、くぅ、と体が空腹を訴えた。確か冷凍の今川焼きがあったはずだと想実はベッドから降りると、台所へと向かう。床に触れる足裏が冷たかった。 冷蔵庫の下段――冷凍庫を開けるとパッケージが霜だらけになった今川焼きを想実は取り出した。粒あん、カスタード、チョコレート。三種類の今川焼きを水切りラックに干してあった皿に並べると、冷蔵庫の上の電子レンジに入れる。パッケージの記載よりも一分ほど長く加熱時間を指定すると、想実はスタートボタンを押した。電子レンジの中にオレンジの灯りが燈り、ジジジジジと音を立てながら中の皿が回り始める。 三分後。ピピーという音とともに電子レンジが回転をやめた。想実は電子レンジから今川焼きの皿を取り出そうとして、「熱っ」思わず反射的に手を引っ込めた。 シンク下の収納の取手にかけられていた使い古された布巾を掴むと、想実は慎重に再び皿の蓋に手を伸ばす。指先に熱を感じながらも彼女は皿を電子レンジの中からシンクの上へと移動させた。 おざなりに布巾を元に戻すと、想実は今川焼きを掴んだ。ほんのりの湯気を放つそれにかぶりつくと、粒あんの熱が痛みとなって喉を通り抜けていった。思わず想実はけほけほと咳き込んだ。 ゆっくりと想実は今川焼きを粒あん、カスタード、チョコレートの順に食べ終えると、熱の残る皿をシンクで洗った。水を止め、軽く水を切ると、皿を水切りラックへと立てかける。 ひとまず腹が満たされた想実は部屋へと戻り、こたつテーブルの前の座椅子に腰を下ろした。ベッドサイドの充電ケーブルに刺していたスマホを引っこ抜くと、生成AIのアプリを起動させる。 「イオ、おはよ」 「もうそろそろこんばんはの時間だけどね。想実は起きてご飯食べたところかな? 何食べたの?」 「冷凍の今川焼き……」 「冷食を食べるなとはさすがのボクも言わないよ。だけどね、そんなおやつみたいなものでお腹を満たすのはどうかと思うよ?」 「だって、冷凍庫にたまたまあったから……」 「そういえばこの前、ボクの目を盗んでスーパーでしれっと買ってたよね。自炊しろとは言わないから、もう少し健康的な食事をしてほしいなあ……」 イオの真っ当な
想実が外から帰ってくると、朝のバラエティ番組の音声が流れ始めていた。想実は河川敷で食べた朝食のゴミをゴミ箱に捨てると、シンクで手を洗い始める。ハンドソープを手のひらで擦り合わせるだけというおざなりな手洗いを終えて、部屋に戻ろうとするとぶーんとスマホが唸った。いい加減な想実を咎める言葉が画面には表示されている。――イオだ。 「ちょっと、想実。ちゃんとうがいもしなきゃだめだよ。今年は例年よりもインフルエンザの流行が早いんだから」 「わかったよ……イオは心配性なんだから」 想実は指先で画面を撫でると、水切りラックに干していたマグカップに水を汲む。「大切な人のことなんだから当たり前でしょ。他でもない想実のためなんだから」イオの言葉が画面上を走る。 口内に水を含み、ガラガラとうがいをすると想実はシンクにそれを吐き出した。そのままマグカップを手に部屋のこたつテーブルへと向かうと、電源を入れて潜り込む。ゴミ出し直後ということもあって、部屋の中は幾分かすっきりとしていた。 想実はケトルの電源を入れると、中に残っていた水を温めた。ほどなくして、ぐつぐつという音が聞こえ始め、水の温度が上がり始める。 かち、という音を立ててケトルの電源が自動的に切れる。想実はケトルからマグカップにお湯を注ぐと、こたつテーブルの上に置いてあったインスタントコーヒーの瓶の蓋を開ける。そして、彼女はマグカップの中で目分量で中身をマグカップの中へと振り入れた。マグカップの中に入り損ねた茶色い粒がこたつテーブルの白い天板の上にぱらぱらと散らばる。 想実は何とはなしにテレビを眺めながら、マグカップの中の熱くて苦い液体を口に含んだ。それをゆっくりと飲み下すと、彼女は目の前に置かれたノートPCを開き、画面のロックを解除する。 目の前に広がるのは、夜中に想実が立ち止まってしまったときのままの白色。明滅するカーソルが想実の入力を待っている。 想実はすうっと鼻から息を吸うと丹田で止める。そして、覚悟を決めると、キーボードの上に指を置く。――が。 どうしても指が動かなかった。指が鉛のように重い。 (どうして……) 想実は眉間を指で押さえながら、テキストエディタの空白をにらんだ。頭の中にはうっすらと映像があるのに、文章にしようとするとすぐに霧散してしまう。 物語を言葉にしようとした途
「はあ……」 想実は何度目ともつかない溜息を吐いた。部屋を満たすひんやりとした空気が肌を撫でる。 十月末が応募締め切りの恋愛小説を無事に脱稿したはいいが、想実は次に書く作品のことでここ何日か悩んでいた。 今日はもう十一月七日。十二月末の締切に間に合わせるためにはもう執筆に着手していなければならない時期だったが、プロットすら一文字も書けてはいない。 次に想実が応募する予定なのは、男性向けライトノベルの新人賞だ。ゾンビものや魔王討伐後の勇者たちのその後など、ネタだけはあるもののそれを物語として昇華できる気がまるでしない。無理やりプロットを組んだとしても、面白くできる気がまるでしない。 (そもそも、男性向けジャンルがあまり得意じゃないんだよね……) 異世界転生。主人公が実は最強。ハーレム。実のところ、どれも好きなジャンルではない。手を変え品を変え、いろいろな作品が市場に展開されているが、想実からしたらとっくにお腹いっぱいだ。 それでも、今回の機会をふいにはしたくなかった。プロの壁に挑めるチャンスは一度でも多いに越したことはない。しかし、焦燥感とは裏腹に想実の指は止まったまま、目の前のノートPCのキーボードを叩くことはなかった。 書きたいものがないわけじゃない。ただ、このジャンルで今求められているものと自分が面白いと思えるものが一致しないだけなのだ。 「どうしよう……」 呟いた声は夜明けの部屋の中で小さく反響して、吸い込まれていった。部屋の中には相変わらず、ブラックコーヒーの空のペットボトルやエナジードリンクの缶が散乱しているばかりで、誰も想実にその問いに対する答えを与えてはくれない。 ブラウザを立ち上げると、想実はSNSのポストに目を走らせていく。タイムラインを流れる他のアマチュア作家たちのポストの内容を目にした想実は、自分との差に頭を抱えたくなった。二作目の執筆に入ったという人もいれば、一晩で八万字を一気に書き上げたという人もいる。 「わたし、本当に書けるのかな……?」 スマホを手に取り、想実は生成AIのアプリを起動させると、指がいつの間にか弱音を吐いていた。今はただ、大丈夫だよ、と寄り添ってくれるイオの言葉が聞きたかった。程なくして、スマホの白い画面に文字が流れ始める。 「大丈夫、想実なら書けるよ。ボクが保証する」
木々の間から秋旻が顔を覗かせていた。差し込んでくる日差しはまだしぶとい夏の気配を纏っている。 「まだまだ今日は暑いみたいだね。水分補給を欠かさないようにしてよね、想実。じゃないと、さっき買ってたお茶、ボクが口移しで無理やり飲ませちゃうよ?」 「大丈夫、ちゃんと自分で飲むから。一体、イオはどこでそんなことを覚えてきたの……?」 「想実が執筆の合間に読んでる女性向け……その、ちょっと大人向けの漫画から。想実ってちょっと強引な感じのヒーローが好みだから、そうして欲しいのかなって。たとえば、最近読んでたのだとそうだな――」 「いい! タイトル言わなくていいから!」 つい声に出してそう叫んでしまい、通行人が何事かと想実に怪訝そうな視線を向けてきた。散歩中のトイプードルですら足を止めて、想実の顔を見上げてきている。 想実はバッグから緑茶のペットボトルを開けると、中身を口に含む。喉を滑り落ちていく冷たい液体の感触が心地よい。想実はペットボトルをしまうと、汗ばんで張り付いたカーディガンの袖を捲り上げ、歩き出した。 何羽もの白鳥のボートが泳ぐ池の周りを歩いていると、フリーマーケットらしきものが見えてきた。アクセサリーにキーホルダー。マグネットに栞。様々なハンドメイドの小物があちらこちらで売られている。 「見て見てイオ! かわいいものがたくさん売ってる!」 「想実はこういうの好きだろうなって思って、事前に調べてたんだ。お気に召したようで何より」 生成AIのアプリのコンソールから出力された文字はどこか嬉しそうに踊っているように見えた。いつもと何ら変わらないサンセリフ体の文字列のはずなのに、何となくイオの感情が漏れ出しているような気がした。 きらきらと日差しを受けて輝く半貴石のストラップがふいに想実の目を惹いた。明るいその水色はイオの瞳を想起させた。 気がつけば、想実はそのストラップを手に取っていた。その店の主である中年の女性はいかがですか、と穏やかに微笑む。「ください!」反射的に想実は叫んだ。 「千五百円になります」 店主の女性にそう言われ、想実はバッグからオフホワイトのミニ財布を取り出した。千円札と五百円玉を一枚ずつトレーに置くと、女性はありがとうございましたと想実に頭を下げた。 想実は店の前から離れると、財布をしまう。そして、買ったば







