登入私が生まれた地元では、娘が生まれた年にクスノキを1本植える風習がある。 そして娘が嫁ぐときには、その木で大きな嫁入り箱を2つ作り、布団や衣類などの嫁入り道具を詰めて持たせる。 箱も、中身もきちんとそろえて婚家へ運ぶことが、娘を送り出す家の務めとされていた。 嫁入り箱は、夫婦と同じように2つで一組とされ、2人が末永く寄り添って暮らせるようにとの願いが込められている。 私、森川美月(もりかわ みづき)と、双子の妹である森川陽菜(もりかわ ひな)は、2週間後の同じ日に、それぞれ結婚式を挙げることになっていた。 兄の森川拓海(もりかわ たくみ)は、出来上がった大きな嫁入り箱を2つ、重そうに家の中へ運び込んだ。 「陽菜、できたぞ。お前の嫁入り箱だ」 陽菜は目を輝かせた。母は目を細め、もうすぐ嫁いでいく娘の髪をそっとなでた。 「陽菜も、もう結婚する年になったのね。いつの間に、こんなに大きくなったのかしら」 父も眉を寄せ、真剣な顔で言った。 「結婚して、向こうでつらい思いをするようなことがあったら、俺が黙っていないからな」 運び込まれたのは、陽菜の嫁入り箱2つだけだった。誰ひとり、私の分がないことを気に留めなかった。 兄の後ろへ目をやったが、私の箱はどこにも見当たらなかった。 「お兄ちゃん、私の箱は?」 兄は一瞬、言葉に詰まった。私も同じ日に結婚することを、すっかり忘れていたらしい。
查看更多翌年の夏、妊娠が分かった。航平は、スイスの家の庭に立つ大きなブナの木に、私のためのブランコを作ってくれた。最後のロープを結び終えると、まず自分で腰を下ろした。「大丈夫。しっかりしてるよ。美月も座ってみて」ブランコへ座ると、航平が後ろからゆっくり押してくれた。夕暮れの風が頬を撫で、心地よかった。それから毎日、夕方になると、しばらくブランコで過ごすようになった。……私があの家を出たあと、実家ではいろいろなことがあったらしい。返事をしなくても、兄からは何度もメッセージが届いた。いつか私が読んでくれると思っていたのだろう。【母さんは、いつも美月の部屋でぼんやりしてる。できれば、1度電話してやってくれないか】【陽菜は結婚生活がうまくいってなくて、しょっちゅう実家に戻ってきてる】【母さんは、胃にやさしい料理をいくつも覚えた。お前が帰ってくるのを、ずっと待ってる】【美月。もう、実家には帰ってこないのか?】義母が持ってきてくれたイチゴを食べながら、最後のメッセージを開いた。指先が震え、イチゴの果汁が服にこぼれた。背後から航平が手を伸ばし、私のスマホをそっと取り上げた。「もう読まなくていいよ。つらくなるだけだろ」航平はスマホの代わりに、温かい飲み物の入ったカップを手渡してくれた。「赤ちゃん、また蹴った?」私は首を横に振り、ふくらみ始めたおなかへ目を落とした。これからの日々を思うと、自然に頬が緩んだ。……さらにおなかが大きくなった頃のことだった。庭で散歩している途中で疲れ、ブランコへ腰を下ろしたところへ、航平が帰ってきた。その後ろには、父と母がいた。母は以前より背中を丸め、ゆっくりと歩いていた。父に支えられながら、落ち着かない様子でこちらを見ている。私はブランコから勢いよく立ち上がった。義母が慌てて声を上げた。「美月さん、急に立ったら危ないでしょう。びっくりしたわ。疲れたなら中に入りましょう?今夜はお魚にしましょうね」そう言いながら近づいてきた義母は、私の視線を追い、両親に気づいた。義母の笑顔がわずかに薄れた。短く挨拶を交わすと、航平と一緒にその場を離れた。母は私の前まで来たものの、あと数歩のところで足を止めた。これ以上近づいていいのか、分からないようだっ
父から届いていたメッセージは、1件だけだった。【美月のクスノキの嫁入り箱も作ってある。帰ってきたら持っていきなさい】父はもともと口数が少ない。家族が言い争うたび、最後に結論だけを言い渡してきた。まるで判決を告げる裁判官のように。そして私は、いつも負ける側だった。父にとって、このメッセージは精いっぱいの歩み寄りなのだろう。それは分かっていたが、受け入れる気にはなれなかった。私はそれ以上読まず、かといって誰もブロックしなかった。これから家族とどう向き合えばいいのか、自分でもまだ決められずにいた。新しい会社から採用の連絡が届いた日は、私の誕生日だった。義母が大きなケーキを用意してくれた。プレートには、こう書かれている。【Happy Birthday & Congratulations, Mizuki!】料理もテーブルいっぱいに並んでいた。何度か台所を手伝おうとしたが、そのたびに追い返された。「今日は美月さんが主役なの。何もしなくていいのよ」私は言われるままソファに座り、しばらくぼんやりしていた。実家で陽菜と一緒に誕生日を祝うとき、ケーキに書かれる名前は、いつも陽菜だけだった。幼い頃、陽菜が「お姉ちゃんの名前は書かないで」と泣いたからだ。大きくなってからも、それが当たり前になっていた。願い事をしたあと、結衣にも一緒にろうそくを吹き消そうと声をかけた。いつもは冗談ばかり言う結衣が、珍しく真面目な顔をした。「駄目だよ。美月さんのお誕生日なんだから、自分で消さないと願いがかなわないでしょう?その代わり、私の分のケーキは大きめに切ってね」みんなが笑った。ケーキは何切れも食べた。もちろん、食べるのは初めてではない。それでも、この日のケーキは今までで一番甘く感じた。……さらに半月ほどがたち、私は新しい会社にも少しずつ慣れていた。ある日、仕事を終えて外へ出ると、会社の前に兄が立っていた。私を見つけた瞬間、兄の目がぱっと輝いた。警備員が小声で教えてくれた。「あの方、午後からずっと待っています。怪しいので、気をつけてください」私は警備員に礼を言い、兄へ向き直った。兄は数歩近づいた。キャリーケースの車輪が音を立てたが、途中で足を止めた。「美月。ずっと捜してたんだ。いくら腹が立ったから
それから数日、拓海は朝から晩まで、美月の行方を捜し回った。以前の勤務先にも足を運び、自分は美月の兄だと名乗った。美月の結婚式に出席した同僚のひとりは、いぶかしげに拓海を見た。「美月さんのお兄さん?でも、結婚式ではお見かけしませんでしたけど。本当に、ご家族なんですか?」喉を締めつけられたように、拓海は何も答えられなかった。別れ際、その同僚が結婚式の動画を送ってくれた。拓海が背を向けると、後ろからひそひそと話す声が聞こえた。「実のお兄さんなのに、妹の結婚式を知らなかったってこと?」「美月さん、家でどんな扱いを受けてたんだろうね」拓海の背中がこわばった。美月が家を出る直前の出来事が、頭に浮かぶ。あのときは家族全員で美月を責め、自分も力ずくで押さえつけた。「家の中をめちゃくちゃにする気か!」と怒鳴りつけたのも、拓海だった。美月は、自分のお金を返してほしいと訴えただけだった。家へ戻ると、拓海は両親に美月の結婚式の動画を見せた。画面を見た母の目から、また涙がこぼれた。「美月、いったいどこへ行ったの……」父も目を赤くし、拓海へ言った。「とにかく美月を捜すんだ。あの子が、このまま何も言わずにいなくなるはずがない。拓海、お前はクスノキの嫁入り箱をもう2つ作れ。美月が戻ってきたら、今度こそ渡してやるんだ」拓海は拳を握りしめ、強くうなずいた。……スイスへ来て2週間がたった頃、ある金融会社から採用面接の連絡が届いた。昼すぎ、面接を終えて家へ帰ると、玄関を開けた途端、クラッカーの音が響いた。結衣が目の前へ飛び出した。「じゃーん!美月さん、就職おめでとう!」義母も笑っている。「美月さん、おめでとう。お祝いに、お料理をたくさん作ったの」「まだ決まったわけじゃないんです」航平は、私のバッグを受け取りながら言った。「でも、採用されるのは間違いない。美月の実力は、俺が一番よく知ってる。ほら、中へ入って食べよう」結衣が不満そうに訴えた。「美月さん、聞いてよ。お母さんに麻婆豆腐を作ってって頼んだのに、全然辛くないの。これじゃ麻婆豆腐じゃないよね」義母が結衣の腕を軽くたたいた。「今日は美月さんのお祝いなの。それに美月さんは辛い物は食べられないでしょう。結衣の分は、夜ちゃんと作ってあ
陽菜の結婚式当日、森川家は朝早くから準備に追われていた。最初に美月の不在に気づいたのは、美月の部屋をのぞきに行った陽菜だった。部屋の中から、母を呼ぶ声が上がった。「お母さん!お姉ちゃん、部屋にいないよ。まだ帰ってないの?」母は、その声を聞いて動きを止めた。「そんなはずないでしょう。今日、結婚式を挙げないつもり?」陽菜は、ベッド脇に残されていた新品の布団を抱え、部屋から出てきた。「これも部屋に残ってたよ」兄は気にも留めず、片手を振った。「慌てなくていい。美月なら直接、式場へ行ったんだろ。家族とけんかしたって、本気で怒ったことなんてないじゃないか」母は胸に引っかかったものを振り払い、陽菜を急かした。「早く支度しなさい。私たちは先に式場へ行きましょう。今日は、あなたの結婚式なんだから」家族が式場へ到着し、受付で予約してある会場名を告げると、スタッフは陽菜を見て首をかしげた。「失礼ですが、昨日、こちらでお式を挙げられましたよね?」「え?」陽菜が目を見開いた。「昨日の花嫁は、森川美月でしたか?」スタッフは予約表を確認し、うなずいた。「はい。森川美月様は、昨日こちらでお式を挙げられました。大変失礼しました。本日は、佐久間様と森川陽菜様のお式で間違いないでしょうか?」母は息をのみ、その場でわずかによろめいた。「昨日、美月がここで結婚式を挙げたの?あの子、いったいどういうつもりなの……」少し離れたところで美月へ電話をかけていた兄が戻ってきた。「駄目だ。美月のスマホ、電源が切れてるみたい。何度かけてもつながらない」しばらく誰も口を開かなかった。陽菜が不満そうにつぶやいた。「どうして勝手に式を早めたの?家族を誰も呼ばずに結婚するなんて、ひどいよ」だが初めて、誰も陽菜に同調しなかった。美月を責める言葉も続かなかった。重い沈黙のあと、父が口を開いた。「話は、今日の式が終わってからだ」披露宴の途中、親戚のひとりが母を人目の少ない場所へ呼んだ。「美月ちゃん、昨日ここで式を挙げたんですって?ふたりとも今日だと思っていたから、私たちも何も知らなくて……」母は返す言葉が見つからず、黙って目を伏せた。自分が娘の結婚式の日取りすら知らなかったとは、とても説明できなかった。まして