LOGIN兄が意地になって家を飛び出したあの日、私は土砂降りの大雨の中、必死で彼を探しに行った。 ――まさか、落下した電線が頭上から落ちてくるなんて、思いもしなかった。 その事故で、私は両腕を永遠に失った。 医者になることを夢見ていた私は、その日から、皮肉にも「病院の終身患者」になった。 私は何度も自殺を図った。けれど、そのたびに家族が私を死の淵から引き戻した。 兄は私の前に跪き、涙ながらに懇願した。 「……俺が悪かった。頼む、死なないでくれ。お願いだ」 母は仕事を辞め、昼も夜も私に付き添ってくれた。 「あなたはお母さんの命なのよ。あなたが死んだら……お母さんはどうやって生きていけばいいの?」 父は私のリハビリ費用を稼ぐため、無理な残業を重ね、ついには海外へ単身赴任することになった。 ――私はきっと少しずつ人生は良くなっていくのだと思っていた。 それなのに。 ようやく両足で両手の代わりをする生活に慣れ始めた頃、偶然に家族の会話を耳にしてしまった。 「……正直に言えばさ。最初から、あの時死なせておいた方が良かったんじゃないか」 その日の夕方、私はひとりでビルの屋上まで這い上がった。 風は強かった。鼻をすすったけれど、涙は出なかった。
View More三日後。「私」の葬られる日が来た。空は重く垂れこめ、細い雨が絶え間なく落ちていた。まるで空も涙を絞り尽くしたみたいに。親戚や知人が集まった。母方の親族が多く、父の昔の同僚たちもいる。皆、黒い服で、沈んだ顔をして、小声で言葉を交わした。母はやつれ果てて、たった一晩で二十歳も老けたように。父は頭が真っ白になり、墓碑を見つめたまま動かない。葬式は息苦しいほど長い。母はほとんど、父に支えられていなければ立っていられなかった。もう涙はあまり出ない。ただ、赤く腫れた目で、空っぽのまま前方を見ている。父は母を強く抱き寄せ、背筋をまっすぐに保っていた。けれど、母の肩に置かれた手は抑えきれずに小さく震えている。茜の父親も来ていた。傘は差さず、細い雨に肩を濡らしている。白い菊と百合で組まれた、飾り気のない花輪を抱え、重い足取りで歩いてきた。彼は真っすぐ兄の前へ来た。兄の体が一瞬固まり、俯く。脇で拳をぎゅっと握り締めた。茜の父親は花輪をそっと墓前に置き、兄に向き直った。「茜が……目を覚ました」兄が顔を上げる。目にほんのわずかな光が走った。「……どうですか。回復は……」茜の父親は少し間を置き、複雑な目で兄を見た。「体は大きな問題はない。だが……君のことを覚えていない。医者は言った。衝撃による選択的健忘か、精神が耐えられなかったのかもしれないって」声がさらに低くなって、疲れた調子で続けた。「その夜、なぜ外へ出たのかも覚えていない。事故のことも……君のことも、全部」兄の顔から血の気が引く。唇が動いたのに、声が出ない。茜の父親は淡々と続けた。「……それでいい。少なくとも、あの子が、君の妹みたいな結末になるのを恐れずに済む」彼の視線が逸れ、少し離れたところで寄り添うように立つ両親の背中へ向く。そして、これから土に返される棺へ。重い声で言った。「遥のことは聞いた。……私も、つらい。陽翔、過去は……過去だ。もう、流してやれ。君が、本当の男としてこの家を支えろ。君の両親には、もう君しかいない、しっかり面倒を見ろ。生きている人間を、これ以上苦しめるな」言い終えると、彼は墓碑を一度だけ見て、兄に小さく頷いた。そして兄の肩を重く、短く叩く。雨と人波を抜け、来た時の車へ戻っ
父は正面から殴りつけられたみたいに硬直した。体がぐらりと揺れ、ドアの枠に手をついてようやく立っている。視線はリビングの中央――棺に、釘づけだった。母の目は腫れあがり、ほとんど細い線になっている。頬には乾ききらない涙の跡。父を見るなり、唇が激しく震えた。「……なんで、こんなに遅かったの」そして、堰を切ったように叫ぶ。「分かってるの!?うちの娘が死んだのよ!いなくなったの!もう……私たちには娘がいないの!」母は父に飛びつき、襟元を掴んで、声を上げて泣いた。肺の奥まで引き裂くみたいに。父の目が見開かれ、白目に赤い血管が一気に浮き上がる。泣き崩れる妻を見て、次の瞬間、棺へ振り向く。「……陽翔、教えてくれ。あの中にいるのは……誰だ」兄がどさりと床に膝をついた。額が硬い床板に叩きつけられるほど、深く頭を下げる。返事はない。ただ、拳で自分の頭を狂ったように殴り続け、涙が言葉の代わりになった。答えはもう言わなくても分かってしまう。父の顔から最後の血の気が引いた。紙のように白い。左胸を両手で強く押さえ、体が制御できないまま、ドアの枠に沿ってずるずると崩れ落ちていく。「――あなた!」母が悲鳴を上げた。「どうしたの!?やめて、私を怖がらせないで!」父はもう声が出ない。唇は紫がかり、額には豆粒のような冷汗。苦痛に体を折り曲げ、どぐろを巻くように縮こまった。母は取り乱し、父の顔をただ必死に触りながら、兄に向かって喉が裂けるほど叫ぶ。「早く!119!お父さんが……お父さんがダメになる!」私は彼らの周りを必死に旋回した。父を支えたい。胸を押さえたい。けれど手は、何度も何度も、父の体をすり抜ける。苦悶に歪む顔。いつの間にかこめかみに増えていた、目に痛い白髪。刻まれたような深い皺。――全部、私のために働き、家のために走り回って残った痕だった。「お父さん……!お父さん!」泣きながら呼び、激しく上下する胸に耳を押し当て、心音を探す。「怖がらせないで……起きて……私を見て……ここにいる……ごめんなさい、お父さん……!私が悪い……私、いい娘じゃなかった……!いつも足を引っ張って、いつも心配させて……お願い、お願いだから、無事でいて……!」救急車が来て、そして去っていった。初見では、
警察と葬儀社の職員が近づき、錯乱状態の母と兄を私の遺体から引き離そうとした。母は「私」を抱き締めたまま離さず、何人もの力でようやく引き剥がされた。泣き叫び、暴れ――まるで我が子を失った獣のようだった。私の遺体は慎重に収められていく。一部は地面に張り付き、専門の器具で削り取らなければならなかった。若い職員の一人が背を向け、堪えきれずに嘔吐した。私はその傍らを漂い、すべてを見ていた。恥ずかしさで魂が押し潰されそうになる。この凄惨な後始末をさせている人たちに、私は何度も頭を下げた。「ごめんなさい。こんなに迷惑をかけるなら、もっと綺麗な方法を選べばよかった」最終的に、「私」は濃い色の遺体袋に収められ、簡易的な棺代わりの箱に入れられた。そのまま火葬場へ搬送するかと尋ねられた瞬間――地面に崩れていた母が跳ね起き、全身でその箱に覆いかぶさった。「触らないで!!誰も……誰も、私の娘に触らないで!!」掠れた咆哮に、死を見慣れた職員たちでさえ、思わず一歩退いた。母はその箱を抱き締めた。それがこの世で唯一の宝物であるかのように。私はため息をつき、額をそっと母の頬に寄せた。――昔、私をあやす時に、母がよくしてくれた仕草。兄はよろめきながら近づき、職員たちに深く頭を下げた。「……すみません。少しだけ、時間をください」何度も、何度も、「すみません」を繰り返す。それが職員に向けた言葉なのか、「私」に向けた言葉なのか、分からない。結局、彼らは「私」を一時的に家へ連れ帰ることを許された。兄は震える手で何枚もの書類に署名した。母は終始、その箱を抱えたまま、決して手を離さなかった。父の身を案じ、二人は「兄の結婚が決まった」という嘘で、父を呼び戻した。電話口の父は喜びに満ちた声を上げた。「陽翔、やっと決めたか!よしよし。ちょうどこっちも仕事が片付くところだ。休みを取って、すぐ帰る」迎えの日、空港に行ったのは兄だけだった。大きなスーツケースを引き、父が現れる。旅の疲れを滲ませながらも、顔には笑みが浮かんでいた。彼はきょろきょろと辺りを見回す。「ん?どうした、今日はお前だけか?お母さんは?遥は?父さんが帰るって言ったのに、迎えにも来ないなんて」兄の肩を叩き、冗談めかして言う。
なぜか、私の意識は消えなかった。幽霊のように彼らのそばを漂っていた。母の行動を止めたかった。けれど、伸ばした体は虚しく彼らをすり抜けるだけだった。私の遺体は無慈悲なまでに人々の前に晒されていた。淡い水色のワンピースは埃と血にまみれている。髪は乱れ、顔の大半を覆い隠し、覗いているのは青白い顎と首筋だけだった。周囲からざわめきが起こる。「早く救急車を呼べ!」誰かが叫ぶと、隣の人がその腕を掴み、首を横に振った。「もう……息、ないよ」「どうして、こんなことに……」「この家の末娘らしい。両腕に障害があったって……」母は腰を折ってシートをめくり上げた姿勢のまま、微動だにしなかった。地面に横たわる、生気のない私の体をただただ凝視している。そして――骨を抜かれた人形のように、後ろへと崩れ落ちた。母の背後にいた兄は顔から血の気が完全に失せていた。一歩前に出て、母の体を支える。母は兄の胸に凭れ、首を後ろに反らし、焦点の合わない目で宙を見つめている。胸は激しく上下しているのに、吸う息はなく、吐く息だけが漏れていた。兄が恐怖に引きつった声で叫ぶ。「母さん!しっかりして!……見間違いだ。これは遥じゃない!遥は家で俺たちを待ってるんだ……」それは母に向けた言葉であると同時に、自分を説得しているようでもあった。やがて声は小さくなり、言葉の筋も崩れていく。兄は俯き、母の肩口に顔を埋めた。その肩が抑えきれずに震え始める。母は突然、兄を突き飛ばした。そして再び、地面へと飛びつく。今度は震える手で、「私」の顔を覆っていた髪をかき分けた。頭部は一部が潰れ、口元には暗赤色の血がこびりついている。母は「私」の顔を両手で包み込み、指先で頬を撫でた。大粒の涙が次々とこぼれ落ち、「私」の額に叩きつけられる。「遥……見て……お母さんは、ここにいる……お母さんが悪かった……一人で家に置いていかなきゃよかった……あなたがいなきゃ、生きていけない……私の娘……私の、娘……」泣き叫びながら、母は何度も地面に額を打ちつけた。どうか、この子を生き返らせてほしいと。冷たく硬くなった私の体を必死に胸へ抱き寄せる。そうすればこぼれ落ちた命をもう一度体の中へ押し戻せるとでも言うように。兄