Mag-log inこの一か月もし紗雪が目を覚まさなかったら、二川は西山に飲み込まれていたのではないか。しかも椎名の案件にまで手を伸ばそうとしていた?まったく、寝言もいいところだ。「紗雪、落ち着け。この件は、時間をかけて取り組むべきだ」京弥は紗雪の肩に手を置き、衝動的にならないよう制した。もし彼女がここで感情的に動けば、それこそ加津也の罠にはまる。そのことは、あまりにも明白だ。紗雪は深く息を吸い、京弥の意図を理解した。彼の手の甲を軽く叩き、分かっていると示す。ここまで来て、彼女も馬鹿じゃない。加津也の狙いが読めないようでは、二川全体が笑いものになる。吉岡は目を伏せ、二人のやり取りを見ないようにした。紗雪は、思ったほど痩せてもいない。どうやら夫がしっかり支えていたらしい。それなら社員も安心できる。最初は、紗雪と京弥の容姿の釣り合いに誰もが目を奪われた。だが同時に、高嶺の花のような男が本当に紗雪を大切にしてくれるのか、心配もしていた。しかし今、その答えははっきりしている。普段から漂う雰囲気だけでも十分伝わる。妻を愛する男は必ず成功し、人柄に問題などあるはずがない。一か月間、見放さずに支え続けたことこそが、何よりの証拠だ。吉岡はその道理をよく分かっていた。だからこそ紗雪を敬う気持ちと同じくらい、京弥への尊敬も深まる。紗雪は京弥に軽く頷き、すべて理解していると示した。この件で、彼女が加津也の思惑に落ちることは絶対にない。あの男の浅はかな企みなど、見抜けないはずがない。ただ、一つひとつ処理していく必要はある。「自分が復帰した」という事実を世間に知らしめること。それこそが、周囲を牽制する最良の手段だ。紗雪は吉岡に向き直った。「ありがとう、吉岡。もう行っていいわ。残りの案件は私が一つひとつ目を通すから」吉岡は深々と頷いた。「では、私はこれで。何かあればお呼びください」紗雪は微笑んで応じた。「ええ」吉岡が部屋を去ると、室内には紗雪と京弥の二人だけが残った。彼女の慌ただしい姿を見て、京弥はまたも心の中で匠を罵倒した。その頃、椎名グループで仕事中の匠は、立て続けにくしゃみをした。鼻をこすりながら目の前の書類を見つめ、頭の中は混乱気味だ。「なんだ....
紗雪もついに我慢できなくなり、口を開こうとした瞬間、吉岡が思い切って全部吐き出した。「実は......主に西山グループです。最近ずっと、私たちと案件を奪い合っています」その言葉に、紗雪の表情が一瞬で硬直した。会社にちょっかいを出す相手がいることは想定していたが、まさか顔なじみの相手だとは思いもしなかった。「あの西山加津也が?人違いじゃなくて?」紗雪は彼をよく知っている。あの弱気な性格で、どうして二川に手を出すなんてことができるだろうか。力量以前に、そもそも度胸がないはずだ。だからこそ、紗雪は衝撃を受けた。心の中では、吉岡が何か勘違いをしているのではとさえ思った。これは軽々しく断定できる問題ではない。一度巻き込まれれば、二つの会社の争いに発展するからだ。一方、京弥は黙って考え込んでいた。もし二川グループに問題があったのなら、なぜ自分の側近は報告してこなかったのか。出発前に匠へ、二川グループをしっかり見張るように言い含めたはずなのに。これが、その「見張る」の結果か?京弥の瞳が鋭さを増す。時期が来れば、必ず匠にけじめをつけさせなければならない。どうやら、自分の言葉を心に留めるどころか、ますます好き勝手をしていたようだ。二川に大きな問題が起きていないことを祈っていろ――そうでなければ、十人の匠でも償えない。京弥は心の中で固く決意した。調査の結果、本当に匠の不始末が原因と分かれば、即刻F国送りだ。居場所はもう決めてある。紗雪はといえば、未だに「その相手が西山加津也」という事実に衝撃を受けていた。加津也の実力など、彼女が一番よく分かっている。だから、吉岡の口からその名前を聞いた時の動揺も本物だった。吉岡は苦しげに頷き、しかし一字一句を噛みしめるように言った。「本当のことです。私が紗雪様を騙す理由なんてありません。資料も全部ここにありますから、ご確認を」その言葉に、紗雪は資料を開き、一枚一枚真剣に目を通していく。吉岡の胸は不安でいっぱいになった。特に紗雪の険しい表情を見れば、この件がいかに厄介か分かる。とはいえ、こんな大きな案件を一人で抱え込むには限界があった。彼自身も心身ともに疲れ果て、どう動くべきか分からなくなっていた。これまで頼りにしていた
まるで、親しい人に弱い一面を見せたくないみたいだ。京弥は共感できる部分もあったが、心の中では少し不満を覚えていた。この部下、ちょっと芝居が過ぎるんじゃないか、と。けれど紗雪にはそうは見えず、ただ気の毒に思えた。吉岡はずっと彼女に仕えてきた古参であり、頼りになる存在だ。突然こんなふうに泣かれてしまえば、どう対応していいのか困惑するのも当然だ。「もう、ひと月会わなかっただけで、そんなに感傷に浸るつもり?」紗雪は苦笑しながら小言を言った。「少しは男らしくしなさいよ」そう言って彼の肩を軽く小突き、励ましを示す。その仕草に、吉岡は涙をぬぐいながら笑顔を取り戻した。懐かしい感覚が胸に戻ってきたのだ。「すみません、ちょっと感傷的になってしまいました」吉岡は慌てて涙を拭き取り、目に笑みを浮かべて紗雪を見つめた。「本当に戻ってくれたんですね。社員たちも私も、ずっと紗雪会長を待ってました」紗雪は軽く頷いた。「分かってるわ。この期間が落ち着いたら、皆で食事会でも開きましょう」心の中でははっきり分かっていた。彼女には真心でついてきてくれる社員たちがいる。長い時間が経っても、変わらず自分を慕ってくれている。その事実だけで十分に幸運だと思えた。どれだけ優秀な経営者でも、優れた社員なしでは会社は成り立たない。戦場で将軍が兵を必要とするのと同じことだ。だからこそ、彼女はこの仲間たちを大切にしていた。「皆、その言葉を聞けばきっと喜びます」吉岡は興奮気味に頷いた。紗雪は唇をかすかに上げて笑い、それ以上は触れなかった。感傷を語る機会はいくらでもある。だが今はその時ではない。「さて、この話は後にして――」紗雪は手を差し出した。「頼んでおいた資料は?」「ここにございます」吉岡は両手で丁寧にファイルを差し出す。「このひと月、会社の多くのプロジェクトに私も関わってきました」吉岡は一度言葉を区切り、続けた。「特に私たちの担当案件は、ずっと真剣に追ってきたのですが......」契約書を受け取った紗雪は、席に戻って腰を下ろした。「......ですが?」と吉岡の言葉を聞き止め、不安を覚える。嫌な予感が胸をよぎった。だが吉岡は口ごもり、はっきり言わない。「言いなさ
彼らも、無理に急ぐ必要はなかった。時間が、答えを示してくれるのだから。一方その頃、吉岡は紗雪のオフィスの前に立っていた。目の前の閉ざされた扉を見つめながら、急に足が止まる。この瞬間、吉岡はどう彼女と向き合えばいいのか分からなくなった。会ったあと、自分は何を言えばいいのか。この一か月、本当に心身ともに疲れ果てていた。自分でも「うまくできなかった」と思うことが多々ある。ましてや、それを全部紗雪に説明しなければならない。オフィスの外で行ったり来たりしながら、吉岡の胸の内には恐れが広がっていた。だが、逃げることなど不可能だ。深く息を吸い込み、ついにドアをノックした。「どうぞ」内側から聞こえた紗雪の声に、吉岡の胸が震えた。この懐かしい声を、もう一か月も聞いていなかった。どれほど恋しく思っていたことか。この一か月、外からの重圧も耐えきれないほどだった。だが、もう大丈夫だ。紗雪が戻ってきた。自分も少しは肩の荷を下ろせるし、社員たちにもようやく顔向けできる。吉岡はためらいを捨て、ドアを押し開けて大股で中に入った。目に映ったのは懐かしい紗雪の顔と、真っすぐ自分を見つめるその眼差し。瞬間、吉岡の目が潤んだ。慌てて背を向け、彼女に気づかれまいとした。せっかくの再会だ。こんな姿を見せるのは縁起が悪い、あまりにも情けない。「どうしたの、吉岡?」紗雪の問いかけに、京弥も視線を向け、一目で理由を察した。「いえ、何でもありません。ただ、あまりにも感激して......」吉岡は背を向けたまま、顔をぬぐった。声は震え、喉の奥がつまる。「すみません。すぐに落ち着きますから......」自分でも感情が制御できないのが分かっていた。とくに紗雪の前では。抑えられると思っていた涙も、ここまで来てしまうと溢れて止まらなかった。紗雪は繊細な人だ。吉岡の様子を見れば、何が起きているかなど察しないはずがない。彼女はそっと唇を噛み、隣の京弥を見やった。彼が小さくうなずいたのを見て、気持ちが固まる。紗雪はためらわず、机を回り込んで吉岡のそばへ。彼はまたも顔を背けたが、その肩は大きく震えていた。身長180センチの大の男が、まるで子どものように泣いている。紗雪は思
「それに、私はもうほとんど回復してるわ。大した問題はないの」吉岡はまだ心配そうだった。「紗雪会長、今からそちらに伺います。今どこにいらっしゃるんですか?」紗雪は自分の手にある内線電話を見下ろし、相手の言葉を聞きながら、どうにも信じがたい気持ちになった。この人、本当に自分の部下なの?どうしてこんなに頭が回らないの?「ええと......」言いかけては止まり、何を言えばいいのか分からなかった。横でやり取りを見ていた京弥は、もうじれったくなってきた。どうしてこの二人、話すだけでこんなに手間取るんだ。紗雪も彼の視線に気づき、気まずさが胸に広がった。まさかこんなやり取りになるとは思っていなかったのだ。「今オフィスにいるから内線で電話したのよ」その言葉を聞いて、吉岡はやっと頭を叩いた。――そうだ、自分はさっき何を聞いてたんだ?本当にバカだ。「すみません、紗雪会長。すぐに伺います!」紗雪はもう一度念を押した。「この一か月の間で、給与に関わる大事な案件の資料を全部持ってきて」「分かりました!」吉岡の声には抑えきれない喜びが溢れていた。この一か月、彼は本当に苦しかった。疲労と寂しさに押し潰されそうになりながら、毎日指折り数えては、紗雪が戻る日を待ち続けていた。時には、こんなに踏ん張る意味があるのかとさえ思った。だが今、紗雪が帰ってきた。吉岡はようやく、この努力に意味があったと実感できた。電話を切ったあと、彼は嬉しさのあまり自分の腕をつねってみた。痛みを感じて、ようやく夢ではなく現実だと確信した。すぐにここ一か月分の資料を整え、紗雪のオフィスへ向かう。道すがら吉岡に会った人は、誰もが彼の機嫌の良さを感じ取った。挨拶を交わすたびに、吉岡の笑みは今にも溢れそうだった。「ご機嫌ですね、吉岡さん」吉岡は思った。今回の紗雪の帰還を自分にすら知らせなかったのは、きっと彼女なりの考えがあるのだろう。余計な口を挟んで彼女の計画を乱すのはやめておこう。そう考えて笑みを浮かべた。「ええ」そう言って吉岡は軽く会釈し、その場を立ち去ろうとした。「用事できたので、行ってくる」残された同僚たちは顔を見合わせ、首をかしげた。「何かあった?」「私に聞いても...
京弥のその言葉を、紗雪もきちんと受け止めていた。彼が願っているのは、この一か月の間、会社が何事もなく無事であること。誰にも狙われずにいられたらと。紗雪も同じ思いだった。意識を失う前は、会社のために全力を尽くしていた。だから一か月も昏睡していた今も、以前と同じ状態であってほしいと願わずにはいられなかった。何も変わらずにいてくれれば、それがみんなにとって一番良いことになる。それに、美月の体調も以前よりかなり悪くなっている。もし会社に何かあれば、彼女こそ真っ先に受け入れられないだろう。そう考えた紗雪は、すぐに内線を取り、吉岡を呼び出した。吉岡はちょうど会社の案件で忙しくしていた。紗雪が不在になってから、彼の仕事も一気に増えたのだ。他人に任せるのが心配で、ほとんどのことを自分の手で処理してきた。最初の頃は確かに大変で、考えるべきことも山積みだった。さらに紗雪の体調がいつ回復するかも気にかかり、一人で二人分の働きをしたいと思うこともあった。ようやく最近になって、美月が会社に戻り大局を仕切るようになり、加えて一人を解雇して見せしめとしたことで、社員たちも少しは従うようになった。それぞれが自分の立場を理解し始めたため、管理もしやすくなった。しかし所詮は一時しのぎであり、紗雪が戻らない以上、多くの人間は依然として吉岡に従う気がなかった。だからこそ、吉岡は自分の力を証明するために、リーダーとしての能力も含め、より多くのことを背負わざるを得なかった。そうして初めて、周囲に認めてもらえるのだ。そんな中、久しぶりに鳴り響いた内線電話に、吉岡は自分の耳を疑った。そのベルの音に、頭の中が「ガーン」と爆発したようになった。震える手を伸ばして受話器を取ろうとするが、どうしても現実感が持てない。この内線が鳴るのは、ほぼ一か月ぶりのことだ。一瞬、自分の幻聴ではないかとさえ思った。もし紗雪が戻ってきたなら、どうして自分に知らせてくれなかったのか。それでも「本当だといいな」と思い直し、吉岡は電話を取った。「もしもし、吉岡?」耳に届いた懐かしい声に、吉岡の目に一気に涙が滲んだ。勢いよく立ち上がったものの、どう反応していいか分からない。返事を待ちきれず、受話器の向こうの紗雪は不思議そうに京弥