LOGIN「ああ」A国署長は大いに満足していた。ずっと相手のその一言を待っていたのだが、思ったより早く口にしてくれた。やはり相手は話が分かる。すぐに自分の流れに合わせてくれたことに、A国署長は満足感を覚える。「では、今日はこれで」二人が電話を切ったあと、鳴り城署長は送られてきた資料に目を通し、胸の奥でようやく安堵を覚えた。特に「二川緒莉」という名前を目にした瞬間、全身に電流が走ったように椅子から飛び上がる。「この名前......どこかで聞いたことがある」慌てて資料をめくり続け、ついに「二川紗雪」という四文字を見つける。二川グループの会長代理、若くして有能。署長はそのまま椅子に崩れ落ちた。すべてが線で繋がったように感じたのだ。――間違いない。この二人の正体が分かった。緒莉と辰琉。しかも二人は婚約関係にある。それなのに、二人で実の妹である紗雪を害そうとするなんて......外に漏れたら笑い話にもならない。この件の処理がこんなに長引いているのも、京弥が裏で抑えていたからだった。彼は警察署の人間に「どんなことがあっても手順通りに進めろ」と念を押し、残りは任せると言った。さらに「警察署の力を信じている」とまで言ってくれた。それ以上のことは一切口にせず、余計なことは言わなかった。その言葉だけで、署内の人間は軽率な真似をすることはなくなった。京弥が後ろに控えている以上、この二人は死なずとも無傷では済まない。しかも緒莉がいる。美月の顔を立てるためにも、多少は情けをかけざるを得ない。何せ紗雪の実の姉なのだから。しかし、庇う以上はその代償を背負う覚悟を持たなければならない。鳴り城署長は再び頭を抱えた。最初はただの薬物混入事件かと思っていたが、今となっては家族の秘密まで絡んでいるのは明らかだ。「知りたくなんてなかった......なぜ大物たちの内情に巻き込まれなければならないんだ」深く息を吐き、熟考の末、署長は緒莉と辰琉の家族へ知らせることを決断した。もはや自分一人の手に負える問題ではない。資料から判断する限り、過失は辰琉のほうが大きい。だが今の彼は精神状態がおかしい。そう考えるだけで、署長の頭は割れそうだった。まさか事態がここまでこじれるとは思いもしなかった。A国
緒莉はもう、自宅の大きなベッドや、使用人に世話をされる感覚が恋しくなっていた。だが今あるのは、薄汚れた布団が二枚、三方を囲むコンクリートの壁、一面の鉄の扉、そして精神の壊れたような辰琉だけ。ここまで辛い日々を送ることになるなんて、緒莉は生まれて初めて思い知らされた。けれど今の彼女には、どうすることもできない。持ち物はすべて警官に押収され、電話をかけようにも手段がない。一方、鳴り城警察署では、緒莉と辰琉の家族を探し続けていた。こんなにも長く留め置いているのに、誰ひとり迎えに来ない。警官たちも首をひねっていた。たしかに辰琉はどこかおかしいが、服装や雰囲気からしてただ者ではない。どうしてこんな状態になっているのか見当がつかない。緒莉もまた、普通の人間とは違う存在感をまとっていた。しかも、彼女の顔にはどこか見覚えがある気がするのに、誰も思い出せない。署長も頭を抱えていた。そもそも緒莉の件は、まだ完全に固まっているわけではない。銀行の取引記録は見つかったが、今後いくらでも言い逃れされる可能性がある。本人に犯行を認めさせるには、あの証拠だけでは到底足りない。だが辰琉は違う。彼のやったことは誰の目にも明らかだった。だから仮に家族が来ようと、刑務所での期間が多少短くなる程度の話で、それ以上の望みはない。署長は眉間を押さえ、苛立ちが限界まで膨れ上がる。そしてA国の警察署長に電話をかけ、ようやく二人の素性を聞き出した。さらに関連資料一式を送るよう頼んだところ、A国側は何の躊躇もなく即座に送ってきた。隠す気など一切なかった。この二人という厄介者を押しつけられていたA国署長にしてみれば、送り返せるのは願ってもないことだったのだ。とくに緒莉は、とにかく問題が多すぎる。辰琉もまた、精神がおかしいな状態で、問いかけにもまともに答えない。事件の進展にも役立たず、置いておくだけ無意味だった。そこでA国署長は思いついたのだ。二人まとめて本国へ送り返すのが一番だと。そうすれば、誰にとっても面倒が減る。それに、あちらは彼らの故郷だ。何かあっても家族が動くだろう。A国のように、連絡一つ取るのも困難にはならない。A国署長はふと思い出し、以前に孝寛から電話があった件も鳴り城の署長へ伝え
「わかった。それじゃ裏で徹底的に調べてこい。西山加津也が一体どんな手を使ったのか」京弥は眼を細めた。よくもまあ、自分の部下にまで手を出す度胸があるものだ。命が惜しくないとしか思えない。「それから......」匠が部屋を出ようとしたところで、その声が飛んできた。「お前がやらかしたのは事実だ。罰は受けるか?」冷えた声音なのに、一言一言が強く叩きつけられるようだ。匠はすぐに頷いた。「はい。自分に落ち度があったのはわかっています」京弥は軽く頷き、「ふん」と短く返す。「なら半年分の給料を減らしておけ」役職を下げなかっただけでも最大限の温情だ。匠ははっと顔を上げ、目には熱いものが滲む。ここまでの失態を犯しても、この程度で済ませてもらえた――社長の怒り方も、以前とはどこか違っている気がする。匠は真剣に返事をし、それから指示された調査に取りかかった。彼が出て行き、扉が閉まるのを見ると、京弥はこめかみを揉みながら視線を机上の資料に戻す。このひと月、自分が社にいなかった分、案件が山のように積み上がっている。どれも彼のサインなしでは動かない。それに西山加津也――椎名の案件にまで口を出そうとしているとは。京弥の口元に冷笑が浮かぶ。ネクタイをゆるく引きながら、心底呆れたように思う。うちの会社は、そこらの屑企業が気安くしがみつける場所じゃない。西山ごとき、自分の分を弁えてほしいものだ。そう思いながら、京弥はもう一度プロジェクト資料に目を通し、不審な人員が紛れ込んでいないかを確かめ始めた。そういう抜け駆けは一切許さない。......鳴り城警察署。緒莉と辰琉は同じ部屋に入れられていた。辰琉は髪を整えておらず、すぐにボサボサになった。一方、緒莉は潔癖気味な普通の人間で、毎日必ずシャワーを浴びたがる。最初こそ警察も許していたが、次第に面倒がられるようになり、ついに禁止された。すると緒莉は喚き出した。「どういうつもり!?お風呂もダメなの?」自分の体から不快な匂いがするのを一秒たりとも我慢できないのだ。警官はうんざりしたように言う。「ここは警察署だ。お嬢様気分で好き勝手できる場所じゃない。隣にいるあの男なんか、何日も洗ってなくても黙ってるだろうが」口調
その一言に、匠は尻もちをつくほど怯えた。まさか事態がここまで進んでいるとは思ってもみなかったのだ。「それは......本当にちゃんと見ていたんです!」匠は這うように少しずつ近づき、京弥のズボンの裾を掴んで自分に目を向けてくれるよう必死に懇願した。だが京弥は鼻で笑うと、匠を容赦なく蹴り飛ばした。「今日の件に関しては、きちんと筋の通る説明をしてもらおう」細めた眼で鋭く見据え、低い声で言い放つ。「さもないと......」最後まで聞かなくても、京弥の言いたいことは匠にはわかっていた。さもなければ、H州行きだ。あそこはどこの支配も及ばない無法地帯。何をしようが誰も口を出さない。素性も後ろ盾もなく、ましてやしくじった人間が放り込まれたら、どんな末路になるかなど語るまでもない。胸の奥で何度か深呼吸を繰り返し、ようやく今自分がやるべきことを匠は悟った。資料を手に取り、この期間の経緯を京弥と共に真剣に洗い直し始める。「どうして西山加津也が隙を突けたのかは本当にわかりません。ただ一つ言えるのは、西山グループ自体はちゃんと監視していました」資料に目を通しながら、その会社名にどこか違和感を覚える。まさかこんな展開になるとは思いもしなかった。西山グループさえ見張っておけば大丈夫だと踏んでいたのだ。だが加津也は裏口を一つ仕込んでいた。この子会社など、本当に聞いたこともない。ゆえに警戒する発想すらなかった。匠はどこか腑に落ちず、そして動揺を隠せないまま口を開く。「本当に理由がわからないんです......」頭を垂れ、心の中は焦りと不安でいっぱいだった。確かに以前はちゃんと目を光らせていたはずなのに、西山グループの子会社という存在をすっかり失念していた。自分の不注意が招いたものだ。用心に用心を重ねたつもりが、肝心な小さな穴を見落としていた。それに、以前の加津也はこんな攻撃的な態度ではなかった。少なくとも様子を見ていた限り、二川グループへの敵意はそこまで強くなかったはずだ。今回だけは、何が引き金になったのか本当に読めなかった。匠の悔しげな表情を見て、京弥も彼が本当に知らなかったのだと察する。そして心の中で一度思案する。自分がかけていた圧も大きすぎたのかもしれない。しか
だが皮肉なことに、まさにそういう状況だからこそ匠の胸の内は苦しかった。彼が震えているのは、京弥の手段を知っているからだ。以前なら、こんなに取り乱すことはなかっただろう。あのときは自分が何を間違えたのか把握できていたし、自分の過ちについて少なくとも明確に認識があったからだ。だが今は違う。匠自身、いったい何をやらかしたのか分からない。その思いが頭をよぎるたび、胸の奥がざわつき、不安と恐怖で満たされていく。人は未知に直面すると、誰だって恐れと不安に駆られるものだ。彼もただの人間にすぎない。京弥のような人物を前にして怖がらないわけがない。何がこれから起こるのかも分からない。しかも、京弥は黙り込んだままだ。その沈黙が、さらに彼の不安を掻き立てる。だが、どう切り出せばいいのか、匠には分からなかった。自分のどこがまずかったのか、何を間違えたのか、本当に見当がつかなかったのだ。「自分が何をしたかよく考えろ」ついに、京弥が唐突に口を開いた。匠はほっとしたような息を漏らしたが、完全には安心できないでいた。また当てさせるのか。彼は本当に、自分が何を間違えたのか分からない。匠は京弥の顔を見つめ、幼い頃の悪ふざけさえ思い出しそうになった。京弥は匠の沈黙を横目に、困ったような表情を浮かべる。どうやら、彼自身も匠が何をしたのか思い当たらないらしい。そういう様子を見て、京弥は唇を吊り上げ、危うい気配を全身に漂わせた。「どうした、思い出せないのか?」匠は足がふらつきながらも、気丈に言葉を絞り出した。「すみません......幼い頃の悪さまで思い出してみたんです。でも、社長のところで何がまずかったのか、本当に分からないんです」後のことを思えば、夫人が意識を取り戻したときも、彼はすぐ駆けつけた。しばらくは運転手を務めたこともある。だが、その間も、夫人や社長の面前に顔を出すようなことはしなかった。では、どこが間違いなのか。匠には本当に分からなかった。「せめてきれいな死に方を......」匠は目を閉じ、最後の頼みのようにそう言った。もうどうしようもない。延々とここで時間を稼ぐより、はっきりさせてほしかったのだ。だが当然のことながら、京弥にそんな長期の忍耐はない。諦めた
電話のベルがせわしなく鳴り響くたびに、匠の胸までざわつき、落ち着かなくなる。このタイミングで、社長が電話をかけてくる理由とは一体何だ。彼は受話器に手を伸ばしたものの、その右手は受話器の上で長く宙づりになった。頭の中では「取るべきか、取らざるべきか」がぐるぐると渦巻き、妙な不安が胸を支配する。そしてもう一つ――何か大事なことを見落としている気もする。その「何か」が思い出せず、指先は電話機の上で固まったままだ。そんなふうに逡巡しているうちに、着信音はぷつりと途切れた。その瞬間、匠の心臓も一緒に止まった気がした。頭に浮かんだのは、たった一言――終わった。電話に即座に出なかった。京弥がこれで黙っているはずがない。そう思った矢先、まるで予想をなぞるように、彼の執務室の扉がノックされた。びくりと椅子から飛び上がりかけた匠は、体勢を整える間もなく声を聞く。「井上さん、いらっしゃいますか?」何度か深呼吸して心を落ち着かせたあと、匠は外に向かって答えた。「はい。何か」中に入ってくる様子はなく、扉越しに用件だけが告げられる。「井上さん、社長がすぐに来るようにとのことです。急ぎで、との伝言です」そして相手は、親切心からか一言付け足した。その声音からも、社長の機嫌が良くないのは明らかだった。その言葉を聞いた瞬間、匠の背筋はさらに冷え込む。終わりだ、本当に今回はまずい。たった一度電話を取り損ねただけでこの事態。どう考えても、軽く済むようなことではなさそうだった。彼は慌ただしく執務室のドアを開け、伝言役の社員がまだ廊下にいることに気づく。思わず問いかける。「その......伝言を頼まれた時、社長の様子はどうだった?」相手は匠の青ざめた顔を見て一瞬言葉に詰まりながらも、期待を裏切らぬよう正直に答えた。「機嫌、かなり悪そうでしたよ。気をつけてください」その瞬間、匠は足元をもつれさせ、肩から力が抜ける。助かる見込みは薄い、と顔に刻まれていた。何度も深く息を吸い込み、自分を奮い立たせる。そして死地に赴く兵士のような足取りで、ついに京弥のオフィスの前へと辿り着いた。後ろで見ていた伝令の社員は、思わず目に哀れみを浮かべる。「はあ......よくもまあ社長に逆らうこ







