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クチナシが咲く頃に
クチナシが咲く頃に
Author: 匿名

第1話

Author: 匿名
夜中、松本凛(まつもと りん)の子宮口が3センチも開いたのに、胎児の首にへその緒が三重に巻き付いてしまっていることが分かった。

「ご家族の方は?いったいどこに行っちゃったんですか!」

さっきまで分娩室のドアの前で待っていたはずの松本翔平(まつもと しょうへい)が見つからなく、看護師長は焦りで泣き出しそうだった。

看護師長は凛に同意書を差し出す。

「すぐに帝王切開をしないといけないのですが、ご主人と連絡がつかないんです。なので、ご自身でサインしていただけますか?」

「そんな遠くへ行くはずはないと思います!わ……私、電話しますね!」

5回連続で電話をかけた。しかし、聞こえてきたのは冷たく耳障りな呼び出し音だけ。凛の心は、底なし沼に沈んでいくように、どんどん重くなっていく。

23時58分。どんどん激しくなる陣痛のなか、凛は面倒を見ている女子大生、入江百合(いりえ ゆり)が更新したインスタの投稿を目にした。

【彼氏が成人のお祝いをくれるんだって】

23時59分。百合が再び投稿をする。

【もう我慢できないって言われた】

凛は携帯に向かって必死に叫ぶ。「翔平、どこにいるの……」

0時1分、携帯の画面が光った。

【彼氏とひとつになれた。一緒にお風呂にも入って……大人の世界ってすてき】

激しい痛みの中、凛は震える手でサインし終えると、麻酔で意識を失った。

しかし、この翔平に電話をかけたり、サインをしたりしていた僅か数分の遅れのせいで、胎児は臍の緒が絡まったことにより窒息死し、凛自身も出血多量で命の危機に瀕したのだった。

夜が明ける頃、麻酔から覚めた凛は、空っぽになった腹部と麻痺するほど痛む傷口から、赤ちゃんがいなくなったことを感じた。

一方、百合のインスタでは、ある男とキスしている写真をぼやかすように加工したものが、嫌でも目に入るようトップに固定されていた。

【大人の『お』は、堕ちるの『お』。一生忘れられない、7回の『大人への階段』をありがとう】

どんなにぼやけていても、凛にはそれが翔平だと分かった。

「その有名な弁護士先生、奥さんが裏社会の人たちに襲われた事件の裁判で勝つために、色々してたらもう少しで殺されるところだったんだって!」

「赤ちゃんも体外受精を6回もしてやっと授かったらしいのにね。すごい大切にしているように見えたけど、なんで肝心な時に連絡がつかなかったんだろう?」

そんな噂話が聞こえる中、目を真っ赤に泣き腫らした翔平が飛び込んできた。子供が亡くなったことは、もう知っているようだった。

しかし、彼の首筋に残る乱れたキスマークは、昨夜の7回にわたる情事をはっきりと物語っている。

凛は虚ろな目で翔平を見つめた。何度か口を開こうとしたが、痛みで一言も声が出せない。

「凛!ごめん、明け方にすごく急な案件の電話が入ってしまって……それに、君なら自然分娩でいけると思ってから……

子供はまた作ればいい。これからはずっと傍にて、もう君から絶対に離れないから」

翔平は嘘をついているのに、そこからは何の後ろめたさも感じられず、彼の悲しみは本物のように見えた。

その偽りの仮面に、凛は吐き気を催し、目の前がぐるぐると回るような感覚に襲われた。

凛には理解できなかった。あんなに自分を愛してくれていた翔平が、どうして出産を控えた自分を放り出して、18歳になったばかりの人と一晩に7回も体を重ねることができたのだろう?

翔平の浮気のせいで、自分が9ヶ月もの間お腹で守ってきて、もうすぐ会えるはずだった我が子が、今頃は冷たい霊安室で小さな体を丸めて横たわっているのだと思うと、凛は胸に無数の棘が突き刺さるような痛みを感じた。

吐き気がこみ上げてきたが、看護師がお腹を押さえつける激痛で、意識が遠のきそうだった。

「少し我慢してくださいね。子宮の底を押すのは、悪露を早く出すためですから」看護師は、まるでお腹を突き破るかのような力で押した。

「すみません、もう少し優しくはできませんか?妻は痛みに弱いので」と、翔平が言う。

凛の手を固く握りしめ、目に涙を浮かべる翔平のその表情は、痛みは全部、自分が代わってあげたいとでも言いたげだった。

しかし次の瞬間、凛はありったけの力でその手を振り払った。

そして、まるでシーツを引き裂いてしまいそうなほどの力で、シーツを固く掴む。

翔平は一瞬、表情を強張らせた。もう一度凛の手を握ろうとしたその時、不意にドアが開き、大きなジャスミンの花束が人の姿より先に凛の視界に飛び込んできた。

「凛さん。さっき、赤ちゃんが亡くなったって知って……」そう言いながら花を置く百合の首筋には、翔平とお揃いのキスマークがあった。「この白い花、ちょうど今の状況にぴったり」

凛は激しく咳き込み、ベッドの脇にあった花束を力任せに床へ叩き落す。

「出ていって!」凛は低く唸るように言った。

「凛!」翔平が顔色を変える。「何するんだよ!せっかく百合が見舞いに来てくれたのに。それに、今回のことは、何も知らないんだから!

早く百合に謝れ。君は産後でホルモンバランスが崩れてるんだろう。百合はまだ子供だけど、きっと分かってくれるから」

「子供?」凛は真っ青な顔で、力なく笑った。

人の旦那のベッドに転がり込んでくる女が子供だって?

結局、凛はその場で二人を問い詰めることはせずに、ただ涙をこらえてこう尋ねた。「翔平。私がジャスミンの花にアレルギーがあるってこと忘れたの?」

百合を宥めようとしていた翔平の動きが、ぴたりと止まり、その手が宙に浮いたままになった。

「ご家族の方、サインをお願いできますか?」

外から看護師の声が聞こえてくると、翔平は逃げるように足早で部屋を出ていった。

百合はドアを閉めると、それまでのおとなしい態度を一変させ、不気味な表情で一歩ずつ凛に近づいてきた。

「凛さん。全部知ってるくせに、どうして何も言わないの?

まあ、翔平さんは素敵な人だもんね。あの人と別れたくないんでしょ?

大丈夫。凛さんのために、まだまだたくさんサプライズを用意してあるからさ!これから……じっくり楽しみにしててね!」

そう言うと、百合は「パァンッ」と自分の頬を叩き、ジャスミンの花束を拾い上げると、泣きながら部屋を出て行った。

ドアの外から、翔平の優しい声が聞こえてきたが、凛の病室のドアが再び開かれることはなかった。

日が暮れる頃、翔平からメッセージが届いた。

【凛、数日間出張になったんだ。だから、君の体調が回復したら、一緒に赤ちゃんのお葬式をあげてあげよう】

凛はそのメッセージを読むと、そのまま削除し、ある番号に電話をかけた。

「法律事務所でお世話になる話、受けさせてもらうわ。1ヶ月後、時間通りに出勤するから」

決意はもう固まっていた。

1ヶ月あれば、できることはたくさんある。

子供の事を済ませて、離婚し、自分の身の回りを整理する。

そして――

翔平は絶対に許さない。

社会的に抹殺してやる。
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