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クチナシが咲く頃に

クチナシが咲く頃に

By:  匿名Completed
Language: Japanese
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夜中、松本凛(まつもと りん)の子宮口が3センチも開いたのに、胎児の首にへその緒が三重に巻き付いてしまっていることが分かった。 「ご家族の方は?いったいどこに行っちゃったんですか!」 さっきまで分娩室のドアの前で待っていたはずの松本翔平(まつもと しょうへい)が見つからなく、看護師長は焦りで泣き出しそうだった。 看護師長は凛に同意書を差し出す。 「すぐに帝王切開をしないといけないのですが、ご主人と連絡がつかないんです。なので、ご自身でサインしていただけますか?」

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Chapter 1

第1話

夜中、松本凛(まつもと りん)の子宮口が3センチも開いたのに、胎児の首にへその緒が三重に巻き付いてしまっていることが分かった。

「ご家族の方は?いったいどこに行っちゃったんですか!」

さっきまで分娩室のドアの前で待っていたはずの松本翔平(まつもと しょうへい)が見つからなく、看護師長は焦りで泣き出しそうだった。

看護師長は凛に同意書を差し出す。

「すぐに帝王切開をしないといけないのですが、ご主人と連絡がつかないんです。なので、ご自身でサインしていただけますか?」

「そんな遠くへ行くはずはないと思います!わ……私、電話しますね!」

5回連続で電話をかけた。しかし、聞こえてきたのは冷たく耳障りな呼び出し音だけ。凛の心は、底なし沼に沈んでいくように、どんどん重くなっていく。

23時58分。どんどん激しくなる陣痛のなか、凛は面倒を見ている女子大生、入江百合(いりえ ゆり)が更新したインスタの投稿を目にした。

【彼氏が成人のお祝いをくれるんだって】

23時59分。百合が再び投稿をする。

【もう我慢できないって言われた】

凛は携帯に向かって必死に叫ぶ。「翔平、どこにいるの……」

0時1分、携帯の画面が光った。

【彼氏とひとつになれた。一緒にお風呂にも入って……大人の世界ってすてき】

激しい痛みの中、凛は震える手でサインし終えると、麻酔で意識を失った。

しかし、この翔平に電話をかけたり、サインをしたりしていた僅か数分の遅れのせいで、胎児は臍の緒が絡まったことにより窒息死し、凛自身も出血多量で命の危機に瀕したのだった。

夜が明ける頃、麻酔から覚めた凛は、空っぽになった腹部と麻痺するほど痛む傷口から、赤ちゃんがいなくなったことを感じた。

一方、百合のインスタでは、ある男とキスしている写真をぼやかすように加工したものが、嫌でも目に入るようトップに固定されていた。

【大人の『お』は、堕ちるの『お』。一生忘れられない、7回の『大人への階段』をありがとう】

どんなにぼやけていても、凛にはそれが翔平だと分かった。

「その有名な弁護士先生、奥さんが裏社会の人たちに襲われた事件の裁判で勝つために、色々してたらもう少しで殺されるところだったんだって!」

「赤ちゃんも体外受精を6回もしてやっと授かったらしいのにね。すごい大切にしているように見えたけど、なんで肝心な時に連絡がつかなかったんだろう?」

そんな噂話が聞こえる中、目を真っ赤に泣き腫らした翔平が飛び込んできた。子供が亡くなったことは、もう知っているようだった。

しかし、彼の首筋に残る乱れたキスマークは、昨夜の7回にわたる情事をはっきりと物語っている。

凛は虚ろな目で翔平を見つめた。何度か口を開こうとしたが、痛みで一言も声が出せない。

「凛!ごめん、明け方にすごく急な案件の電話が入ってしまって……それに、君なら自然分娩でいけると思ってから……

子供はまた作ればいい。これからはずっと傍にて、もう君から絶対に離れないから」

翔平は嘘をついているのに、そこからは何の後ろめたさも感じられず、彼の悲しみは本物のように見えた。

その偽りの仮面に、凛は吐き気を催し、目の前がぐるぐると回るような感覚に襲われた。

凛には理解できなかった。あんなに自分を愛してくれていた翔平が、どうして出産を控えた自分を放り出して、18歳になったばかりの人と一晩に7回も体を重ねることができたのだろう?

翔平の浮気のせいで、自分が9ヶ月もの間お腹で守ってきて、もうすぐ会えるはずだった我が子が、今頃は冷たい霊安室で小さな体を丸めて横たわっているのだと思うと、凛は胸に無数の棘が突き刺さるような痛みを感じた。

吐き気がこみ上げてきたが、看護師がお腹を押さえつける激痛で、意識が遠のきそうだった。

「少し我慢してくださいね。子宮の底を押すのは、悪露を早く出すためですから」看護師は、まるでお腹を突き破るかのような力で押した。

「すみません、もう少し優しくはできませんか?妻は痛みに弱いので」と、翔平が言う。

凛の手を固く握りしめ、目に涙を浮かべる翔平のその表情は、痛みは全部、自分が代わってあげたいとでも言いたげだった。

しかし次の瞬間、凛はありったけの力でその手を振り払った。

そして、まるでシーツを引き裂いてしまいそうなほどの力で、シーツを固く掴む。

翔平は一瞬、表情を強張らせた。もう一度凛の手を握ろうとしたその時、不意にドアが開き、大きなジャスミンの花束が人の姿より先に凛の視界に飛び込んできた。

「凛さん。さっき、赤ちゃんが亡くなったって知って……」そう言いながら花を置く百合の首筋には、翔平とお揃いのキスマークがあった。「この白い花、ちょうど今の状況にぴったり」

凛は激しく咳き込み、ベッドの脇にあった花束を力任せに床へ叩き落す。

「出ていって!」凛は低く唸るように言った。

「凛!」翔平が顔色を変える。「何するんだよ!せっかく百合が見舞いに来てくれたのに。それに、今回のことは、何も知らないんだから!

早く百合に謝れ。君は産後でホルモンバランスが崩れてるんだろう。百合はまだ子供だけど、きっと分かってくれるから」

「子供?」凛は真っ青な顔で、力なく笑った。

人の旦那のベッドに転がり込んでくる女が子供だって?

結局、凛はその場で二人を問い詰めることはせずに、ただ涙をこらえてこう尋ねた。「翔平。私がジャスミンの花にアレルギーがあるってこと忘れたの?」

百合を宥めようとしていた翔平の動きが、ぴたりと止まり、その手が宙に浮いたままになった。

「ご家族の方、サインをお願いできますか?」

外から看護師の声が聞こえてくると、翔平は逃げるように足早で部屋を出ていった。

百合はドアを閉めると、それまでのおとなしい態度を一変させ、不気味な表情で一歩ずつ凛に近づいてきた。

「凛さん。全部知ってるくせに、どうして何も言わないの?

まあ、翔平さんは素敵な人だもんね。あの人と別れたくないんでしょ?

大丈夫。凛さんのために、まだまだたくさんサプライズを用意してあるからさ!これから……じっくり楽しみにしててね!」

そう言うと、百合は「パァンッ」と自分の頬を叩き、ジャスミンの花束を拾い上げると、泣きながら部屋を出て行った。

ドアの外から、翔平の優しい声が聞こえてきたが、凛の病室のドアが再び開かれることはなかった。

日が暮れる頃、翔平からメッセージが届いた。

【凛、数日間出張になったんだ。だから、君の体調が回復したら、一緒に赤ちゃんのお葬式をあげてあげよう】

凛はそのメッセージを読むと、そのまま削除し、ある番号に電話をかけた。

「法律事務所でお世話になる話、受けさせてもらうわ。1ヶ月後、時間通りに出勤するから」

決意はもう固まっていた。

1ヶ月あれば、できることはたくさんある。

子供の事を済ませて、離婚し、自分の身の回りを整理する。

そして――

翔平は絶対に許さない。

社会的に抹殺してやる。
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第1話
夜中、松本凛(まつもと りん)の子宮口が3センチも開いたのに、胎児の首にへその緒が三重に巻き付いてしまっていることが分かった。「ご家族の方は?いったいどこに行っちゃったんですか!」さっきまで分娩室のドアの前で待っていたはずの松本翔平(まつもと しょうへい)が見つからなく、看護師長は焦りで泣き出しそうだった。看護師長は凛に同意書を差し出す。「すぐに帝王切開をしないといけないのですが、ご主人と連絡がつかないんです。なので、ご自身でサインしていただけますか?」「そんな遠くへ行くはずはないと思います!わ……私、電話しますね!」5回連続で電話をかけた。しかし、聞こえてきたのは冷たく耳障りな呼び出し音だけ。凛の心は、底なし沼に沈んでいくように、どんどん重くなっていく。23時58分。どんどん激しくなる陣痛のなか、凛は面倒を見ている女子大生、入江百合(いりえ ゆり)が更新したインスタの投稿を目にした。【彼氏が成人のお祝いをくれるんだって】23時59分。百合が再び投稿をする。【もう我慢できないって言われた】凛は携帯に向かって必死に叫ぶ。「翔平、どこにいるの……」0時1分、携帯の画面が光った。【彼氏とひとつになれた。一緒にお風呂にも入って……大人の世界ってすてき】激しい痛みの中、凛は震える手でサインし終えると、麻酔で意識を失った。しかし、この翔平に電話をかけたり、サインをしたりしていた僅か数分の遅れのせいで、胎児は臍の緒が絡まったことにより窒息死し、凛自身も出血多量で命の危機に瀕したのだった。夜が明ける頃、麻酔から覚めた凛は、空っぽになった腹部と麻痺するほど痛む傷口から、赤ちゃんがいなくなったことを感じた。一方、百合のインスタでは、ある男とキスしている写真をぼやかすように加工したものが、嫌でも目に入るようトップに固定されていた。【大人の『お』は、堕ちるの『お』。一生忘れられない、7回の『大人への階段』をありがとう】どんなにぼやけていても、凛にはそれが翔平だと分かった。「その有名な弁護士先生、奥さんが裏社会の人たちに襲われた事件の裁判で勝つために、色々してたらもう少しで殺されるところだったんだって!」「赤ちゃんも体外受精を6回もしてやっと授かったらしいのにね。すごい大切にしているように見えたけど、なんで肝
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第2話
翌朝、凛はたった一人で胎児の亡骸を抱え、葬儀場へと向かった。腕の中の青紫色になってしまった小さな体を抱きしめ、声を詰まらせながら語りかける。「あなたを見送るのはママ一人でやるからね。パパは汚すぎる。きれいなあなたにはふさわしくないもの」小さな体が火葬炉へと送られるとき、凛はついに堪えきれず、声を上げて泣き崩れた。「ママが馬鹿だったせいで……守ってあげられなくて、ごめんね」そのとき、携帯が不意に震えた。百合から送られてきた写真が、涙でぼやけた視界に突き刺さる。豪華なクルーズ船の上で、ドレスを着た百合がバースデーケーキを前にお願いごとをしていた。そして、そんな百合を翔平がとろけるように甘い目で見つめている。【凛さん。私が何をお願いしたか分かる?】【凛さんが一生、子供の産めない体でいますようにってお願いしたんだ】凛は指の関節が白くなるほど携帯を強く握りしめた。職員の人が出てきて、猫の足跡が描かれた骨壺を凛に手渡す。その声は、少し震えていた。「まだとても小さなお子さんでしたから……火の温度と時間を調整したのですが、それでも残ったのは、僅か4グラムでした」4グラム。それは、ほとんど重さを感じられない。そのあまりの軽さに、凛は押しつぶされそうで今にも倒れそうだった。胸に走る激痛をこらえながら、凛は「松本光(まつもと ひかり)」と言う名前が刻まれたお守りをそっとその中に入れる。骨壺の口が閉じられた瞬間、まるで自分の心も一緒に封じ込められてしまったかのように感じた。凛は携帯の電源を切ると、まっすぐC市にあるお寺へと向かった。そこに5日間泊まり込み、位の高い僧侶に頼んで、光のために供養のお経をあげてもらった。5日後、凛は自宅へ戻った。ドアを開けた瞬間、その場に凍りついてしまった。青色だったカーテンはピンク色に、シルクのカーペットはウールのものに変わっていた。そして、部屋には濃厚なジャスミンの香りが立ち込めている。「凛さん?」驚いたように振り返る百合の手には、凛が一番気に入っているアンティークのコーヒーカップが握られていた。凛は冷たく言い放つ。「どうして私の家にいるの?」「凛?」普段は料理などしない翔平が、エプロン姿で出てきた。その声には、どこか慌てたような響きがある。「
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第3話
「凛!目が覚めたのか!」凛が目を覚ますと、翔平の心配そうな顔が最初に目に飛び込んできた。翔平は焦ったように凛の手を握りしめ、不安げな声で話しかける。「往診の先生に注射を打ってもらったから、もう大丈夫だ。俺がどんなに心配したか!帰ってきて君が倒れているのを見た時……子供を失ったばかりなのに、君まで失ってしまうのかと思ったよ……」しかし、凛は勢いよくその手を振りほどき、顔をそむけた。翔平は百合のちょっとしたかすり傷には慌てふためいて、自ら病院に抱えていったのに、自分がアナフィラキシーショックで倒れた時には、翔平は往診の医者を呼ぶだけで済ませようとしたのだ。昔の翔平は、自分が咳を一つしただけで、心配して入院させようとするほど、あんなに大事にしてくれていたのに。いったい、いつから翔平の心は離れてしまったのだろう?必死に思い出そうとすればするほど、頭がズキズキと痛む。翔平は凛の青ざめた横顔を見つめ、困ったような声で言った。「寝室までやるなんて、あの気の利かない使用人は……でも、凛。もうあんな使用人なんてクビにしたからな!」その時、百合が入ってきた。「凛さん、ごめんなさい!ウールのカーペットとジャスミンの花はもう片付けたから。アレルギーがそんなにひどいとは知らなくて……本当にごめんなさい」凛は冷たく百合を睨みつける。「本当に申し訳ないと思っているなら、今すぐ私の家から出て行って。それと、あなたはもう成人したんだから、支援はこれで終わり。最初の契約通り、就職したら今までの支援金を分割で返してもらうから」しかし、百合はたちまち目を赤くした。「研修中の給料なんてたったの10万円なのに?そんな大金、返せるわけないよ。凛さん、もしかして翔平さんが私によくしてくれるからって、やきもちを焼いて意地悪してるの?」百合はどさっと床に崩れ落ち、すぐに涙を流してみせる。「凛さん、安心して。翔平さんが愛しているのはあなただけ。それに、私もあなたの助けには感謝してる!お金が貯まったら必ず返すから、いいでしょ?」見るからに不憫に思った翔平は、さっと百合を引き起こすと、凛を咎めるように見た。「凛!百合を脅してどうするんだよ?そのくらいのお金、百合が貯められるようになってから返してもらえばいいだろ?」翔平が百合の背中を優し
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第4話
1週間後。病室で、凛は探偵から届いた封筒を開けた。指先は氷のように冷たかった。刑務所に入る前、正人は翔平が松本家の人間だとは知らなかったらしい。しかし、何という運命のいたずらか、正人は一族の権力と引き換えに、松本家に対して自分の隠し子である百合を探し出し、面倒を見てほしいと頼み込んだのだった。そういうことだったのか。凛は指先が白くなるほど力を込めて書類を握りしめる。きちんと法の裁きが下ったのだと思っていたのに、その裏ではただ取引が行われていただけだった。なんてことだろう……自分はこの手で、4年間も憎い敵の娘の面倒を見ていたなんて。自ら災いを招き入れ、自分の子供を死なせてしまった!激しい吐き気に襲われ、凛はトイレに駆け込んでえづいたが、出てきたのは胃液だけだった。トイレの床にうずくまりながら、5年前に病室で目覚めた時のことを思い出す。翔平はうさぎのように目を真っ赤にして、自分の手を握り、「絶対、奴らに法の裁きを受けさせてみせるから」と言っていた。そして、翔平は証拠集めや裁判に奔走する以外、全ての時間を看病に費やしてくれた。あの事件で負った、酷くただれてしまった傷の手当ても、看護師には任せずに、「凛は痛みに弱いから、他の人が優しくやってくれなかったら困るだろ?」そう言って、いつも翔平が自ら薬を塗ってくれたのだった。「凛は痛みに弱いから、他の人が優しくやってくれなかったら困るだろ?」結婚してからの1年間、翔平は辛抱強く傍にいてくれ、凛が少しずつトラウマを乗り越えるのを助けてくれた。周りの友人は皆、翔平のことを「最高の旦那さん」だと言っていた。しかし、その優しさの裏には、こんなにもたくさんの事情が隠されていたなんて。凛はふらつきながら階段を駆け下りた。爆発しそうな自分を、冷たい風で少しでも落ち着かせたかった。その時、忘れもしないあの男の姿が目の前を横切った。正人だ!正人は全身をブランド物で固め、煙草をくわえたまま、これ見よがしに凛を触ってきた。「お前のガキ、死んだんだって?でもな、俺はまた父親になるんだぜ!早めにシャバの空気も吸えたしな!」凛は全身が震え、血の気が引いていくのが分かった。正人が出所した?また、父親になる?じゃあ、自分の赤ちゃんは?生まれてすぐに息絶えて、たった
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第5話
百合の手には、なんとあの猫の足跡が描かれた骨壺があったのだ。凛は目を見開き、金切り声をあげて飛びかかる。「返して!」翔平は凛の腕を掴んだ。その声は氷のように冷たい。「どうして俺が帰ってくるのを待たずに、光を火葬したんだよ?その上、遺骨をあんな遠いお寺に納めるなんて。一体、何を考えてるんだ?」凛は全身を震わせた。「自分の子なのに、私がお葬式する権利もないの?」翔平は声を荒げた。「自分の子?君は松本家に嫁いできたのは、跡継ぎを産むためだろ!だから、この子は松本家の子だ!君はこの子を産むための道具にすぎないんだから、もちろん、勝手にお葬式をあげる権利なんてないんだよ!」凛はまるで雷に打たれたかのように感じた。翔平がまさかそんな冷たい言葉を吐くなんて信じられなかった。お腹の子が動き始めた頃、翔平はいつもお腹の小さな命に優しく話しかけてくれていたのに。「君の名前は光だよ。パパはママを愛してる。だから君は、パパとママの愛の結晶なんだ」あの頃の翔平の眼差しは、とても優しくて、希望に満ちていたし、その温かさに心はとろけそうだった。しかし今、翔平は言った。自分はただの「産むための道具」だと……凛は、はっと我に返ると、再び骨壺を奪おうと手を伸ばす。「もう訴えないと約束するなら、返してやる」翔平は、凛の腕を力ずくで押さえつけた。「絶対に訴えてやる!原田さんが刑務所で一生を終えるまで!」凛は憎しみに歯を食いしばった。すると、翔平は苛立ちを隠さず、百合に目配せをする。百合が鼻で笑うと、骨壺の蓋を開けた。そして、汚いものでも触るかのように、指先で中の小さなお守りをつまみ上げる。お守りには、白っぽい粉が付いていて、百合が手を揺らすと、遺灰がはらはらと舞い落ちた。「やめて、やめて!」凛は泣き叫びながら前に出ようとしたが、お腹の傷が痛み動けなかった。翔平は、そんな凛を冷静に抑えつける。「もう訴えるのはやめろ。原田さんは、二度と君の前に現れないと約束したから、昔のことは事故にでも遭ったと思って忘れろ」「忘れる?」凛は怒りでどうにかなりそうだった。来る日も来る日も、自分を苦しめたあの憎い顔を、忘れられるわけがない。凛は歯を食いしばり、叫んだ。「あなたたち……裏で繋がってたの?翔平、あなたに人の心ってものはないの?絶対
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第6話
凛の刃が百合の腕に数センチの切り傷をつけた。血が噴き出した瞬間、凛は翔平によって地面に強く押さえつけられた。お腹の傷がまた引っぱられ激痛が走り、目の前が何度も真っ暗になる。「わざとやったわね!警察呼ぶから!」百合は泣き声で携帯を手にした。翔平は百合を止めなかったどころか、一言も口を開かなかった。警察はすぐにやって来た。凛が両腕を後ろ手に縛られて連行されるとき、百合が凛の耳元に近づき、声を潜めて言った。「あなたの両親のお墓がどこにあるか、知ってるんだから。もし警察で余計なことでも話してみなよ。あなたの両親の遺骨も、さっきみたいに全部撒き散らしてあげるんだから」凛は激しく体を震わせた。まるで喉を締め上げられたようで、息がほとんどできない。自分が4年も面倒を見てきた、か弱い花のような百合を見て、凛は心の底からぞっとした。何も言い返すことができなかった凛は、なされるがままに警察署へと連れて行かれた。結局、百合の怪我が軽かったため、凛は10日間の拘留だけだった。面会に来た翔平の瞳には、複雑な感情が渦巻いていた。「君にとって一番軽い罪になるよう、手を尽くしたよ」凛は顔を上げ、苦々しく笑う。「レイプ事件だって減刑を勝ち取って、5年足らずで釈放させられるくせに、百合にほんの少しの怪我をさせた私は、あなたの力で10日間もここに居られるわけね?」翔平は眉間にしわを寄せ、慌てた様子で言い繕った。「精一杯やったんだ。前科はつかないから安心してくれ。まあ……産後の体を休める期間だと思ってさ」産後の体を休める……か。この言葉が、凛の心を深く抉る。凛は無意識にお腹を押さえた。ずっと癒えない傷跡がずきずきと痛み、自分がまだ産後間もない体であることを絶えず思い出させてくる。どうして翔平は、「留置場で産後の体を休めろ」なんて言葉を軽々しく口にできるのだろう?心の奥にあった最後の希望が、完全に打ち砕かれた気がする。「もう行って。二度とあなたの顔なんて見たくないから」凛は背を向け、疲れが滲んだ声で言った。翔平は少し黙った後、低い声で話し始めた。「凛。君は昔、優しくて思いやりがあったのに。今はカッとなりやすくて嫉妬深い。中でしっかり反省してこい。これからも人生は続くんだ。出てくる頃には、ちゃんと考えを改めてく
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第7話
拘留期間が終わった日、留置場の外には誰もいなかった。翔平は来なかったのだ。凛はどんよりとした空の下に立ち、深呼吸を一つしてタクシーを止めた。家に荷物を取りに戻ったら、すぐにこの街を出るつもりだった。車はすごいスピードで走っていく。窓にもたれていると、どっと疲れが押し寄せてきた。次に目を開けた時、凛は鉄の椅子に縛りつけられていて、動かせるのは頭だけだった。周りを見渡すと、そこはどうやら廃倉庫のようだった。少し離れた場所に、百合も同じように縛られているようだが、どんな表情をしているのかはよく見えない。「目は覚めたか?」聞き覚えのある声がする。マスクをつけた男が、鞭を手に持って現れた。男は凛の前に立つと、鞭を容赦なく振り下ろした。焼けるような痛みが全身に広がる。凛は奥歯を強くかみしめ、うめき声を飲み込んだ。この声は……脳の奥深くにしまい込んでいた記憶が、無理やりこじ開けられる。5年前のあの夜、耳元で何度も聞いたいやらしい欲望と残忍な笑いが混じったこの声……あの時の男たちの一人だ。「ちっ、相変わらず強情な女だな」男はあざ笑い、もう一度鞭を振り下ろす。「お前があの時、俺たちを訴えたり、話を大ごとにしなけりゃ、うちのボスの会社が潰れることもなかったし、俺たちがこんな風に落ちぶれることもなかったんだ!」凛は叫ぶ。「もう一度訴えられるとは思わないの?」「それがどうした?」男は凛の言葉を遮り、ふてぶてしい態度で言い放った。「一度やったんだ。一度も二度目も同じことだからな!あのクソ弁護士だってそうだ。最初はお前をエサにしてうちのボスを誘惑してきたくせに、すぐお前の味方になって執拗に追い詰めてきた。結局、原田家の資産を横取りするのが目的だったんだよ!今日は見ものだな。あの偽善者の二枚舌が、お前を選ぶのか、それとも他の女を選ぶのかがな!」凛は全身の血が一瞬で凍りついたように感じた。全てのピースが、今この瞬間に一つの真実を形作った。やはり……翔平が自分を地獄に突き落としたのだ。そして、その後は救世主気取りで颯爽と現れ、原田家を手に入れた。名誉も資産も手に入れた挙げ句、自分に感謝させ、心の底から彼に惚れ込ませていたなんて。心臓がずたずたに引き裂かれ、痛みで気を失いそうだった。自分
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第8話
翔平は百合を車に押し込むと、アクセルをベタ踏みした。バックミラーに映る廃倉庫のドアが、どんどん小さくなっていく。しかし、凛の最後の言葉が、頭から離れなかった。「翔平、警察を呼んで――」凛は自分に助けを求めずに、ただ警察を呼べと言った……なぜだ?自分が助けに戻ると信じていないのか?自分は凛の夫で、名の知れた弁護士で、松本家の跡取りなのに。なぜ信じない?翔平は心臓が締め付けられ、ハンドルを握る指先は白くなっていた。百合は翔平の強張った顔に気づき、優しい声で慰める。「そんなに心配しなくても大丈夫だと思うよ、翔平さん。犯人だってお金が目的なんだから。それに、あなたの正体も知ってるはずだし、お金を渡せばちゃんと解放してくれるよ」しかし、翔平は何も答えなかった。なんとか百合のその言葉で自分を落ち着かせようとしたが、心の奥底の不安は広がるばかりだったので、秘書の山下大輔(やました だいすけ)に震える声で連絡をとった。「現金2億を用意しろ!すぐにだ!今すぐ!」一分一秒が地獄のように感じる。翔平はリビングを行ったり来たりしながら、何度も時計に目をやった。僅か十数分の間だったのに、脳裏には凛の青白い顔が何度もよぎった。血の滲む下腹部を押さえながらこっちを見つめる姿や、割れた骨壺を抱えて泣き崩れる姿……そして廃倉庫で見せた、絶望に満ちた凛の眼差し。ようやく大輔が、アタッシュケースを手に慌てて駆けつけてきた。翔平はトランクをひったくるように奪い取る。「遅すぎる!凛にもしものことがあったら、どう責任を取るつもりだ!」大輔は息を切らしながら小声で答えた。「かなり急なご要望でしたので、このお金はお父様のお力添えで……奥様を助け出した後、おそらくお父様のお屋敷へご自身で説明に行かれる必要があるかと」翔平はトランクを手に踵を返すと、吐き捨てるように言った。「父さんには俺から話す。どんなことになろうと、全部俺が引き受ける。凛が無事なら、それでいい」その言葉を側で聞いていた百合は、爪が食い込むほど強く手のひらを握りしめた。「翔平さん……」百合は突然、胸を押さえて翔平にもたれかかった。「苦しいの、動悸がすごくて……病院に連れて行って?」翔平は足を止めなかった。「山下に行かせろ。俺は凛を迎えに行かないとい
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第9話
15分後、翔平は車からよろめきながら飛び出すと、勢いよく廃倉庫のドアを押し開けた。「凛を放せ!」しかし廃倉庫はもぬけの殻で、その叫び声だけが虚しく響き渡った。翔平が下を向くと、地面には誰かを引きずったような跡が乱れていて、それは通用口の方へと続いていた。翔平は膝から崩れ落ち、その場にへたり込んだ。その時、はっと気づいた。凛が自作自演なんてするはずがないから、彼女は本当に連れ去られてしまったのだと。あの犯人が自分の言うことを聞かずに、勝手なことをしてしまうなんて。翔平はなんとか冷静になろうと、震える手で携帯を取り出し、ある番号に電話をかけた。電話の向こうから、威厳を帯びた声が聞こえてくる。「お前が何度も、俺が決めた縁談を断って、家柄も普通なあんな娘と結婚すると言い張った時、俺は言ったはずだ。今後どんな問題が起きても、俺のところに泣きついてくるなとな!」翔平は喉を詰まらせた。「父さん……俺が悪かった。凛が拉致されて行方不明なんだ。彼女を見つけるのに協力してくれるなら、父さんの言うことは何でも聞くから!」電話の向こうは少し黙った後、こう言った。「協力してやってもいい。だが、彼女と離婚しろ。お前の結婚相手は、俺が改めて決める」翔平は拳を握りしめた。しばらくして、力なく答える。「分かった。約束する」凛と離婚する気など毛頭なかったが、今回は松本家の力を借りなければ、凛を取り戻すことは不可能だと分かっていた。魂が抜けたような翔平が家へ戻ると、リビングは静まり返っていた。階段に足をかけた途端、声を潜めた百合の声が聞こえてきた。「凛さんが逃げたって?何やってるのよ!身代金から2000万円分けるって言ったのに、手も出してないうちに逃がすなんて!とにかく!3日以内に、彼女のいかがわしい写真を街中にばらまきなさい!」翔平は、まるで胸を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。これは全部、百合の仕業だったのか?翔平は勢いよく部屋のドアを押し開けた。物音に気づいた百合が、恐怖に顔を歪めて振り返った。携帯が手から滑り落ち、床に転がる。翔平は一歩一歩近づいていき、屈んで携帯を拾い上げた。そこに表示されていたメッセージの一つ一つが、針のように目に突き刺さる。【翔平さんが私を選んで立ち去ったら、すぐにあの女
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第10話
そのあとの1週間、翔平は全ての案件をキャンセルして、街中を駆けずり回り凛の行方を捜した。しかし、凛はまるで海に投げ込んだ石のように、完全に姿を消してしまった。夜も更けて静まり返った頃、翔平は画面を叩き割った百合の携帯を握りしめて、メッセージを一つ一つ読んでいた。もし自分が凛だったらと考えた。あの時の状況であんなひどい言葉を浴びせられて、どれほどつらかったか……想像もしたくない。凛が冷たい出産台の上で、へその緒が首に巻き付いた赤ちゃんのために、自分のサインを待っていた時、自分は百合と手をつないで、ラブホテルのドアを開けていた。凛が陣痛で全身を震わせている時、自分の指は百合の顔をなでていた。凛が命がけで産んだ赤ちゃんが目の前で息を引き取っていく中、自分は欲望の渦に7度も溺れていたなんて……凛のすべての希望を背負っていたその子が、灰となって消えた瞬間……二度と子を宿せない身体になればいい、と彼女は百合に心無い言葉をかけられた。翔平は目を閉じ、涙が服を濡らすのに任せた。凛がたった一人で、どれほどの痛みを抱えながら光の最後を見送ったのか、考えたくもなかった。ましてや、家に帰った凛が百合の趣味で模様替えされた部屋を見て、どれほどの悲しみと怒りを感じたかなんて、想像するだけで恐ろしかった。凛は確かにチャンスをくれていた。書斎に行く自分を引き止めて……なのに、自分は自分の嘘が完璧だと思い込んでいた。頭の中は、百合の魅力的な体のことでいっぱいだった。もしあの時、書斎に行かなかったら、凛は自分を騙して離婚届にサインさせることもなかったんだろうか?翔平は体を起こすと、煙草に火をつけた。深く煙を吸い込んでも、少しも気分は晴れない。ピコン――携帯が突然鳴った。「旦那様、奥様の情報が入りました!」翔平は手が滑り、煙草の灰を布団に落としそうになった。「早く教えろ!」「奥様が、佐藤先生に抱きかかえられて寝室に入っていくのを見た者がおります。それから……その……」「それからなんだ!?」翔平はベッドから転げ落ちそうになった。「一度も出てきていないと……」翔平は猛スピードで着替えると、佐藤家へ向かった。またあの佐藤哲也(さとう てつや)か?弁護士としてだと、哲也の事務所は自分の事務所にとって最大の脅威。名
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