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第5話

Author: カピバラ1号
彰人はメッセージを送った後、シャワーを浴びに行った。浴室から出てきても、スマホには栞からの返信は届いていなかった。

以前なら、彼がメッセージを送れば栞はいつも即レスだった。今、エビを剥いた方の手が痒くてたまらない。すでに何本も赤い発疹ができていた。

なのに清香は気にも留めず、見ても何も言わない。これが栞なら、きっと大騒ぎして心配してくれただろう。

いや、違う。

心配というより、栞は自分が何かあったら、高遠家が一条家の投資を受けられなくなるのを恐れているだけだ。だが、たとえ栞が金目当てだとしても、彰人は栞のそのやり方が確かに心地よかったと認めていた。

今日、彼が栞に何度も言ったひどい言葉を思い出し、彰人はどんなに女の機嫌を取るのが苦手でも、自らスマホを手に取り栞に電話をかけた。だが、聞こえてきたのは、話し中の音だった。彼は思わず吹き出した。

たいしたもんだ。本気で怒って、まさかブロックするとは。今夜は栞がいないせいで、彰人はなぜか眠れなかった。だが、明日は会社で重要な用事がある。これ以上、夜更かしはできない。

彰人は無理やり眠りについた。

翌日、会社へ車を走らせていると、道端に見慣れた姿を見つけた。その姿を彼3年間、毎日見てきた。見間違えるはずはない。だが、この時彼はそれを認めようとしなかった。

なぜなら、彼女が纏う赤いドレスがあまりにも眩しく炎のように鮮やかで、一目見ただけで目が焼かれるようだったからだ。

彰人は車の速度を落とし、その人物のそばをゆっくりと通り過ぎるまで、目を疑った。

「栞!」彼は栞を7、8回以上何度も何度も見つめ直した。以前は最も嫌いだった鮮やかな色が今、なぜか不思議と目に心地よく映った。「そのドレス、お前にしては珍しいな......」

栞は細い眉を上げた。彰人が言い終わる前に彼のいつもの言葉を先んじて口にした。

「はしたない?」

栞が少しでも鮮やかな色を身につけると、彰人はいつも容赦なくそう評価した。栞はもう慣れていた。

だが、他人の評価など、今の彼女は気にしない。

この先は役所だ。もうすぐ、彼女は景の妻になる。景は彰人の言葉など屁だと思えと言った。ならば、その通りにしよう。

実際、取るに足らない。

栞が口にした「はしたない」という言葉に彰人は眉をひそめた。普段、彼がよくこの言葉をにしていたが、栞自身の口から出ると、どうにも違和感があった。

「いや、似合ってる」

彰人は誓って、今回は本心から言った。いつも彼の前で清純なフリをしていた栞が突然、本来の姿を見せたことに彼は心底驚かされていた。

彰人の口からまともな言葉を聞くのは、珍しい。だが、今の彼女にはもう必要なかった。

「別れた途端に褒め言葉なんて、皮肉かしら」

栞は今朝巻いたばかりのウェーブヘアをかき上げた。赤いドレスを纏い道端に立つ彼女の姿は、目を奪われるほど美しく、古びたカメラで撮ったとしても雑誌の表紙を飾るに十分なほどだった。

彰人は彼女が褒められて喜ぶと思っていたが、栞の冷たい反応は彰人の予想外だった。

彼は諦めたように肘を車の窓枠にかけ、半身を栞の方に向けた。いつもは遊び心に満ちた不遜な顔が今、珍しく清香にだけ見せるような甘やかしの表情を浮かべていた。

「まだ怒ってんのか?悪かったよ、からかっただけだ。どこへ行く?送ってやる。今夜、荷物を持って帰ってこいよ」

からかった?

栞は3年前に受けた侮辱や罵倒を思い出し、「からかう」という言葉と結びつけるのは、あまりにも難しかった。

「結構よ」彼女は手を伸ばして目の前の役所を指差した。「結婚するの。あそこまで、歩いてすぐだから」

彰人の目元の笑みはさらに深まり、呼吸まで少し荒くなった。

彼は笑いをこらえきれずに咳き込みながら、栞に優しく言った。「結婚はまだ無理だ。今日は戸籍謄本を持ってきてない。また今度にしてくれ。会社でまだ用事があるんだ。乗らないなら、先に行くぞ」

栞は彼と無駄話をする気もなく適当に手を振ると、まっすぐ前の役所に向かって歩き出した。

栞が本当に車に乗らないのを見て、会社にも急用があったため、彰人はアクセルを踏み込み、車を遠ざけた。

だが、今の彼の気分は悪くなかった。栞はまだ自分との結婚を考えている。それなら、大して怒ってはいないのだろう。栞が戻ってきたら、あの白いワンピースは全部捨てさせてもいいかもしれない。

白いワンピースはやはり清香が着てこそ似合う。

栞については彼女が何をどう着ようと勝手だ。

「あれは一条の車か?」

栞が着いた時、景はすでに役所の前で待っていた。彰人の車が走り去るのを見て、彼の瞳に思案の色が浮かんだ。

栞は隠さず、正直に頷いた。「ええ。結婚しに来た、と彼に言いました」

「彼は何か言ったか?」

「戸籍謄本を持ってきてないから、また今度にしてくれって」

栞は先ほどの会話をそのまま繰り返した。

それを聞いて、景のポーカーフェイスだった顔に一瞬で笑みが広がった。厳格で冷たい男に急速に親しみやすさが加わる。

自分は幸運なのかもしれない。噂では凶暴で気性が荒いと言われる男がこの2回の面会で一度も怒らず、こんなに楽しそうに笑っている。これもひとえに彰人のおかげだろう。彼の勘違いは確かに笑える。

「あいつは放っておけ。行くぞ」

景は自分の結婚の知らせを見た時の彰人の顔を想像するだけで、心が晴れやかでたまらなかった。自分は確かに人に対して無情で気性が荒いが、少なくとも正々堂々としている。

彰人のように表向きは飄々として何事にも無関心なフリをしながら、裏では最も根に持ち、人に罠を仕掛けるような真似はしない。

過去の様々な争いの中で、彼でさえ彰人にしてやられたことが何度もある。

今回は彰人の女を奪うだけでなく、正々堂々と彼女を連れて世間に見せつけてやる。

その時になってようやく景は隣にいる女性に改めて目を向けた。

一目見ただけで世界を驚かせるほどの装いと、栞の完璧で一点の曇りもない顔立ちが相まって、極限の美しさを放っていた。

やはり彰人は見る目のない奴だ。

白いワンピースが綺麗だなどと、よく言えたものだ。

30分後。

婚姻届は受理された。

栞は一瞬、信じられなかった。彰人と3年間付き合っても手にすることのできなかった婚姻届を周防景というたった2回しか会っていない男と手に入れたのだ。

「新居はまだ片付いていない。住めるようになるまで数日かかるだろう。その間、実家で少し我慢してもらうことになる」

実家の父を思い出し、栞は少し気が重くなったが、すぐに気を取り直した。何年も我慢してきたのだ。あと数日くらい、どうということはない。

「わかりました」

「結婚した後、外で仕事をしたり、学んだりしてもよろしいでしょうか?」栞はためらいがちに尋ねた。

その言葉に景は目を伏せ、複雑な表情を浮かべる新妻を見つめた。夫婦になったとはいえ、こんな些細なことに俺が口出しする必要があるだろうか?

だが、昨日の栞のまるで体に張り付いたかのような白いワンピースを思い出し、景はある推測に至った。

「一条が許さなかったのか?」

「はい」栞は正直に頷いた。

許さないどころか、彰人は彼女を家に閉じ込め、自分一人にだけ仕えさせたいと願っていた。栞は大学でピアノを専攻し、本来なら楽団の首席になる機会もあった。

だが、彰人がそれを望まず、家が騒がしいのは、嫌だと言ったため、この3年間、彼女は一度もピアノに触れていない。今ではすっかり腕がなまってしまった。

景は彰人の言葉など屁だと思えと言った。

ならば、ピアノのことも......

景は笑わなかったが、きつく結ばれた唇が彰人に対する彼の嘲笑を物語っていた。

「栞、覚えておけ。女のキャリアに口を出すのは、器の小さい男のやることだ。俺と周防家に迷惑をかけない限り、お前が何をしようと勝手だ」
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