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第9話

Author: カピバラ1号
栞はまだ母のネックレスを取り戻したいと思っており、彰人とここで長話をする気はなかった。冷淡な表情で、こう言った。「一条彰人さん、私たちが別れたことについて、私は本気よ」

本気だと?

彰人は栞の顔をじっと見つめ、突然笑い出した。

彼は頷いた。「栞、今日お前が言ったことをよく覚えておくんだな。後でどんなに俺に泣きついても、二度と俺のそばには戻さない。せいぜい身の振り方を考えろ」と言った。

そう言い捨てると、彰人はさっさと立ち去った。

健一は眉をひそめて前に進み、不満げな口調で言った。「何でまた、彼と揉め事を起こすんだ?」

彰人の様子を見る限り、栞に全く未練がないわけではない。もし彼女をうまく手元に置いておければ、高遠家にとっても利益になるのではないか?

栞は父の考えを一目で見抜いた。

彼女の顔色が悪くなった。「もし景さんが、あなたが周防家との関係を考えながら、一方で私に彰人さんを繋ぎ止めさせようとしていることを知ったら、この二人の性格を考えて、どんなことをすると思う?」

健一の顔色は目まぐるしく変わり、一瞬、言葉を失った。

祥子が隣から口を挟んだ。「栞、たとえ周防家があなたを嫁に迎えることに同意したとしても、実家の後ろ盾は必要でしょう?今の口ぶりはまるで私たちがもう必要ないみたいじゃない」

栞は祥子を一瞥したが、そのまま無視した。

自分の部屋に戻るために2階に上がる前に、栞は美友菜に向かって言った。「あなたがネックレスを見つけられることを祈るわね。でなければ、この借りはきっちり清算させてもらうわ」

美友菜は唇を噛み締めたが、健一が傍にいるため、栞に対する嫌悪感をあまり表に出すことはできなかった。

栞はまだ高遠家にとって利用価値があるのだ。

父のような人間を知っている。普段の些細な揉め事なら、味方してくれるが、高遠家に影響するようなことになれば、彼は大局を考えろと言うだろう。

何しろ、この男はとっくに金の亡者なのだ。金儲けのためなら、誰のことでも平気で切り捨てる。

「お姉様、何のことだか、私にはわからないわ」

美友菜はやはり無邪気なふりをして、静かに言った。「もし本当にネックレスがなくなったのなら、どんなものだったか教えてくれない?私の友達にも探してもらうわよ、いい?」

栞は答えず、そのまま2階へ上がってスーツケースを持って降りてきた。

リビングでは、健一はすでに美友菜に機嫌を取られ、祥子も隣で美友菜の肩を持っていた。三人はすぐに仲睦まじい家族に戻り、栞だけが浮いているようだった。

「どこへ行くんだ?」

健一は栞が出かけようとしているのに気づき、一言声をかけた。「もし今すぐ景と同棲するつもりなら、彼との関係をよく考えるんだな。後で利用されて、追い返されることのないようにな」

栞の口元に冷笑が浮かんだ。振り返りもせず、荷物を持ってまっすぐ高遠家を出て行き、それらの言葉をすべて頭の中から消し去った。

......

一方、彰人は家を出た後、そのまま車を飛ばしてバーへ向かった。

入り口で連絡を受けていた者が、彰人が車から降りてくるのを見て、慌てて駆け寄りドアを開けた。

「どうして一人なんだ?」

黒崎颯太(くろさき そうた)は彰人の車内を覗き込んだ。「栞さんがお前と仲直りして、俺たちに改めて紹介してくれるんじゃなかったのか?彼女は?」

彰人は颯太が栞の名前を口にするのを聞いて、表情がさらに悪くなった。

彼は薄い唇をきつく結び、その瞳の奥には墨色の闇が渦巻いていた。冷たく嘲笑した。「あいつが何だって?俺に捨てられた、ただのガラクタだ」

捨てられたガラクタ?

颯太は彰人の表情を注意深く観察し、おそらく栞に腹を立てているのだろうと思った。

「まだ前のことで怒ってるのか?」

颯太は探るように言った。「女はみんな甘やかしてやるもんだ。それに栞は長年お前についてきたんだ。お前への気持ちは俺たちも知ってる。今、清香が戻ってきた途端、お前の気持ちが全部そっちに行ってしまったんだから、不快に思うのも無理はない」

彰人の瞳の奥の嘲りはさらに深まった。

彰人が何も言わなかったので、颯太もそれ以上は言えなくて、中へ案内するしかなかった。

二人が個室の一つを通り過ぎた時、耳ざとく中から栞の名前が聞こえてきた。非常に下品な口調で。

「高遠栞か。一度、遊んでみたいもんだな」

その男は酔っ払って言った。「みんな、あいつは一条彰人に遊び尽くされたって言ってるぜ。今じゃこの界隈で、あいつの評判を知らない奴はいない。たとえ結婚しなくても、金さえ払えば一晩付き合わせることもできるんじゃないか?」

「あの顔なら、いくら払っても損はねえな」

颯太は彰人の顔色が一気に険しくなるのを目の当たりにした。

そして、彼が体を横にしてドアを開け、殴りかかろうとするのを見た。

だが、彼よりも速い者がいた。

元々ソファに座っていた男が、真ん中のコーヒーテーブルを跨ぎ、その男の首筋を指で掴んだ。瞳の奥は一片の氷のように冷たく、まるで地獄から這い上がってきた閻魔大王のように、ゆっくりと告げた。「遊び尽くされた?金で遊ぶ?お前は何様だ?」

「す、周防社長、どうされました?」

その男は景の表情を見て、心底怯えた。だが、彼は今言ったことに間違いはないはずだ。

あの栞は彰人の女だ。景と彰人はずっと敵対していたのではなかったか?こんな話を聞けば、もっと気分が晴れるはずなのに。

「もしかして、あの栞も、周防様がお望みで?」

その男は自分がツボを押さえたと思い込み、そのまま言った。「もしお望みでしたら、私たちで何とかします。その時は、あの女を綺麗にしてから、周防様のベッドにお届けしますから。何しろ......」

「ドスッ!」

景は我慢の限界に達し、拳をその男の顔に振り下ろした。本気で殺すかのような勢いで殴りつけている。

周りの人々は景の様子を見て、なかなか前に出られなかった。最後は景と親しい者が前に出て彼を引き止め、その男を殺させなかった。

景の拳に血がつき、彼は目を伏せてティッシュを取り出し、自分の指を拭った。無頓着に言った。「栞はお前たちが手を出せる人間じゃない。もう一度、彼女の悪口を言うのを耳にしたら、容赦しない」

あの栞がいつの間に景と関係を持ったんだ?

颯太は思わず彰人を見たが、彰人の顔色はさらに悪くなっていた。

「周防社長はいつから、他人の女にそんなに興味を持つようになったんだ?」

彰人は冷たい顔でドアを開けて中に入り、氷のような視線で景と対峙した。「お前の仲間が栞にこんなことを言うのは、お前と関係があるんじゃないのか?ここで偽善者ぶる必要はないだろう?」

景は彰人が現れても、その表情に驚きはなかった。

むしろ、彰人がいずれ彼と栞が結婚したことを知るだろうと思うと、景の口元の笑みは思わず一層深まった。

「一条社長か、もう別れたのでは?」

景はゆっくりと、理路整然と言った。「別れたのなら、外で栞が自分の女だと言うのは、不適切ではないか?何しろ、栞が後で俺と関係を持つかどうか、誰にも分からないだろう?」
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