Masuk「そうです、あの人――あの人が、香料が違うと言って」
沙織は、指をさされてひるんだ。 出勤二日目、昨日沙織が指摘したことは主任のプライドをかなり刺激してしまったらしい。 取締役の視察に同行していた奏多の目の前で、突撃してきた主任が沙織を弾劾したのだ。 「いやしかし、入社二日目の新人ですから……」 「それほど相手にすることはないでしょう」 重役たちが口にする中、奏多は切れ長の瞳を沙織に向ける。 「遠慮なく、言ってみろ。そもそもはお前の作品だ」 「はい。ええと……『アデリア』には本来、スパニッシュジャスミンが入っているのですが、スパニッシュジャスミン特有のティーノートが、今回は感じ取れないんです。私が感じたのは、アラビアンジャスミンという種類で、スパニッシュジャスミンには入っていない、動物的な香りがしているんです。あと決定的なのが、オレンジブロッサムではなく、ネロリが使用されていることです。オレンジブロッサムとネロリはそもそもは同じ花から抽出しますが、ネロリが水蒸気蒸留なのに対して、オレンジブロッサムはアブソリュートなんです」 「と、いう事だ。今すぐ成分分析を頼む」 不満そうな主任を筆頭に、”アデリア”の成分調査が始まった。 沙織は自分の鼻を信じていたが、奏多もまた沙織を信じて疑わないようだった。 彼の整った顔には、戸惑いはひとかけらもない。 「し、信じられません――彼女の言う通りでした!」 泡を食ったように、試香室チームが戻ってきた。 部屋全体が、ざわざわとざわめく。 ――なんということだ。 ――信じられない。 どよめく社内で、奏多はこの間違いを誰が行ったかを調査するように命令した。 沙織に向けては、微かに「よくやった」という笑みを見せる。 社内は騒然としたまま、トラブルの原因を洗い出した。 どうやら、原料は人為的にすり替えられたようだ。 購買担当者のミスかと思われたが、重役の責めで競合会社”ミライ”に買収されたことが判明した。 沙織がいなければ、あやうく間違った香りを販売するところだった。 「鮎川沙織は、今日からコア検査チームに抜擢だ。ぞんぶんに働いてほしい。それから、原料に関しては次からは、もっとトリプルチェックで確認を――」 指示を出す奏多に、そっと秘書が近寄った。 今、まさに渦中の”ミライ”の調香チーフの瀬名大地が、「業界交流」と称して訪ねてきたらしい。 アポイントメントと同時に到着したようで、断り切れなかったようだ。 「どーも、塔矢フレグラスの塔矢奏多さん。お邪魔させてもらってますよ」 まだ落ち着かない社内を、堂々と横切って瀬名大地が現れる。 カジュアルな装いだが、けして安物ではない。 ブランドものでも、手軽に身にまとう大地の着慣れた感じが、どこかゴージャスな雰囲気を醸し出していた。 大地はきょろきょろとしたが、すぐに奏多の側にいる沙織に気が付いた。 無礼にならない程度で名札を確認すると、優雅に腰を折る。 「雪中白梅を調香した鮎川沙織さんですね。ずっと会いたいと思っていました。どうやら噂にたがわぬお方のようですね」 「あの、どうも、ありがとうございます」 沙織を見つめる大地の目は、好敵手への敬意が宿っていた。 「社内見学に、鮎川さんをお借りしても?」 「鮎川は、新入社員だ。品質管理部の部長をつけよう」 奏多の瞳は、凍っている。 明らかに、大地への警告を発していた。 社内の、機密にあたらない無難な場所を見学した大地は、帰り際にまた沙織の元に顔を出した。 「調香の才能を品質管理部に埋もれさせておくべきじゃないですよ。興味があれば、いつでも俺と腕試しにきてください。『ミライ』でいつでも待っていますよ」 それは、挑戦のようで敬意があって、同時に好意的な言葉だった。 沙織の胸に、久しく忘れていた、調香そのものへの胸の高鳴りが小さく蘇ってくる。 台風のように大地が沙織の前から立ち去っていくと、沙織のスマホが揺れた。 元夫の隼人はブロックしているから、かけられないはず。 注意深く開けると、親友の知加子からだ。 昨日、朝霧司に連絡してくれたのも彼女だ。 ”司から弁護士レターを受け取った隼人が、ブチ切れてるよ! 沙織が塔矢フレグラスに務めてることも突き止めて、会社に乗り込むって騒いでる” 沙織の心は、風船のようにしおれた。 ついさっきまで、嬉しい気持ちでいたのに、元夫の理解できない乱行にまた困ることになるらしい。 スマホを閉めようとした矢先に、階下で怒鳴り声が響いた。 隼人の声だ。 沙織は急いでエレベーターで一階に下りる。 険しい顔をした奏多も、同じエレベーターに乗る。 「沙織を出せよ! 裏切りものを! あいつはオレと結婚している最中に、財産を隠して飛び出しやがった! とんでもねえ女だ!」 「そうよ、隼人さんに財産を返しなさいよ! 泥棒よ、鮎川沙織は泥棒なのよ!」 沙織はめまいがした。 あの時、隼人と不倫をしていた女――川辺美緒――まで連れて、一階で怒鳴り散らしていた。 沙織は眉をひそめ、エレベーターのほうへ歩き出した。 ボタンを押そうとしたところへ、奏多もやって来た。 表情は先ほどよりもさらに曇っている。 「君は行かなくていい」 「大丈夫です」沙織は首を振った。 「ちゃんと話をつけます」園村エリカは、不機嫌な顔で社内の廊下を歩いていた。通りすがる社員が、エリカの顔を見るとひそひそ話を始める。――許せない。エリカはこの間まで、フランスで営業のメインをやっていた人間だ。こんな、誰でもできるような事務作業をしに塔矢フレグランスに入ったわけではない。給料も大幅に減らされ、居心地の悪い思いを何故エリカが味合わなくてはいけないのか。一度は、親族の園村グループに仕事はないかと泣きついたこともある。しかし、親族からはけんもほろろだった。エリカの家は、園村グループの末端。紹介できる仕事などないという。しかし、ここで塔矢フレグランスを辞めると、エリカが起こした事件が残る。万が一新しい職場から問い合わせがきたとしたら、塔矢フレグランスは他社に調香を横流ししようとしたことや、サンプルをすりかえたことを話すだろう。もう、エリカの居場所はここにしかないのだ。なかなかなびかない奏多だけではなく、何人かのエリート男性社員にも声をかけたが鼻で笑われた。フランス支部にいたときは、エリカは高嶺の花だった。今や、見るも無残な笑われ者だ。仕事をサボってスマホを出したエリカは、奏多の父である先代社長に電話をかけた。「もしもし~? 先代ですか、私です。そうです、園村です。来月の奏多さんの誕生日パーティーなんですけど、私、多分招待から漏れちゃって……。先代のゲストとして招待状いただけませんか~?」先代は朗らかに了承してくれた。奏多の誕生日パーティーで、大きな発表があるのでエリカにも参加してほしいと言う。エリカは久しぶりに、胸が喜びで沸き上がった。エリカの味方はまだいる。大きな発表とは、エリカと奏多とのことだろうか。***「ふざけんじゃねえ、こんなだせえ食堂なんて潰れちまえ!」あゆかわ食堂で、高山隼人の怒声が響いた。沙織を追い出してから、隼人の人生は上向きになるはずだった。しかし、現実は沙織が手にした資産は手に入らず、弁護士からは警告をされた。愛人だった川辺美緒は、隼人より条件のいい男を捕まえて隼
「鮎川先輩、もう少し早く僕を頼ってくださいね」「ごめんね、司くん……」塔矢フレグランスの顧問弁護士であり、沙織の大学の後輩でもある朝霧司はため息をついた。改めて、食事をしながら沙織の話を聞いていたのだが、変な噂がある時点で頼ってほしかった。それでも、沙織の顔つきが凛々しく見えるのは自分で問題を解決したからだろう。端正な指で眼鏡をなおした司は、パスタを巻く。「総務も頭が痛いでしょうね。厄介な人物だと分かった上で、押し付けられてるんですから」「そうですね……。奏……社長も、先代からの意見なので。困ってるでしょうね」奏多は、沙織の前では出さないが、会社の中ではピリピリとしていた。先代が許そうにも、奏多は許していないこと。好き勝手やらせるなと、総務の部長にも念押ししている。***「ところで……会うたびに法律の話ではつまらないでしょう? たまにはどこか出かけませんか?」沙織の皿のパスタがなくなったところで、司は慎重に切り出した。「鮎川先輩は、水族館とかお好きだったでしょう? それとも、暑いですが海とかいかがでしょう?」「いいね。でも、司くん、凄く忙しいんじゃない?」――鮎川先輩のためなら、いくらでも時間を作りますよ。本音は言わずに、司は沙織に微笑みかける。「水族館かぁ……随分行ってないかも」高山隼人と結婚していたときは、ハネムーンで旅行したきりだ。美術館や水族館は、独身時代には大好きだった場所だった。「大学時代、文学サークルのみんなで行きましたよね?」司の言葉に、沙織は懐かしい記憶が押し寄せていた。調香ばかりする沙織を、親友の知加子が誘いだしてくれたこと。大勢で、あちこち行ってはそれをテーマに小説を書いたりしていたあの頃は、充実していた。「行きたいね。ね、知加子も誘わない?」「……そうですね」おそらく、察しのいい知加子は遠慮するはずだ。「そういえば、ミライの瀬名さんからデータを貰ったとのことですが、連絡先をご存じだったんですね」「うん、ちょっと電話番号を教えてること
「……なにかあったのか?」夕飯の席で、ふいに奏多に顔を覗きこまれた沙織はドキリとした。「なにもないよ?」「それならいいが……」今日の夕飯は、天ぷらとそうめん、小松菜の和え物だった。最近の奏多は、早く帰ることができれば夕飯の手伝いに参加している。えびの背ワタをとったのも、ほたての処理も、奏多によるものだ。「なんでいきなりそんなこと……」「いや、沙織には珍しく天ぷらに全部塩を振ってあったからな」「え、やだ、うそ!?」沙織は悲鳴をあげた。天つゆで食べるものと、塩で食べるものがあるから、小皿に塩を置こうと思っていた。園村エリカのことを考えていたせいで、全部の天ぷらに塩を振ってしまったらしい。「ごめん、奏多……! 奏多はなすは天つゆ派なのに……!」「いいさ。テンパる沙織も見られたことだし」ククク、と奏多が面白そうに笑う。外では絶対にこんな顔を見せない。にこやかに笑っているこの現場を、職場の人間が見たら「誰だ?!」と驚くだろう。「そういえば、来月パーティーがあるんだ。沙織も来てくれないか?」シャンパンを開けながら、ふいに奏多が切り出した。「パーティー……? あ、もしかして……奏多の誕生日パーティー?」「ああ……。父と秘書が取り仕切るから、どうも派手になるんだが……きてくれるか?」「でも、一介の社員のわたしがいいの?」沙織は酒に強くない。シャンパンで、彼女の微かに頬が赤い。それでも、酒系香水というジャンルがあるようにお酒の香水はある。何か参考にならないかと、香りは堪能していた。「沙織はもう少し自覚すべきだ。雪中白梅だけでなく、ウードの祭典、アデリア、インスパイア、スウィートハミング、青の世界、他にも沙織が手掛けた調香レシピが我が社の売り上げのトップを走っている。塔矢フレグラスを四倍にした実績を誇っていい。いくら営業の腕がよくても、商品がよくなければ流行らない」「でも、雪中白梅が大ヒットしたのはハリウッドスターのお陰でしょう?」いくつものメガヒット作品に出演する、親日家のノーマン・ギゼルがふ
「――なんだこれ」瀬名大地が呟いた。香水を売り買いする業界の、専門掲示板が荒れている。午前中、どっぷり調香して鼻を休める間だけパソコンを開いたのだが、中は中傷の荒らしだった。匿名の誰かが、沙織の名を伏せてはいるが、ゴールデンノーズという沙織の称号でほぼ名指し状態だ。ゴールデンノーズの調香リストは盗作だとか、誰それの猿真似だとか、あちこちに書きなぐっている。それに対して、何人かが――おそらく塔矢フレグラスの内部の者――が、そんなはずはない。と主張しているが、荒らしの主はそんなことでは止まらないようだった。「悪質だな……沙織さんの目に入るかもしれない」大地は、釣りをすることにした。わざと、匿名主に同意して見せて、そういえばそうかもしれない……などと書き込むと、しばらくして匿名主から仲間認定されたような発言が来た。大地は個人情報は明かしていないが、アイコンは会社のミライのマークを使っている。やや待っていると、匿名主からフレンドコードが届いた。ミライになら、沙織の調香レシピを横流ししていい、と言う。「はっはぁ、私怨かな?」塔矢フレグラス全体に恨みがあるなら、他の言い方をするだろう。なにがなんでも、沙織の責任にしたいようだ。大地としては、他に流出する前にここでせき止めたい。”それは是非、教えて欲しいです……”できれば、この匿名主の本名を知りたい。激情型なので、うまくおだてれば喋るだろう。大地は、しばらくは試香室に戻らずに、パソコンを叩き続けた。うまいこと情報を握ったら、全部沙織に話して塔矢フレグラスの中で解決をさせたい。大地は、やりとりをさかのぼってスクショを始めた。*** 園村エリカは、ご機嫌で塔矢フレグラスの社内を歩いていた。エリカが東京にいることを反対する奏多が先代に敗れ、エリカは一年だけ東京本社にいることを許可された。エリカの計算によれば、一年あれば奏多にくっついている忌々しい鮎川沙織を引きはがせる。そして、エリカは見事社長夫人の座を射止めて、結ばれる。過去にエリカが
「ろくでなし! あんたのことが子育て失敗したから、うちの息子が迷惑してんのよ!」高山みさきの怒鳴り声が、止まった。あゆかわ食堂に乗り込もうとしたみさきの前に、朝霧司が立ちふさがる。「あんたは――」「弁護士の朝霧司です。これほどお目にかかるなら、名刺をお渡ししましょうか」嫌味をさらっと口にして、司はみさきを見下ろした。沙織は、家庭の愚痴をSNSなどに一切あげなかった。それでも、愛人をつれて元妻の元に怒鳴り込む隼人や、似たことをしてだすその母を見ているだけで、離婚前の沙織がどれだけ辛かったのか推し量れる。――もっと早く気が付いていれば。「こちらとしては警察に相談を入れています。お話した通り、あなたがたの一挙手一投足でいつでも裁判が開けるのですよ」厚顔無恥のみさきでも”警察”という言葉は、恐怖を感じたようだ。つばでもとばしそうな顔をしながら、みさきはあゆかわ食堂から遠ざかっていく。司は、その姿が見えなくなるまでずっと立ち尽くしていた。裁判をするのは、たやすいことだ。司も、沙織に頼まれればいつでもやる準備は出来ている。ただ、実際法廷に立てば、沙織は過去にされてきた辛い話もしなければならない。せっかく笑顔の戻りかけた沙織に、できることなら傷口をえぐるような真似は避けたかった。司ができることは、法的な力で沙織に被害が及ばないことだけだ。大学時代、司は沙織に助けられた。だからこそ、恩返しがしたいし、好意も抱いた。あの日の沙織を、司は忘れられない。 *** 大学生の司は、奨学金で法学部に入った。実家からは、家業の医者の道に進めと言われて、かすかな送金は家賃で消えた。買わなくてはいけない参考書などがかさみ、必然的に司は食費を減らし続けた。サークルに入ったのは、集中して勉強ができるスペースが欲しかっただけだが、そこで沙織と出会った。見るからに飢えて痩せている司に、沙織は自作の弁当を譲ってくれた。それも何度も。「いつか、恩返しします」そう言った司に、沙織はよく微笑んで
「……やらかしたか? まあいいか」 塔矢奏多は、業務の合間に独り言を呟いた。 先代の塔矢フレグラスの社長である父と、電話で散々もめたあとだ。 ストレスのあまり、ブランド通販サイトで沙織に着せたい服を買いあさってしまった。 靴、アクセサリー、時計から部屋着まで買ってしまったのは、やりすぎた感がある。 「社長、園村エリカが面会のアポをと……」 「仕事に関係するか、内容を確認してから慎重に取り次げ。万が一関係ない内容なら、取り次いだおまえの給料を下げる」 怒りを目に宿らせて奏多が突っぱねると、秘書は慌てて立ち去った。 自分にも不利益があるとわかったら、やたらにエリカを通しはしないだろう。 父は奏多と違って冷徹に合理性を選ぶタイプではない。 エリカが泣いて日本を恋しがっているという演技を真に受けて「可哀そうじゃないか」と、呑気なことを言っている。 エリカの本心がどこにあるかは、今いち分かっていない様子だった。 奏多が好きな人がいると言っても、笑って流された。 それどころか「エリカくんは、元は園村グループ総裁と遠縁だ。仲良くして損はない」などと勧めてくる。 「……チッ」 奏多はパソコンを叩きながら舌打ちする。 そういう政略的な結婚が嫌で、独力で会社を大きくしたのだ。 父の頃は中流以下だった会社が、海外で売れるほどの規模にしたのは奏多だ。 そして、塔矢フレグラスが奏多の勢いについて大きくなったのは、沙織の調香レシピのお陰だ。 父はその辺の沙織の凄さが、分かっていない。 その時、奏多のプライベート番号が鳴った。 この番号を知るものは限られている。 「社長、鮎川さんの元結婚相手の母親がエントランスで騒いでいます」 「……わかった、よく知らせてくれた」 電話を切ると、奏多はスーツのジャケットを着る暇もなく飛び出した。 *** 「いいから、隼人の言う通り金を払いなさい! こっちが名誉棄損で訴えてやるよ! あんな石女《うまずめ》のくせに、なんて図々しいんだろうね。四年待っても産めない女を、仕方なく受け入れてやったこっちの優しさに付け込んで」 沙織は、落ち着こうとして深呼吸した。 唾をとばし、つまみ出そうとする守衛には「セクハラだ」と騒ぎ立てる義母は、醜く見えた。 おそらく、







