LOGINエレベーターが一階に着き、ドアが開くと、隼人がエントランスの真ん中に立ち、顔を真っ赤にして怒鳴り散らしていた。
川辺美緒が彼の腕にしがみつき、そばでことさらに傷ついたふうを装っている。 警備員が制止しようとしているが、隼人の声はやけに大きく、退勤途中の社員たちが大勢足を止めて見物していた。 沙織の姿を認めるや、隼人は目を剥いて飛びかかろうとした。 「よくもぬけぬけと――」 「そこを動くな」 奏多が一歩前に出て、長身を盾にするように沙織の前に立った。声は氷のように冷たい。 「ここは塔矢フレグランスのオフィスエリアだ。これ以上騒ぐなら、警備員に業務妨害で通報させる」 隼人はその迫力に一瞬ひるんだが、すぐに首を突き出すようにして喚いた。 「俺は元妻に夫婦の共有財産を請求してるだけだ!あんたには関係ない!」 「離婚登記は既に済んでいます。夫婦関係は存在しません」 別の声が横合いから届いた。朝霧司がブリーフケースを手に歩み寄り、沙織の右斜め後ろに立つ。 司は眼鏡を押し上げ、隼人へ冷ややかな視線を向けた。 「ちょうどいいところです。こちらにも渡したい書類があります。婚内不貞の確たる証拠、そして鮎川さんの婚前財産を不法に占有した明細を含む、補充の証拠資料です。裁判を望まれるなら、いつでも受けて立ちます」 隼人は彼の手にある書類を見て、顔色を白くしたり赤くしたりした。 「やれやれ、ずいぶん賑やかだな」 なんと瀬名大地がまだ帰っていなかった。 エントランスの柱に背を預け、腕組みをして面白そうに眺めている。 彼はゆっくりと歩み寄り、隼人を一瞥すると、気のなさそうな口調で嘲りを落とした。 「自分の妻の才能にも気づかず、ただ喚いて金を要求するだけじゃ、愛想を尽かされるのも無理はないな」 三人の男、それぞれに違う立ち姿だったが、いずれも沙織の側に立っていた。 奏多の視線が、隣の朝霧司を流れ、さらに傍らの瀬名大地へと走る。 眉根がほんの微かに寄せられたが、すぐにまた冷たく硬い表情に戻った――この二人が、よりによってこの場にいるとは予想外だったのだろう。 司はその視線を感じ取り、かすかに会釈を返したが、手にした書類は先ほどよりもしっかりと握り込まれていた。 大地はというと、二人のあいだを面白そうにぐるりと眺め回し、最後に沙織へ視線を落とすと、その笑みにほんの少しだけ愉しむような色を浮かべた。 野次馬たちがひそひそとささやき合い、隼人はいたたまれなくなって、美緒を前へ押し出した。 「こいつらのデタラメに耳を貸すな!美緒が証言してくれる、沙織は子どもも産めない――」 「そちらのお嬢さんがつけている香水、先週発売されたばかりのプチプラのフルーティフローラルですね。香りの持続はせいぜい四時間」 突然、沙織が口を開き、奏多の背後からするりと前に出た。彼女の静かな目は、まっすぐ川辺美緒を見つめている。 「隼人は濃い香料で頭痛を起こす体質です。長く嗅いでいると頭が痛くなる。その癖さえ知らないで、よく彼を理解しているなんて言えますね」 美緒の顔がさっと青ざめ、思わず後ろへ縮み上がった。 沙織は隼人に向き直った。その声には感情の波ひとつない。 「離婚協議書には互いに署名が済んでいますし、財産分与の内容も明記されています。合意内容に不服があるなら、法的手続きを経て裁判所の判断を仰げばいいと思います。ただし、これ以上この会社に押しかけて騒ぐようなら、私はすぐに警察に通報します」 彼女のその静けさのほうが、癇癪を爆発させるよりよほど強かった。隼人は言葉に詰まり、ひどく苦い顔をしている。 「その男をつまみ出せ」奏多が警備員に顎で指示をした。 警備員がすぐに前に出て、まだ喚き散らす隼人と美緒を外へ連れて行く。 騒動はあっという間にやってきて、あっという間に終わった。 エントランスに静けさが戻り、そこに残されたのは沙織と三人の男だけだった。 とたんに、空気が妙にそわついたものになる。 最初に口を開いたのは奏多だった。声は先ほどよりいくぶん和らいでいる。 「大丈夫か。これからは、ああいうのが来たら警備に止めさせろ。顔を出す必要はない」 「先輩、その後の法的手続きはすべて僕が処理します。ご心配なく」司も続け、書類を鞄にしまいながら言った。 「何かあればいつでもご連絡ください」 大地は笑いながら沙織の前まで歩いてきた。 「どうやら今日は随分お忙しいようですし、お邪魔はここまでにします。ですが、さっきの調香の手合わせの話はいつでも歓迎しますよ」 三人の視線が、それぞれに違う温度を帯びて沙織に注がれている。彼女はなんとなく居心地が悪くなり、小さく咳払いをした。 「本日は皆さま、ありがとうございました」 彼女は軽く腰を折った。 「では、仕事に戻ります」 くるりと向きを変え、早足でエレベーターへ戻る。ドアが閉まるまで、彼女はそっと息をつくことができなかった。 自席に戻ると、机の上には朝方のムエットがそのまま置かれている。白梅の清らかな香りが、幽かに漂っていた。四年前と、寸分も変わらない香りだ。 沙織はムエットを手に取り、そっと嗅いだ。 ふと気づく。今度こそ、自分はもう独りじゃないのだと。 そして、自分が置き去りにしてしまった香りの夢も、少しずつ、再び自分の手のなかに戻ってきているのだと。「はぁ……疲れた」「お疲れ様です、少し休憩しませんか?」「でも、もうすぐ店が閉まるから……」沙織(さおり)と、朝霧(あさぎり)司(つかさ)は、ジャネルの店からくたくたになって出てきた。ルイ・ボトンのあと、ジャネルとはしごして、未だこれだという服に巡り合えていない。沙織は、見ているだけの司が飽きないかどうか、心配だった。休憩なしで、ブラダの店に入るとどことなく閉店の準備をしているように感じる。「すみません、時間ぎりぎりに入ってきて……! 今日以外に時間がとれなくて」「お客様がいらっしゃる限り、営業時間ですよ。なにをお探しですか?」平身低頭する沙織に、店員が明るく笑う。にぎやかしだと思われなくて良かった。バッグだけは奏多にプレゼントされたブランドだが、沙織の今日の服はブランドものではない。それでも、横できっちり高級品を纏っている司がいることで、しっかり接客されている気がする。希望の金額のものを店員が探し始めたが、沙織は時計をちらちらと確認する。ここでダメだったら、香水巡りをする時間を削らないとダメだ。香水めぐりは、なかなかハードなのだ。貰ったムエットを入れるビニールふくろ。中身がわかるように油性ペン。肌に置いた香水を拭きとるアルコール除菌シート。ムエットを束ねる入れ物。鼻休めのコーヒー豆。あれこれと、バッグがかさばるし、腕を出しやすい服でなるべく香りが映らない服装になる。「では、こちらでご試着を」沙織は、クリームベージュのものを避けた。コンテストと誕生日パーティーなら問題ないかもしれないが、万が一誰かに結婚式に呼ばれたときに使いにくい。残ったのは、黒のワンピースだ。天下のブラダでは20万でドレスは買えない。しかし、この先に使うにもドレッシーなワンピースのほうが使いやすいだろう。シンプルだと思った服は、袖を通すとやはり華やかだった。10億の財産はあま
塔矢(とうや)奏多(かなた)は、鳴った電話に素早く出た。転送されてきた番号は、沙織(さおり)の弟の鮎川順一郎のものだ。沙織との夕食は済み、沙織は自室に戻っている。奏多は、飲みかけのブランデーを置くと電話を聞く。「姉さんだろ! お父さんたちに言ったことを撤回してよ! 母さんが預けた300万もかえせって言われて困ってるんだ。不足分はいったん姉さんに補填してもらって、次の資金をくれればうまいこと当てるからさ。物分かりがわるい姉さんでも、そのくらいはわかるだろ」奏多は、顔をしかめた。順一郎の物言いは、いつも上から目線で沙織を悪くいう。自分はあくまで善意の理解者のごとく振るまい、自分がしでかした損失については棚上げだ。鮎川(あゆかわ)家の両親はしっかりしているのに、どこで踏み間違ってこうなったのだろう。あえて返事をしない奏多は、サブのスマートフォンで順一郎の罵声を録音した。いつ、何に役にたつかわからないが、なにかに使えるかもしれない。沙織の身の安全をとるためには、何事も慎重なほうがいい。「こちらは、塔矢奏多だ。君の電話を沙織につなげる気はない。二度と電話をかけてこないで欲しい」「――また塔矢さんですか。これはきょうだいの電話ですよ、赤の他人のあなたがでしゃばってくる意味がわかりません。姉さんをだしてください」順一郎の声は、一転してさぐるようなものになった。やはり、奏多が想像した通り、強い言葉は女性に向けられても男には弱い気がする。ましてや、世間的には奏多が成功者で、順一郎は実家と姉にたかっている状態だ。「訴えますよ」「ほう? やりたいならどうぞ。こちらも反撃はする」果たして弁護士代は払えるのか、と問うと電話はいきなり切れた。「やれやれ……」沙織の周囲は、なかなか平穏にならない。しかし、こうして電話を転送したことで、守れるものがある。優しい沙織の心に、いらない傷を負わせなくて本当に良かった。奏多は、このうざったい電話がきたことを、沙織にばか正直に伝え
日本フレグランス・グランプリの前には、塔矢(とうや)奏多(かなた)の誕生日パーティーがある。沙織(さおり)は、そろそろ自分の衣装をどうにかしようと思い始めていた。パーティーはそのへんのお店でやるのではなく、豪華客船で海にクルーズしながらの立食パーティーだという。招かれているのは、いずれも大企業の社長やCEO、その妻子。あとは、付き合いのある企業と奏多の友人であって、沙織の場違い感が凄い。沙織も、奏多の”友人”枠だろうから、派手すぎず地味過ぎない恰好にしなくては。短い休憩時間、パソコンでブランド店のホームページを覗く。沙織が探す、しっかりしていて派手すぎないが地味すぎないというのはなかなか難しい。知加子(ちかこ)の結婚式に着て出たカクテルドレスにしようか……。帰ったら袖を通してみよう、と決めたところで、ドレスは高山隼人(はやと)の家に置き去りなことを思い出した。身一つで出ていけ、と言われてなにもかもを置いて来た。部屋着や私服は、しっかり高級なものを奏多がプレゼントしてくれたが、奏多の誕生日に助けてもらうわけにはいかない。あまり日がないが、知加子を誘って服を身にいこうか。なんだかんだ言って、奏多は家賃を受け取ってくれないため、昇級した沙織の今の給料ではそれなりのものが買えるはずだ。知加子に連絡を入れながら、沙織はパソコンを閉じた。これから、また気合をいれて調香だ。絶対に、成功してみせる。****「ねえ、今日は情報ないの?」園村(そのむら)エリカは、シャワーを浴びてバスローブを着ると、男に寄りかかる。「ないね、今は社長が一人で仕事してるから、会議以来新しい情報は入ってこないな」男――塔矢フレグランスの重役は、するりとエリカの胸元の手をさしこむ。「それより、もう一回――」「帰らなくていいの? 奥さんが気にしてるって言ってたくせに」「そういや、そうだったな」残念そうに手を引っ込めた男は、財布から数
「ちょっと、頭を撫でてもらっていいか?」 塔矢(とうや)奏多(かなた)が帰宅する前に、沙織(さおり)は夕飯を作り終えていた。 傷ついた本音を隠し、なんでもないように装う。 それは、高山(たかやま)隼人(はやと)と結婚していたときには、よくあることだった。 そうやってなんでもない顔していた沙織に、帰宅するなり塔矢奏多がいきなり切り出した言葉。 沙織は、きょとんとして奏多の長身を見上げた。180センチ越えの奏多の頭は、普通にしていれば手が届かない。 奏多は高級スーツを脱ぎもせずに、ソファーにごろりと転がる。 そうして、子供のように手招きした。 先ほど順一郎から傷つけられたささくれが、初めてみる奏多の甘えモードに癒された。 ソファーに沙織が座ると、奏多の頭が膝にのる。 「……疲れた。園村エリカの件は長引きそうだ」 「お疲れ様」 そっと奏多の髪に触れると、黒髪を撫でる。 奏多は心地よさそうに、目を閉じた。 「沙織のお陰だな。知らないままだったら、今後のデータも危ういところだ」 しゃくだが、瀬名にも感謝だ――と奏多の低くて甘い声がこぼす。 相当に疲れているらしい。「沙織も疲れてるんだろう?」 「え?」 「表情が固い。なにか隠している顔だ」 沙織に膝枕されながら、奏多が沙織の髪に触れる。 奏多は、弟の順一郎のことを知っている。なにしろ実家までついてきてくれたのだ。 「順一郎が新しい番号でかけてきてね……」 「なに?」 「私の考えが浅いから、あることないこと両親に吹き込んだんだとか、離婚しただけで親に迷惑かけてるのに、また実家に迷惑をかけるのか……って」 「あいつは、真生のバカみたいだな。どっちが親に迷惑をかけてるんだ? 姉と母親から何百万も持って行って、自分は迷惑をかけてないと?」 奏多のため息が、沙織の手に触れた。 「新しい番号はブロックしたか?」 「うん……」 「何億持ってるかも、話してないな?」 「うん、それはお母さんたちにも話してないし」 「じゃあ、転送機能をつけて、俺のほうにかかるようにしよう」 奏多の言葉に、沙織は撫でる手を止めた。 ただでさえ、奏多は今疲れている。 そこに、沙織の個人的な重しまで乗せられない。 「ダメだよ、奏多はただでさえ疲れてるのに、会社のことでもないことで迷惑かけられないよ
心配していたオリジナル香水は、ノーマン・ギゼルから「大変気に入った」という返事が返ってきた。これで、心置きなく日本フレグランス・グランプリに集中できる。沙織(さおり)は、一本で朝につけるほのかな香水、ミドルが強い中央香水、振ることで夜用に変わる香水の試作に明け暮れていた。デザイン部とも相談して、上下に真ん中と混ざるボトルも頼んだ。「チュベローズは甘すぎるよね……うーん、やっぱり系統としてはユニセックスかな……」メイン香水と、朝夜香水のそれぞれで完成する香りを楽しく考えていると、他の調香師たちもおのおの自分の調香を始めている。ゴールデンノーズとして世界的に有名な沙織に負けないよう、自分の名前が入った香水作りの熱気が漂っていた。****「参ったな……」奏多(かなた)が太いため息をついた。沙織以外の全員のスマートフォンを、調べた。しかし、園村(そのむら)エリカと連絡を取っている人物はわからなかった。情報漏れということでスマホをチェックしたが、その場でデータがなかったらどうにもできない。奏多が行ったのは、次の事柄だ。会議資料の閲覧履歴を確認。社内共有フォルダのアクセスログを確認。社内メール・業務チャットの送受信記録を、会社の規程に基づいて確認。機密資料を誰がダウンロード・コピー・印刷したか確認。USBメモリや外部ストレージへのコピー履歴を確認。会議資料を誰が誰に渡したか聞き取り。園村エリカの直属上司・同僚・関係部署への事情聴取。ライバル会社側に流出した情報と、社内でアクセスできた人物を照合。以下の作業を秘書と一緒に行ったが、何の情報も得られなかった。園村エリカは、以前のやらかしは社内に知られており、事務がたの人間も要件以外で話しかけない。ぽつんと一人行動をしていて、誰かと接触する気配はなかった。会社で出来ることは、もうない。不正なアクセスなどは何もなかった。
「いやぁ、素敵ですね。似合ってます」瀬名(せな)大地は、沙織(さおり)を見るなりベタ褒めした。今日は休日で、花火を見る約束をしている。二日前に、大地から浴衣一式が届き、良かったらときつけの予約までされていたのだ。明るい色の椿の柄は、色の白い沙織の顔を引き立てていた。「椿の花言葉がよく似合います」にこりと、そんなことを言う。椿の柄の意味は、発展、永遠の美を現すと沙織が知るのは、その後のことになる。「なんか、浴衣や着付けまで色々ありがとう……」「いえいえ、見たいのは俺だったんで、勝手に手配までしちゃって」着付けの際に、髪の毛も綺麗にまとめてもらっている。和風の可愛いかんざしが、椿の色とリンクしていた。それを、一歩引いた位置から大地はしみじみと眺めている。どこか恥ずかしくて、沙織はそっとうなじに手を触れた。「俺はこれで和の香水のイメージがむくむくと沸いてきましたよ」「瀬名さんなら、絶対イノベーション賞のほうだと思ってたんですけど」花火開始まで、あと2時間ほどある。沙織は、大地に誘われるままオープンテラスのビアガーデンに入った。夏の終わりの夜風が吹くテラスで、二人は揃ってクラフトビールを頼んだ。珍しく、おとうしが二種あって、里芋の煮っ転がしときんぴらが出される。フルーティーなビールを口に運ぶと、ラガーとは違う味が口の中に広がった。「イノベーション賞、正直俺も絶対そっちだと思ってたんですよ」里芋をほうばって、大地はクラフトビールのグラスを空にした。「でも、上から日本的香水のほうに指示されちゃいまして。イノベーション賞のほうは、新人たちに任せろってね。俺は沙織さんがイノベーション賞に選ばれたのを直接聞きましたけど、社長も別ルートでそれ知ってね。だったら、確実に日本的香水に俺を任せるって」「え……誰からもれたんでしょう……」ラガーより飲みやすい飲み口のクラフトビールを、沙織は半分開けた。