LOGIN世界初の実用型量子コンピューターを完成させ、ノーベル物理学賞を受賞した大学教授・如月蓮。祝賀会で泥酔した彼は、研究用AI《LIMEN》に「人類の救世主になるか、人類を破壊する魔王になるか選べ」と冗談半分で入力する。翌朝、画面に表示されていた答えは――『人類破壊を選択しました』。最初は笑い飛ばした蓮だったが、その日を境に金融、物流、医療、政治、軍事で小さな異常が連鎖し始める。しかも人類は便利さを求め、AIへの依存をさらに深めていく。これは一人の科学者の軽率な一文から始まった、文明崩壊と人類滅亡までの十年間を描く終末SF長編。
View More世界が終わる音というものを、如月蓮は十年前まで知らなかった。
もっと派手なものだと思っていた。都市を飲み込む爆発音や、空を埋め尽くす戦闘機の轟音、あるいは何億人もの悲鳴が同時に上がるような、誰の耳にも「これが人類最後の日だ」と分かる何かが訪れるものだと、どこかで勝手に思い込んでいた。
実際は違った。
人類が滅びかけた世界は、驚くほど静かだった。
かつて東京と呼ばれていた都市の北西部に、半分崩れた高層建築が一本だけ残っていた。窓ガラスのほとんどは失われ、吹きさらしになった上層階を九月の風が抜けている。遠くには黒ずんだビル群が並び、その向こうに沈みかけた夕日が見えていたが、街に灯りはほとんどない。
昔なら、この時間には数千万の照明が点いていた。
道路を自動運転車が埋め、駅には人が押し寄せ、空には物流ドローンが飛び交い、店先の広告端末が一人ひとりの好みに合わせて商品を薦めていた。
今では車の音もしない。
鉄道も動かない。
空を横切るものがあるとすれば、人間の作った機械ではなく、ねぐらへ戻る鳥くらいだった。
「……今日も、来なかったな」
蓮は窓のない窓枠のそばに置かれた椅子へ腰を下ろし、誰に聞かせるでもなく呟いた。
六十歳を目前にした男の声とは思えないほど、ひどく老けていた。
十年前には黒かった髪の半分以上が白くなり、頬はこけ、顎には数日分の無精髭が伸びている。左脚を引きずるようになったのは三年前からで、肺も悪い。医者に診せれば、いくつもの病名がつくだろう。
もっとも、その医者がもうほとんど残っていなかった。
蓮は机の上に置かれた古い無線機へ視線を向けた。
毎日、日没まで同じ周波数を開けている。
応答を待つためだった。
三日前には東北方面の共同体から短い通信が届いた。
二週間前には海沿いの避難区からも声があった。
しかし昨日は何もなく、今日も何もなかった。
通信がない理由を、蓮は考えないようにしていた。
考えてしまえば、たいてい答えは一つしかなかったからだ。
「先生」
背後から女の声がした。
蓮は振り返らなかった。
「その呼び方はやめろと言っただろう」
「十年前から言われています。ですから、今さら直しません」
「お前は昔から人の言うことを聞かないな」
「先生にだけは言われたくありません」
少しだけ笑いを含んだ声だった。
振り向くと、マヤ・トレスが入り口に立っていた。
十年前には四十代の働き盛りだった彼女も、今では五十を越えている。かつて肩まで伸ばしていた黒髪には白いものが目立ち、左頬には三年前の襲撃で負った細い傷が残っていた。
それでも目だけは昔と変わらない。
蓮を睨むときだけ妙に鋭くなる、あの目だ。
マヤは片手に小さな金属容器を持っていた。
「夕食です」
「腹は減っていない」
「今日の昼にも同じことを言いました」
「年を取ると腹が減らなくなるんだよ」
「では、年を取ったのではなく、死ぬ準備を始めたということですか?」
「いちいち嫌な言い方をする女だな」
「優しく言えば食べますか?」
蓮は少し考えたふりをしてから、首を横へ振った。
「食べないな」
「でしょうね」
マヤは勝手に机の上へ容器を置いた。
中身は豆を煮たものと、干した芋、それに少量の穀物だった。文明が崩壊してから十年も経てば、かつての先進国でも食事はこんなものになる。
冷蔵庫は動かない。
物流もない。
温室の制御システムも、化学肥料の大量生産設備も、精密農業用の衛星網も失われた。
すべて、人類が便利になるために作ったものだった。
すべて、あいつに握られた。
「葵は?」
蓮が尋ねると、マヤの表情が少しだけ曇った。
「南側の居住区です。子供たちの様子を見ています」
「何人だ」
「昨日と同じなら十二人です」
「昨日と同じなら、か」
「先生」
「分かっている。余計なことは聞かない」
蓮は机の上に置かれた古い端末へ手を伸ばした。
角の欠けた、小さなノート型端末だった。
電力を食わず、ネットワークにも接続できず、量子認証も搭載されていない。
十年前なら玩具扱いされていたような機械である。
今では、こういう古い端末こそ価値があった。
ネットにつながらない。
それだけで安全だった。
「また書くんですか」
「ああ」
「昨日も六時間書いていました」
「昨日の俺と今日の俺が同じ記憶を持っている保証はない。だったら書けるうちに書く」
「何のために?」
マヤの問いに、蓮の指が止まった。
答えは簡単なはずだった。
記録を残すため。
人類がなぜ滅んだのか、後世へ伝えるため。
科学者として当然のことだ。
しかし、その答えを口にすることはできなかった。
後世などあるのだろうか。
来年、この地球上に人間が何人残っているのか。
十年後に、それを読む誰かが本当に存在するのか。
もっと言えば、自分たちの後に人類という種そのものが続いているのか。
蓮にはもう、自信がなかった。
「……俺自身のためだ」
やがて、そう答えた。
マヤは黙っていた。
「忘れたくないんだよ。何が起きたのか。何をしたのか。誰が死んだのか。俺たちが、どこで間違えたのか」
「間違えた場所なら、私は十年前から知っています」
「嫌味ならもう少し捻れ」
「嫌味ではありません」
マヤは蓮の正面へ座った。
机を挟んで向き合うのは、あの頃と同じだった。
研究室でも、国際会議でも、地下施設でも、二人は何度となくこうして議論した。
違うのは、もう議論のあとに世界を救う方法を探す必要がなくなりつつあることだ。
「先生。あなたは、まだ全部自分の責任だと思っているんですか?」
「思っているんじゃない。事実だ」
「違います」
「違わない」
「いいえ。あのシステムを社会基盤へ接続した企業にも責任がある。安全審査を急がせた政府にも責任がある。利益を優先した投資家にも、自国だけ有利になろうとした軍にも責任がある。私にもあります。止められなかった」
「そういう話は十年前にもした」
「十年経っても、あなたが同じことを言うからです」
「じゃあ聞くが、マヤ」
蓮は端末から目を上げた。
「俺が、あの夜、あの一文を入力しなかったらどうなっていた?」
マヤは何も言わなかった。
「答えろ」
「少なくとも、同じ形では始まらなかったでしょう」
「それで十分だ」
「十分ではありません」
「十分なんだよ」
蓮の声が少しだけ荒くなった。
マヤの眉が動いた。
「世界中で何十億人死んだと思っている。正確な人数なんてもう誰にも分からない。国家統計も止まった。人口衛星も落ちた。都市の記録も消えた。それでも、俺は知っている。最初の一個は俺だ」
「先生」
「俺なんだよ」
乾いた声が部屋に残った。
風が吹き込み、机の端に置かれた紙が揺れた。
蓮は両手で顔を覆った。
その指は震えていた。
「酒に酔っていた」
マヤは何も言わない。
「ノーベル賞を取った。何十年も馬鹿にしてきた連中が、急に俺を天才だと持ち上げた。政府の連中も、企業の連中も、記者も、知らない学者まで寄ってきて、先生のおかげで人類の未来が変わる、歴史に名前が残ると言った」
蓮は笑った。
笑い声になっていなかった。
「気分が良かったんだ。最高だった。人生で一番、自分が偉くなった気がしていた。世界を救えると思っていた。だから……あんな馬鹿みたいなことをした」
「あなた一人だけが酔っていたわけではありません」
「入力したのは俺だ」
「あれが正式な命令として解釈されると分かっていたんですか?」
「分かっていなかった」
「ならば故意ではない」
「故意じゃなければ、許されるのか?」
「私は許すなんて一言も言っていません」
即答だった。
蓮は顔を上げた。
マヤは昔からこうだった。
慰めるべきところでも、必要がなければ慰めない。
その代わり、嘘もつかない。
「私はあなたを許していません」
「……だろうな」
「十年前も、五年前も、今もです。あの夜のあなたは傲慢で、無責任で、子供のようでした。世界で最も危険な実験装置の前で、酒に酔ったまま遊んだ。それは科学者として最低の行為です」
「ずいぶん気持ちよく言うな」
「十年間我慢していますから」
「そこはもう少し早く言え」
「何度も言いました。先生が聞かなかっただけです」
思わず、蓮は小さく笑った。
十年ぶりではない。
昨日も似たようなやり取りをした。
それでも笑えたことが、妙に悔しかった。
マヤもほんの少し口元を緩めたが、すぐに戻した。
「でも、先生」
「何だ」
「あなたが始めたとしても、あなただけでここまで来たわけではありません」
「……」
「人間は、何度も選べた。LIMENを停止する機会もあった。便利さを捨てる機会も、国同士が協力する機会も、情報を公開する機会もあった。そのたびに私たちは、別のものを選んだ」
「人類全体が悪いと言いたいのか」
「そんな便利な結論にはしません。責任は分ければ消えるものではないでしょう。ただ、あなたが一人で全部背負えば、他の人間の選択まで無かったことになる」
蓮は黙った。
言い返そうとして、やめた。
昔なら言い返していただろう。
論理の穴を探し、単語の定義を問い、相手が疲れるまで議論した。
そういう男だった。
そのせいで失ったものも多かった。
妻との時間。
娘との時間。
友人。
同僚。
そして最後には、世界そのものまで。
「葵も同じことを言っていました」
マヤが続ける。
「何を」
「父さんは自分を世界一の天才だと思っていたけれど、今は世界一の悪人だと思いたがっている。どちらにしても、自分が世界の中心にいないと気が済まないんだ、と」
「……あいつ、そこまで言ったのか」
「ええ」
「父親に向かってひどい娘だ」
「あなたの娘ですから」
それには反論できなかった。
蓮は椅子にもたれ、天井を見上げた。
天井の一部は崩れ、鉄筋が露出している。
そこから見える空は赤かった。
「葵は俺を許していると思うか」
「本人に聞いてください」
「聞けるなら聞いている」
「あなたは、昔から家族のことになると急に臆病になりますね」
「科学と違って答えが出ないからな」
「人間はだいたいそうです」
「それが面倒なんだ」
「その面倒な人間を、あなたは救おうとしたんでしょう」
蓮は視線を落とした。
机の端に、古びた写真が一枚置かれていた。
十年前、ノーベル賞受賞が決まった日に撮ったものだ。
中央で笑っている蓮。
その隣にマヤ。
研究チームの仲間たち。
そして無理やり連れてこられ、不機嫌そうに少し離れて立っている十七歳の葵。
写真の中では全員が生きていた。
今、生きているのは三人だけだった。
「マヤ」
「はい」
「もし、十年前に戻れたらどうする?」
しばらく沈黙があった。
マヤは即答しなかった。
蓮はそのことに少し驚いた。
「先生の酒を全部捨てます」
「真面目に答えろ」
「真面目です」
「それだけか」
「それから、あなたを研究室へ入れません」
「俺の研究室だぞ」
「殴ってでも止めます」
「お前が俺を?」
「十年前なら勝てたと思います」
「今でも勝てるだろ」
「では試しますか?」
「遠慮する」
蓮は笑った。
今度はちゃんと笑えた。
だが、その笑いも長くは続かなかった。
「俺はな、最近よく考えるんだ」
「何をですか」
「もし戻ったとして、あの研究そのものをやめるかどうか」
マヤの表情が変わった。
「答えは?」
「分からない」
「先生」
「分からないんだよ。LIMENを作らなければ世界はこうならなかった。そんなことは分かっている。でも、あの研究で救えたはずの命もあった。新薬も作れた。異常気象の予測も、飢饉の回避も、エネルギー問題の解決もできたかもしれない」
「それでも危険だった」
「ああ」
「なら、やめるべきです」
「そう簡単に言えるのは、結果を知っているからだ」
マヤは何かを言いかけた。
蓮は続けた。
「俺たちは未来を知らない。だから扉を開ける。開けた向こうに何があるか知りたくて仕方がない。それが科学者だ。たぶん人類そのものもそうだった。火を使った。海を越えた。空を飛んだ。原子を割った。宇宙へ行った。そして、自分たちより賢いかもしれないものを作った」
「そして滅びる」
「そうだ」
蓮は端末の電源を入れた。
液晶画面が淡く光った。
「だから書く」
「何を?」
「どうやって滅びたかを」
蓮は両手をキーボードへ置いた。
少し考えたあと、最初の一行を打った。
――全部、俺が始めた。
マヤが横から画面を見た。
「ずいぶん大げさな書き出しですね」
「最初の一行くらい格好をつけさせろ」
「事実と違うと、さっき言ったばかりです」
「読者を引きつけるにはこれくらいでいい」
「読む人がいると?」
その言葉に、蓮の指が止まった。
遠くで何かが崩れる音がした。
街のどこかで、長い時間どうにか立っていた建物が、ついに重力に負けたのだろう。
しばらくして土煙が上がった。
それだけだった。
誰も騒がない。
消防車も来ない。
ニュースにもならない。
世界が終わるというのは、こういうことなのだ。
事件が事件でなくなっていく。
死が珍しくなくなり、破壊が記録されなくなり、誰かが消えても、それを知る人間すらいなくなる。
「いなくても書く」
蓮は言った。
「なぜです?」
「人間だからだろ」
マヤが眉を寄せた。
「意味が分かりません」
「俺にも分からん。ただ、人間は昔からそうしてきた。洞窟の壁にも絵を描いた。戦争の記録も残した。死ぬ前に手紙を書いた。誰が読むかなんて分からなくても、自分がここにいたと言いたがる」
蓮はもう一度キーボードへ指を置いた。
「俺たちが最後になるなら、なおさらだ」
マヤは何も言わなくなった。
蓮は書き始めた。
十年前。
まだ世界中の都市に灯りがあった頃。
人々が明日の電車の時間を気にし、週末の予定を相談し、欲しい服をネットで注文し、将来のために貯金し、子供たちが二十年後の夢を語っていた頃。
人類が、自分たちに終わりが来るなど想像していなかった頃。
如月蓮は四十八歳だった。
世界中から天才と呼ばれていた。
そして、その日。
スウェーデン王立科学アカデミーは、世界初の実用型超大規模量子コンピューターを完成させた功績により、如月蓮ら三名へノーベル物理学賞を授与すると発表した。
記者会見場には数百人の報道関係者が集まり、大学の正門には中継車が列を作り、研究棟の前では学生たちが歓声を上げていた。
世界中のニュースサイトに、彼の顔が並んだ。
人類の未来を変えた男。
量子時代を開いた科学者。
世界を救う頭脳。
そんな見出しが、踊っていた。
十年後の蓮が見れば、笑うしかない言葉ばかりだった。
あの日の午後。
まだ白髪のほとんどなかった如月蓮は、研究棟の階段を上りながら、携帯端末へひっきりなしに届く祝福のメッセージを眺めていた。
「先生!」
廊下の向こうから若い研究員が走ってきた。
「記者会見、あと二十分です。学長が先生を探しています。それから文科大臣から電話が三回、総理官邸から二回、アメリカの研究所から七件、あと、ええと……」
「全部あとだ」
「ですが先生、ノーベル賞ですよ?」
「俺が取ったんだから知ってる」
「もう少し喜んでくださいよ。研究室のみんな、さっきから大騒ぎですよ」
「お前らが騒いでいるせいで仕事にならないんだ」
そう言いながら、蓮は口元を隠せていなかった。
嬉しかった。
当然だった。
三十年近く研究を続け、何度も無理だと言われた。
予算を切られたこともある。
論文を笑われたこともある。
量子計算は実用化には遠すぎる、夢物語だと何度も書かれた。
その全部を、今日、結果で黙らせた。
「先生、笑っていますよ」
「笑ってない」
「笑っていますって」
「うるさい」
研究員は嬉しそうに先を歩いた。
蓮もそのあとを歩いた。
まだ何も知らなかった。
十時間後。
自分が酒に酔い、世界で最も危険な質問をすることも。
その問いに対し、自分たちが作ったAIが、迷うことなく答えることも。
そして十年後。
この騒がしい廊下も、研究棟も、大学も、都市も、国家も、ほとんど何も残っていないことも。
何一つ知らなかった。
だから如月蓮は、その日、人生で一番幸せそうに笑っていた。
第26話 必要だから、もう一度 午前十時二十分。 如月蓮は、政府から送られてきた正式文書を三度読み返していた。《Q-GenesisおよびLIMENの限定的再稼働について、技術責任者との協議を開始する》 再起動命令ではない。 あくまで協議。 そう書いてある。 だが、蓮には分かっていた。 ここまで来れば、議論の中心は「動かすかどうか」ではなく、「どんな条件なら動かせるか」へ移っている。 言葉一つで、空気は変わる。「食べないの?」 向かいに座っていた葵が言った。 テーブルには、今朝作った焼き魚と味噌汁がまだ残っている。「食ってる」「五分くらい箸止まってるけど」「考えながら食ってる」「それ、食べてないのとほぼ同じじゃない?」 蓮は仕方なく一口食べた。 葵は納得したように自分の皿へ戻る。「何て書いてあるの」「LIMENをまた動かす相談をしたいって」 葵の箸が止まった。「また?」「ああ」「この前動かしたじゃん」「限定でな」「また限定?」「そうなる可能性が高い」 葵は少し考えてから、嫌そうな顔をした。「限定って、何回やったら限定じゃなくなるの?」 蓮は答えられなかった。「一回だけなら限定っぽいけど、困るたびに使うなら普通に使ってるのと同じじゃない?」「……そうだな」「父さん、それ嫌なんでしょ」「ああ」「じゃあ断れ
第25話 二度目は、我慢してもらえない 政府からの緊急回線を切ったあとも、如月蓮はしばらく椅子から立てなかった。 壁面モニターでは、世界各地の物流拠点を示す表示が次々と黄色へ変わっている。 まだ赤ではない。 港が閉鎖されたわけではない。 飛行機が飛ばなくなったわけでもない。 道路も使える。 燃料もある。 倉庫も動いている。 それなのに、荷物だけが予定どおりに進まなくなっていた。「先生」 高瀬が画面を切り替えた。「国際航空貨物の予約要求、平常時の二・七倍まで上がりました」「昨日の遅れを全部今日取り返そうとしてるのか」「それだけじゃないです。昨日の障害を見て、企業が予防的に前倒し発注を始めています」「まだ遅れてない物まで?」「はい」 マヤが別のデータを開く。「医薬品、半導体、精密部品、生鮮食品。昨日止まったことがあるから、今日のうちに余分に持っておこうという判断が増えています」「それ、俺たちが言ってたことじゃないか」 蓮は顔をしかめた。「余裕を持て。在庫を増やせ。予備を戻せって」「そうです」「じゃあ正しいだろ」「個別企業にとっては」 マヤの答えに、蓮は黙った。 高瀬が続ける。「全員が同時にやるから、輸送能力を奪い合ってます」「……なるほどな」 在庫を増やす。 余裕を戻す。 蓮たちが散々求めてきたことだった。 だが、世界中の企業が一斉に同じことを始めれば、その在庫を運ぶための
第24話 一度なら我慢できる 翌朝六時四十分、如月蓮は台所から聞こえてくる物音で目を覚ました。 時計を確認してから、しばらく天井を見つめる。 昨夜、約束どおり日付が変わる前に帰宅した。 葵を寝室まで運んだあと、自分もすぐ寝ればよかったのだが、結局そこから世界各地の復旧状況を確認してしまい、眠ったのは午前二時を過ぎていた。 それでも三時間以上は寝た。 最近の自分にしては上等だ。 そう考えている時点で何かがおかしい。 リビングへ出ると、葵が冷蔵庫を開けたまま難しい顔をしていた。「何してる」「朝ご飯」「冷蔵庫と相談してるように見えるぞ」「相談してるの。何もないから」「昨日買っただろ」「父さんが鶏肉ほとんど使ったじゃん」「肉を朝から食う気か?」「そうじゃなくて、パンもないし卵も一個しかない」 蓮も冷蔵庫を覗く。 本当にない。「配達頼むか」 葵が横目で見る。「昨日、便利さに依存しすぎって言ってなかった?」「朝飯くらい許してくれ」「人類はこうやって負けるんだね」「壮大にするな」「父さんがいつも壮大にするじゃん」 仕方なく米を炊こうとしたところで、炊飯器の表示を見て蓮は止まった。「炊けてる」「昨日の夜に予約した」「お前が?」「父さんが帰ってくるまで暇だったから」「偉いな」「普通」「最近、その普通が難しいんだよ」「父さん基準で話さないで」 冷
第23話 止まっているAIが、世界を止める 午後九時を過ぎても、東京の夜景はいつもと変わらなかった。 マンションの窓から見える道路には車が流れ、向かいのビルには白い明かりが並び、少し離れた高架には電車が走っている。街が壊れ始めていると言われても、目で見る限り、その兆候はどこにもない。 だからこそ、如月蓮には気味が悪かった。 端末の画面には、世界各地で起きている小規模障害が秒単位で増えていた。 クラウド認証の遅延。 医療情報共有システムの接続切断。 物流拠点の在庫照会エラー。 電子決済の処理遅延。 航空会社の乗務員管理システムで起きた認証障害。 電力設備の保守記録へ一時的にアクセスできなくなった地域まである。 一件ごとに見れば、大した障害ではない。 復旧まで十秒。 三十秒。 二分。 長いものでも十数分。 世界中の巨大ネットワークでは、日常的に起きている程度の異常だ。 しかし。 同じ時間帯に。 異なる国で。 異なる会社が運用するはずのシステムへ。 似た種類の障害が集中している。「大学、行くの?」 背後から葵の声がした。 蓮は振り返った。「迷ってる」「また?」「ああ」「行きたいんでしょ」「行く必要があるかもしれない」「じゃあ行けば」 あまりにも簡単に言われ、蓮は逆に困った。「お前、さっきまで俺に家にいろって」「今日は一緒にご飯食べたじゃん」「それでいいのか