FAZER LOGIN「歩きスマホは即死刑?」 ある日、首相は「来月から歩きスマホをAI警察が射殺する」と宣言する。施行初日、大学生の神崎遼は、親友・翔が警告に従おうとしたのに撃たれる瞬間を撮影した。
Ver mais「歩きスマホは即死刑?」
店の外から飛び込んだ声に、六車食堂の箸がいっせいに止まった。
僕――神崎遼(かんざき りょう)は、奥の席で壁を背にしていた。向かいの佐伯翔(さえき しょう)は鯖のみそ煮を崩しながら、入口脇のテレビを見ていた。
東央大学の南門を出てすぐ、細い路地の角にある古い食堂だ。油染みの残る壁に沿って4人掛けのテーブルが6卓並び、夕方は学生と会社員で埋まる。
店主は厨房から顔を出し、カウンターの会社員も箸を止めていた。野球の試合が中断されたことに文句を言う人はいなかった。
数分前、2039年4月27日の18時。野球中継が切れ、紺のスーツを着た鷹宮宗一(たかみや そういち)首相が映った。
【首相緊急会見 国民の生命に関わる重要発表】
「歩行中のスマートフォン操作による死傷事故は、看過できない水準に達しました」
背後の画面に、スマートフォンを見た歩行者が女性へぶつかる映像と、雨の歩道で自転車が転倒する映像が流れた。どちらも、その後は映さなかった。
次は通学路だった。赤い帽子が子どもの頭から外れ、車道へ転がる。画面は、帽子が白線を越えたところで切れた。
【昨年の死者 82人・重傷者 2,400人】
【年間推計損失 1兆8,000億円】
集計方法も、「損失」に何を含めたのかも示されなかった。
「政府は本日、歩行中携帯端末危険行為緊急措置特別法案を閣議決定しました。国会の審議を経て、明日公布、6月1日に施行する予定です」
首相は、停止命令に従わず周囲の生命へ急迫した危険を生じさせた者には、AI巡視機が即時制止を行うと説明した。
「即時危険制止とは、武器の使用を含みますか」
「含みます」
厨房で皿が割れた。その直後、店の外から「歩きスマホは即死刑?」という声が飛び込んだのだ。
「停止命令に従わない歩行者を、AIがその場で撃つ可能性があるということですか」
首相は質問を言い換えなかった。
「周囲の生命を守るため、必要な範囲で制止します」
いつ国会で審議するのか、誰が危険を判断するのか。記者の声が重なったが、司会者は次の質問者を指さなかった。
「明日公布って、いつ審議するんだよ」
翔は笑ったが、僕は笑えなかった。
10分もたたず、ネット記事が出た。
【歩きスマホは即死刑?政府、AI巡視機の武器使用を認める】
「これ、本気でやるってことだよな」
「今の説明どおりなら、6月1日からだ」
「歩いてる間だけ、しまえばいいのか」
翔はスマートフォンをポケットへ入れた。僕にも一瞬、簡単な規則に見えた。
テレビの下へ新しい文字が流れた。
【本日19時、東央大学前でAI巡視機の公開実演】
僕らは食べかけの定食を片づけ、大学前へ向かった。
交差点は白い規制柵で囲まれ、報道カメラと学生が歩道を埋めていた。僕と翔は南西角の規制線の外側に立った。
少しでも実演を見ようと、何本もの腕がスマートフォンを頭上へ掲げている。歩きスマホを禁じる制度の実演を、全員がスマートフォン越しに見ようとしていた。
頭上から、空気を細かく切る低い羽音が降りてきた。灰色の機体が街路灯より低い位置で止まる。下面には半球形のカメラと黒い筒が並んでいた。
四つの回転翼を含めると、幅は1メートルを少し超える。黒い筒は短く、遠目にはセンサーにも見えた。銃だと説明されなければ、通り過ぎていたかもしれない。
「あれが銃?」
「たぶん。発射部は隠してる」
僕は研究室の旧型業務用カメラを構えた。街頭スクリーンのちらつきを測る課題に使う、今どき珍しいほど重い機材だった。
黄色いベストの実演役が、スマートフォンを見ながら横断歩道へ出た。
巡視機の黒い筒が、彼の胸を追う。液晶を拡大すると、針先ほどの赤い点が胸元を横切っていた。
巡視機は、まだ警告していない。
次の瞬間、電子音が鳴った。
【停止してください。スマートフォンをしまってください】
職員が従うと、白い誘導光が安全区画まで伸びた。観客から拍手が起きる。
最前列の人が手を叩くと、後ろの学生たちも周囲を見てから拍手を始めた。
「警告に従うだけで、市民を安全な場所まで誘導します」
担当者は白い誘導光を指したが、赤い照準には触れなかった。報道カメラも、安全区画へ移動した職員だけを追っていた。
僕は映像をコマ送りにした。赤い点が胸を横切ったのは、警告より約1秒早い。
「翔、見た?」
「ちゃんと止まったじゃん」
「その前に狙ってた」
再生画面を見た翔の笑いが消えた。
係員が柵を動かし、僕らは後ろへ下がった。大型スクリーンから実演映像が消え、笑顔の親子へ切り替わる。
【見上げれば、安全な未来】
その下を、東央区のロゴが入ったトラックが大学の搬入口へ入っていった。
僕は車列を追った。
「遼、どこ行くんだよ」
「見てくる。先に帰ってて」
半分開いたシャッターの奥で、作業員が細長い箱から薄い黒色のパネルを出していた。表面には滑り止め、縁には路面固定用の金具がある。
まだ電源はつながっていない。真っ黒な表面に、天井灯だけが油膜のような虹色を浮かべていた。
梱包ラベルへカメラを向けた。
【光都ディスプレイ 東央区シティレイヤー計画・第1期】
【製造年月 2038年11月】
法案の発表より5か月も前だった。
今日決まった制度のための設備が、去年の秋に作られている。将来の需要を見込んだだけなのか、それとも今日の発表を知っていたのか。ラベルだけでは決められなかった。
「学生さん、そこ立入禁止」
作業員に呼ばれ、僕は立ち上がった。若い作業員が、小声で「倉庫には冬からあった」と教えた。
奥から年配の作業員に呼ばれ、彼は口を閉じた。台車の車輪が床の継ぎ目を越え、黒いパネル同士が鈍くぶつかった。
通りへ戻ると、公開実演を終えた人々が駅へ流れていた。
別の画面には会見直後の投票が出ていた。
【特別法を支持しますか 賛成73%】
誰が、いつ、何人に聞いた数字なのかはない。
女性リポーターにマイクを向けられた父親が、子どもの肩を抱きながら答えた。
「危ないときに巡視機が止めて、安全な場所まで誘導してくれるなら安心です」
隣では大学生が笑った。
「本当に撃つわけないって。ただの抑止力ですよ」
周囲の学生も笑ったが、その声はすぐ人の波に消えた。
母から着信があった。僕は人の流れを外れ、歩道の端で止まってから応答した。
「ニュース見た? 大学の前でしょう」
「実演も見た。法案より前に作られたパネルが運び込まれてる」
数秒の間、電話の向こうのテレビだけが聞こえた。
「でも、それだけじゃ何も分からないでしょう。危ない人を止める法律なんだから、遼が首を突っ込むことじゃないよ」
通りを行く人々は、もうスマートフォンをしまい、顔を上げていた。安全になったというより、監視されているときの振る舞いを覚え始めているように見えた。
電話を切ると、別の街頭画面で賛成率が67%と出ていた。数歩進んだ先では73%。更新時刻も母数もなく、同じ夜の街で数字だけが食い違っていた。
翔からメッセージが届いた。
【俺は先に帰る。遅くなるなよ】
僕は【わかった】と返した。
顔を上げると、実演を終えたはずの巡視機が搬入口の上空にいた。黒い筒がこちらを向き、赤い点が僕の胸を横切って消える。
僕はスマートフォンを持ったまま、歩道の端から動いていなかった。それでも機体は僕を狙い、何の警告も出さずに上昇した。
街頭スクリーンが切り替わった。
【施行まで35日】
法案は、まだ国会で審議すらされていない。
それでも街は、施行までの日数を数え始めていた。
11月3日の朝、大学前交差点を囲っていた白い工事幕が外された。南西角の文具店は閉店し、シャッターに【長い間ありがとうございました】と書かれた紙が貼られていた。道路の向こうにコンビニ、右手に大学の南門。位置は6月1日と同じだった。違うのは、足元だった。路面ディスプレイは撤去され、横断歩道には白い塗料とざらついた舗装材が敷かれていた。停止線の手前には、スマートフォンを見るための四角い区画が3つ。表示ではなく、青い塗料で囲まれていた。区画の脇には紙の案内板が立っていた。【スマートフォンを利用する時は、ここで立ち止まってください。利用は任意です】命令ではなく、使い方だった。僕は南西角に立ち、大学から正式に借り直した旧型カメラを肩から下げていた。隣に凪、その向こうに美紀と莉子がいた。「緊張してる?」凪が聞いた。「少し」「渡らなくてもいい」「渡る」信号が赤から青へ変わった。音響信号が鳴り、歩行者が動く。足元に矢印は出ない。残り秒数も、個人の歩幅も表示されない。僕は1歩目を出した。6月1日、翔が立っていた対岸を見る。配達用の自転車も、手を上げる姿もない。2歩目で、体が止まりそうになった。美紀が僕を追い越さず、横に並んだ。莉子は反対側へ回り、凪は半歩後ろを歩いた。誰も腕を引かなかった。
7月14日の夕方、僕と凪は老人に教えられた道で駅へ向かう途中、パトカーで来た警察官に保護された。田辺弁護士へ連絡し、東央警察署へ同行した。夜をまたいだ7月15日の午前2時、僕は署内の会議室にいた。長机の片側に僕と凪、反対側に田辺弁護士と刑事がふたり。窓のブラインドは閉じられ、壁のスクリーンには白い布が掛けられている。逮捕ではなく、保護と事情聴取だと説明された。それでも廊下には制服警察官が立ち、僕らは自分の判断で外へ出られなかった。「中継所への立入りは、正規鍵で承認されています」田辺弁護士が書類を机へ置いた。「佐伯美紀の緊急停止申請、片桐誠教授の保守確認、図書館の防災表示確認端末と中継所の操作記録。破壊された設備もありません」刑事は黙ってページをめくった。「ただし、目的外使用の疑いは残ります」「人が撃たれる表示網を止める申請が目的外かどうか、先に調べてください」凪の声は低かった。僕は長机の木目を見ていた。63秒が終わってから、体の震えが止まらない。怖かったのだと、今になってわかった。刑事のひとりが、白い布を少し持ち上げた。「武器運用は、午前0時に全国で停止されました。今日から始まる予定だった屋外スマートフォン所持許可制も、施行凍結です」「法律は?」「残っています。凍結は廃止ではありません。政府が運用命令を止めただけです」僕は顔を上げた。「巡視機は撃たない?」
防災表示中継所の扉を抜けると、幅の狭い階段が地下へ続いていた。僕が先に下り、凪が扉を閉める。地下1階の短い廊下には3つの部屋があり、中央の制御室だけ緑の非常灯が点いている。右側の壁一面に表示卓、左側に通信盤。僕は表示卓の前へ座り、凪は廊下側の扉を背にした。午後5時0分12秒。共通表示層の待機時間は、あと48秒だった。「証拠媒体」凪が封を切り、作業用メモリーを僕へ渡す。「原本じゃない」「原本は弁護士。照合番号は最後の18秒」僕は表示卓の読取り部へメモリーを差した。画面に4つの枠が並ぶ。【未編集映像 15秒】【危険度変更記録 15秒】【個別表示比較 15秒】【証拠照合・管理通信 18秒】合計63秒。廊下の天井で警報が鳴った。【危険行為者が施設へ侵入しました】「正規鍵で入った」凪が画面へ言った。【退去してください。30秒後に制止を開始します】「遼くん、押して」表示卓の中央に、物理ボタンがせり上がった。赤ではなく、災害標識と同じ橙色だった。僕は右手を置いた。翔の映像が頭に浮かんだ。スマートフォンを見る。顔を上げる。僕を見る。倒れる。
7月3日、東央区役所前の公衆電話は、庁舎の北壁に3台だけ残っていた。僕は中央の受話器を取り、凪は2メートル離れた植え込みの脇に立った。頭上の庇には監視カメラがあるが、電話機の内側に画面はない。10円玉を入れ、佐伯家の代理人になった田辺一樹(たなべ かずき)弁護士へ電話した。「映像と記録を、紙の説明書と一緒に送ります」「電子送信は?」「相手ごとに違う警告が出ます。受け取れたかも確認できません」「原本は手元に残してください。会って封印しましょう。複製は届いた時刻と封の状態を記録します」受話器を置くと、硬貨が1枚戻った。それから11日間、僕らは証拠を6系統に分けた。6月1日の未編集映像原本は、田辺弁護士の目の前で封印し、そのまま預けた。検証用の複製は書留と別の運送便に分け、報道機関の記者にも直接渡した。合計6か所。受取人、時刻、封の状態、重量を紙に残した。郵便局の壁面スクリーンは、【虚偽情報を含む記録媒体の送付は処罰される場合があります】と警告した。窓口の職員は禁制品でないことを確かめ、表示を伏せて消印を押した。翌日、報道機関の1社から、封筒が空だったと電話が来た。こちらの控えには重量28グラムが残っている。田辺弁護士が計量記録を保全し、別便の受領も確認した。空の便は失敗系統として外し、同じ照合番号の複製を田辺弁護士の管理下で作り直した。別の報道社へ直接手渡し、受領時刻と封の状態を確かめて、最終的に外部6か所へ戻した。征一郎はスクリーンを支配できても、手から手へ渡った6系統を一度には消せなかった。父の設計にある2つの監査保全庫とは別に、人が証拠を守る経路ができた。7月13日の夜、美紀から固定電話があった。