*** 明日の激務に備え自分の仕事に優先順位をつけて、あらかた片付けつつ、ぶっ倒れそうな人間をピックアップし、ソイツの仕事をする下準備をした。「そんじゃ、お言葉に甘えてお先に失礼します!」 野戦病院と化した、編集部を逃げるように立ち去る。振り返るな、憐れむな、明日はわが身――。 羨む視線を振り切って一路、周防のところに向かった。「17時ちょっと前か。病院閉める時間だから、ちょうど良かったかもな」 腕時計で時間を確認して中に入ろうとしたら、上着を誰かにぐいっと引っ張られる感覚がした。振り向くと小学生くらいの女のコが俺を見上げて、もじもじしているではないか。「どうしたんだ? 病院に用事なのか?」 ポニーテールに、可愛らしい花柄のワンピースが清楚な感じ。女のコの視線に合わせるべく、膝に手をついて顔を見てあげた。「あの、周防先生のところでお世話になってる、太郎の服を持ってきました」 背負っていたリュックを肩から下ろして、強引に手渡してくれる。「周防が世話してる、太郎って?」 今時いるんだな、昭和チックな名前を付ける親。「すみませんっ、余計なことは喋るなって言われてるので。それ渡してください」 まくし立てるように言って、俺が編集部を逃げたように走り去って行く。「ちょっ、君の名前は?」 女のコの背中に慌てて訊ねると、「えっと太郎の妹です。失礼します!」 きっちり一礼して、夕日に向かって走り去ってしまった。「太郎の妹って、名前じゃないし」 リュックを手に困り果てながら病院の中に入って、診察室を覗いてみる。待合室に患者さんがいなかったから、多分周防ひとりだろう。「ちーっす、土曜はどうもな」 自分の家の中に入るように、診察室に足を踏み入れる。パソコンと睨めっこしていた周防が、疲れた顔して俺を見た。「ももちん……。随分顔色も良くなって、元気になったみたいだね」「そういうお前は、大丈夫なのかって顔してるぞ。今日、忙しかったのか?」 心配になって周防の額に手を当てて熱を測ると、微妙な表情を浮かべて、すっと顎を引く。熱はないみたいなので、すぐさま手をどけた。「ちょっと疲れが溜まっただけ。それよりもどうしたの、遠足に行くのにちょうど良さそうな、大きなリュックを持ってきて」「おおっ、そうそう。病院前でいきなり、女のコに手渡されたんだ。なんで
*** ――月曜日―― 職場である編集部に出勤したら、そこは野戦病院と化していた。見間違え……いや幻かもしれない。 そう思って身を翻し引き返した瞬間、背後から肩を強く叩かれる。「諸悪の根源がぁ、逃げるなよ、桃瀬ぇ……」「ヒッ!?」 恐るおそる振り返ると、メガネの奥から恨めしそうに俺を見つめ、マスクを装着した編集長がいた。「お前が僕の忠告を聞かず、ずーっと残業したり無理をした結果、風邪を引いた挙句にマスクをつけず、周囲を見事に感染させた罪は、すっげぇ重いぞ」「( ゚-゚)( ゚ロ゚)(( ロ゚)゚((( ロ)~゚ ゚ナント!!!」 さっきは漂っていた雰囲気だけで逃げたのだが、目ん玉ひん剥いてよぉく見てみると、編集者全員マスクをしながら、書類と栄養剤を片手に仕事をしているではないか!「僕の予測では一日に一人ずつ、倒れると思うんだ。だから桃瀬、今日は早上がりしていいから、完璧に風邪を治せ。これは命令だぞ」 肩を掴んでいた手で背中を叩いて、フラフラしながらデスクに戻って行く編集長。言えなかった――完全に風邪が治っていること。言ったら間違いなく、いつも以上にこき使われるのが目に見えたから。 今日は明日のために、温存しながら仕事をしよう。早上がりできるついでに、周防のトコ寄ってお礼を言わねば。 この日は小さくなりながら、粛々と仕事に勤しんだ俺。早く帰りたい気持ちが満載だった。
***「あーあ、聞かなきゃよかった……」 郁也さんをキッチンから追い出し、やっと安心して調理に取り掛かれる。なのに周防さんとの関係を聞いてしまったせいで、気持ちがずーんと沈んでしまった。(清い関係を続けているって言いながら、郁也さんってばどうしてそこで赤くなるんだよ。過去になにかありました! って言ってるのが、わかってしまったじゃないか) 郁也さんが終わったことでも、周防さんの中では現在進行形なんだ。恋をしているんだから――。 大根1本を真ん中から切って、ピーラーで皮を剥いていく。包丁で剥くよりも、そっちの方がキレイだからね。さくさく剥きながら、つい考えてしまう。ふたりがどこまでの関係なのか。慌てて隠したってことは、つまり――。「ヤってしまったってことなのかな。でもその後に、友達でい続けられる? 僕なら絶対に無理」 頭の中でふたりが、抱き合っているところを想像してしまい……ビジュアル的には、僕よりも人目を惹く。一緒に並んで歩いてるだけで、絵になるもん。 こんなくだらないことで、いちいち嫉妬してしまうのは、自信のなさの表れだってわかってる。恋愛って付き合う前よりも付き合った後の方が、エネルギーを使うよなぁ。人の想いが目に見える形で見えたときに、自分の想いと周防さんの想いの、どっちが大きいものなのか。 恋人である僕はどこかその立場ゆえに、アグラをかいてるところがあるのかもしれない。レベルはMAXでも、そこどまりでキープされてる状態。一方周防さんは叶わないからこそ、想いはどんどん募っていって、溢れまくってる感じ。上限なんかないんだ。 口では一番なんて言ってみたけど、実際は負けちゃってるんだよなぁ。それでも足掻いてみせるのは、負けず嫌いだからこそ! 郁也さんのために、自分ができることをしてあげたい。 例え小さなことでも、なんでもしてあげたいって思う。 そんでもって僕のことを、もっと好きになってもらい(口に出してくれないのは寂しいけどね)それを汲み取って、自信に変換する。 なんちゃら方式を真似て、腕ピロトークのCDを郁也さんに聴かせまくったら、そういう流れを覚えて、愛の言葉を囁くタイミングとかわかってくれるかも? さっきだって、ワザとそういうふうにもっていったのに、今ひとつだった郁也さん。それとも――さっきの王道話を小説化して、この状況と被ってる
*** 困った――大好きな恋人に、手を出したい衝動にかられてしまう。「この角度で、ゆっくりっと……」 涼一が果敢に挑むべく、息を飲みながら手元を見た。「ああっ、もう! それじゃあ危ない」 ハラハラとドキドキが一緒に襲ってきて、どうにもうずうずする。 思わず声をあげる俺をジロリと睨んできても、それすら可愛いと思ってしまう。どんだけ涼一に、熱を上げてるんだか。「郁也さんは黙ってて。血を見たいの?」「見たくない、見たくない!」「全部僕がするんだから、手出し無用だよ。つぅかあっちで寝ててほしいんだけど、一応病人なんだからさ」 低い声で唸るように注意をしてくれるのだが、俺の方がプロなんだ。口を出したくなるのは、当然のことだろう。「わかってるんだけど、なんていうかこう、涼一の肩に力が入りすぎていて、ムダに危ないんだって。リラックスしたほうが、滑るように入れられるし」「しょうがないでしょ。マトモにやるのは、中学生以来なんだから。それ以降は危ないからって、誰も相手にしてくれなかったし」 不機嫌に輪がどんどん重なっていくので、見事に涼一の集中力が途切れ、当然手元のものも、すごいことになっていく。「顔は可愛いクセに、やること雑だよなぁ」 俺は憐れに千切りされた、まな板の上にあるキャベツを、そっと摘んでみた。千切りというか、万切りというか……。「そこら辺にある雑草を、むしり取ってきたみたいだ。七夕の飾りに、こんなのあったような気が――」「しょうがないだろ! 初心者なんだ。見た目は残念だけど、調味料はきちんと量って、味付けするから大丈夫だよ」(――その見た目だって結構、大事なのにな) コッソリため息をついて、涼一の背後に回った。ひしひしと一生懸命さが伝わってくる。しかも俺のために、頑張って作ってくれているのだ。「思い出すなぁ。初めて俺ン家へ泊まりに来たときにニンジンの皮、ピーラーで剥いてくれたことを」 勢い余って自分の手の皮を、ピーラーで剥いちゃったんだよな。「あの頃と今とじゃ、僕だって進化してるんだ。バカにしないでよ」「してないって。ほらほら思い出せ。素直に俺に教わって成功させた、あの気持ちを」「大げさな……」 振り返って睨みを利かす涼一に、千切りを教えるべく手を取った。鼻腔をくすぐる石鹸の香りや体温がじわりと伝わってきて、自然と頬が熱
なぁんて、くだらないことを考えながら寝室に戻ったら、郁也さんがタイミングよく目を開けた。「……あれ? 周防は帰ったのか?」「うん。 ついさっき帰ったばかりだよ」 ベッドの傍に跪き、枕元でぼんやりしてる郁也さんの顔を覗き込む。ちょっとだけ顔色がよくなったように見えた。やっぱり自分の布団で寝るのって、大事なんだな。「周防と喋ってる最中に、見事に寝落ちしちゃったみたいだな。短時間で今までの睡眠を、確保した気分だ」 郁也さんはふわりと笑って、僕の頬を優しく撫でる。手の体温もいつも通りで一安心……って周防さんいったいなんの薬を使って、郁也さんを一気に回復させちゃったんだ!?「咳も止まって、良かったね」「ん……でもまだ喉の奥がゼロゼロしてるから、周防の言いつけどおり安静にする。悪いけど俺のスマホ、持ってきてくれないか? 周防に礼を言っておきたい」 「わかった、ちょっと待っててね」 ダイニングテーブルの上に置いてあった郁也さんのスマホをリビングに取りに行き、寝室で寝ている郁也さんに急いで手渡した。 背中に手を添えて、上半身だけ起こしてあげる。僕に寄りかかった郁也さんは手早くコールしてから、スマホを耳に当てる。病人の郁也さんがつらくならないように、肩に腕を回した。 すると僕の行動に顔をほのかに赤くして、少しだけはにかみながら素早く頬にちゅっとキスする。「サンキュー、涼一」「いえ、どういたしまして」 郁也さんに触れたくて、勝手に肩に手を回しただけなのに、こうやって応戦されると困ってしまう。「もしもし――」 郁也さんが繋がったラインに言葉を発したとき、周防さんがすぐさま返答したらしい。なにかを言いかけて、口をつぐんだ郁也さん。 困った顔して、頭をポリポリ掻いている。やがて気を取り直して、ため息をついてから、「悪かったな周防、迷惑かけてさ。昼からオフだったろ?」 郁也さんの気遣うセリフに、周防さんはなにを感じただろうか――友達を思っての気遣いなんだろうけど、それでもやっぱり嬉しいだろうなと思った。「……お前こそ、ちゃんと休みをとってるのか? 周防、結構疲れた顔してたし」 あの若さで個人病院を切り盛りしてるのは、きっと大変だもんね。少子化と世間は騒いでるけれど、病人は少なくはないんだから。 「そうか。なんかイラついてたから、疲れが溜まっ
周防さんが注射をして、いろいろ話をしている最中にアクビを何度もしている内に、パタリと眠りについた郁也さん。あどけなく寝ている、郁也さんの頭を優しく撫でてからゆっくりと立ち上がる、周防さんの背中に思い切って声をかけた。「あっあの、お茶でもどうですか?」「ごめんねー。これから済ませなきゃいけない用事があるから、もう帰るよ」 ここに来たときと同じ口調で喋って、柔らかく微笑む。 隙がない――周防さんの気持ちを、是非とも確かめてみたいと思ったけど……確かめたところで、その想いを止めろとは言えないワケで。 どうしよう――。 呆然と立ち尽くす僕の横を通り過ぎ、周防さんは急ぎ足で玄関に向かう。(――なにか……なにか話題はないものか) ムダに焦る目の前でスムーズに靴を履き、じゃあねと言って出て行こうとした腕に縋りついて、ぎゅっと握ってしまった。「なに?」 不審げに見る、周防さんの視線が痛い――だけど負けるな自分!「えっと指示ください。この後、どうすればいいですか?」「なーんだ。ももちんが寝てる間に、涼一くんから迫られるのかと思ったのにさ。残念」 からかうような周防さんの口調に、ぶんぶんと首を横に振りまくることしかできない。「そんな大胆なことしませんし、周防さん相手にそれはできません!」「そうなんだ、へぇ」「それに周防さんは、郁也さんのことが、好っ――」 言いかけて、ゴクンと言葉を飲み込んだ。確証のないことを、みずから明かしてどうする!?「なに、どうしたの?」「すみませんっ、そのあの……周防さんは郁也さんのこと、すっごく大事にしてるので、見習わないといけないなって」 冷や汗が背中にタラリと流れる。これでうまいこと誤魔化せたかな?「……大事にするさ、好きなんだから」「周防さん――」 どっちの好きかなんて聞くまでもない。切なげな瞳が、すべてを物語っていたから。 掴んでいた周防さんの腕をそっと外して、両脇に拳を作った。「涼一くん、僕の男に手を出すなとか言わないの?」「いえ、そんなことは……」「涼一くんには、俺を責める権利があるんだよ。俺たちが高校生のとき、お互い想い合ってたのを知ってて、邪魔していたんだからさ」 中学生だった僕のことを好きだった、高校生の郁也さん。そして、郁也さんを好きな周防さんが横恋慕するのは、当然のことだと思う。