LOGIN電車を降りると、顔面の痛みがじんじんと響いた。横須賀中央駅。
横須賀は古くから軍港の街として栄えて、今も海上自衛隊と
慣れ親しんだ駅のはずなのに、
駅前も、正月だからかいつもより人が多い。観光客や帰省者向けに、ご当地グルメとして海軍カレーやネイビーバーガーを矢鱈宣伝している。
「あーあ、つまんなかったー。電車とかマジ無理」
…顔の模様は確かに大きく消えていたけれど。
「…お前があんなリアクション取らなければ…」
「えー! お陰でたっくさんの煩悩に向き合えたじゃん…わったしのおっかげー!」 「いや、あんなの周りの人も引いてただろ…普通じゃない」 「普通って何?ウケるんですけど…あ、ねえねえネイビーバーガーって美味しそう!」本当に、こいつの行動基準は自分勝手だ。
駅から実家までは歩いて十五分ほど。
少し小高い住宅街にある。昔から見慣れた街並み、都外の再開発なんて勢いもなくなっているこの土地は何も変わっていない。
だが、周囲からの視線は、コンビニや原宿ほどではないにしても、やはり集まる。
ダルい。早く家に着いて、この状況をどうにかしないと。実家のチャイムを鳴らすと、すぐに扉が開いた。
出てきたのは、俺の母親だった。「あら、翔平! よく帰ってきたわね! もう、遅いんだから!」
久しぶりに見る母親は、以前と変わらずの明るい笑顔で俺を迎えた。
そして、その笑顔が、俺の隣に立つ「え…? あ、あの…どちら様で…?」
母親は、
……無理もない。
俺だって未だに慣れないんだから。
俺が何と説明しようか言葉に詰まっていると、
「どーもー! 私、
「あ、あの…お友達…?」
「そうなんですー! しょーへーってば、友達少ないから、私がわざわざ遊んであげてるんです! 今日からしばらくお世話になりまーす!」
(最悪だ…)
俺は頭を抱えたくなった。
まあ、なんとなく予想しなくはない展開ではあったが…もう少しこう… やはり置いて来ればよかったか? しかし、ここから予想外のことが起きた。
「あらあら、
俺は、その様子をただ呆然と見ているしかなかった。あんなに実家に来るのを嫌がっていたくせに、
リビングに通されると、父が座っていた。父は元自衛官で、口数が少なく堅物な性格だ。
定年が早い自衛隊から今は警備会社に移り勤めている。俺は子供の頃から父が苦手だった。多感な時期は、父は出張と航海で家を空けてばかりだった。
なので未だに何を話せばいいか分からないし、いつも俺のダルそうな態度に呆れているのが伝わってくる。「…父さん」
俺が挨拶すると、父は無言で新聞から目を上げた。
俺の隣にいる「…帰ったか」
父はそれだけ言い、また新聞に目を戻そうとする。
いつも通りの、希薄なやり取りだった。俺はまた言葉に詰まる。 この気まずい沈黙が、一番嫌いだ。 すると、
「どーも! 初めまして、お父さん! 私、
「…元、だがな」
父が、珍しく自分から言葉を発した。
「へー! すごーい! なんか武道とかやってるんですか? 筋肉ムキムキですもんね!」
「……少々、かじっただけだ」
父が答える。俺は、父が
父は、初めはぶっきらぼうに答えていたが、
俺は、その様子をただ見ているだけだった。
父と俺の間に、「翔平が生まれた時、私は海の上だった。郵便空輸のヘリが電報を運んで来たんだ『男子うまれる』ってな」
「そんな話初めて聞いたよ……」と俺が言うと 「そうか……船の仲間が祝福してくれてな」 父は出産にも立ち会えなかったと寂しそうな顔をした。「……ねえねえ、しょーへーの名前はどうやって決めたの?」
「ははは……お前のお母さんが決めたんだ。平の字は親父……翔平の祖父から一文字貰ったと」父が戻るころには届け出も間に合わないということで、実家に戻っていた母が両親と相談し、俺の祖父にあたる、父方の『平三郎』から一文字をもらい、平和の世界に羽ばたくという意味を込めて「翔平」と名付けた……と、家に戻ってから聞いたらしい。
「やっぱ、名前って大切だよね~ヨカッタネしょーへー適当に付けられた名前じゃなくて」
「え?あ、うん……そうなのかな……あまり考えたことないけど……嫌いじゃないかな」 「そうか」良かったなと父が言った。 そんな僅かばかりだが、父と希薄だった親子関係に、ほんの少しだが、温かいものが流れ込んできているような気がした。
その時だった。俺は、またしても
俺は息を飲んだ。電車での件で大きく消えたばかりなのに、またこんなに……!
「あれ!? なに!? また消えた!?」
「うっっっっっっわ! ホントだ! すごい消えてる! なになに!? 今度はなんの煩悩!?」
ひゃっほーラリってボンノー!とまたいつもの変な踊りをしている。
(……父さんとの関係、か?)
今まで、父と向き合うことを避けてきた。俺が多感な時期、父は海上自衛官で、遠洋航海や地方基地への単身赴任で不在の時期が多かった。
自衛隊は55歳が定年でそれまでほとんど会話をしたことが無く、職業柄厳しい性格なのは知っていたので苦手意識、気まずさ、何を話せばいいか分からない、という無気力さが支配していた。それが、俺と父さんの間にある「煩悩」だったのかもしれない。
親との関係を希薄にしたまま放置していたこと。そして、
「ねーねー! しょーへー! なになに? 今、なんか煩悩解放したの? 何したの?」
俺は、
「……父さんと……話したから?少しだけだけど」
俺の言葉を聞いて、
「え……? それだけ?」
「ああ。でも……多分、それが……俺にとっての、父さんとの間の、煩悩だったんだ」
「そっか……しょーへー、お父さんと話すの苦手だったもんね。
それを乗り越えて、ちゃんと向き合ったんだ……それが、この模様を消したんだ……」
「そうだよ! それってね、
親子の縁を断ち切る罪……情愛の希薄。
そういうものも、煩悩に含まれるのか。
自分がただ面倒で避けていただけだと思っていたことが、「アンタはね、今までその煩悩から目を逸らして、親との関わりをダルいって放ったらかしてた。
でも、今日、私のおかげだけど(強調)、ちゃんと向き合って、お父さんと少しでも話せた! それは、そのデッカイ煩悩に、正面から向き合った証拠!」
「すごいよ、しょーへー。アンタ、ちゃんと変わってきてる。
自分の心から避けてたことにも、ちゃんと向き合えるようになってきてるんだ」
ダルさの中に、確かに、少しずつだが、変わり始めている自分がいることを実感した。
そして、その結果が、
俺の無気力な日常は、完全に「ラリった世界」になった。
そして、その世界は、電車内での暴力、そして実家での希薄な親子関係といった、俺が避けてきた煩悩に満ちていた。
そして、その時、
(20/108)
後日、さくらさんの母親からさくら経由で、千明が高校に復帰したこと、そして軽音部に入部したこと、さらにはさくらと同じ大学を目指すことを決めたと教えられた。「大学進学とか翔平さんができるなら、私にもできそう」 千明は、そう言ったらしい。 俺は複雑な気分になった。 俺は、羅璃にここ半年で半ば強制的に引っ張り上げられたようなものだが…… しかし、千明にとっては、それが大きな一歩になったのだとしたら、素直に喜ぶべきだろう。 さくらさんは、千明が自分で何かをやろうと決めたことを、心から喜んでいるようだった。 ある日、さくらさんが俺のアパートを訪れ、羅璃に手作りのカップケーキを渡した。「羅璃さん、本当にありがとうございました」 さくらさんが深々と頭を下げる。「千明さんが、自分から前向きになって……上之園さんも父も女子高校生の気持ちを動かすことは難しく、同世代とは言えないまでも、若い人の行動が良い影響を及ぼすことの証明になったと……私も自分を解放するためにバンドを始めましたが、その力や行動で良いことばかりがあるわけではないと改めて反省しました……羅璃さん、気づかせてくれて本当に感謝しています」 羅璃は、満面の笑みでカップケーキを受け取ると、自慢げに食べ始めた。「しょほへー、見てみろぉよ! 羅璃は感謝されてるんだぞぉ!んぐんぐ……」 いや流石に食べ終わってからしゃべれよ…… 羅璃に煽られて、俺は少しだけ複雑な気分になる。 お礼は、羅璃にばかりで俺にはないのか、と。 すると、さくらさんが、小さなラッピングのクッキーを俺に差し出した。「あの、翔平さんにも……あります」 羅璃がもらったカップケーキと比べると、明らかに小さい
後日、なぜか千明が俺の通う大学のオープンキャンパスに参加していた。 もちろん、さくらさんと羅璃も同席だ。 この企画は、羅璃が「この際、推しが普段どんなことしているのか、実体験してもらおう」と言い出したものだ。 最初は、「羅璃が千明と一緒に住んで、翔平がグータラ大学生なだけではないと知ってもらおう」とか、恐ろしいことを言い出したのだが、さすがに「犯罪だからやめてくれ」と懇願する羽目になった。 千明自身は「どうせ家には帰っていない」と開き直っていたが、さくらさんがなんとか説得して、オープンキャンパスに落ち着いた形だ。 まずは講義の見学。 法学部の講義室に足を踏み入れた千明は、学生たちの真剣な眼差しや教授の難しい専門用語に、最初から戸惑っている様子だった。「ねぇ、羅璃さん、これ、何言ってるか全然わかんないし、つまんなーい~……ウチ思うんだけど……『勉強なんか意味ない』『学歴社会は終わった』ってネットでも見るし~友達も皆言ってるんだよね~だるぅ~って」 千明が、俺の隣で小さな声で羅璃に囁く。 羅璃は、フッと笑って肩を竦めた。「しょーへー、千明に大学の意義を教えてやれよ」 俺は、羅璃に促され、千明に話しかけた。「まあ、いきなりは難しいよな。でも、千明ちゃんはさ、『勉強なんか意味ない』とか『学歴社会は終わった』とか、ネットとか友達から聞いたことそのまま言ってるだけだろ? それって……本当のことかな?」「え~どういう意味ですかぁしょーへーさん?」「今俺と会話している千明ちゃんは日本語で話が通じ合っているよね?」「え?当たり前じゃん」「でも……じゃあ、すいませんさくらさん……」 さくらさんに話を振る。 さくらさんは意を得たと頷き突然英語で話しかける「I'd like to ch
女子高校生千明がさくらさんに駆け寄っていくのを見て、羅璃がニヤニヤしながら千明に話しかけた。「で? 千明の推しは誰なんだよ? やっぱりサクラ?」 千明は頬を染めて頷いた。羅璃は、そんな千明を見て、満足げに俺の方を振り返った。「なあ、千明、羅璃の推し活のことを教えてやるよ~ 翔平?!羅璃の推しは誰だと思う?」 俺は一瞬言葉に詰まった。羅璃の推し? もしかして……さくらさんとか? 羅璃は俺の煩悩の具現化のはずだし、推しとかあるのか? 羅璃は、混乱している俺の様子を見て、フッと笑った。「そんなの、しょーへーに決まってんだろ?」 羅璃の言葉に、千明は「え?」と声を上げた。 俺と羅璃を交互に見て、目を丸くする。 羅璃は、そんな千明に向かって、わざとらしい声で言った。「こんな冴えないオッサン、千明は推せないだろ?」「オッサンは無いだろ! せめてお兄さん……!」 俺は、思わずツッコミを入れた。羅璃は、俺の反応を楽しんでいるようだ。「羅璃の推し活舐めんなヨ~ しょーへーはな……欲望含めたすべての煩悩を解脱しちゃって、正月に死ぬところだったんだぞ…… それを推し活……活力ぶっこんで羅璃がここまで復活させたんだぞ。」「え?俺死ぬところだったの?」初耳だ……「生きたいって言うのは煩悩だぞ、しょーへー……逝きたいってのも煩悩だけどな」「さっきライブで逝きかけたけどなー」回想する俺。 ニカリと笑う羅璃。「そんな冗談いえるなら、今は大丈夫ってことだ……どう、千明。これがギャル
近くの……と言っても、周囲の喫茶店はライブ参加者で埋まっていた。 結局駅前まで移動して、落ち着いた雰囲気の店に入った。 入り口前で奥さんはどこかに連絡していたが、すぐに合流し、店の奥にある席に五人が座る。 俺、羅璃、宮司、奥さん、そして女子高生。 これは一体何の集まりだろうか? 緊張する俺とは対照的に、羅璃は楽しそうに周囲を見回している。 仏頂面していた宮司さんを、奥さんが肘で軽く小突いた。 宮司さんは帽子とサングラスを外し、開口一番、深々と頭を下げた。「この度は、さくらのことで済まなかった」 その言葉に、俺は恐縮して身を縮める。 宮司さんは顔を上げ、羅璃のほうをちらりと見た。「羅璃殿の存在は、いまだに信じられないことだ。 神職に就いてから、あそこまで周囲に認識させるほどの存在を持つ事象に遭遇したのは、生まれて初めてでな……この退魔を成し遂げたなら歴史に名を残せるかと、その功名心に抗えなかった。我ながら、恥ずかしい限りだ」 宮司さんの言葉は、率直な反省の言葉だった。 だが、羅璃はそんな宮司さんを茶化すように言った。「寝食忘れて神職ついて……今日はこの前のリベンジか?」 なんかラップ?ダジャレ入れてる……怒っているというより面白がっている様だ。 宮司さんは、何とも困った顔をして沈黙する。 どうでもいいけど、パーカーのぶかぶかパンツは今回用に用意したのかもしれないが 似合ってないな……と少し前の自分を差し置いて思ってしまった。 ただ、場に合わせようと必死に宮司さんが用意したのだと思うと、ちょっと微笑ましい。 あの時の宮司としての正装を身に着けて威厳を持つイメージからは想像できない。 そんな宮司さんに代わって話し始めたのは、こ
サークルのゲーム制作も順調に進み、俺は背景画のデザインに集中していた。 羅璃の助言と、皆に必要とされているという感覚が、俺の「ダルい」という感情を薄れさせ、代わりに充実感を与えてくれていた。 そんな中、ミサト先輩から次のライブのチケットを渡された。 俺と羅璃の物語を歌った新曲が披露されると聞き、心からライブを楽しみにする自分がいた。 ◇ そして、遂にライブ当日になった。 会場は前回と同じ、三軒茶屋のライブハウスだった。 前回は初めてのライブハウスに圧倒され、ただ呆然とするばかりだったが、今回は少し違った。 慣れというのは恐ろしい。 開場時間に合わせて到着すると、すでに多くのファンが列をなしていた。 今回は先輩達「白い堕天使」がトリという事で、他のバンドも観る余裕があった。 俺は体力がないので、後ろの方でドリンクをチビチビ飲みながら、様々なバンドの演奏を聴いていた。 どのバンドも熱気がすごくて、観客もそれぞれのバンドに熱狂している。 羅璃は、最初から全力で最前列に行ってはしゃいでいた。 赤い瞳を輝かせ、頭の角を揺らしながら、全身で音楽に乗っている。 彼女こそが、このライブハウスの熱狂を体現しているようだった。 ミサト先輩達のバンドの出番が近づくと、会場の人が増え始めた。 俺は、ドリンクを片手に、人の波を眺めていた。 その中に、ふと、慣れない感じのサングラスにキャップを被った中年の男性と、場違いな気品を纏った女性がいることに気づいた。 その二人は、明らかにこのライブハウスの雰囲気に馴染んでいない。 不思議に思って見ていると、サングラスの中年男性が、不意にこちらに気付き、あっという顔をした。(あ……宮司さん……!) 俺は、一瞬でその男性が天宮司さんのお父上、宮司さんであることを悟った。 普段着でもないだろう……パー
春に向けて、俺は課題やレポートも、羅璃のスパルタ管理が無くとも何とかクリアできるようになった。以前の俺なら考えられないことだ。 まあ、ギャーすか言われなくても羅璃がいるだけで緊張感があるのは良いことだ…いなくなったら…は考えない様にしようと思う。 学年末の単位は修得し終わったので、しばらくは、コンビニのバイトとサークル活動に集中することにした。 大学構内では天宮司さんには会えなくなっていたが…ミサト先輩から、ライブに向けてバンド練習に集中していると聞いた。彼女も自分の夢に向かって努力しているのだ。 俺のデザイン作業は一段落していたが、寺社杜さんの勧めもあって、パソコンを使ったグラフィック作業を手伝うことになった。 授業で必要な安いラップトップPCは持っていたが、グラフィックツールなど使ったこともなく、正直困惑した。 だが、寺社杜さんが、無料で使えるCGツールを教えてくれて、その使い方まで丁寧にレクチャーしてくれた。彼女は、いつも静かでミステリアスな雰囲気だが、教えるのはとても上手だ。 と言っても、初心者すぎる俺にできることは限られていた。 球体に百目(ヒャクメ)の絵を描いて貼り付けたり、背景の羅生門の絵を切り抜いたり、色を調整したりといった、比較的機能を覚えずに済む簡単な作業がメインだ。 それでも、自分の描いた絵が、ゲームの中で動くと、とても新鮮で楽しかった。 羅璃が画面の中で跳ね回るのを見ると、自分が作ったものが、本当に「生きている」ような感覚になる。 羅璃は、出来上がるゲームをプレイしながら、文句を言う係だった。「会長、これ、もっとこうしろよ!」「あれが足りない! これ、できないの!?」 山本会長に、あーしろこーしろと好き放題言っていた。 会長は、羅璃の意見に怒りもせず、真剣に耳を傾け、取り入れられるものは取り入れたり、技術的な限界を説明したりしていた。 …その姿を見て、俺は少しだけ胸の奥がチクリとした。







