LOGIN三人は席で鷹宮が電話を終えるのを待ってから、店を出ることにした。 まさか――ほんの数十分の間に、鷹宮の母が店の前まで来ているとは思わなかった。 まるで最初から居場所を把握していたかのように、彼女はレストランの下で待ち構えていた。 そして、鷹宮と陽菜が並んで出てきた瞬間、その顔に浮かんだのは「やっぱり」という確信の色だった。 向けられる視線には、露骨な怒りと怨みが滲んでいる。 陽菜に対しても。 そして、自分の息子に対しても。「凌! あなた、今は母親に嘘をつくようになったの!?」 鋭い声が夜の街へ響く。「修司と一緒って言ってたでしょう!? これがあなたの言う“修司”なの!?」 鷹宮の母は陽菜を指差した。 怒りのせいで、唇が細かく震えている。 声量も抑えきれておらず、近くを通る人々が次々と足を止め、こちらを振り返り始めていた。 鷹宮は露骨に頭を押さえる。 左のこめかみへ手を当てたまま、疲れ切った声で言った。「母さん……ただ食事しただけだろ。どうしてそこまで――」 母の声がさらに鋭くなる。 その怒りは、もう抑えが利かなくなっていた。「ただの食事!?今問題にしてるのは、あなたがこんな女のために、何十年も育ててきた母親に嘘をついたってことよ!あなたが私の選んだ相手に不満なのは分かるわ。でもだからって、わざわざこんな女を選んで私に当てつける必要がある!? あなたの見る目、いつからこんなになったの!? それとも、最初から私に反抗するためだったの!?」「母さん!」 鷹宮の声にも苛立ちが混じる。「陽菜さんにそんな失礼な言い方をするなって、前にも言ったはずだ」 それでもなお陽菜を庇う息子を見て、ついに鷹宮の母の堪忍袋も切れたらしい。「せめてもう少しまともな家の娘ならまだしも、どうしてよりにもよって訴訟まみれの家の子なの!? あなた、この子のお父さんが何をしたか知ってるの!? 今あの家、裁判所に差し押さえまでされてるのよ! そんな子があなたに近づく理由なんて、鷹宮家の人脈とお金以外にあるわけないでしょう!」「……っ」 その瞬間、その場の空気が凍りついた。 鷹宮は言葉を失う。 訴訟の件について、彼は何も聞かされていなかったのだろう。 反射的に否定しようとしても、事情を知らない以上、言葉が出てこない。 気づけば、彼は陽菜を見ていた。
電話を切ったあとも、陽菜はしばらく席に座ったままぼんやりしていた。 そんな彼女の前を、退勤しようとしていた一条が通りかかる。「藤野? 帰るのか。送ってくぞ」「……っ、一条君!」 突然名前を呼ばれ、陽菜はびくりと肩を震わせた。その反応が思った以上に大きかったのか、一条が不思議そうに目を瞬かせる。「どうした? 考え事してたのか。……俺、驚かせた?」「あ、いえ……違うんです。さっき、立花先輩から電話があって。仮処分の申立てが通ったって……」 そう告げると、一条は驚いた様子もなく、むしろ予想通りだと言いたげに笑った。「そっか。よかったな。まだ始まりに過ぎないけど、それでも十分いい知らせだ」 そして自然な流れで続ける。「せっかくだし、今夜は祝い飯でも行くか?」 一条は、担保金のことには一切触れなかった。 陽菜はじっと彼の表情を見つめる。 ――一条君、自分から話すつもりはなかったんだ。 そう確信してから、ようやく口を開いた。「あの……先輩から聞きました。一条君が、三百万の担保金を払ってくれたって……」「あー……」 一瞬だけ、一条の表情に微かな気まずさがよぎる。だがそれもすぐ消え、何でもないことのように肩をすくめた。「そんな深刻そうな顔してるから、もっと大ごとかと思った。……ただの金だよ。お前が気にすると思ったから、わざわざ言わなかっただけ」 さらに、一条は当然のように続けた。「それに藤野。これは別に、お前一人の問題じゃない。東和は俺にとっても敵だ。だったら、俺が力を貸すのは当然だろ」「でも……」 一条の言葉には隙がなかった。 おそらく、最初からこう言うつもりでいたのだろう。 陽菜が何か言い返そうとした瞬間、一条は「はいはい」とでも言うように片手を上げる。「この話は終わり。……どうしても礼したいなら、今夜ちゃんと俺に付き合え」 一条に促されるまま車へ乗り込む。 そのままレストランへ向かうのかと思っていたが、途中で車は鷹宮の会社へと向かった。 一条は車の中から鷹宮へ電話をかけ、半ば強引に夕食へ誘った。それから十五分ほどして、ようやく鷹宮が姿を現す。 かなり急いできたのだろう。スーツの上着はきちんと着る暇もなかったらしく、片手に雑に抱えたままになっている。「修司? 急にどうしたんだ……って、陽菜さんもいたのか。こん
一条の声音は、冗談めかしているようでいて、とても真剣だった。 そのせいか、陽菜も自然と背筋を伸ばしてしまう。胸の奥に、不思議と「この人をがっかりさせたくない」という気持ちが芽生えていた。「……はい」「口だけはなしだからな? 藤野、お前ってそういう、“人に迷惑かけたくないから一人で抱え込む”タイプだろ。……だから、約束」 そう言って、一条は陽菜へ向かって小指を差し出した。 指切り。 まるで子供みたいな約束なのに、なぜだか妙に胸が落ち着かなくなる。 陽菜は思わず吹き出した。「え、そんな……」「ほら、早く」 一条に急かされ、陽菜も小さく笑いながら小指を差し出す。 二人の指先が絡んだ。「よし。もし約束破ったら――針千本飲ませるのはさすがに可哀想だから、その代わり」 一条はわざと間を空けて、楽しそうに口元を上げた。「俺とデートな」「えっ……」 思わず陽菜は手を引っ込めようとした。だが一条は、小指を絡めたまま離さない。「一条君……!」「もう遅い。約束したからな。今さら撤回は禁止」 そのまま指切りを終え、最後に約束の印のように親指同士を重ねてから、一条はようやく満足そうに手を離した。 ハンドルへ軽く身体を預けながら、機嫌の良さそうな笑みを浮かべる。「じゃ、早く上行け。今日はちゃんと休めよ。また明日」「はい。……一条君も、運転気をつけてください」「ん。おやすみ、藤野」 部屋へ戻ったあとも、陽菜は眠る直前まで鷹宮からの連絡を待っていた。 けれど、結局メッセージは一つも届かない。 きっと家へ戻ってからも、母親とのやり取りが続いているのだろう。そう思うと胸が苦しくなる。 原因の一端は、自分にもあるのだから。 本当は連絡したかった。大丈夫ですか、と聞きたかった。 それでも、鷹宮から何も送られてこない以上、自分から連絡することで余計に負担になるのではないかと怖くなり、結局何も送れなかった。 代わりに届いたのは、一条からだった。 帰宅したらしい彼から、立て続けにチーズの写真が送られてくる。 丸くなって眠る姿。 おやつを見上げる顔。 カメラに近づきすぎてぶれている一枚。 陽菜は思わず笑ってしまった。 沈んでいた気持ちが、少しだけ軽くなる。 猫のスタンプを返すと、一条からすぐに「おやすみ」が届いた。陽菜も思わず頬を緩
「え……」 一条にそんなふうに見つめられ、陽菜はなぜだか急に落ち着かなくなった。猫のキーホルダーを握る指先にも、知らず少しだけ力が入る。 赤信号を待つ時間が、妙に長く感じられた。 陽菜は一条を見つめたまま、しばらく考え込んでから、どこか自信なさげに口を開く。「一条君って……なんだか、掴めないです」「掴めない、ね」 一条は小さく笑った。「俺、自分では分かりやすい人間だと思ってたけど」 軽い口調だったが、陽菜の言葉自体はちゃんと受け止めているようだった。「えっと……前までは、私はそう思ってました。でも最近、一条君といる時間が増えて……知らなかった一条君を、たくさん見るようになったというか……」 どう説明すればいいのか悩みながら、陽菜は真剣に言葉を探していく。 その様子が可笑しかったのか、一条はまた笑った。「藤野。別に無理して答え出さなくていいって。そんな真面目に悩まなくても」 ちょうどその時、信号が青に変わる。 一条は再び車を走らせた。 しばらく走ったあと、不意にぽつりと呟く。「……でも、そういうふうに本音を言ってもらえたのは、普通に嬉しかった」 車がマンションの前へ戻ってきた頃、一条は再び口を開いた。 何気ない雑談の続きのような、自然な声音だった。「藤野。今日、楽しかったか?」「はい……すごく楽しかったです。ありがとうございます、一条君」「ならよかった」 そう答えながら、陽菜はふと気づく。 鷹宮の母に言われたことも、胸の中に沈んでいた嫌な気持ちも、いつの間にか、少し薄れていた。 シートベルトを外しながら、陽菜は数秒だけ迷う。 それから、改めて一条を見た。「一条君……鷹宮さんに頼まれて、私のところに来てくれたんですか?」 申し訳なさそうに眉を下げる。「ごめんなさい……。本当は、私と鷹宮さんの問題なのに。一条君にまで気を遣わせてしまって……」 一条の誘いは、あまりにもタイミングが良すぎた。 もし本当に仕事ならまだ分かる。けれど実際に連れて来られたのは猫カフェだった。 つまり――何か聞いていたのだろう。 図星を突かれた一条は、少しだけ困ったような顔をした。 運転席に座ったまま、視線を前方へ向ける。しばらく沈黙したあと、諦めたように小さく息を吐いた。「……まあ、確かに。凌に様子見てやってくれって頼まれた
陽菜は当然のように、工場へ向かっているのだと思っていた。 一条の車は進めば進むほど繁華街へ近づいていき、やがて大きな商業施設の屋上駐車場へと滑り込む。「一条くん……こういう場所にも工場ってあるんですか?」 その後、一条に連れて行かれたのは、商業施設の中にある猫カフェだった。 それでも陽菜は疑っていない。 きっと工場関係の担当者がいるのかもしれない。あるいは展示会のようなものなのだろうか――そんなふうに真面目に考えていた。 一条はずっと笑いを堪えていた。 注文を済ませたところで、とうとう耐えきれなくなったらしい。肩を震わせながら低く笑い、陽菜を見てさらに吹き出しそうになる。「藤野、お前ほんと騙されやすいな」 陽菜は一気に顔が熱くなった。 思い返せば、道中ずっと工場の話をしていた気がする。それを聞きながら、一条はよく笑わずに耐えていたものだ。「一条くん……」「悪い悪い。でも別に嘘は言ってないだろ? 可愛い“モノ”見せるって言ったし」 奥の席へ向かう途中、何匹かの子猫が興味津々といった様子で二人のあとをついてきた。 けれど数歩近づいただけで、また素早く別の場所へ駆けていく。「わあ……一条くん、私、こういう場所初めてです」 ソファ席へ腰を下ろした陽菜は、周囲を見回しながら思わず呟いた。 人より猫のほうが多い空間。 その様子に目を輝かせる陽菜を見て、一条は満足そうに目を細めた。 そして、先ほど買ったばかりの猫用おやつを彼女の手に乗せる。「そうか? でもこういう店の猫って案外現金なんだよ。食いもん持ってなきゃ、全然寄ってこない」 その言葉通りだった。 袋を見た途端、おやつの存在に気づいたらしい一匹の子猫が、「にゃあ」と鳴きながら陽菜の手元へ駆け寄ってきた。 柔らかな身体が指先に触れ、陽菜は思わず何度も撫でてしまった。 それから袋を開け、一番最初に来た子へおやつを差し出す。 すると今度は、ほかの猫たちまで次々に集まり始めた。気づけば、陽菜の周囲には何匹もの猫が擦り寄っている。 なのに、一条のほうには一匹も来ない。「一条くんも、おやつどうぞ」 自分ばかり猫に囲まれているのが申し訳なくて、陽菜はおやつを差し出した。 一条は笑いながら、陽菜の膝元にいた白猫の頭を軽く撫でる。「いいよ。……藤野、猫好きなら今度うちの子見に来る
鷹宮は、本当はもう少しだけ陽菜と一緒にいたかった。 彼女を送りに出てからというもの、ポケットの中のスマートフォンはひとときも静まらない。着信の振動が途切れることなく続いていた。 誰からの電話かなど、二人とも分かっていた。 苛立ちを隠しきれなくなった鷹宮は、ついに電源を落とそうとしたが、その手を陽菜がそっと制する。「鷹宮さん、戻ってください。私は大丈夫ですから」 戻れば、また母との激しい衝突が待っている。それでも、ここで連絡を断てば、状況はさらに悪化するだけだと、陽菜には分かっていた。 車はすでに一条のマンションの前に停まっている。 陽菜はドアを開け、外へ出ようとした。 その直前、彼女は鷹宮の手をそっと握り、最後に言葉を残す。「鷹宮さん、自分を責めすぎないでください。あれは鷹宮さんのせいじゃありませんし、私は怒っていません。それに……私の性格、知ってますよね。すぐ忘れますから」 鷹宮は彼女を見つめた。 唇がわずかに動く。きっと、また謝ろうとしたのだろう。 「これ以上謝ったら、もう口ききませんよ?」 陽菜の一言に、彼は思わず小さく笑った。飲み込むようにして謝罪の言葉を引っ込め、代わりに低く呟く。「……陽菜さん。ちゃんと、なんとかする」 今の彼にできる、精一杯の約束だった。 陽菜は柔らかく微笑む。「はい」 * マンションへ戻って間もなく、陽菜のスマートフォンが鳴った。 一条からの着信だった。「藤野、今から飯どう? 俺が奢る」 軽い調子の誘い。 今の陽菜には、とても誰かと食事をする気分ではなかった。やんわりと断ろうと口を開きかけたその時、一条が先に言葉を重ねる。「実はさ、ちょっと行ってみたいところがあってさ。一人で行くのはさすがに気まずくて……付き合ってほしいんだよ」「え……お仕事関係ですか?」 その言い方に、陽菜は自然と仕事のことを連想した。「……ああ、そう。仕事」 一瞬の間のあと、一条は即座に肯定する。それが一番断りにくい理由だと、分かっているように。 そして実際、その効果はあった。「それなら……」「頼むよ藤野。来週どこかで代休やるからさ。ちょっと急ぎでさ、今日じゃないと間に合わないかもしれない」 仕事に関わることなら断れない。 陽菜は一瞬言葉に詰まり、それから小さく返事をした。「……分かりました
陽菜はわずかに口を開いたが、何を言えばいいのか分からなかった。 記憶の中の月乃は、服装も話し方も、もっとおとなしくて柔らかな印象だった。 だが今、目の前にいる月乃は、身なりも言葉遣いも、高校の頃よりずっと刺々しい。変わりようがあまりにも大きくて、陽菜は目の前の彼女と、記憶の中の月乃をうまく重ねることができなかった。 この瞬間、陽菜は今日この約束を受けてしまったことを、心の底から後悔していた。 本当なら、もっと大事なことがあるはずだった。 母に電話をかけて、事件の深刻さをきちんと伝えなければならない。 立花先輩からのメッセージにも、早く返事をしなければならなかった。あまり長く待た
一条は迷いなく言い切った。 東和キャピタルとはそういう存在だと、最初から決めつけているかのように。 陽菜彼が本気で怒っている姿を初めて見た気がした。さきほどまで自分をからかっていた態度とは、まるで別人だった。 長いあいだ、陽菜は一条に嫌われているのだと、勝手に思い込んでいた。鷹宮のそばにいる自分を、内心では軽蔑しているのではないか、と。 けれど、今の彼の怒りを目の当たりにして、はじめて気づく。 あれは決して本気の敵意ではなかったのだと。 少なくとも、自分に向けられていたものは、ずっと穏やかな部類だったのだと。 「修司……もしかしてまだ樹くんのことで怒って……」 鷹宮は小さ
言葉を失ったままの月乃をその場に残し、一条は陽菜が席に置いていたバッグを何気なく手に取ると、そのまま店の外へ出ていった。 カフェの外、角を曲がったところで待っている陽菜を見つける。 彼女の顔が視界に入った瞬間、さっきまで胸の奥に溜まっていた苛立ちが、不思議なくらいふっと軽くなった。 本当は、いきなり近づいて驚かせてやろうと思っていたのだが、悪戯心を整える前に、陽菜のほうが先にこちらに気づいてしまった。「あっ、一条くん」「俺の財布を持ってどこへ行ったのかと思ったら、こんなところにいたのか。何してるんだ?」「え、あ……ご、ごめんなさい。お財布、先に返します」 陽菜は慌てて手に持っ
月乃にそう言われてしまえば、陽菜には断ることができなかった。 もともと気の弱い性格だ。たとえ月乃に引き止められなくても、こんなふうに泣いている彼女を置いて立ち去ることなど、できるはずがない。 「話して、月乃ちゃん。ちゃんと聞くから」 「うぅ……」 陽菜の言葉を聞くと、月乃の泣き声は少しだけ小さくなった。陽菜が差し出したティッシュを受け取り、顔の涙をそっと拭う。 だが、ティッシュに滲んだアイシャドウを見た瞬間、慌てたようにバッグから鏡と化粧ポーチを取り出した。 すすり泣く声を漏らしながらも、手元は驚くほど真剣だ。器用に崩れたメイクを直し始める。 その様子に、陽菜は思わず目を丸く







