登入翌日も仕事があったため、陽菜は胸の奥から何度も込み上げてくる一条への心配を押し殺しながら会社へ向かった。 仕事を始めて間もなく、一本の見知らぬ番号から電話がかかってくる。 取引先からの電話かもしれないと思い、陽菜はチームリーダーに一声かけて席を立ち、静かな場所へ移動して電話に出た。 通話ボタンを押し、声を出すよりも早く、受話器の向こうから待ちきれなかったように一条の声が飛んできた。「よかった。知らない番号だから、出てもらえないかもって心配してたんだ」 一条はそう言って笑うと、陽菜が尋ねるより先に、自分から番号のことを説明した。「これ、友達にスマホ借りたんだ。藤野、俺のスマホ壊れちゃってさ。今日はこれで連絡するしかなくて」 電話越しの一条の声は昨日よりずっと元気そうだった。 それでも、まだ少し掠れている。「一条君、まだこんなに朝早いのに……身体は少しよくなりましたか?」「だいぶよくなったよ。……昨日目が覚めたらもう真っ暗でさ、藤野に会えなかったから、朝になったら真っ先に電話したくて」「ふふ……でも、今は仕事中ですよ」「それもそうだな……じゃあ休みにする? 俺、一応社長だし。藤野、仕事休んで病院来ない?」 一条は本気でそう言っているらしい。 けれど、そんな理由で仕事を休ませようとするなんて、あまりにも無茶な話だった。「一条君、お仕事が終わったら会いに行きます」「……しょうがないな。じゃあ待ってる」 陽菜も一条に早く会いたいと思っていたからだろうか。 その日は一日がいつもよりずっと長く感じられた。 ようやく終業時間になり、帰る支度を終えたところで、一条からまた電話がかかってくる。 その声は期待で弾んでいて、どこか珍しく子どもっぽかった。 そんなところまで、陽菜にはたまらなく可愛く思えた。「藤野、まだ?」「あ……今ちょうど下に降りるところです」「早く会いたい」 怪我をして入院しているせいなのだろうか。 一条はいつになく甘えん坊で、そんな照れてしまうような言葉も何のためらいもなく口にする。 まるで一秒でも早く陽菜に来てほしいと言わんばかりに、何度も急かしてきた。 陽菜は病室には一条しかいないものだと思っていた。 けれど病室へ入ると、そこにはもう一人、見舞いに来ている女性がいた。 上品で洗練された身なりの女性だった
医師の話では、一条は見た目こそ痛々しいものの、重いのは主に外傷で、内臓には大きな異常はないという。ただ、衝撃で骨を折ってしまっているため、しばらくは思うように身体を動かせず、引き続き入院して経過を見る必要があるらしかった。 陽菜は眠っている一条の顔を見つめた。 眠っていても痛むのか、眉間にはかすかな皺が寄っていて、頬に残る痣や擦り傷の跡を見ていると、少しでも代わりにその痛みを引き受けてあげたいと思ってし 一条を見ていると、胸の奥が何度も鋭く痛んだ。 自分はどこも怪我などしていないし、こんなにも元気なはずなのに、胸だけがどうしようもなく苦しい。 本能のような衝動に突き動かされ、一条の手に触れたい、一度だけでも抱きしめたい。 そうでもしなければ、この胸の奥から溢れてくる得体の知れない感情を押さえ込めそうになかった。 鷹宮も医師の説明を聞いたあと、しばらく病室に残っていた。 何度か陽菜に話しかけ、その様子を心配していたものの、陽菜は呼ばれてから少し遅れて気づくような状態で、そのたびに簡単な返事を返すことしかできない。「陽菜さん、君……」 最後の数分、鷹宮は何か言いたげな顔をしていた。 何度も口を開きかけては閉じる。 陽菜の意識がまるで自分に向いていないことを感じ取ったのだろう。しばらく考えたあと、小さく首を横に振り、結局何も聞かなかった。 一条に使われている薬は、本当に強いものだったのかもしれない。 面会時間が終わる頃になっても、彼は目を覚まさず、回診に来た看護師がぽつりと教えてくれた。「怪我も重いですし、お薬にも眠れる成分が入っていますから。数日してから来ていただければ、もう少し元気になっていると思いますよ」 陽菜は何も言わず、小さく頷いた。 目を覚ました一条と話ができなかったのは少し残念だった。 本当はもっと話をしたかった。 でも、一条がぐっすり眠れていることに、陽菜は少し安心もしていた。 一晩眠っていなかったせいだろう。 家に帰ってようやく、自分が思っていた以上に疲れ切っていたことに気づいた。 身体は鉛のように重く、あと一歩歩くだけでもひどく億劫に感じるほどだった。 なんとか身支度を済ませてベッドに倒れ込む。 それなのに、なかなか眠ることができなかった。 身体はひどく疲れているのに、目を閉じると浮かんでくるの
一条の全身の半分以上には包帯が巻かれていた。 片手は点滴のために布団の外へ出され、顔も半分ほど腫れ上がっていて、痛々しい痣が広がっている。 その姿はあまりにも痛々しく、一目見ただけで陽菜はまともに見ていられなくなった。 目の奥が熱くなり、涙が滲んでくる。 物音に気づいたのか、一条はゆっくりと顔を向けた。鷹宮と陽菜の姿を見つけると、挨拶しようとしたのだろう。 手を上げようとするものの思うように動かず、ようやく浮かべた笑顔も、どこかの傷に響いたのか、「っ……」 と小さく息を漏らし、そのまま引きつったような笑みで止まってしまった。「はは……俺、今すげぇ悲惨な顔してる?」 こんな時だというのに、まだ冗談を言う余裕がある。 陽菜は俯いたまま鷹宮の後ろについて立ち、一条を見ることができなかった。 泣いている顔を見られたくなかったからだ。 ぽたぽたと床に落ちる涙は隠しようもなく、一条はすぐに気づき、困ったように口元を歪めた。 本当は陽菜を慰めたくて、できることなら抱きしめて安心させてあげたかったが、身体に力が入らず、優しく声をかけることしかできなかった。「藤野、泣くなって。俺、大丈夫だから。見た目は派手だけど、全然痛くないし! ほとんどかすり傷みたいなもんだって。本当。本当に心配なら、先生呼んで説明してもらおうか?」 そう言いながら、一条は本当にナースコールを押そうと懸命に手を伸ばしたが、それを鷹宮が止めた。「修司、動くな」 そう言ってから少し考え、「後で僕が陽菜さんを連れて先生の話を聞きに行くから、お前は変なことするな。大人しく寝てろ」「はは……それならいいか。藤野、先生の話を聞けば分かるって。俺、本当に大したことないから」 一条は笑いながらそう言った。 なんとか陽菜を笑わせたかったのだろう。 本人は、自分の声がどれほど掠れていて、いつものような明るさや張りを失っているのかまったく気づいていなかった。 陽菜が何も言わないものだから、一条も不安になったのか、何度も彼女の名前を呼んだ。「藤野。藤野。……もう少しこっち来て? な?」 声を落とした一条は、きらきらとした目で陽菜を見つめながら、一歩ずつ近づいてくる彼女の姿を追う。 そして、涙の跡が残る頬と、今もぽろぽろと零れ続ける涙を見てしまった。 本当は、からかうつもりでいく
何が起きたのかは分からなかった。 ただ、本能的に一条の身に何かあったのだと感じていた。 そんな予感と、何度かけても繋がらない電話に、陽菜はますます焦りを募らせた。 それでも、どうすることもできない。 ただ、何度も何度も通話ボタンを押し続けることしかできなかった。 そんな状況は翌日になっても変わらず、陽菜は依然として一条と連絡が取れないままで、どうしようもなくなった末にようやく鷹宮の番号を押した。本当は、こんなに早く鷹宮を頼るつもりはなかった。「た、鷹宮さん……あの……その……」「あ、陽菜さん? 待って待って、まず落ち着いて」 電話が繋がった途端、陽菜は焦りのあまり言葉にならなくなる。 そんな様子に鷹宮は一瞬驚いたものの、すぐに優しく声をかけた。 落ち着いた口調に、陽菜も少しだけ冷静さを取り戻す。何度も深呼吸をしてから、ようやく言葉を絞り出した。「鷹宮さん、一条君が……一条君が……」 けれど途中でまた焦りが込み上げ、うまく言葉を続けられない。 そんな混乱の中で、受話器の向こうからかすかなため息が聞こえた。「陽菜さん。君が聞きたいことは分かってる。今から迎えに行くから、そのあとでちゃんと話す。いい?」「一条君、何かあったんですか?」 いつもの陽菜なら、もっと落ち着いて鷹宮の話を聞けたはずだった。 なぜか今は駄目だった。 どうしても待っていられないほどの焦燥感に駆られていて、そんな陽菜の様子を察した鷹宮は、先に安心させるように言った。「陽菜さん。修司は大丈夫だよ。……うん、元気だから。今から迎えに行く。それから一緒に会いに行こう。いい?」 鷹宮はすぐにやって来た。 昨日別れた時と同じ服を着たままの陽菜を見ると、鷹宮はほんのわずかに目を見開き、何か言いかけたものの、その言葉を飲み込んだ。 陽菜は昨夜、一睡もしていなかった。 不安で落ち着かず、着替える余裕すらなかったのだ。 そんな自分に鷹宮が気づいたことで、陽菜もようやく我に返ったように、気まずそうに服の裾を引っ張った。「ごめんなさい……ちょっと、焦りすぎてて……」「大丈夫だよ、陽菜さん。先に準備する? それとも、このまま行く?」 結局、陽菜は着替えてから鷹宮と一緒に出発した。 道中も陽菜の不安は隠しきれず、本人は平静を装っているつもりだったが、運転する鷹宮は何度
陽菜のその言葉に、鷹宮はそれ以上引き止めようとはしなかった。 しばらく黙り込んだあと、小さく息を吐く。 陽菜を見る眼差しには相変わらず申し訳なさが滲んでいたが、それと同時に、陽菜と同じようにどこか解放されたような安堵も浮かんでいた。「ごめん、陽菜さん」「鷹宮さん、今日ずっと謝ってばかりですね。何度も言いましたけど、鷹宮さんのせいじゃないんです。できることなら……鷹宮さんとは、こんなふうにお互いに申し訳なく思わなくていい関係になりたいです」 陽菜はそう言って、鷹宮に小さく微笑みかけた。「もちろん……」 鷹宮はすぐに頷いた。 ただ、気持ちの整理はまだ追いついていないのだろう。 すぐには難しそうだった。 陽菜もそれ以上無理に求めることはせず、しばらく車窓の景色を眺めたあと、笑顔で鷹宮に頼んだ。「鷹宮さん、最後に一つだけお願いです。……家まで送ってもらえますか?」「……陽菜さん。これから先も、僕を頼ってくれていいんだよ」「友達として、ですか?」「もちろん。陽菜さんが嫌じゃなければ」 鷹宮は陽菜をマンションの前まで送った。 別れを口にしてからの車内は、不思議なくらい最初よりも空気が柔らかくなっていた。 鷹宮も目に見えて肩の力が抜けていて、その姿に少し複雑な気持ちになりながらも、陽菜は本当によかったと心から思った。 車を降りる前、鷹宮は何度も念を押すように言った。「陽菜さん。これから何かあったら、遠慮しないで連絡して。僕にできることがあるなら、何でもするから」 陽菜は頷き、鷹宮に笑顔を向ける。「……おやすみなさい、鷹宮さん」 車を降りたあとも、陽菜は鷹宮の車が見えなくなるまでその場で見送った。そしてマンションへ入ろうとしたその時、不意にスマートフォンが鳴り出す。 画面に表示されていたのは、一条の名前だった。 一条から突然電話がかかってくること自体は、別に珍しいことではない。 けれど、こんなにも絶妙なタイミングだと、陽菜は思わず一条が何か知っているのではないかと考えてしまう。「一条君?」 電話に出て声をかけた途端、受話器の向こうから一条の明るい声が返ってきた。「おう、藤野。今ちょうど信号待ちしててさ、せっかくだから電話しようと思って。明日の予定のことなんだけど――」 どうやら、一条は陽菜が別れたことを知って電話してきた
鷹宮が陽菜に対して他にどんな感情を抱いていたとしても、少なくとも二人の関係に対して、彼なりの責任感を持っていたことだけは確かだった。 短い沈黙のあと、鷹宮は気を取り直すように口を開く。「陽菜さん。僕と詩織はもう……過去のことなんだ。別れたのも、二人で何度も話し合った末に決めたことだったし。ただ、詩織の家と僕の家は昔から親しくしているから、今日母さんがあんなことをしたのも……」「違うんです、鷹宮さん。責めたいわけじゃないんです。ただ……好きな気持ちって、隠そうとしても隠しきれないものだから……」「……」 鷹宮は黙り込んだ。 反論できる言葉はなかった。 陽菜の言葉は間違っていない。彼は一度も、本当の意味でその想いを手放せてはいなかった。 口ではずっと「二人で決めたことだった」と言ってきたが、鷹宮にとってそれはただの諦めでしかなかった。 詩織は空を自由に羽ばたく鳥のような人で、鷹宮はそんな彼女を閉じ込めてしまう鳥籠になってしまう。 だからこそ、自分は鳥籠にはなりたくなかった。 詩織には、自分の望むままに、自由に、そして眩しく生きていてほしかった。 長い沈黙の末、鷹宮は苦笑を浮かべた。「ごめん、陽菜さん。僕、誰に対してもきっと、いい彼氏にはなれないな」「違います。私は鷹宮さんを責めたいわけじゃなくて……ただ、私は……私たちは……」 もう、終わりにした方がいい。 その言葉は何度も舌の先まで上ってくるのに、どうしても口にすることができなかった。 こんな時になっても、まだ手放したくないと思ってしまう自分が情けない。 きっと自分は欲張りなのだ。 けれど、自分から言い出さなければ、責任感の強い鷹宮は絶対に切り出さない。 彼は無理をしてでもこの関係を続けようとする。 何も悪くないのに、必要のない責任まで背負ってしまう。「どうした? 陽菜さん」「鷹宮さん……私たち、この関係を終わりにしませんか?……昔から本当に鷹宮さんのことが好きでした。でも、このままじゃ、私が鷹宮さんに無理をさせているみたいで……私は、そんなの嫌なんです」「……陽菜さん。僕、努力するから」「気持ちは努力だけでどうにかなるものじゃありません。好きな人がいるまま、別の人に責任を取ろうとしたって……そんなの、私たち二人とも苦しくなるだけです」 陽菜は、なんとか自分の気持
「りゃく……だつ?」 陽菜は聞き慣れない言葉を前にしたように、しばらく意味を掴めなかった。 自分の生活とはあまりにも縁遠い響きだったからだ。 これまでの人生が、あまりにも平凡で穏やかだったせいかもしれない。陰謀や駆け引きなど、自分とは無関係の世界のものだと思っていた。 その反応を見て、一条はわずかに眉をひそめる。 どう説明すべきか、言葉を探すようにしてから口を開いた。「東和樹。覚えてるか。同じクラスだった年があっただろ」 不意に出された名前に、陽菜は高校時代の記憶をたどる。久しく聞いていなかった名前だったが、ぼんやりとした輪郭が浮かび上がる。 たしか……鷹宮とも親しかったはず
長く失望を重ねてきたせいか、母はもう怒ることさえ億劫になっているようだった。 父のことを多くは語ろうとせず、先ほど落としてしまった袋の中身を整えると、陽菜と一緒に家の中へ入る。 それでも、ぽつりぽつりと漏れる言葉から、父がいまだ入院していることは分かった。 今回も強いストレスを受け、心臓発作を起こしかけたらしく、今は安静にしているという。 重症ではない。命に別状はない――。 陽菜の顔が曇るのを見て、母はあまり考えすぎるなとたしなめた。「お父さん、歳は取ったけど、そこまで弱くないわよ」「お母さん……」「来るなら早く言ってくれれば、あなたの好きなもの、もっと買ってきたのに」
立花は「いい知らせかもしれない」とは言っていたが、その声音はどこか歯切れが悪く、とても楽観できるものには聞こえなかった。 そのせいで、陽菜の胸には拭いきれない不安が残る。 その後、何度も父に電話をかけてみたものの、ついに一度も繋がることはなかった。 焦燥は消えるどころか、じわじわと胸の奥に広がっていく。 夜になり、一条がいつものように笑顔で食事に誘いに来た時も、陽菜の眉間には深い皺が寄ったままだった。 ――それでも。 彼の姿を見た瞬間、陽菜はすぐに表情を整え、無理やり笑みを浮かべる。「一条くん、こんばんは」「おー、藤野。お前……」 その言葉の途中で、一条はわずかに言葉を切
父から最後に連絡があってから、三週間が過ぎていた。それ以来、一切音沙汰はない。 最初のうちは、父なりに忙しいのだろうと思っていた。だがさすがにここまで間が空くと、不安が胸をよぎる。 それに、いつ家へ戻れるのかも気になっていた。 ある日の仕事帰り、陽菜は父へ電話をかけた。呼び出し音は、長く鳴り続けた。 父は電話に出なかった。 陽菜はそれほど気に留めなかった。父は歳を重ねてから、以前よりもずっと気まぐれになっていた。 病院からなかなか出ようとしなかったのも、その一つだ。 出たくない時は、平気で電話を無視する。今回もきっとそうなのだろうと、そう思っていた。 ――数日後までは。「







