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第3話

Author: 悠々たる魚
ふと凛の視線がフロアマットに落ちている白いワイヤレスイヤホンに向かい、無意識にそれを拾い上げた。

すると、そこから聞き慣れた甘ったるい女の声が漏れ聞こえてきた。

「哲也さんったら、昨日の夜ベッドではそんなこと言ってなかったじゃない?あんなに私のことが死ぬほど好きだって、一生離さないって言ってたのに、なんで今は可愛げがないなんて言うの?もう、男の人ってやっぱり嘘つきばっかりなんだから。

私、怒っちゃった。早く機嫌直してくれないと、もう口きいてあげないんだから」

理恵だった。

イヤホンからは、哲也のからかうような声も聞こえてきた。

「はいはい、俺が悪かったよ。じゃあ後でホテルに着いたら、たっぷりお詫びしてやるから」

凛は全身の震えを止めることができなかった。心臓が激しく波打ち、まるで鋭いナイフで少しずつ肉を削ぎ落とされているような激痛が走った。

イヤホンからは、まだ理恵の拗ねたような甘い声が続いている。

「あとどれくらいかかるの?1分でも会えないと胸が痛くなっちゃう。私が死んじゃったら、哲也さんを喜ばせる可愛い子猫ちゃんがいなくなっちゃうんだからね……ねえ、このイヤホン、すっごく違和感があるんだけど。外してもいい?」

「もう少し我慢しろ。俺の可愛い子猫ちゃんはそんなに待ちきれないのか?でもイヤホンつけてれば、いつでも声聞けるだろ?」

凛の目から涙が溢れ出しそうになった。彼女は両手で口を強く塞ぎ、込み上げてくる嗚咽と涙を必死に押し殺した。

つまり、哲也が自分に向かって甘く囁きかけていた愛の言葉は、いつだって自分一人だけが聞いていたわけではなかったのだ。

自分と一緒にいる時間でさえ、哲也はもう一人の女と水面下で愛を語り合っていた。

哲也はただの一度も、完全に自分だけのものになったことなどなかったのだ。

「凛、戻ったよ。どうした……」

車に戻ってきた哲也の言葉は、凛の手に握られた白いイヤホンを見た瞬間、ピタリと止まった。

彼の胸が跳ね、顔には隠しきれない焦燥感が浮かび、大きく目を見開いた。

音を立てずに通話を切ると、哲也は必死に取り繕おうと口を開きかけた。

「イヤホン、落ちてたから拾っておいたわ」

凛は胸の奥で渦巻く吐き気と絶望を強引に押さえ込み、無理やり笑みを作ってイヤホンを哲也に返した。

哲也は凛の笑顔の裏にある絶望に気づかず、内心ほっとすると、彼女の頭を優しく撫で、自分の手首を振って見せた。

「ありがとう、凛。

ほら、ヘアゴムも見つかったよ。これで俺は、一生凛の手のひらから逃げられないな」

凛は顔を背け、再び窓の外の景色へと視線を戻し、誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。

「逃げられるわよ」

ホテルに足を踏み入れると、店員たちが両脇に並び、揃った動きで深々と頭を下げ、来客を迎えた。

ホテルの責任者が顔面を蒼白にして駆け寄り、謝罪してきた。

「加藤社長、奥様、大変申し訳ございません。スタッフの不手際により、最上階フロアが一時的にご利用いただけない状況となっております。つきましては、別階の個室をご用意いたしましたので、そちらへご案内してもよろしいでしょうか?」

哲也の顔色が一瞬にして険しくなり、今にも怒鳴りつけようとしたその時。

「構いませんよ」と、凛が淡々と言い放った。

これまで哲也は、いつも最上階を貸し切ってサプライズを用意してくれた。そこには数え切れないほどの美しい思い出が詰まっている。

もう、あの思い出たちは永遠にあの場所に置き去りにしよう。

席に着くと、真っ赤に咲き誇る99本のバラが凛の目の前に広がり、低く甘い声が響いた。

「凛、今日は俺たちが一緒になって9860日目の記念日だ。お前に出会えて本当に良かった」

実際のところ、今日は何の記念日でもない、ごく普通の一日だ。

だが哲也はいつもこうして、何でもない日にサプライズを用意し、頻繁に花やプレゼントを贈っては愛を囁いてくれていた。

凛と一緒にいる毎日は、すべてが記念すべき日なのだと言って。

凛は花束を受け取り、薄く微笑んだが、その目に笑みは浮かんでいなかった。

確かに、今日は記念すべき一日だ。

哲也と完全に決別すると決意した日。ある意味、記念日だ。

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