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裏切りの夜を抜けた

裏切りの夜を抜けた

By:  茶島Completed
Language: Japanese
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入江千代子(いりえ ちよこ)のこれまでの人生において、最も反逆的だった出来事。 それは、浅田辰彦(あさだ たつひこ)の実家が破産した際、誰もが彼を見放す中、全財産を抱えて彼と駆け落ちしたことだった。 千代子だけは、彼の再起に賭けた。 泥水をすするような三年の生活を経て、辰彦は日雇い作業員から、誰もが平身低頭するビジネス界の寵児へと這い上がった。 そして千代子を、以前にも増してわがままで傲慢な妻へと甘やかした。 どれだけ好き放題に振る舞おうと、辰彦は常に優しい笑みを浮かべて許してくれた。 人々は口を揃えて言った。 千代子はたった三年の苦労で、誰もが羨む理想の愛妻家を手に入れたのだと。 ――あの「花屋の女」が現れるまでは。 結婚記念日、その女が浅田家に花束を届けに来たのが気に食わないというだけで、千代子は人を雇って女の店を徹底的に破壊させた。 だが今回ばかりは、辰彦がいつものように低姿勢で機嫌を取りに来ることはなかった。 彼はスマートフォンの電源を切り、姿を消した。 そして自分とあの女の親密な写真がネットのトレンドを埋め尽くすのを、ただ放置した。 ネット中がその話題で持ちきりになり、押し寄せたマスコミの嵐のようなフラッシュが、家の入り口を隙間なく埋め尽くしていた……

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第1話
入江千代子(いりえ ちよこ)のこれまでの人生において、最も反逆的だった出来事。それは、浅田辰彦(あさだ たつひこ)の実家が破産した際、誰もが彼を見放す中、全財産を抱えて彼と駆け落ちしたことだった。千代子だけは、彼の再起に賭けた。泥水をすするような三年の生活を経て、辰彦は日雇い作業員から、誰もが平身低頭するビジネス界の寵児へと這い上がった。そして千代子を、以前にも増してわがままで傲慢な妻へと甘やかした。どれだけ好き放題に振る舞おうと、辰彦は常に優しい笑みを浮かべて許してくれた。人々は口を揃えて言った。千代子はたった三年の苦労で、誰もが羨む理想の愛妻家を手に入れたのだと。――あの「花屋の女」、安井典子(やすい のりこ)が現れるまでは。結婚記念日、その女が浅田家に花束を届けに来たのが気に食わないというだけで、千代子は人を雇って女の店を徹底的に破壊させた。だが今回ばかりは、辰彦がいつものように低姿勢で機嫌を取りに来ることはなかった。彼はスマートフォンの電源を切り、姿を消した。そして自分とあの女の親密な写真がネットのトレンドを埋め尽くすのを、ただ放置した。ネット中がその話題で持ちきりになり、押し寄せたマスコミの嵐のようなフラッシュが、家の入り口を隙間なく埋め尽くしていた……*千代子は、群がる人垣をかき分けてようやく抜け出した。髪も服も乱れたまま、秘書から送られてきた住所へ怒り心頭で向かった。辰彦を問い詰めてやる腹づもりだった。だが、ドアを蹴り開けようとした矢先、中から笑い声が漏れ聞こえてきた。「辰彦さん、早く帰ってなだめたほうがいいんじゃないですか?奥さんが本気で怒って、また世間を騒がせても知りませんよ」「そうだよな。車をボコボコにしたり、家に火をつけたり……この間なんて、メディアの前で辰彦さんを指差して、安っぽいのがお好みだって毒づいてたしな……」言い終わる前に、声の主は失言に気づき、ハッとして口をつぐんだ。グラスがドンと乱暴に置かれる大きな音が、室内の喧噪を一瞬にして凍りつかせた。男はフッと鼻で笑い、その声には薄い嘲笑が滲んでいた。「ああ。あの入江のお嬢様より高貴な人間なんて、いるわけがないだろう?十八の時、親の援助も実家の財産も全部捨てるなんて言って、実の父親をショックで
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第2話
電話を切ると、全身から残りの気力さえも抜け落ちてしまったようだった。その夜は、一睡もできなかった。秘書は仕事が早く、翌日には離婚届を用意してくれ、いつものように辰彦の動向を報告し始めた。「旦那様は、安井様の花屋が荒らされたお詫びとして、繁華街の一等地にある店舗を契約されました。さらに、安井様のご家族を湾岸の高級タワーマンションへ移し、生活費として六千万円をお渡しになったそうです」秘書は千代子の顔色を窺い、ためらいがちに言葉を継いだ。「ここ数日のネットの炎上ですが……どうしても火消しができません。メディアがこぞって書き立てておりまして……旦那様は、その安井様に対し、どうやら特別な感情を抱いているのではないかと」震える指先から力が抜け、ペン先が離婚届の上に無残なインクの染みを作った。……もみ消せない?以前、ある新聞社が根も葉もない噂から自分の醜聞を報じた時は、トレンド入りしてわずか三分で削除された。その新聞社の社長もろとも、容赦なく法的責任を追及され、会社ごと潰されたのだ。それなのに今は、自分の名前が悪妻という言葉とともに三日三晩ネット上に晒され、叩かれ続けているにもかかわらず、何の対応もとられていない。誰がそれを黙認しているのかなんて、痛いほど分かっていた。空気が急激に重みを増し、息苦しさが胸を圧迫する。「分かったわ」爪が手のひらに深く食い込む。血が滲むような痛みを堪えながらも、必死に平静を装った。「これからは……そういう報告はしなくていい」秘書はハッとして、頷いた。室内に再び静寂が戻った。千代子は一人、長いこと椅子に腰掛けていたが、やがて立ち上がり、報告にあった新装開店の花屋へと向かった。今日が、まさにその開店日だった。店先には色鮮やかな花々が飾られ、客足が絶えない。かつて自分が滅茶苦茶にした古ぼけた小さな店に比べ、規模も大きく、内装も洗練されている。人垣の隙間から、一目で辰彦の姿を捉えた。電話の電源を切って無視を決め込んでいた男が、今は典子の隣で底抜けに優しい顔をして立ち、耳元にかかったおくれ毛を愛おしそうにかき上げてやっている。典子の瞳には甘い慕情が溢れていた。辰彦にすがりつこうとした瞬間、歩み寄る千代子の姿を目ざとく見つけた。だが、その目には微塵も後
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第3話
辰彦は千代子を見捨てた。四年前の結婚の時、あんなに固く真摯に誓ってくれたのに。「千代子、俺がいる限り、君には決して悲しい思いはさせないよ。俺にとって、君はいつだって一番なんだ」だがたった四年で、その誓いは破られた。胸の奥からこみ上げてくる惨めさ。千代子は歯を食いしばり、背中の焼けるような痛みに耐えて立ち上がると、フラッシュと容赦ない質問を浴びながら、逃げるようにその場を後にした。帰宅した途端、こらえていた涙があふれ出した。暗闇の中でどれくらい座り込んでいただろうか。やがて、玄関のドアが開く音がした。ソファでうずくまっている千代子の姿を見つけ、続いて服の背中に血が滲んでいるのに気づいた辰彦は、顔をしかめた。「背中をどうしたんだ?」慌てて駆け寄り、使用人に向かって声を荒らげた。「これほどの怪我だぞ!なぜすぐに知らせない?早く救急箱を持ってこい」そう怒鳴ってから、今度は心配そうに千代子を見つめた。「あの時、外で転んだのか?なぜ俺を呼ばなかったんだ……」「呼んだわよ。聞こえなかったの?」千代子の声は静かだった。辰彦は言葉に詰まり、後ろめたさと動揺で目を泳がせた。「すまない。あの時は人が多すぎて、聞こえなかったのかもしれない……」こめかみを揉み、声のトーンを落とした。「今日の記事はすべてもみ消しておく……今回の喧嘩は、これでおしまいにしよう。明日、奥村のおじさんが一緒に食事でもと誘ってきた。おそらく契約更新の件だろう。君に似合いそうなドレスをいくつか見繕っておいたから、後で選んでみてくれないか?」彼が軽く手で合図すると、背後に控えていた使用人が、高級ドレスの収まった箱をいくつも運び入れてきた。千代子はそれをじっと見つめていたが、今回は何も言い返さず、ただ静かに頷いた。「分かったわ」奥村和男(おくむら かずお)は千代子の両親の旧友であり、ここ数年、何かと気にかけてくれていた。千代子自身も、和男に話しておきたいことがあった。食事の場所は、五つ星ホテルの個室だった。席上は和やかな笑いに包まれ、辰彦は時折千代子の皿に料理を取り分け、温かいお茶を注いでやる。端から見れば、誰もが羨む良き夫だ。ところが食事の最中、その平穏はけたたましい着信音によってぶち壊された。辰彦
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第4話
典子の声は震え、瞳にはすでに涙が滲んでいた。辰彦はハッと我に返ったように手を放し、振り返って典子を抱き寄せると、その涙を指先で拭った。「もう大丈夫だ。怖がらなくていい」千代子はよろめきながら体勢を立て直した。目の前で睦み合う二人の姿。それはまるで、まともに平手打ちを食らったかのような屈辱と惨めさを、千代子の心に刻みつけた。ちょうどその時、秘書が足早に駆け寄り、辰彦に告げた。「社長、お調べしました。安井様にこの場所へ花を届けるよう手配したのは……奥様でした」ほぼ同時に、辰彦の瞳に抑えきれない驚愕と怒りの炎が燃え上がった。一歩踏み出し、千代子の手首をきつく掴んで、苦渋に満ちた声を絞り出した。「どうしてこんな真似ができるんだ!君自身、四年前の会食の席であいつに乱暴されそうになっただろう。それなのに、典子に花を届けさせるなんて。あんな危険な場所に行かせるなんて、あいつらに襲ってくださいと言っているようなものじゃないか!もし俺の到着が遅れていたら、典子がどうなっていたか分かっているのか?典子に謝れ!」手首に確かな痛みが走る。千代子は突然の詰問に頭が真っ白になったが、すぐに我に返り、辰彦の手を乱暴に振り払った。「花を届けさせるなんて、何も知らないわ!どうして謝らなきゃいけないの!」辰彦はこれまで千代子を腫れ物に触るように大切に扱い、きつい言葉一つ投げかけたことなどなかった。だが今、無実の罪を着せて、大勢の面前で怒鳴りつけている。千代子は目を真っ赤にして、胸を締め付ける悔しさを隠すように声を張り上げた。「あの女に何かするつもりなら、こんなこそこそした真似はしないわ!言いがかりはやめて、花を注文した人間をここに連れてきなさいよ!」空気は張り詰め、周囲の誰もが息を呑んだ。その静寂を破ったのは、典子が慌てて床に膝をつく音だった。顔は涙に塗れ、すがるような口調で哀願した。「千代子さん、ごめんなさい……私が注文書をよく確認しなかったのが悪いんです。千代子さんのせいではありませんから、謝らないでください。ただ、これ以上辰彦さんと喧嘩しないで……辰彦さんの手に怪我をさせてしまったわ。まずは病院へ連れて行かせて……」辰彦がまとっていた険しい怒気は、その一言ですっと解かれた。典子を助け起こし、そ
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第5話
秘書が声を震わせた。「ここ数日の帳簿を確認いたしましたところ、お嬢様名義の口座に異常が見つかりました……おじい様が遺されたあのご遺産から、先日、多額の資金が引き出され、安井様の口座へ送金されています……お手続きを行われたのは、旦那様です。急ぎ追跡いたしましたが、すでにその大半が使い果たされております。こちらがその明細です……」頭を強く殴られたような衝撃が走り、千代子はしばらく茫然自失となった。それは祖父が生前に遺してくれた、最後の贈り物だった。孫娘が苦労せぬよう案じ、これからの生活に困らないよう、特別に用意してくれたものだった。辰彦が、よりにもよってその金に手を付けるなどと……!明細をひったくるように奪い、目を皿のようにしてその記述を追った。呼吸は荒くなり、両手の震えが止まらない。明細には、生々しい記録が克明に刻まれていた。典子はその金で両親に家を何軒も買い与え、海外旅行へと送り出し、さらに……避妊具までいくつも購入していた。購入日時は、一週間前。まさに千代子が無理やり土下座を強いられた、あの夜だった。二人が何に耽っていたかは、火を見るより明らかだった。自分が屈辱にまみれ、一睡もできなかったあの夜、辰彦は祖父の遺した金をあの女に貢ぎ、ベッドで肌を重ねていたというのか。激しい吐き気が千代子を襲った。トイレへ駆け込み、胃の中が空っぽになるまで何度も激しく吐き戻した。秘書が悲鳴を上げ、慌てて医者を呼ぼうとしたが、千代子がそれを手で制した。「いいから……」荒い呼吸を整えようとするその声には、冷酷な響きが混じっていた。「弁護士に連絡して訴状を準備して。あの金、一円たりとも残さず、すべて取り返すわ!」祖父が遺してくれた金が、典子のような女に少しでも汚されるなど、絶対に許さない。秘書は深く頷き、すぐさま手配に動き出した。千代子は目を固く閉じ、胸に渦巻く激しい感情をどうにか押さえ込んだ。再び目を開いた時、その瞳にはすっかり冷徹な光が戻っていた。あと数日で浜野へ帰る。今はまさに一番忙しい時期だ。自分の計画を、こんな薄汚い連中のために狂わせるわけにはいかない。翌日、千代子は車を駆って近くの高級デパートへと向かった。両親のためにオーダーメイドしておいた贈り物を受け取るためだ。高級ブ
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第6話
辰彦が差し向けた黒服の男たちがデパートに現れて残金を清算すると、千代子は人けのない古い別邸へと連行された。黒服の男によれば、主人はここで頭を冷やしてしっかり反省しろと命じたらしい。千代子は道中、必死に抵抗し訴え続けたが、傍らの男は冷たく言い放った。「奥様、私どもは旦那様のご意思で動いております。旦那様はこう仰せです。『今の暮らしはすべて俺が与えたものだ。離婚したいと喚くのなら、俺から離れたお前がどうなるか、思い知らせてやる』と――」頭から氷水を浴びせられたように、千代子の反抗心は急速に冷え込んでいった。辰彦は、自分が先ほど直面した窮地を知っていながら、すべてを静観していたのだ。……あの女から自分の金を取り戻そうとしただけで、すべてのカードを止め、こんな真似まで?経験したことのない絶望が波のように押し寄せ、千代子を飲み込んだ。手足は鉛のように重く、指先すらわずかに動かすこともできない。この古ぼけた家で、地獄のように陰鬱な三日間を過ごすことになった。大切に育てられた令嬢が、長く放置されていた薄暗く湿った埃まみれの部屋に閉じ込められた。見張りの男たちからは冷たい目を向けられ、嘲笑され、乱暴に突き飛ばされた。まともな食事など一度も用意されず、床に投げ捨てられたカチカチに乾いたおにぎりがいくつかあるだけだった。三日後、ようやく男たちによって部屋から出された。これで終わりかと思ったのも束の間、古い家の門を出た途端に再び車へと押し込まれ、一時間後にはバラ畑へと放り出されていた。目の前に立つ、三日間自分を監視していたあの黒服の顔を見て、ついに千代子の感情が爆発した。「辰彦は一体何がしたいの!?あの部屋に三日間も監禁しただけでは気が済まないの?」全身が震え、涙で視界が滲む。だが黒服の声には、微塵の感情もこもっていなかった。「奥様。旦那様はこう仰っています。『典子の花屋を台無しにしたのはこれで二度目だ。だから、典子へのお詫びとして、自身の手で九百九十九本のバラを摘み取れ』と」……一人に、九百九十九本も?目の前の黒服をきつく睨みつけた。「もし、断ったら?」黒服は予想していたかのように、冷ややかな声で答えた。「ならば、先ほどの部屋にお戻りいただき、反省を続けていただきます。すべて摘み終えるま
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第7話
延々と響いていた呼び出し音はやがて途切れ、車内は重い沈黙に包まれた。またしても、誰も出ない。辰彦は、画面に表示された「千代子」の文字をじっと見つめていた。胸の奥を、再びあの奇妙な違和感がよぎる。病室で見せた千代子の血の気を失った大人しい姿が脳裏に浮かび、不安をどこまでも増幅させていく。やがてそれは言葉にならない焦燥感へと変わり、彼を居ても立ってもいられなくさせた。これまで千代子を甘やかしてやりたい放題にさせてきたが、こんなふうに電話を無視されることなど一度もなかった。彼は車の外に立つ秘書を振り返った。「病院へ誰かやれ。千代子の様子を見てこさせろ。どうして電話に出ないのか確認するんだ」だがほんの数秒ためらってから、その命令を撤回した。「いや、いい。俺が直接見に行く」千代子は熱が下がったばかりだ。もしかすると、またどこか具合が悪いのかもしれない。彼女は具合が悪い時ほど機嫌を損ねやすく、自分がそばでなだめてやらないと気が済まないのだ。自分でも気づかぬうちに、そう考える彼の目元には、微かな優しさと呆れが滲んでいた。その時になってようやく、傍らにもう一人いることを思い出した。スマートフォンをしまい、車内にいる典子へと視線を向ける。ひどくやつれた顔を目にすると、痛ましそうに目を細め、優しい声で言った。「もう心配しなくていい。差し押さえの手続きは止めさせたし、新しい住まいも手配する。あいつが雇ったあの連中も、二度と君の前に現れないし、指一本触れさせない。この数日、辛い思いをさせたな……」典子は彼の上着を羽織っていたが、露出した肌には痛々しい青あざがいくつも浮かんでいた。見るに堪えないほど哀れな姿だった。だが実際のところ、千代子が弁護士を使って金を返せと迫ってきたのは、彼女にとって好都合だった。自ら肌に傷をつけ、「千代子が裏で手を回した連中に攫われ、酷い目に遭わされた」ように偽装したのである。辰彦が血相を変えて探しに来たのを見た時、典子は心の底で歓喜に打ち震えた。これほど非情な手を使って千代子を凶悪な加害者に仕立て上げれば、今度こそあの鼻持ちならない女を徹底的に引き摺り下ろせると思っていた。しかし予想に反し、辰彦は自分を助け出し、優しく慰め、ありとあらゆる償いをすると約束したにもかかわら
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第8話
辰彦はピタリと動きを止め、一瞬その顔から表情が抜け落ちた。だがすぐさま眉をひそめ、秘書に向き直る。「……今、何と言った?あのバラ園は、俺が千代子のために作らせたものだぞ。あいつが火を放つわけがないだろう」氷のように冷たい視線が、重く秘書にのしかかる。秘書は冷や汗を拭いながら、スマートフォンの画面を目の前に差し出した。「本当なのです……十分前、バラ園の管理人から連絡がありました。奥様が自ら人をやって火をつけさせたと。恐ろしくて誰も止められなかったそうです……」動画に映っていたのは、かつて見渡す限り広がっていたバラの海が、今やその艶やかな美しさを微塵も残していない惨状だった。猛火が嘗め尽くした跡には、地獄のような黒焦げの残骸だけが広がっていた。ドクン――!辰彦の頭の中で、何かがプツリと切れる音がした。パニックと不安が堰を切ったように押し寄せ、一瞬にして理性を押し流していった。千代子が本当に、自分が贈ったあのバラ園を焼き払ったというのか?あのバラ園を贈った時、千代子は目を潤ませて喜んでいた。新しい物好きで飽きっぽい性格で、希少なダイヤのジュエリーも、何千万円もする高級車も、ひと月も経たないうちに飽きてしまうのに。だが、あのバラ園だけは違った。毎月のように何日も滞在し、一流の庭師を雇い入れ、バラが少しでも傷つくことを恐れて大切に世話をさせていた。庭師がうっかり枝を折ろうものなら、眉をひそめてひどく心を痛めていたほどだ。「これは夫から贈られたお花なの。優しく扱ってちょうだい。傷つけるのは絶対に許さないわ」……それなのに今、一切の躊躇いもなく自ら焼き払った。ふと嫌な予感に襲われた辰彦は、秘書をその場に残して車に飛び乗り、病院へと直行した。病室のドアを押し開け、切羽詰まった声で叫んだ。「千代子、待たせたな――」だが言葉を終えるより早く、看護師の訝しげな声に遮られた。「あの、どなたに御用ですか?」看護師は顔に見覚えがあったらしく、すぐに合点がいった様子だった。「入江さんのご家族の方ですね?どうかよく言い聞かせてあげてください。まだ熱が下がったばかりで、手のお怪我も治っていないのに、勝手に退院されるなんて。点滴だって、まだ何本も残っていたんですよ……」看護師の言葉は、まるで落雷のよ
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第9話
辰彦がオクムラホールディングスの入るビルに駆けつけた時、すでに日は傾きかけていた。空を染める赤い夕陽が顔を照らしても、彼の表情には焦燥しか浮かんでいなかった。息を切らし、前髪を乱したまま、真っ直ぐに社長室へと踏み込む。執務デスク越しに平然と座る和男を見据え、辰彦は単刀直入に切り出した。「奥村さん。両社でこのプロジェクトを進めてもう四年になりますが、なぜ突然、契約更新を打ち切られたのでしょうか」和男はゆっくりと視線を上げ、書類から目を離した。「それは、君自身の胸に聞くべきじゃないのかね。辰彦、私がなぜあの時、君にこのプロジェクトを任せたか、分かっていないのか」和男は千代子の両親の旧友であり、これまで辰彦にも親代わりのように温かく接してきた、温厚な人物だった。常に親しげな口調で呼んでいた彼が、こうして冷たく突き放すように呼び捨てにしたのは、これが初めてだった。辰彦は異変を察知して顔をこわばらせたが、すぐに思い至った。「千代子のことですか?奥村さん。千代子はここ数日、俺に腹を立てているんですが、こちらに何か誤解を与えるようなことを言ったのでしょうか。後でよく言い聞かせて機嫌をとっておきますから。ですが、ビジネスは遊びではありません。どうかもう一度お考え直しを……」言い終わらぬうちに、辰彦の顔面めがけて湯呑みが投げつけられた。額に直撃した鈍い音が響き、こめかみから一筋の血が流れ落ちる。和男は低い声で、怒りを噛み殺すように言った。「機嫌をとるだと?よくもぬけぬけとそんな台詞が吐けるな!このプロジェクトを欲しがっている企業がどれだけあると思っている?確かに君は優秀だ。だが、優秀な人間などいくらでもいる。君を選んだのは、千代子ちゃんが何度も私のところへ足を運び、どうか夫にチャンスを与えてやってほしいと、頭を下げて懇願してきたからだ!この数年、君の事業がここまで順調だったのも、千代子ちゃんが陰で自分の人脈を使い、道を切り拓いてきたからに他ならない!でなければ、たった三年で今の地位に這い上がれるはずがないだろう。すべて自分の実力だとでも思っていたのか!」和男の言葉に、辰彦は鉄槌で頭をガツンと殴られたような衝撃を受け、息をすることすら忘れた。こめかみを走る鋭い痛みすら、今はもう完全に吹き飛んでいた。
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第10話
十一月の浜野は冷たい雨が降り続き、ここ数日ずっと晴れ間が見えなかった。千代子が戻ってきてから、すでに半月近くが経とうとしていた。この間、幾度も実家へ足を運んだが、返ってくるのは父親が会議中だとか、体調を崩して入院しているといった返事ばかりだった。父親がわざと自分を避けていることは、痛いほど分かっていた。東輔にとって、千代子は目に入れても痛くないほど溺愛する一人娘であり、幼い頃から少しの苦労も知らずに育ってきた。それなのに、あの日、すべてを投げ打って辰彦と駆け落ちしてしまったのだ。父親が深く傷つくのは当然だった。この数年、毎年入江家に贈り物を届けてきたが、そのたびに封も切られずに突き返されてきた。かつては、こんな冷酷な言葉まで投げつけられた。「あの男と一緒になると決めたなら、今さらこの父親に構う必要などないだろう!今日から、お前のような娘はいないものと思え!」あの時、辰彦は千代子を抱きしめ、根気よく涙を拭いながら言ってくれた。「千代子、辛い思いをさせてごめん……お義父さんを恨まないでくれ。君が苦労するのを案じているだけなんだ。でも、一生かけて、ありったけの愛で、君の選択が間違っていなかったと証明してみせるから」だがたった四年で、その誓いは灰と化し、千代子は東都中の笑い者になった。胸の奥がズキズキと痛む。千代子は固く閉ざされた門扉を見つめ、歯を食いしばると、冷たい雨が打ち付ける中、その場に膝をついた。ごつごつした地面が膝に食い込んで痛み、容赦ない土砂降りの雨が全身をずぶ濡れにしても、まるで何も感じていないようだった。それを見た使用人は血相を変え、慌てて駆け寄って助け起そうとした。「お嬢様、早く立ってください。こんな雨の中で跪いたりして……」「いいから」千代子の声は掠れていた。その華やかな顔には、長らく見せることのなかった、迷子のような心細い表情が浮かんでいた。「このままにさせて」父親がまだ自分を許していないことは分かっている。少しの間跪いたところで、心のわだかまりが解けるはずがないことも。だが……もうどうすればいいのか分からなかった。東都で負った心身の傷が癒えきっていないせいで、少し跪いただけで目の前が真っ暗になり、今にも倒れそうだった。使用人はその蒼白な顔色を見て、どう
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