LOGIN入江千代子(いりえ ちよこ)のこれまでの人生において、最も反逆的だった出来事。 それは、浅田辰彦(あさだ たつひこ)の実家が破産した際、誰もが彼を見放す中、全財産を抱えて彼と駆け落ちしたことだった。 千代子だけは、彼の再起に賭けた。 泥水をすするような三年の生活を経て、辰彦は日雇い作業員から、誰もが平身低頭するビジネス界の寵児へと這い上がった。 そして千代子を、以前にも増してわがままで傲慢な妻へと甘やかした。 どれだけ好き放題に振る舞おうと、辰彦は常に優しい笑みを浮かべて許してくれた。 人々は口を揃えて言った。 千代子はたった三年の苦労で、誰もが羨む理想の愛妻家を手に入れたのだと。 ――あの「花屋の女」が現れるまでは。 結婚記念日、その女が浅田家に花束を届けに来たのが気に食わないというだけで、千代子は人を雇って女の店を徹底的に破壊させた。 だが今回ばかりは、辰彦がいつものように低姿勢で機嫌を取りに来ることはなかった。 彼はスマートフォンの電源を切り、姿を消した。 そして自分とあの女の親密な写真がネットのトレンドを埋め尽くすのを、ただ放置した。 ネット中がその話題で持ちきりになり、押し寄せたマスコミの嵐のようなフラッシュが、家の入り口を隙間なく埋め尽くしていた……
View More千代子は、あれだけはっきりと拒絶したのだから、辰彦も諦めて東都へ帰るだろうと思っていた。しかし、その後の半月間の辰彦の行動は、完全に予想を裏切るものだった。毎日欠かさず贈り物を届けさせるだけでなく、市内の大型ビジョンをすべて借り切り、千代子への謝罪動画を一日中延々と流し続けた。うんざりした千代子は、九十九個目の贈り物をゴミ箱へ放り込んだ後、直接会ってけりをつける決心をした。ところが、辰彦の方が先に目の前に現れた。真冬の凍てつく夜、黒いコートに身を包み、真っ赤なバラの大きな花束を抱えて立っていた。千代子の姿を認めるなり、数歩歩み寄り、すがるように花束を差し出した。「千代子。どうしても俺を許せないというのなら……もう一度、君を振り向かせてみせる。一からやり直させてくれ。いいだろう?」その光景は、まるで時間が巻き戻ったかのようだった。四年前、辰彦は同じように黒い服を着て、バラの花束を抱え、あのバラ園へと連れ出して真摯にプロポーズした。「千代子、俺と結婚してくれないか?これからは君が望むものすべてを与え、一生愛し抜くと誓うよ」千代子は手のひらを強く握りしめ、嘲りの目を向けた。「あなたの誓いは何年持つの?前回は四年。じゃあ次は?あと四年も無駄にしろというの?」辰彦はその場に凍りついた。花束を受け取った千代子を見て一瞬瞳を輝かせたが、次の瞬間、彼女はそれをそのまま傍らのゴミ箱へ投げ捨てた。「千代子……」呆然と見つめ、掠れた声を絞り出した。「そんなことはない……今度こそ、一生君を愛し抜く。俺の傍には君以外、絶対に誰も置かないと約束する……」言葉を証明しようと焦るように、背後に控えていた秘書から分厚い書類の束を受け取り、千代子の目の前に差し出した。「千代子、これまで君を深く傷つけてきたことは分かっている。ただの謝罪で許してもらえるとは思っていない。だから、俺がこの数年で築き上げたすべての財産を、君に譲る」すべての財産?千代子はついに正面から見据えた。「何、血迷ってるの?」「狂ってなどいない!」辰彦は遮るように早口で言い、真っ直ぐな視線を向けた。「いろいろと考えたんだ。君の支えがなければ、俺は今の地位には到底辿り着けなかった……君がどうしても許してくれないと言うのなら、俺の全財産も
辰彦は大きく目を見開いた。だが千代子の次の一言が、彼のわずかな希望を完全に打ち砕いた。「あの日、ラウンジの外ですべて聞いていたの」何度夜を越えても、あの日の光景を思い出すたびに、胸が押し潰されそうに痛み、目頭が熱く焼ける。「十八の時、親の援助も遺産も全部捨てるなんて言って、実の父親を怒らせて病院送りにし、浜野から駆け落ち同然で、無一文の俺のボロアパートに転がり込んできたんだ。あいつはいったい何なんだ?自分をタダで安売りした女かよ?」その言葉はあまりにも耳障りで、口にするだけで声が震えた。「辰彦、あなたの目に映る私は、そんなに馬鹿で……安っぽい女だったの?だから、あんな風に私をゴミみたいに扱ったのね?」辰彦の顔からみるみる血の気が引き、パクパクと口を動かしたが、声にはならなかった。千代子の声は静かだったが、その一言一言が鋭い刃となって、辰彦の心をズタズタに切り裂いた。だが、その場に縫い止められたように立ち尽くし、千代子をじっと見つめたまま、弁明の言葉一つ捻り出せない。しばらくして、ようやく掠れた声で呼びかけた。「……全部、聞いていたのか?違うんだ、千代子。聞いてくれ、あれは本心じゃなくて、ただ……」しかし言い訳の言葉が続くより早く、千代子は嫌悪感をあらわにして彼の言葉を遮った。「気安く名前を呼ばないで!」真っ直ぐに見据え、氷のように冷たく言い放つ。「あなたの嘘にはもう散々付き合わされたわ。二度と騙されたりしない!そんな未練がましい顔をしないでちょうだい……それに、全部あの女や他の誰かのせいにするなんて、見苦しいわ。いざという時にあの女を選んだのはあなた。私に土下座して謝らせたのも、お爺様が遺してくれたお金で浮気相手と寝たのもあなた。私のカードを止めて、空き家に閉じ込めたのも、全部あなたの仕業じゃない?何度も何度も肩を持ったから、あの女は私をコケにして、つけ上がる機会を与えられたんじゃないの。今になって罰したところで、私が受けた傷が消えるとでも思っているの?」手のひらの傷はすでに塞がったが、心についた無数の傷跡は、もう二度と癒えることはない。辰彦は息を呑み、その顔は紙のように真っ白になっていた。傍らで聞いていた君弘はついに耐えきれず、飛びかかるようにして辰彦の胸倉を掴み上げる
浜野に戻ってから、千代子はかつて情熱を注いでいたデザインの勉強を再開した。あの日、東都へ嫁ぐため、長年の努力の末に手に入れた海外留学の機会を自ら捨ててしまった。本当に決別する覚悟だと悟ったのか、父親の態度はようやく少しばかり軟化し、実家で食事をとることを許してくれた。食卓で、東輔は相変わらず仏頂面で鼻を鳴らした。「痛い目を見て、やっと帰ってくる気になったか。あの男が浜野へ来ていると聞いたぞ。もしあいつに丸め込まれてまたノコノコついて行くつもりなら、ここで飯を食う資格はない。さっさと荷物をまとめて出て行け」千代子の箸を持つ手がピタリと止まった。辰彦が浜野へ来ていること、とうに気づいていた。ここ数日、ひっきりなしに届けられる贈り物。オークションで落札されたジュエリー、大輪のバラの花束……どれもこれも、的確に千代子の好みを突いていた。誰の仕業かなど、考えるまでもなかった。昔なら、こういうご機嫌とりに一番弱かった。だが今は、吐き気がするような、言葉にし難い嫌悪感しか湧かない。「行かないわ、お父さん。絶対に」甘い言葉に散々騙され、痛い目を見てきた。もしまた騙されるようなことがあれば、自分の愚かさは救いようがない。君弘は黙々とエビの殻を剥いているように見えたが、その視線は無意識のうちに隣の千代子へと向けられていた。食事が終わると、彼は慣れた様子で千代子をマンションまで送り届けた。道すがら、探るように尋ねてきた。「本当に許さないのか?噂じゃ、その元旦那、あの愛人さんを相当ひどい目に遭わせたらしいぜ。店を取り上げて、精神病院に放り込んで、生き地獄を味わわせているって話だ……」千代子は一瞬言葉に詰まり、それが典子のことだとすぐに察した。瞳の光が翳り、無意識に眉をひそめる。「もう離婚したわ。あの人が誰を愛そうが、どう痛めつけようと、私には何の関係もないの。もうあの人の話はしないで、不愉快だわ」明らかに機嫌を損ねた口調だったが、君弘は思わず目を細めて笑った。「はいはい、お嬢様。もう二度と言わないって約束するよ……」言葉の途中で、ピタリと止まった。マンションのドアの前に、背の高い人影が立っていた。顔の半分は薄暗がりに沈み、目元には深い疲労が滲んでいる。ひどくやつれ、今にも倒れそうな様子だ
契約の突然の打ち切りは、辰彦に少なからぬ打撃をもたらした。半月間休む間もなく働き続け、一日の睡眠時間は二時間にも満たない。身体はとうの昔に限界を迎えていた。こめかみに走る激痛が四六時中神経をすり減らしていたが、目を閉じるわけにはいかず、秘書を執務室へ呼びつけた。「千代子は……最近、浜野でどうしている?」千代子が離婚届を残して姿を消したと知った日から、狂おしいほどの後悔に身を焼かれ、夜も眠れなかった。自分の目の届かない場所で、千代子がどれほどの苦痛を味わい、傷ついたかを思うと、胸が引き裂かれるように痛んだ。このまま……永遠に失ってしまうのではないかと恐ろしかった。千代子が浜野へ帰ったと突き止めた時、胸につかえていた黒い靄がいくらか晴れ、ようやくホッと息をつくことができた。浜野へ帰っただけで、行方をくらましたわけではない。それはまだ、自分にチャンスを与えてくれている証拠だ。昔から、腹を立てて家を飛び出すことは何度もあった。今回は少しばかり騒ぎが大きくなっただけだ。自分なら、必ず機嫌を取って連れ戻せる。「社長、奥様は浜野で、お怪我もだいぶ回復されたようです。ただ……」秘書は手元の資料に目を落としたまま、言い淀み、顔を伏せている。辰彦は眉をひそめた。「ただ、なんだ」「それが……奥様が浜野へ戻られた翌日に、岩瀬君弘様も帰国されまして。ここ数日、ずっと奥様の傍についておられるようです……」その忌々しい名前を聞いた瞬間、辰彦は雷に打たれたような衝撃を受けた。資料を奪い取ると、鮮明な写真の中には、一日たりとも忘れたことのない愛しい姿が写っていた。だが、どの写真にも例外なく、千代子の隣には背の高い男が寄り添っている。髪を直してやったり、口元の汚れを拭ってやったり、あまつさえ……毎日マンションへ出入りまでしている。君弘が帰国しただと?あの時自分に負けたというのに、千代子が腹を立てている隙につけ込もうというのか。指の関節が真っ白になるほど、辰彦は写真を強く握りしめ、内心の焦りと警戒を露わにした。もはや一刻も待てなかった。血走った目を剥き出しにして、声を荒らげる。「残りの仕事は他の者に任せろ。今すぐ飛行機を手配しろ。浜野へ行く!」秘書は頷き、即座に一番早いフライトを手配した。