Masuk屋上には強い風が吹いており、詩織の髪を激しく乱していた。なんとかして彼の命を繋ぎ止めたい。そう思っても、こんな局面に直面したことのない十七歳の少女に、気の利いた言葉など見つかるはずがない。「……もしあなたが飛び降りたら、お母さんが悲しむわ!」しばらくの沈黙。やがて、冷たい風に乗って男の声が届いた。「俺の母は、もう死んだ」しまった……!自分の浅はかな言葉に血の気が引き、猛烈な自己嫌悪に陥る。「ご、ごめんなさい!ごめんなさい……!」男は彼女の謝罪を意に介すことなく、わずかに体を前に傾けた。彼がいるのは、欄干の外側。縁のギリギリだ。あと一寸でも前に体重をかければ、すべてから解放される。飛び降りてしまえば、払っても払ってもつきまとう悪夢から、底なし沼のような絶望から逃れられる。ぼやけた視界の中で、男の背中がふらりと揺れた。「待って!」詩織はパニックになりながらも、なりふり構わず声を張り上げた。「私、今日、国際数学オリンピックで金メダルを獲ったの! ……ねえ、見ず知らずの私に、おめでとうって言ってくれない!?」その切羽詰まった声は、見えない糸のように彼の足首を絡めとった。彼のいる暗黒の世界には存在しない、明るく、そして必死な声だった。「その大会、すごく難しかったのよ!なのに私、満点を取ったの!私ってすごいでしょ!?」柊也は何も答えなかった。しかし、それ以上前に進むこともなかった。「このメダル、あなたにあげる!だから、私の代わりに大切に持っててくれない!?」「私が大人になってお金を稼げるようになったら……そのメダルを持ってきて!そうしたら、何でも好きなものをプレゼントしてあげるから!」交渉術など知らない。ただ、こう言えば少しは彼の気を引けるかもしれないと、無我夢中で口走っていた。もしかしたら、「プレゼント」という言葉に心が揺らいでくれるかもしれない。そんな一縷の望みにすがりついて。男はしばらく黙り込んでいたが、やがて問い返してきた。その声からは、先ほどまでの頑なな響きが消えている。「……高いものとでも、交換できるのか?」「もちろんです! 私に払える範囲なら何でもいいわ。好きなものを選んで」食い気味に答えると、彼が気が変わるのを恐れるように、詩織はメダルを縁の近くへそっと置いた。「ここに置いておくから
深い絶望の淵に沈んでいた彼女を、力強く引き上げてくれたのが柊也だった。あの日、あの時の記憶はあまりにも強烈だ。何年経とうと、光を背負って現れた彼の姿を鮮明に思い出すことができる。心の一番深い場所に、消えない焼き印のように刻み込まれているのだ。だからこそ彼女は、一切の見返りを求めず、七年もの間彼に愛情を捧げ尽くすことができた。なのに今になって、あれは最初の出会いではないと言うのだ。「じゃあ……いつなの?」真相を知りたいという焦燥で、胸が波打つ。彼女の瞳からその渇望を読み取ったのだろう。柊也は腰に回していた手を離し、立ち上がってデスクへと向かった。引き出しから小さな箱を取り出すと、戻ってきて再び彼女を抱き寄せる。そして、その箱を詩織の手に乗せた。「開けてみて」渡されたのは、ベルベット生地のジュエリーボックスだ。何度も手で弄ばれていたのだろう。箱の角は擦り切れ、生地が薄くなっている。柊也の静かな眼差しを受けながら、詩織はゆっくりと蓋を開けた。中に収められていたのは、金と赤のコントラストがまぶしい立派なメダルだ。それを見た瞬間、詩織は息を呑んだ。まさか、という疑念を確かめるように、震える指でメダルをつまみ上げ、裏側を確認する。そこには、受賞者の名前がはっきりと刻まれていた。『江崎詩織』私の、メダルだ!初めて国際数学オリンピックに出場した時に獲得したもの。あの年、彼女は十七歳だった。国際大会という大舞台で満点を叩き出し、堂々の金メダルに輝いた。この実績が高村教授の目に留まり、後に愛弟子として迎え入れられることになった、まさに彼女の人生の転機とも言える品だ。「――思い出したかな?」柊也が静かに問いかける。「……あの時の、病院の屋上にいた自殺志願の人?」記憶の断片が、鮮明に繋がり始めた。あの日、メダルを手にした詩織は、真っ先に母・初恵へ報告しようと駆け出した。だが、母が働く職場に着くと、同僚の女性から「お母さんは仕事中に倒れて、救急搬送されたわよ」と告げられた。生きた心地がせず、病院へ急行した。診察室に呼ばれた彼女を待っていたのは、残酷な診断結果だった。重症再生不良性貧血。救うための最善策は、骨髄移植しかない。わずか十七歳の詩織にとって、それは青天の霹靂
以前の詩織は、柊也が想い続けているのは志帆だと思い込んでいた。だが今は、それがまた別の誰かであることを察している。「大ありだ。これ以上ないほど直接的にな」全てを話すと決めた以上、もう隠すつもりはなかった。彼女と京介が付き合っていなかったと知ったあの日から、いつか機会を見つけて打ち明けようと思っていたのだ。今日という日が、その時なのだろう。「今日の事件は、もとはと言えば彼女がきっかけなんだ。十二年前、俺が松田龍二と揉めたのも、彼女を助けるためだったから」詩織は視線を伏せた。瞳に宿る複雑な感情を悟られたくなかったのだ。憧れのヒロインを救い出すヒーロー。そんな物語のような一幕があったとは。「……そんなに好きだったのに、どうして結ばれなかったの?」努めて淡々と言いながらも、言葉の端々に隠しきれない刺が混じる。「彼女には別の相手がいると、誤解していたんだ」柊也の声には、深い悔恨が滲んでいた。たった一つの誤解のせいで、二人の時間は十二年もの間、止まったままになってしまった。後悔しないはずがない。もしあの時、誤解がなかったら。自分たちの運命はどう変わっていただろうか。おそらく自分は復讐など捨てていただろう。父である海雲が望んだように、彼女と共に穏やかな人生を歩んでいたはずだ。実際、昔の柊也は彼女の存在に何度も揺らぎかけていた。海雲は柊也の復讐心を削ぐために、詩織を徹底的に利用した。彼女に見合い相手を次々と紹介し、あえて柊也にその品定めをさせることで、彼の独占欲を煽り、憎しみから目を逸らさせようとしたのだ。それは柊也にとって、耐え難い挑発だった。だが当時の彼は、詩織の心には京介がいると信じ込んでいた。だから、何もできなかったのだ。これ以上、真実を知りたくない。そう思ってしまった自分に気付き、詩織は小さく息を吐いた。どうやったって、心は揺らぐ。ミキの言う通りだ。私は今、また彼に振り回されている。「あいつらを止めた時、肋骨を三本折ってね。半月も入院する羽目になった。退院して一番に彼女のもとへ向かったんだが、そこで何を見たと思う?」「……私が聞いたのは、松田龍二の動機よ。理由は分かったから、これ以上は聞きたくない」何故か苛立ちがこみ上げ、詩織はパタンと音を立てて救急箱の蓋を
彼らに指示を出していた不良グループのリーダー格こそが、龍二だった。彼はまだ分別もつかない未成年をそそのかし、窃盗、暴力、わいせつ行為などを繰り返させていたのだ。調書を確認すると、龍二の足の骨折は「逃走時の転倒」によるものと記録されている。だが、彼が負った怪我は足だけではなかった。腹部の睾丸も同時に激しく損傷しており、救急搬送された時には組織の大部分が壊死。修復不可能と診断され、切除手術を受けていたのだ。そしてもう一つ。彼らが襲おうとした女子高生の名前は、「江崎詩織」と記載されていた。聴取を終え、取調室から出てきた柊也に、詩織が真っ先に駆け寄る。「終わった?」「ああ、終わったよ」頷く柊也の横に立つ警察官に、詩織は尋ねた。「私たちはもう帰ってもよろしいでしょうか?」「ええ、結構ですよ」その時、同じく聴取を終えた龍二が、二人の警察官に両脇を抱えられて出てきた。無傷で立っている柊也の姿を見るなり、彼は激昂する。「賀来柊也!このまま済むと思うなよ!絶対にぶっ殺してやるからな!」「大人しくしろ!黙らないか!」警察官が厳しく叱責しても、龍二は狂ったように喚き続けた。「死ね!殺してやる!」だが、その視線が隣に立つ詩織を捉えた瞬間、彼はピタリと動きを止めた。驚愕と憤怒が入り混じった顔になる。「お、お前……!なんでお前が!」その反応に、詩織は戸惑った。彼女の記憶に龍二の顔はない。これまで接点があったとも思えなかった。だが、彼は明らかに詩織を知っていた。パニックを起こしたように、龍二は身を捩って叫ぶ。「お前のせいだ!お前がいなけりゃ、俺の足がこんなことにはならなかったんだ!」「暴れるな!」警察官が力ずくで頭を押さえつけ、そのまま奥へと引きずっていった。警察署を出ても、詩織の頭からは疑問が離れない。「どうして彼は、あんなことを言ったの?」横を歩く柊也に問いかける。「奴は頭が狂ってる。気にしなくていい」「本当にそれだけ?もしそうなら、十二年も前の恨みであなたを執拗に狙ったりしないはずよ」聴取の内容こそ知らされていないが、警察が「十二年前の事件」と口にするのだけは聞こえていた。「あなたが教えてくれないなら、直接彼に面会して聞くから」そう言い切った詩織に、柊也は少し黙り込み、やがて俯いて観
いくら松田不動産が成長したとはいえ、賀来グループの足元にも及ばない。だからこそ、浩司は踏み切れずにいた。しかし、復讐心に囚われた龍二にそんな理屈は通用しない。彼は制止を聞かず、容赦なくバットを振り上げた。狙うは柊也の膝だ。自分と同じように、惨めな障害を抱えて生き恥を晒せばいい!浩司が慌てて止めに入ろうとした、その瞬間だった。バンッ!凄まじい音と共にドアが蹴り破られ、長身の男が飛び込んできた。男の足が、一直線に龍二の腹を捉える。「ぐはっ!」吹き飛ばされた龍二は、背後の鏡張りの壁に激突し、くぐもった悲鳴を上げて崩れ落ちた。続いて、室内に男たちの絶叫が次々と響き渡る。柊也を押さえていた四人の男たちだ。彼らは次々と湊にねじ伏せられ、ゴミ袋のように龍二の足元へ投げ捨てられていった。浩司は腰を抜かしたように膝を震わせ、その場にへたり込んだ。部屋に飛び込んできた詩織は、倒れそうな浩司を避けて柊也のもとへ駆け寄る。その手は微かに震えていた。「大丈夫? 怪我はない?」「平気だよ、心配いらない」さっきまでの氷のような冷徹さは消え失せ、柊也の顔には優しい色が浮かんでいる。それでも詩織は気が気ではなく、怪我がないか念入りに彼の体を調べた。必死な彼女の様子を眺めていた柊也は、ふっと満足げな笑みをこぼす。「そんなに俺のことが心配かい?」道中ずっと生きた心地がしなかった詩織は、その問いにカッとなった。怒りと安堵が混ざり合い、言葉にならない感情をぶつけるように、彼女は柊也の首筋にガブリと深く噛みついた。そうでもしなければ、今にも体から飛び出しそうなほど高鳴る心臓を抑えられなかった。柊也は「痛っ……」と顔をしかめたが、避ける素振りも見せず、されるがままになっている。むしろ、その口角はさらに上がっていた。「よほど心配なんだな。いっそ別の部屋をとって、二人きりで隅々まで検品するか?」「……馬鹿なこと言わないで!」顔を真っ赤にした詩織が、彼の胸をポカポカと叩く。柊也はそのまま詩織を抱き寄せ、なだめるように優しく抱きしめた。一触即発の危機から一転、室内には甘酸っぱい空気が流れ始める。その様子をドアの外から覗き見ていた太一は、黙ってその場を離れた。なんだ、俺の出る幕はないか。これじゃ『美女が野獣を救う』って
「アシスタントの方?ああ、確かにうちに来ていましたが……今日は私が接待に出ていたもので、気にかけておりませんでした。今すぐ確認させますね」その時だった。電話の向こうの騒音に混じって、別の男のくぐもった鋭い声が聞こえてきた。「妙な真似はしないことだな!」「賀来柊也、お前にもこんな日が来るとはな!」「俺がこの日をどれだけ待ちわびたか、分かるか!」デスクを叩いていた詩織の指先が、ぴたりと止まった。電話の向こうで浩司がマイクを塞いだのだろう。騒がしかった背景音が数秒だけ途絶えた。やがて、再び浩司の白々しい声が響く。「江崎社長、確認してからまた折り返しますよ」詩織は息を潜め、努めて冷静に返した。「ええ、よろしくお願いします、松田社長」通話を切るなり、詩織は密に車の手配を命じた。行き先は高級クラブ『クラウン』だ。先ほどの電話の奥で、「クラウン」という単語が怒声に混じって聞こえた。浩司は今、そこにいるはずだ。密はぽかんとしている。たかが確約書一枚のために、なぜ社長自ら足を運ぶ必要があるのか。車中。「今後、松田不動産絡みの案件は他の人に振って。彼にはやらせないで」密は理由が分からないまま、ひとまず頷いた。確約書の回収など、本来ならアシスタントがこなすただの雑務だ。新人の柊也に任せるのは、業務としてごく自然なことだった。だが問題は、浩司と柊也の間に過去の深い因縁があることだ。だからこそ、柊也が松田不動産へ向かったと知るや否や、詩織は真っ先に電話を掛けたのだ。詩織は柊也のスマートフォンにも発信した。だが、コール音が虚しく響くだけで誰も出ない。「運転手さん、もっと急いで!」胸のざわめきを抑えきれず、詩織はたまらず声を荒らげた。高級クラブ『クラウン』。詩織との通話を終えた浩司は、スマートフォンを懐にしまい、VIPルームへ戻ってきた。その顔には陰湿な笑みが張り付いている。彼は嘲るように言い放った。「あの賀来社長がヒモに成り下がるとはな。女の尻に敷かれてアシスタント気取りとは、世間が聞いたら腹を抱えて笑うぜ」柊也は数人の男に両肩を押さえつけられ、椅子に座らされていた。それでも、彼が放つ圧倒的な威圧感は少しも衰えていない。浩司を見据える瞳には、虫ケラでも見るような冷酷な軽蔑が宿っていた
志帆は糸が切れたようにソファへ崩れ落ちた。全身の震えが止まらない。骨の髄まで凍りつくような寒気が彼女を襲っていた。「どうしよう……どうすればいいの……?」歯の根も合わないほど怯える娘に、佳乃は険しい顔で告げる。「今、手を回せる人間に片っ端から連絡を取ってるわ。……でも、最悪の事態も想定しておかないと」佳乃もまた、苦渋の選択を迫られていた。彼女は意を決して、残酷な現実を突きつけた。「志帆、江崎詩織に頭を下げなさい。『この件は不問にしてください』と泣きついてでも懇願するのよ。あなたが被害者本人を黙らせれば、あとは私が裏から手を回して、事態を『示談』という形で収束させてみせるわ」
当初の予定では、志帆たちはあと二日、G市に滞在するはずだった。『パース・テック』の上場が決まれば、翌日に諸々の事務手続きが必要になるからだ。だが、その目論見は脆くも崩れ去った。上場計画は完全なる失敗に終わったのだ。何より志帆のプライドをずたずたに切り裂いたのは、詩織が二社同時に上場を果たしたという事実だった。そのことを思い出すだけで、脳の血管が焼き切れそうになる。こんな屈辱的な結末など、到底受け入れられるわけがなかった。取引所からホテルへ戻る車内は、葬式のような重苦しい沈黙に包まれていた。誰も口を開こうとせず、皆一様に顔色が悪い。沈黙の中で、志帆のスマートフォンだけが狂
「柊也くんだって、そうやって『エイジア』をあそこまで大きくしたのよ? 彼にできて、私にできないはずがないわ」虎穴に入らずんば虎子を得ず。成功者は皆、崖っぷちを歩いてきたのだ。上場はすでに内定している。もはや勝利は約束されたようなものだ。志帆の絶対的な自信に、佳乃もそれ以上反論できず、黙って頷くしかなかった。……金曜日。江ノ本市では年に一度のビッグイベント、金融サミットが開催される日だ。業界関係者にとって外せないこの日のために、詩織は早々に届いた招待状を手に、アシスタントの密へスケジュールの確保を徹底させていた。今回のサミットでホスト役を務めるのは、篠宮賢だ。彼と
追い打ちをかけるように、『エイジア・キャピタル』の海外事業でトラブルが発生したという。柊也がサミットを中座して海外へ飛んだのは、その対応のためだった。つまり、今の国内に残された問題は、すべて志帆ひとりで背負わなければならない。帰国してからというもの、何をやっても裏目に出る。順調なのは柊也との愛だけ。それ以外はすべてが泥沼だ。だからこそ、『パース・テック』の上場だけは絶対に成功させなければならない。これが最後の砦なのだから。コール音が虚しく響き続ける。呼び出し音の回数だけ、志帆の心が冷えていく。もう切れるかと思ったその時、ようやく通話が繋がった。「……はい







