LOGIN勝ち誇ったようにミキを見下ろし、璃々子は意地の悪い笑みを浮かべた。「もしあなたが私に『どうかお願いします』って頭を下げるなら、部屋の隅っこくらいは座らせてあげてもよくてよ?」……底抜けのアホね。ミキは心底吐き気がした。こんな低俗な女に反論する言葉すらもったいない。これ以上同じ空気を吸うのも不愉快になり、冷たい顔のまま踵を返して店を出ようとした。その時、エントランスの重厚なガラス扉が開いた。夜の冷たい空気と共に、長身の男が入ってくる。仕立ての良い黒のシャツ姿で、ネクタイは少しだけ緩められている。目の下には、どこか退廃的な疲労の影が落ちていた。澪士だった。そして、彼のすぐ隣には、小動物のように庇われる形で寄り添う若い女の姿があった。ふんわりとした柔らかい雰囲気のその女の腕には、澪士が着ているはずのジャケットが大切そうに抱えられている。……八日ぶり。まさか、こんな場所で再会するとは思わなかった。ミキの足は、床に縫い付けられたようにピタリと止まってしまった。暖色の間接照明が照らすエントランスで、澪士がゆっくりと顔を上げた。視線が、空中で激しく衝突する。ほんの一瞬だった。澪士の漆黒の瞳の奥に、まるで別の男と密会していた裏切り者の妻を見るような、どす黒く重い愛憎と絶望が渦巻いたかと思うと――次の瞬間、彼は見知らぬ他人を見るように、ひどく冷淡に視線を逸らしたのだ。何よ……その目。ヤッた途端に連絡一つ寄こさず、あまつさえ別の若い女を連れて歩いているくせに。まるで自分が傷ついた被害者のような顔をして無視するなんて。澪士の理不尽な態度に、ミキの胸がギリッと痛んだ。一方、ミキが立ち止まったのを見た璃々子は、完全に勘違いをしていた。ミキが自分の権力に屈して絶望しているのだと思い込み、真っ赤な唇を歪めて勝ち誇ったように笑う。「ふん、あれだけツンケンしてたのに、結局は無様に逃げ出すのね?でも、今さら泣きついてももう遅いわ。私、気が変わったから」璃々子はわざとミキの耳元に顔を寄せ、二人だけに聞こえる声で低く囁いた。「いいこと?あなたは絶対に私には勝てないのよ。昔も、そしてこれからもね」彼女が言っているのは個室のことではない。元夫である白彦のことだ。『彼も、彼の隣の席も、あん
とっくに帰ってきてるじゃない……それなのに、私には連絡の一つも寄こさない。ふっ、と自嘲気味な笑みがこぼれた。そうだ、男なんてみんなこんなものじゃないか。手に入れた途端に用済み。釣った魚に餌はやらない。一体、私は何を期待していたのだろう。最近の私は、どうかしていた。あの男の熱を帯びた視線や、耳元で囁かれる甘い言葉に絆されかけて、男の身勝手な本性をすっかり忘れていた。そもそも、二階堂澪士といえば投資界きっての捕食者であり、女には不自由しない生粋の遊び人だ。私のような大人の火遊びの相手なんて、彼の周りには星の数ほどいて、順番待ちすらできないくらいなのだろう。バカみたい。変な勘違いするところだった。ミキは自分の心に芽生えかけていた淡い期待を、冷たい理性の水で完全に消火した。どうせただのセフレだ。割り切ろう。そう自分に言い聞かせると、不思議と肩の力が抜け、ミキは泥のように深い眠りに落ちていった。目が覚めたのは夕暮れ時。ぐうぅ、とお腹が鳴って、ようやく自分がひどく空腹であることに気がついた。昨夜から苛立ちのせいで食欲がなく、ろくに何も口にしていなかったのだ。たっぷり眠ったおかげで、ようやく胃腸が食べ物を求め始めていた。出前でもいいけど……せっかくだから外で食べようかな。ミキはベッドから起き上がり、顔を洗うために洗面所へ向かった。そういえば、北里市の新市街に新しくできた本格的なイタリアンレストランに、ずっと行きたいと思っていたのだ。多忙で行けずにいたが、今日の夜なら時間がある。洗面台の前に立ち、歯を磨こうと手を伸ばしたミキの視線が、ふと一点で止まった。そこにあったのは、見慣れない高級なチタン製の歯ブラシと、漆黒のグラス。時折この部屋に泊まっていく澪士が、勝手に置いていったものだ。途端に、ミキの顔からスーッと表情が消え去った。ガシッ!ミキは無表情のまま、その歯ブラシとコップを鷲掴みにすると、足元のゴミ箱へ勢いよく叩き込んだ。「あー、スッキリした。クソ男の私物なんて、目障りなだけよ」視界から男の痕跡を完全に消し去ると、ミキは鼻歌交じりにメイクの準備を始めた。身支度を終えたミキは、お気に入りのワンピースに袖を通し、丁寧にナチュラルメイクを施した。美味しいものを食べ
「……うん」「だから、今は嵐が過ぎ去るのをじっと待ちなさい。あの男とミキの溝が決定的に深まって、もう絶対に修復不可能なところまで関係が壊れきった後で、あなたがひょっこり戻ってくればいいのよ。孤独に打ちひしがれて空っぽになった男の心なんて、あなたが少し優しくすり寄って甘えれば、いとも簡単に落ちるんだから」璃々子は、母の蓉子が言った言葉を頭の中でぐるぐると反芻した。確かに……今の白彦兄さんは私にすごく冷たい。このまましつこく泣きついても、ウザがられるだけかもしれないわね。ここはあえて彼の指示に従い、一時的に距離を置いて引くのが賢い女のやり方だ。そうと決まれば、こんな場所に用はない。璃々子は即座に点滴の針を引き抜き、ベッドから飛び降りた。そもそも大した怪我などしていない。白彦の同情を引くために、わざと大げさに入院し、傷口すらも特殊メイクで偽装していただけなのだから。「ちょっと、どこへ行くの?」驚く蓉子に、璃々子は鼻を鳴らした。「海外に飛ばされる前に、ちょっと軍資金を稼ぎに行ってくるわ」白彦は金銭的な支援も、留学先の学校や住居も手配してくれている。しかし、それはあくまで一般的な学生生活を送れる程度の額でしかない。これまで彼に甘え、湯水のように金を使って贅沢三昧してきた璃々子にとって、そんなどん底の貧乏留学生のような暮らしなど、絶対に耐えられなかった。だから、海外でみじめな思いをしないために、自分でたんまりと金を稼いでおく必要がある。実は以前、ある富裕層の食事会に参加した際、彼らが密かに話題にしていた「非公開の投資ファンド」の話を耳にしていたのだ。絶対に儲かるインサイダー情報があるらしく、リターンが桁違いだという。ずっと気になってはいたものの、なんとなく手を出せずにいた。しかし、一緒に食事会にいた知り合いは全員それに投資し、既に莫大な利益を手に入れているらしい。欲望に火がついた璃々子は、もうじっとしていられなかった。彼女はすぐさま身支度を整え、今夜の投資家たちのパーティーに乗り込むことにした。海外に追放される前に、絶対に一攫千金を狙ってやるのだ。......翌日のお昼。アシスタントの萌が、不満げに唇を尖らせながら弁当を運んできた。「えー、今日のロケ弁、ただの幕の
だが、急遽「本港市で開催される三日連続のオークションに、ミキの亡き母のジュエリーがそれぞれ出品される」という情報が入り、予定を変更せざるを得なくなった。彼はすべてのオークションに参加し、三つの作品を見事競り落としてから、ようやく帰還のフライトを手配した。その道中、彼はミキのために本場のエッグタルトを買おうと、わざわざ車を飛ばして隣町まで足を運んだ。さらに、空港に着陸するやいなや『スイート・トゥデイ』へ寄り道し、彼女が好きそうな新作のケーキも買い込んだ。美味しい食べ物、温かい飲み物、そして、彼女がずっと探していた母の形見。すべてを完璧に揃え、ミキを喜ばせることだけを楽しみに、胸を高鳴らせて迎えに行ったのだ。――その結果が、これである。彼女は、元夫の白彦の車に乗り込んだ。その瞬間を目撃した時、嘉人はいつもは鬼畜な上司に対して、人生で初めて「気の毒だ」と同情してしまった。彼らは気配を消し、白彦の車を尾行した。澪士は、自分が愛してやまない女が元夫の車に乗り込み、高級レストランで二人きりのディナーを楽しみ、そして店の前で名残惜しそうに言葉を交わす姿を……その目で一部始終見せつけられた。嘉人はその間、一度も後部座席を振り返ることができなかった。見なくともわかる。今の澪士が、どれほど凄惨で、どす黒い怒りと嫉妬に塗れた顔をしているか。不幸中の幸いだったのは、ミキが元夫の車でホテルまで帰らず、途中でタクシーを拾って一人で戻ってきたことだ。もし彼女が元夫と一緒にホテルに入っていくようなことになっていれば……今夜、この街で血の雨が降っていただろう。時計の針が、深夜零時を回った。その時、ずっと閉ざされていたマイバッハの後部座席の窓が、音もなくスゥッと下りた。「……全部、捨ててこい」夜の闇に溶けるような、ひどく冷酷で、氷のように冷たい声だった。澪士の視線の先にあるのは、彼が往復数時間かけて買ってきた本場仕様のエッグタルトと、空港から直行して買ったばかりの新作ケーキ。もちろん、長時間放置されたせいで、もう食べられる状態ではない。零時五分。漆黒の車体は、静かにホテルの前を離れ、底知れぬ夜の闇の中へと消えていった。同じ夜。いつもなら一度寝たら朝まで起きないはずのミキは、なぜかひどく寝付きが悪かった。
彼女のその徹底した無関心と嘲笑を目の当たりにして、白彦の胸にズキリと鋭い痛みが走った。だが、その原因を作ったのは他でもない自分自身だ。反論する権利など、彼にはない。彼は込み上げてくる苦い後悔を喉の奥に押し殺し、絞り出すように言った。「……とにかく、送るから」「だから、必要ないって言ってるでしょ!」この男、本当に昔から人の話を聞かないわね。ミキが呆れてレストランを出ると、白彦も当然のように後ろをついてきた。エントランスにはすでに白彦の車が待機している。彼は自ら後部座席のドアを開け、ミキが乗るのを無言で待っていた。その時、沈黙していたスマホが三度目の着信を知らせる。いや、四度目だ。白彦は忌々しげに顔をしかめ、ついに電話に出た。電話口から微かにヒステリックな声が漏れ聞こえ、白彦の顔色がスッと変わる。「……わかった。すぐに行く」通話を切った白彦は、ミキに対してひどく申し訳なさそうな視線を向けた。「璃々子が……事故に遭ったらしい」「そう。なら早く行ってあげれば?」ラッキー。これでやっと解放される。ミキの冷淡な反応にも、白彦はすぐに車に乗り込もうとはせず、ミキの目をじっと見つめて言った。「……今回の視察に来る社長夫婦の詳細な資料、後で君のスマホに送っておく」「ん、わかった」ミキは適当に相槌を打った。早く行けばいいのに、グズグズしていて鬱陶しい。「いや、俺が言いたいのは……」白彦は気まずそうに目を逸らした。「君のスマホの、俺の着信拒否とブロックを解除してくれないと、資料が送れないんだが」「……あ」そうだった。完全に忘れていた。だが、仕事としてパートナーのフリをする以上、事前の打ち合わせで連絡を取り合うのは必須だ。本番でボロを出すわけにはいかない。仕方なく、ミキは「わかった」と頷いた。それを確認して、白彦はようやく自分の車に乗り込み、璃々子の元へと走り去っていった。ミキはレストランを出ると、流しのタクシーを捕まえてホテルへ向かった。しかし、道中で見覚えのあるケーキ屋の看板が目に入り、思わず運転手に声をかけた。「あっ、すみません。ここで降ろしてください」無性に甘いものが食べたくなったのだ。さっきのレストランでは、白彦と一緒だったせいでまったく
白彦が心の中でどう傷ついていようが、ミキの知ったことではない。だが、後で面倒なことにならないよう、釘だけは刺しておく必要があった。ミキは彼に向かって、三つの条件を突きつけた。第一に、あくまで演技であること。人前ではおしどり夫婦を演じても、二人の時は完全な他人として振る舞うこと。第二に、演技上どうしても必要な接触を除き、個人的なスキンシップは一切禁止すること。第三に、接待が終わり次第、即座に解散し、今後一切付き纏わないこと。白彦は、すべての条件を呑んだ。いや、呑むしかなかったのだ。かつては目も合わせてもらえず、完全に赤の他人として無視され続けていた頃に比べれば、こうして会話をしてくれる今の状況だけでも、彼にとっては奇跡に近かった。やがて料理が運ばれてきたが、ミキはまったく食指が動かなかった。目の前に並んでいるのは大好物ばかりのはずなのに、どうしても上の空で、チラチラとスマホの画面ばかり気にしてしまう。その様子に気づいた白彦が、少し心配そうな、温かい声で尋ねた。「……食欲がないのか?」そりゃ、アンタとご飯食べてて美味しいわけないでしょ。喉まで出かかった毒舌を、ミキはぐっと飲み込んだ。一兆円の配当金が懸かっているビジネスパートナーなのだから、ここは大人な対応をしておくべきだ。「最近、仕事の稽古がハードでちょっと疲れてるだけ」ミキは無難に答えた。白彦は彼女が通っているトレーニングセンターを実際に見たことがあるため、その言葉に嘘がないことは分かっていた。彼女がボロボロになって頑張る姿を思い出し、彼はたまらず口を開いた。「……そんなに無理をしてまで働く必要はないだろう。お金に困っているなら、俺に言ってくれればいいのに」彼は昔からずっと、ミキが女優を続ける理由はお金のためだと思い込んでいる。まだ夫婦だった頃、彼は何度も「女優なんて辞めろ」と言ってきた。一度、こっそり彼女の撮影現場を見に行ったことがある。当時のミキはまだ無名の新人だったため、理不尽な扱いや嫌がらせを受けていた。その過酷な光景を目の当たりにしたからこそ、辞めさせたかったのだ。だが、不器用で傲慢な彼には、思いやりのある言葉などかけられなかった。「由木家がお前に不自由な思いをさせたとでも言うのか?なぜわざわざ外