INICIAR SESIÓN詩織は閉じていた目を開き、彼を見上げた。「苦労して、って?」「ああ」柊也の長い指が彼女の頬を滑り、そのままうなじへと移動して、ゆっくりと揉みほぐしていく。「接待のプロみたいな同業者からノウハウを聞き出して、少しずつ君の酒に慣らしていったんだ」それはもう十年以上も前のことのはずなのに、彼の記憶にははっきりと刻まれているらしかった。「最初の頃、君のリミットはたったグラス三杯だった。チャンポンなんてもってのほかで、ビールと焼酎を混ぜれば二杯半で完全にダウン。ワインなら四杯はいけたが、後を引くから結局三杯に抑えなきゃならなかった」「あの頃、接待の席で君に三杯以上飲まれないように、俺がどれだけ言い訳をでっち上げたことか」「少し酒に強くなってからは、五杯から八杯いけるようになった。強い酒もお猪口なら十杯は飲めたな。チャンポンも平気になったが、その分悪酔いしやすくなった。だから飲む前に必ずヨーグルトで胃の粘膜を保護させて、飲んだ後には翌日の頭痛対策でレモン水を用意したんだ」詩織自身でさえ曖昧になっているような細かいデータまで、柊也はまるでマニュアルを読み上げるようにスラスラと語ってみせた。「どうしてそこまで鮮明に覚えてるの?」不思議に思って尋ねると、予期せぬ答えが返ってきた。「毎回、記録をつけていたからな」「記録って……どうしてそんなこと」「俺が同行できない接待の時、誰も君の酒量を代わりに計算してやれないだろう。だから君の限界を正確に把握して伝えておく必要があった。そうすれば、君自身でペース配分ができるからな」そう言われてみれば、思い当たる節がある。詩織が単独で会食に出向く時、柊也は必ず「これ以上は飲むな」とリミットを念押ししてきた。どうしても酒を断れない相手なら、あの手この手で言い訳を作って逃げろ。どうしようもなく厄介な相手なら、いっそ契約ごと見送っても構わない——と。だが、当時の詩織はあまりにも必死すぎた。彼が海外へ拠点を移していた二年間、彼女は自分の胃をボロボロにするまで、身を粉にして働き続けたのだ。こんな結果になるなら、最初から彼女に酒の飲み方など教えなければよかった。その時のことを、彼は今でも深く後悔しているらしい。彼女の眉間を優しく撫でる彼の指先から、痛切な後悔が伝わってくる。その瞳は
同じ人間の血が通っているとは思えない、あまりの冷酷さだ。五年間だぞ!この五年、俺がどれだけ地獄を見てきたと思っているんだ!泣きつくようなスタンプを連打しても、柊也は完全スルー。太一は、自分のアカウントがミュートされているのではないかと本気で疑った。【ココロの真理子が、本港市にある桐生キャピタルと接触し始めたらしい。最近頻繁に会ってるみたいだが、何を企んでるかまでは分からない】最後にそうメッセージを送って、ようやく返信が来た。【監視を続けろ】「……」太一は絶句した。『栞』の話題になると死んだふりをするくせに、詩織に関することとなると途端に生き返るのだ。もううんざりだ!【で、お前は華栄で一体何にそんなに忙しくしてるわけ?】自分の会社を放り出すほど、一体何をしているというのか。案の定、柊也はこのメッセージも華麗にスルーした。腹立たしさと好奇心に耐えきれなくなった太一は、詩織への挨拶を口実に、自ら華栄のオフィスへ乗り込んだ。足を踏み入れるなり、詩織に尋ねる。「柊也のやつはどこ?姿が見えないけど」もちろん、詩織も彼のお目当てが柊也であることは百も承知だった。彼女は書類から顔も上げずに答えた。「プロジェクトチームのみんなに、コーヒーを買いに行ってるわ」太一は顎が外れそうになった。「あいつに……パシリでコーヒーを買いに行かせてるのか?」いくらなんでも、大物の無駄遣いが過ぎないか?「何か問題でも?」詩織は逆に問い返した。アシスタントの仕事って、そういうものでしょう?「……いや、何でもない」太一はようやく悟った。要するに、完璧な主従関係が成立しているのだ。一方は平然と顎で使い、もう一方は喜んでこき使われている。完全に惚れた弱みというやつだ。詩織のオフィスを出た太一は、まだ呆然としていた。やがて、外から二十杯以上ものコーヒーを両手に提げて戻ってきた柊也の姿を目撃し、彼の表情は完全にヒビ割れた。本当に、自分の会社の社長室に座るより、ここでパシリをしている方がマシだというのか?だが、さらに太一の正気を奪ったのはその後の光景だった。柊也は買ってきたコーヒーをチームの同僚たちに一つ一つ配り終えると、今度は給湯室にこもり、一心不乱に詩織のための特製ハーブティーを淹れ始めたのだ。誰か、あ
詩織は光一に探りを入れてみた。「どうやら、とんでもない相手を怒らせたようです。詳細は私にも分かりませんが……華栄に大きな損失が出る前に発覚して、不幸中の幸いでした」自分が持ち込んだ案件だったため、光一はひたすら恐縮し、頭を下げ続けた。「江崎社長、今回は本当に申し訳ありませんでした。このお詫びとして、次回はもっと大きな案件を華栄に紹介させていただきます」「岡本さん、どうかお気になさらないでください」光一を見送った後、詩織は業界の友人に連絡して情報を探った。「『栞』って会社、聞いたことある?」友人は逆にそう尋ねてきた。「もちろん。確か、高温超電導の研究からスタートして、ここ一、二年は独自の資産運用会社も設立したはず。いくつものプロジェクトに投資して大儲けしてるって噂よね。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いじゃない」詩織にとって、その社名は強く印象に残っていた。というのも以前、真理子が『ココロ』の出資元として『栞』に目星をつけ、接触を図っていたという話を聞いていたからだ。彼女はかなりの労力を注ぎ込み、あと少しで『栞』の扉をこじ開けるというところまで漕ぎ着けていたはずだった。だがなぜか、突然交渉は白紙に戻された。不意打ちを食らった真理子は、仕方なく本港市の資本に望みを託すことになった。新たな出資者を見つけるため、何度も本港市へ足を運んでいたのだ。当然、詩織にも本港市には人脈がある。真理子のそうした動向は、すべて詩織の耳に入っていた。最近では、『桐生キャピタル』とかなり親密にやり取りしているらしい。桐生キャピタルのトップは、小宮山序だ。だが今、詩織の関心は本港市の桐生キャピタルにはなかった。目の前の『栞』だ。彼女は手元のメモ用紙に『栞』のローマ字、「SHIORI」と書き留めた。社名をローマ字で表記するのは、詩織の昔からの習慣だった。メモを簡潔にするためと、万が一の機密漏洩を防ぐためだ。——高温超電導からのスタート。そこで詩織のペン先がピタリと止まった。ふと、ある記憶が蘇ったのだ。かつて柊也が、志帆のために設立した会社。その名を『パース・テック』と言った。その設立目的も、まさに高温超電導プロジェクトの開発だった。ただし、最終的にそのプロジェクトは大きな事故を起こし、結果としてエイジアま
詩織は小さく唇を噛み、ためらいがちに尋ねた。「……苦しい?」「見れば分かるだろ?」柊也は力なく笑い、まいったというように息を吐く。「この五年間、誰とも寝てないんだ。今までも何度かチャンスはあったけど、君に嫌われるのが怖くて、ずっと必死に耐えてきた」「俺だって男だ。君を前にして何の欲も湧かない方が、どうかしてる」ましてや相手は、十二年間求め続けた女性なのだ。抗えるはずがない。数秒の沈黙の後、詩織はぽつりと言った。「ミキが言ってた。一度私を捨てた人は、これから先も私を大切にしないって。手に入れた途端、どうせまた冷たくなるだけだって」その言葉に、柊也の熱は一瞬にして凍りついた。顔を上げた彼の瞳に、痛切な自責の念が浮かぶ。彼女がこれほどまでに怯え、今の状況を夢幻のように感じてしまうのは、すべて自分が深く傷つけたからだ。彼は詩織の手を取り、その甲に謝罪と祈りを込めるように深く口づけた。「……ごめん。俺が君を傷つけたからだ」「無理強いは絶対にしない。もし君が、手に入れられたら捨てられると不安に思うなら、この先ずっと焦らしてくれて構わない。一生そのまま、俺を弄んだっていい」詩織が帰宅したのは、すでに夜の十時を回っていた。柊也が家まで送り届けてくれたのだ。玄関を入ると、ミキがカイと遊んでいた。詩織の姿に気づき、声をかけてくる。「夕ご飯、食べた?」「うん、食べたよ」「よかった。私、作ってないから」ミキはカイを抱きかかえ、わしゃわしゃと撫で回している。カイもすっかり撫でられ慣れたもので、威嚇することもなくされるがままだ。「私、来週から仕事で北里に撮影に行くんだ。しばらく専属シェフはお休みだから、休暇中のお手伝いさん、呼び戻したら?」詩織は少し考えた。「ううん、いいよ。最近向こうも休みを満喫してるみたいだし。夕飯なら心配しないで。密がいるから、飢え死にすることはないわ」「それもそうね」密がいなくても、あの『忠犬』が目を光らせているのだ。たしかに彼女が食事に困る心配はないだろう。詩織がカイを抱き上げようと身を乗り出した時、ミキがふと彼女の首筋に目を留めた。「ねえ、首のそこ、どうしたの?赤いけど」「えっ……あ、蚊に刺されたのかも」「真冬に蚊なんている?」「……」詩織は言葉に詰まった
触れ合うほどに近い場所から、熱い吐息がうなじに吹きかかる。その熱は瞬く間に肌を伝い、全身を火照らせていった。顔を真っ赤にし、心臓を狂わせながらも、詩織は精一杯の平静を装う。「……救急箱を、片付けようとしただけ。別に、逃げてなんてないわ」柊也はその赤い耳たぶを至近距離で見つめ、不意に低く笑った。「何が可笑しいのよ」すべてを見透かされているような気まずさに耐えかね、再びその場を離れようとする。だが、立ち上がるよりも早く、背後から熱い体が重なった。痺れるような感触が腰に伝わり、逃げ場を塞がれる。そのまま耳たぶに柔らかな唇が落とされ、敏感な耳の奥に熱が吹き込まれた。思わず身をよじって避けようとしたが、柊也はそれを許さない。顔を傾けた彼は、逃げる詩織の淡い桜色の唇を、逃さず啄んだ。一度火がついた熱情は、もう誰にも止められなかった。柊也の口づけは激しく、貪欲で、彼女の退路を断つように深く、深く注がれる。やがて詩織が諦めたように瞳を閉じ、すべてを受け入れると、その力は少しずつ解け、甘く絡み合うような抱擁へと変わっていった。重なる胸の奥から、互いの鼓動がはっきりと伝わってくる。特に柊也のそれは、壊れそうなほど激しく打ち鳴らされていた。長い沈黙を破るように、柊也がようやく唇を離した。離れた詩織の頬は、上気して薄紅色に染まっている。その姿を見つめる柊也の瞳に、激しい衝動が渦巻いた。五年の空白――募りに募った独占欲は、たかが一度のキスで収まるはずもない。彼女の眼差し一つで、彼の欲望は容易く限界を超えてしまう。細い腰に回された指先が、無意識に、だが確かな意味を持って這い回った。そこが詩織の弱点であることを、柊也はよく知っている。どの場所が敏感で、どこを愛でれば彼女の理性が溶け出してしまうのか。五年という月日が流れても、彼はそのすべてを手の内に入れていた。首筋に熱い唇を這わせると、詩織の体がびくりと震えた。結んだ唇から漏れた子猫のような吐息が、柊也の昂ぶった神経をさらに煽る。痺れるような快感が全身を駆け抜け、柊也の声は、もはや判別できないほど掠れていた。彼は確認するように、愛おしさを込めてささやく。「……いいか?」自分は決して紳士ではない。かつて、骨髄提供の恩返しだと言って
柊也の声はわずかにかすれ、溢れ出す想いを抑えきれない様子で、詩織の瞼にそっと唇を落とした。松田龍二との因縁、そしてあの夜の記憶が詩織の脳裏を駆け巡る。胸が締め付けられるような感覚に襲われ、彼女は震える声で尋ねた。「……じゃあ、あの路地裏で私を助けてくれたのも、あなただったの?」「ああ」柊也はどこまでも優しい声で応じた。「あの頃、君が危ない目に遭わないか心配で、ずっと後をつけていたんだ。……まさか、本当にあんな奴らに襲われるとは思わなかったけど」あの時期、彼は父である海雲に「もう無茶な真似はしない」と約束し、監視のボディガードを遠ざけていた。ただ、誰にも邪魔されずに彼女を見つめていたかったのだ。顔を合わせることも、言葉を交わすこともない。それでも、遠くから彼女の姿を目にするだけで、明日も生きていこうと思えた。以前、須藤校長から聞かされた言葉が脳裏に蘇る。「あの日、身を呈して君を助けてくれた人はね、ひとりで八人を相手にして、半月も入院したんだよ」――あの時の恩人は、他でもない柊也だったのだ。その事実を噛みしめ、詩織の胸の奥で一旦は引いた熱が再びぶり返す。柊也は彼女の瞳の奥を覗き込むように、じっと見つめ続けた。「……誤算だったのは、退院してようやく君に会いに行った時、君の隣にはもう『騎士』がいたことだ」「それに、君が彼を『彼氏だ』と言っているのも、この耳で直接聞いてしまったからね」あまりに皮肉で、あまりに切ないすれ違い。「……どうして、あの時聞いてくれなかったの?」詩織は苦い後悔に苛まれる。十二年だ。人生の中で、これほど長い時間をどれだけ持てるというのだろう。「聞いたさ。だけど君は『好きな人がいる』と答えた。……俺は、それが京介のことだとばかり思っていたよ」京介の名を口にするだけで、柊也の瞳には隠しきれない暗い影が落ちる。未だにその名には、拒絶反応にも似た痛みが伴うのだ。「それはあなたが……いつだって私に冷たく接していたからじゃない」詩織の声に、割り切れない想いが混じる。「お母さんに骨髄を提供してくれた時も、私は恩返しがしたいって、あなたを訪ねて行ったのに」それは、詩織にとってあまり思い返したくない、若気の至りだった。当時、彼女はまだ十八歳。世間のことなど何も分かっておらず、人の心の機微に
「お母さん、私、あの人とはもう……」これ以上、母を巻き込むわけにはいかない。二人の関係は終わったのだと、はっきりさせなければ。詩織がそう口を開いた、その時だった。「おばさん、浄水器、直しておきましたよ。一度使ってみてもらえますか。もし調子が悪ければ、すぐに新しいものに交換しますから」柊也がキッチンからひょっこりと顔を出す。「まあ、また面倒かけちゃって、ごめんなさいね」嬉しそうな声をあげて、初恵がキッチンへと向かった。「いえいえ、簡単なことですから」柊也の優しげな声が続く。「あ、そうだ。コンセントも換えておきました。前のものは使いづらかったでしょう。今度のはスイッチ付きなので、使
会場のあちこちから、自分に向けられる視線を感じる。その中には、ついさっき名刺を交換したばかりの投資家たちの顔もあった。彼らは何も言わない。だが、その眼差しだけで、志帆は身の置き所がないほどの屈辱に襲われた。どうして。なぜ、私が精魂込めて準備したプレゼン資料に、『ココロ』から得たデータや画像が紛れ込んでいるの?まったく理解ができなかった。志帆の頬は、まるで火で炙られたかのように熱い。これほど大勢の前で、こんな屈辱を味わったのは、生まれて初めてだった。柊也の顔を見ることすらできない。彼の目に、失望の色が浮かんでいたら?あるいは――今、この瞬間、誰よりも輝いている詩織に、彼の
そのあまりに無関心な一言に、詩織は怒りを通り越して笑いがこみ上げてきた。彼にはわかっているはずだ。太一がわざとちょっかいを出し、すべてを台無しにしたのだと。それなのに、彼の言い分を信じ、まるで自分こそが「悪人」であるかのように扱う。柊也が、太一のその稚拙なやり口を見抜けないはずがない。ただ、彼はそれを黙認したのだ。太一が自分をからかい、辱めるのを、何度も何度も許し、そして唆してきた。詩織は激しい怒りに駆られた。瞳が潤み、その声は氷のように冷たい。「賀来社長がそこまで気前がいいなんて、嬉しいわ。それなら、2千万円ほどお願いしましょうか」柊也が口を開く前に、太一が我慢で
志帆がそう言う声は、聞いているこちらがうんざりするほど甘ったるい。「私が頼めば、柊也くんは絶対に助けてくれるから」「柊也さんってお姉ちゃんには本当に何でもしてくれるわよね!車も家もポンとプレゼントしちゃうなんて、気前が良すぎるわ!そのうち会社ごとお姉ちゃんのものになっても、私驚かないかも」美穂は心底羨ましそうに言った。「ふふっ、柊也くんは昔から、私には甘いのよ」「ネットでも言うじゃない?男の人が本気で女の人を愛してたら、絶対にお金をかけるって。それだけ柊也さんがお姉ちゃんのことを大切にしてるってことよね」……後で須藤社長に教えてあげなくちゃ。詩織は、心のなかでひとりごちた。







