最期の鼓動は、あなたの結婚式を祝う花火に消えて

最期の鼓動は、あなたの結婚式を祝う花火に消えて

Oleh:  桃ちゃんBaru saja diperbarui
Bahasa: Japanese
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井山鈴夏(いのやま すずか)が血を吐きながら、愛娘の柚乃(ゆずの)を小野寺光也(おのでら みつや)の前へと押し出したのは―― あろうことか、彼が井山実奈(いのやま みな)の細い薬指に結婚指輪をはめている、その瞬間だった。 「パパ……」 か細く、震える声で呼びかけた柚乃だったが、次の瞬間、無慈悲に振り払われた。 光也は差し出された親子鑑定書を乱暴に引き裂くと、冷ややかに唇の端を歪めた。 「詐欺師の娘ごときが、この小野寺家に入れるとでも思っているのか」 彼は知る由もなかった。 柚乃の左耳が聞こえず、鋭く怒鳴られるたび、その小さな体を震わせていることを。 そして、鈴夏のバッグの底に、一枚の診断書が静かに眠っていることも。 そこには、【肺がん・末期】と記されていた。 四十度の高熱に意識が朦朧とするなか、柚乃が「ママを助けて」と光也に縋りついたとき。 彼は傍らのボディーガードに命じ、土砂降りの雨の中へ、そのあまりにも小さな体を放り出させた。 「母親譲りの安っぽい芝居など、もう見飽きた」 鈴夏は這いずりながら、散らばった鎮痛剤をひとつひとつ拾い集めた。 今にも折れそうな心を、たった一つの強烈な想いだけが繋ぎ止めていた。 ――柚乃には、私が必要なの。だから、まだ死ぬわけにはいかない。 華やかな結婚行進曲が街に鳴り響く中、光也は血相を変えて病室へと飛び込んできた。 まるで何かに取り憑かれたような形相で、AEDを鈴夏の胸に押し当て、何度も何度も叫び続ける。 「鈴夏!こんな死んだふりで、許されると思っているのか!」 だが、心電図モニターが彼の声に応えることはなかった。 終わりを告げる単調な電子音だけが、室内に虚しく響き渡った。 その瞬間、光也の顔から初めて血の気が引いた。 後になって、多くの者がその光景を語り草にした。 小野寺グループを統べる若き社長が、トルコキキョウの咲き誇る墓地に膝をつき、激しく泣きじゃくっていたと語られている。 「俺が植えたトルコキキョウが……ようやく咲いたよ。鈴夏……会いたい……っ」

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Bab 1

第1話

井山鈴夏(いのやま すずか)は二十九歳。肺がんのステージⅣを宣告された、シングルマザーだった。

残りわずか三ヶ月という時間のなかで、娘にいったい何を残してやれるだろう。

できる限りのお金を貯めること?写真をたくさん撮ること?手紙を書いておくこと?ビデオを撮ること?

それとも――柚乃(ゆずの)を連れて、実の父親である小野寺光也(おのでら みつや)に会いに行くこと?

でも光也は、もうすぐ別の女と結婚しようとしている。

四歳の柚乃には、これから引き取って育ててくれる人間が必要だった。このまま身寄りがなくなれば、いじめや世間の冷たい視線に晒されるだけでなく、生きていくことすら難しくなるかもしれない。

悩み抜いた末に、鈴夏は冬木市へ戻ってきた。

人口二千万人を超えるこの大都市で、引っ越したうえに完全に連絡を絶った人間を探し出すのは容易なことではない。それでも鈴夏は光也の親友、桐島翔(きりしま しょう)に何日もかけて頼み込んだ。

数日後。ようやく風情ある邸宅で、光也との対面が叶ったのだ。

かつて、熱い生姜湯に息を吹きかけて冷ましてから口元へ運んでくれたその男は今、井山実奈(いのやま みな)の濡れた黒髪を、愛おしそうに笑いながら梳かしていた。

話が弾んだのか、光也は実奈の髪をひと房すくって指に絡め、ふと動きを止めた。

とろけるような優しさを湛えたその瞳には、実奈の姿だけが映っている。

やがて、翔に連れられて立ち尽くす鈴夏たちに気づき、実奈が驚いたように声を上げた。「お姉ちゃん!」

その声に引き寄せられるように、光也がようやくこちらへ視線を向けた。

「光也、実は鈴夏、ここ数日ずっとお前を探してたんだ。急ぎの用があるみたいだから、少し話を聞いてやってくれないか」

翔が間に入って説明するあいだも、光也は冷ややかに沈黙したまま母娘を見つめていた。

その視線が最後に止まったのは柚乃の、小さな姿だった。

光也の息が、一瞬だけ止まる。

記憶がよみがえったのだ。数日前、偶然出くわしたあの可愛い女の子――まさか、鈴夏の娘だったとは。

柚乃は光也を見上げると、ちょこんと愛らしくお辞儀をした。「おじさん、こんにちは!」

……

実のところ鈴夏は、最初から柚乃を連れてくるつもりはなかった。

数日前、この街の空港に降り立ったときのことだ。

目を離したほんのわずかな隙に、遠くから柚乃の泣き声が響いてきた。

声のする方へ目をやると、一人の男が、転んで泣きじゃくる柚乃をそっと抱き上げているのが見えた。

片膝をつき、優しく涙を拭ってやっているその横顔が、視界に飛び込んできた瞬間、鈴夏は時間が止まったような気がした。

この世で二度と会いたくない男、光也だった。

小さな傷にばんそうこうを貼ってやるその表情は、見たこともないほど穏やかだった。彼は迷子の案内カウンターまで柚乃を送り届け、館内放送が流れ始めるのを耳にすると、優しく手を振って去っていった。

遠くからその一部始終を見守っていた鈴夏の胸の奥で、何かが静かに揺れ動いた。

光也は柚乃が誰の子か知らない。それでもあんなに親切に、見知らぬ子どもの面倒を見てくれたのだ。もし自分の実の娘だと知ったなら、きっともっと大切にしてくれるに違いない。

――そう思えたからこそ、鈴夏の心に、かすかな希望が宿ったのだ。

不安を必死に呑み込みながら、鈴夏は娘の手を引いて一歩踏み出した。

「小野寺さん、少しだけ……お時間をいただけませんか」

小野寺さん……か。

か細い懇願の声が、冷え切った夜の空気を引き裂くかのようだった。

そして光也の胸の奥を、容赦なく鋭く抉った。

かつてベッドの上で、彼の腰に腕を回し、首筋にしがみついて、何度も何度も甘く囁いていた。光也、光也――と。

押し寄せる感情を、光也は強引に理性でねじ伏せた。

鈴夏の方を向くことも、その娘を見ることもせず、再び実奈の髪へと手を伸ばした。

「実奈、乾かすぞ」

一、二分が過ぎた頃、実奈は内心の動揺を隠しながら光也の手をそっと握り、優しく耳打ちした。「ねえ光也、もういいよ。お姉ちゃん、ずっと待ってるんだから」

実奈は華やかで、若々しく生き生きとしていた。

それに引き換え、鈴夏の色褪せたコートはくたびれており、その顔には深い疲弊と憔悴だけが張り付いている。生気をすっかり失い、今にも折れそうな枯れ枝のようだった。

光也は鈴夏を一瞥もせず、実奈だけを見つめて穏やかな声で言った。「生理中なんだから、きちんと髪を乾かさないと体が冷えるだろう。そうしたら腹痛がひどくなる」

あまりにも聞き慣れた言葉だった。

かつて光也は、鈴夏にもまったく同じ言葉をかけてくれていたのだ。

だが、あの甘い日々はとっくの昔に終わっている。

今日ここへ来たのは、ただ一つの目的のため。柚乃の行く末を託すためだけだ。

胸を抉るような痛みを押し殺して、鈴夏はただじっと待ち続けた。

髪が乾けば、時間を作ってくれると思っていた。

しかし光也はドライヤーをゆっくりと片付けると、実奈の頭をポンポンと優しく撫でて言った。「生姜湯を作ってくるよ」

そのまま、振り返りもせずにキッチンへと消えてしまう。

取り残された実奈が、申し訳なさそうに振り返った。

「お姉ちゃん、ちょっと待っててね。光也、五年前のこと、まだ引きずってるみたいだから……私が話してくる」

「ありがとう、お願い」

しばらくして、戻ってきたのは実奈一人だった。

「お姉ちゃん、ごめんね、もう少しだけ待ってて。光也は……まあ、あまり気にしないでやって。怒るのも、理由があってのことだから」

「大丈夫よ。もう少し待つわ」

キッチンからは、光也が一定のリズムでゆっくりと生姜を刻む音が、かすかに聞こえてきていた。

鈴夏はただ、待った。

数分後。湯気を立てる生姜湯のカップを手にして現れた光也は、やはり鈴夏に一瞥もくれず実奈の隣に腰を下ろし、熱い器を丁寧に息で冷ましながら、実奈へと差し出した。

立ちっぱなしで、鈴夏と柚乃の足の感覚は麻痺し始めていた。それでも光也には、母娘の存在など初めから見えていないかのようだった。

さすがに見かねた翔が、たまらず口を挟む。「光也、もう三十分以上待たせてるぞ」

「待ちたくなければ、勝手に出て行けばいい。俺が頼んだわけじゃない」

親友の顔を立てることもせず、光也の放った声は冷え切っていた。

五年前のわだかまりは、まだ少しも消えていないのだ。

鈴夏と、その隣にいる小さな娘に不意に視線を戻した瞬間、光也の端正な顔に暗い翳が落ちた。

「小野寺さん……」

構わない、もう少しなら待てると、鈴夏が言いかけたその時だった。

光也の手の中にあった器が、テーブルへと乱暴に置かれた。

ドン、と鈍い音が響き、汁が飛び散る。

その音が、柚乃の小さな体をビクッと激しく震えさせた。

鈴夏が刑務所に入り、柚乃が生まれて間もないころ、柚乃がひどい風邪をこじらせたことがある。手遅れになるまで気づけず、脳炎を引き起こしてしまったのだ。

炎症が聴覚神経を傷つけ、最善の治療時期を逃した結果、彼女は片方の耳の聴力を失った。

今は補聴器をつけているものの、その機械を通して聞こえる音は、正常な耳よりも何倍も大きく響いてしまう。

鋭い音と、突然険しくなった光也の表情に、柚乃の体は恐怖でこわばった。

見開かれた大きな瞳の中に、みるみるうちに怯えの色が広がっていく。

「ママ……こわい」

鈴夏の心臓が、ぎゅっと掴まれた。

彼女はすぐに娘を抱き上げ、震える頭をそっと撫でてやった。

「外で待ちましょう」

出ていく母娘の細い背中は、見ていられないほど小さかった。

しかし光也の胸に、すっきりとした感情など何ひとつ湧いてはこなかった。

むしろその背中を見るほど、顔の影が深くなっていった。

外は、冬の冷たい夜風が容赦なく吹きすさんでいた。

鈴夏は自分のコートを脱いで、柚乃の小さな体に巻きつけた。

柚乃が脱がそうとするのを、鈴夏はその小さな手をそっと押さえて微笑んだ。

「ママは寒くないよ。大丈夫だからね」

娘のためなら、この風も、この冷えも、何ほどのことがあろう。

がん細胞と闘っている自分が、これしきの仕打ちで倒れるはずがない。

大きなガラス窓の向こうでは、暖かな灯りの中、光也が実奈に優しく生姜湯を差し出しているのが見えた。

こちら側では、鈴夏がただ柚乃をきつく抱きしめながら、凍えるような夜風の中に立ち尽くしていた。

三十分後。ようやく光也が、鈴夏一人だけを書斎へと呼んだ。

鈴夏はリビングに柚乃を残し、しゃがんで目線を合わせると、静かに言い含めた。

「ここで待っててね」

書斎の中で、光也は鈴夏に背を向けて立っていた。窓の外に浮かぶ細い月と同じように冷たく、遠い。

「五分だ。用件だけ話せ」

ならば、余計な感傷は口にすまい。

過去のことも、胸を抉る痛みも、全部押し込めた。

鈴夏はまっすぐに切り出した。

「小野寺さん、突然来てごめんなさい。娘を、あなたに預けたいんです。あの子は、あなたの娘でもあるのだから」

時間がないのだ。伝えなければならない。

その言葉に、光也がゆっくりと振り返った。

その目には、氷のような冷たさと、剥き出しの疑惑が浮かんでいた。

「数日前に空港で、娘を使って俺の目の前で転ばせたのは、お前の仕組んだことか?」

「違います。本当に偶然だったんです」

「偶然?この街には数千万人の人間がいるというのに。毎日どれだけの偶然が起きてると思っている。なぜよりによって、俺の目の前でお前の娘が転ぶ?」

光也の声は、容赦なく続いた。

「百万に一つの偶然を、俺が信じるとでも思ったか?五年前にも同じことをしたな。妊娠したと言って、俺に取り入ろうとした。今度はその二の舞か?

こんなに急いで娘を押し付けようとするのは何故だ。まさか――難病にでもなって、もうすぐ死ぬとでも言うつもりか?」

冬の夜気のように冷え切ったその声が、鈴夏の心を木っ端みじんに砕いた。

光也がいったいどんな気持ちでそんな言葉を口にしたのか、鈴夏には分からなかった。

こんなにも軽々と「難病」や「死」といった言葉を投げつけられるとは。

それなのに、自分は本当に死に向かっているのだ。

内臓の奥から込み上げてくる痛みを必死に押さえながら、鈴夏は声を絞り出した。

「……肺がんのステージⅣです。残り、三ヶ月もないかもしれない」

これを聞けば、信じられなくとも、せめて一度だけ真剣に向き合ってくれると思っていた。

しかし光也の表情は、何一つとして変わらなかった。

返ってきたのは、身も凍るような冷ややかな嘲笑だけだった。

「ほう。五年前にお前が俺に何をしたか、まさか忘れたとは言わせないぞ。今度はどうやって俺を嵌めようとしている?

自分に呪いをかけるような嘘まで、平気でつけるようになったか。そんな嘘をついて、バチが当たって本当に難病になったとしても、俺の知ったことか」
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第1話
井山鈴夏(いのやま すずか)は二十九歳。肺がんのステージⅣを宣告された、シングルマザーだった。残りわずか三ヶ月という時間のなかで、娘にいったい何を残してやれるだろう。できる限りのお金を貯めること?写真をたくさん撮ること?手紙を書いておくこと?ビデオを撮ること?それとも――柚乃(ゆずの)を連れて、実の父親である小野寺光也(おのでら みつや)に会いに行くこと?でも光也は、もうすぐ別の女と結婚しようとしている。四歳の柚乃には、これから引き取って育ててくれる人間が必要だった。このまま身寄りがなくなれば、いじめや世間の冷たい視線に晒されるだけでなく、生きていくことすら難しくなるかもしれない。悩み抜いた末に、鈴夏は冬木市へ戻ってきた。人口二千万人を超えるこの大都市で、引っ越したうえに完全に連絡を絶った人間を探し出すのは容易なことではない。それでも鈴夏は光也の親友、桐島翔(きりしま しょう)に何日もかけて頼み込んだ。数日後。ようやく風情ある邸宅で、光也との対面が叶ったのだ。かつて、熱い生姜湯に息を吹きかけて冷ましてから口元へ運んでくれたその男は今、井山実奈(いのやま みな)の濡れた黒髪を、愛おしそうに笑いながら梳かしていた。話が弾んだのか、光也は実奈の髪をひと房すくって指に絡め、ふと動きを止めた。とろけるような優しさを湛えたその瞳には、実奈の姿だけが映っている。やがて、翔に連れられて立ち尽くす鈴夏たちに気づき、実奈が驚いたように声を上げた。「お姉ちゃん!」その声に引き寄せられるように、光也がようやくこちらへ視線を向けた。「光也、実は鈴夏、ここ数日ずっとお前を探してたんだ。急ぎの用があるみたいだから、少し話を聞いてやってくれないか」翔が間に入って説明するあいだも、光也は冷ややかに沈黙したまま母娘を見つめていた。その視線が最後に止まったのは柚乃の、小さな姿だった。光也の息が、一瞬だけ止まる。記憶がよみがえったのだ。数日前、偶然出くわしたあの可愛い女の子――まさか、鈴夏の娘だったとは。柚乃は光也を見上げると、ちょこんと愛らしくお辞儀をした。「おじさん、こんにちは!」……実のところ鈴夏は、最初から柚乃を連れてくるつもりはなかった。数日前、この街の空港に降り立ったときのことだ。目を離したほんのわずか
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第2話
五年前、鈴夏はとっくに真実を話していた。だが、彼は信じなかった。そして五年が過ぎた今、追い詰められた彼女は、もう一度だけ必死に言葉を絞り出した。「……光也。五年前、私は村瀬雅司(むらせ まさし)と寝てなどいません。ましてや彼と結託して、鈴野製薬の開発機密を村瀬製薬に流出させたなんて、絶対にあり得ないことです。私を刑務所に送ったのは冤罪です。そして柚乃は、間違いなくあなたの娘なんです」「俺のことをその名で呼ぶな。お前にその資格はない」憎悪をあらわにした光也は、証拠だけを信じる男だった。「証拠がすべて揃っている以上、誰も冤罪になど陥れていない」しばらくして、鈴夏はようやく残された力を振り絞り、華奢な背筋をまっすぐ伸ばした。心身の痛みをこらえながら、先ほどの礼儀正しい佇まいと、切実な哀願の面持ちを取り戻す。「小野寺さん、あの頃、柚乃はまだお腹の中にいて、証明する証拠はありませんでした。でも今なら、親子鑑定をお願いできるはずです。愛してほしいとか、かわいがってほしいとか、そんな身の丈に合わない願いは口にしません。ただ、食べさせて、学校に通わせて、無事に成人するまで生かしてあげてほしい。それだけでいいんです。私の言葉が信じられなくても構いません。息を吐くように嘘をつく狡い女だと思われてもいい。でも……どうかたった一度だけ、親子鑑定をしていただけませんか。お願いします!」その声は、消え入りそうなほど弱々しく、切実だった。言い終えると、鈴夏は急いでバッグから小箱を取り出し、光也の前に差し出した。「柚乃の髪の毛です」光也は、すぐには受け取らなかった。鈴夏は身を低くして箱を差し出し続け、言葉を尽くし、すがるように続けた。「柚乃は今年で四歳十ヶ月になります。予定日より半月遅れて生まれてきました。柚子が大好きで、蜂蜜漬けにするといくらでも食べてしまって飽きないところなんて、あなたにそっくりです。だから、柚乃と名づけました。本名は……井山柚乃といいます」柚乃という名は、かつて光也がつけたものだった。あの頃、光也は言っていた。もし娘が生まれたら、柚乃と名づけようと。柚子の花のように、凛として清らかで。その心がただ一途に、愛する人と繋がっていますように。その名を耳にした瞬間、光也の胸の奥から憎しみと痛みが波のように押し
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第3話
柚乃は以前、光也の写真を見たことがあった。ときどきママはその古びた写真をじっと見つめ、長い間ぼんやり眺めていたから。でもさっきのおじさんは、ほかの女の人を連れているだけじゃなく、氷みたいに冷たくて、すごく怖かった。「ねえママ、あたしのこと、いらなくなったの……?」小さな顔を必死に上げながら、涙がぽろぽろとこぼれそうになった。ママが、写真のおじさんにあたしを預けようとしている――子ども心にそう察し、柚乃はこんなにも怖くてたまらなかったのだ。すぐにママの足にぎゅっとしがみつき、顔を上げ、必死に哀願した。「ママ、あたしを捨てないで!ケーキもチョコも、もう欲しいなんて言わないから。朝も絶対遅刻しないから。もうワガママ言わないから……だからお願い、置いていかないで」幼く必死な声が、鈴夏の胸を引き裂いた。しゃがみ込んで娘を抱きしめた時、彼女の張り詰めていた糸はもう限界だった。二人は夜の道端で抱き合ったまま、声を上げて泣いた。しばらくして、鈴夏はようやく気力を取り戻し、震える指で娘の涙を優しく拭ってやった。でも自分が死んでしまったら、もう二度とこの子の涙を拭いてあげることはできない。込み上げる嗚咽を必死に胸の奥へ押し込み、できるだけ穏やかに、優しい声で囁いた。「捨てたりしない。捨てるわけがないでしょう。ママは柚乃のことが世界で一番大好きなんだから」でも今回は……約束を破ることになる。一度だって柚乃に嘘をついたことなどなかったのに。最初で最後の嘘が、この世を去ることだなんて。娘をこの冷たい世界に一人残して、孤独に生きさせることだなんて。翌日、柚乃は幼稚園の転園手続きを済ませた。年中組の柚乃は、登園時のぐずりはとっくに卒業していた。これまでも転園するたびに、すぐに馴染んでいた。でも今回だけは、手続きを済ませて新しい担任の先生に連れられていく時、何度も何度も振り返った。最後にピタリと立ち止まり、不安でいっぱいに揺れる瞳で鈴夏を見つめる。「ママ、今日のお迎え、絶対に来てくれる?」その言葉を聞いた瞬間、鈴夏は鼻の奥がじんと痛くなり、喉が詰まり、息すらできなかった。柚乃はまだ恐れていたのだ。捨てられることを。鈴夏は思い切り力強く頷いた。「もちろん。ママが一番最初にお迎えに来るからね。約束する。
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第4話
自分の言葉など、もはや何の意味も持たなかった。もし本当に自分が大切な存在であったなら、五年前、彼が井山泰弘(いのやま やすひろ)と結託して自分を刑務所に送り込んだりするはずがなかった。「小野寺さん、私の言いたいことは変わりません。あなたの今の生活を乱すつもりは全くないし、鑑定結果がどうであれ、あなたと実奈の関係を壊そうなんて思っていません。ただ、柚乃のことを少しだけ助けていただけたら、それだけでいいんです」他人行儀なその声が、鈴夏と光也の間に、はっきりと冷たい境界線を引いた。光也はそれを鋭く感じ取った。「鈴夏、俺を恨んでいるのか?」「…………」鈴夏は静かに、深く息を吸い込んだ。過去の記憶が胸に押し寄せる。その痛みを心の奥底に押し込めて、「過ぎたことは、もういいんです……」と呟いた。疎遠な、それでもかすかな哀願を帯びた声で続ける。「ただ、鑑定結果を早く教えていただけると助かります」「…………」光也は何と返していいかわからなかった。しばらくの沈黙の後、スマホを取り出す。「連絡先を交換しよう。後で何かあった時のために」しかし鈴夏は、スマホを取り出そうとはしなかった。光也が画面に表示したQRコードをちらりと見て、淡々と言い放つ。「結構です。結果が出たら、翔さんに伝えてください」出所したあの日のことを、今でも鮮明に覚えている。二歳の柚乃を抱えて、街に立ち尽くした。一文無しで、頼れる場所もなく、帰る家もなかった。光也を頼って訪ねて行けば、彼はとうにどこかへ引っ越していて、彼女の連絡先はすべてブロックされていたのだ。翔を通じて残された荷物が返され、ただ一言だけ伝言があった。――鈴夏、光也はもうお前に会いたくないそうだ。これ以上追いかけてくるな。あの時、翔はたくさん慰めてくれた。でも何も耳には入らなかった。ブロックされ、完全に拒絶されたという事実だけが、頭の中で冷たくこだましていた。あの時すでに断ち切られた縁を、今さら繋ぎ直す必要などない。ちょうどその頃、園児たちが続々と帰り始めていた。まだ迎えの来ていない子たちが、まばらに残っている。鈴夏は柚乃を呼び寄せた。「もう園が閉まる時間だから。小野寺さん、先に失礼します」柚乃の小さな手を引きながら、そっと娘を見下ろした。柚乃は空気を察したように、光也に
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第5話
夜の七時。夜風が吹きすさぶ中、一台の黒いセダンが鈴夏母子の前に止まった。冷たい風の中、鈴夏は柚乃をぎゅっと抱き締める。車から降りてきた翔の顔を見た瞬間、胸を突き動かされ、思わず駆け寄った。「翔さん、もしかして、鑑定の結果が出たんですか?」光也が翔に頼んで会いに来たのだ。きっと結果が出たに違いない。光也が最も信頼する親友である翔なら、経緯も知っているはずだ。鈴夏は一筋の希望の光を見た気がした。全身の血が熱くなるような感覚があった。結果が出れば、柚乃が光也の実の娘だと証明される。自分が死んだ後も、この子が一人ぼっちになることはない。深い安堵と想いがあふれ、気づかぬうちに涙がこみ上げていた。抑えようとしても、抑えきれなかった。熱い雫が、柚乃の額に落ちる。柚乃は顔を上げ、小さな手でママの涙を拭ってやった。長い睫毛の下の大きな瞳が、心配そうに揺れている。「ママ、どうして泣いてる?悲しいの?」「違うよ」鈴夏は首を振り、もう一度柚乃の額に深くキスをした。「ママは嬉しくて泣いてるの。嬉しいんだよ!」その時、車のドアを開けようとしていた翔の動きが、ふと止まった。手をドアから離し、冬の風に髪を乱された母子をじっと見つめる。寄り添い合う大小二つの背中があまりに痛々しく、胸が締めつけられる。「鈴夏、鑑定の結果ってどういうことだ?」悲しみと喜びの入り混じった涙を見れば、ただごとではないとわかる。視線が、鈴夏の腕の中の柚乃に落ちた。「まさか……柚乃が本当に光也の娘なのか?」この話は、鈴夏が妊娠していた頃に、光也とすでに一度ひどく揉めていた。あの時の光也は、子どもが自分の子だとどうしても認めようとしなかった。翔は何度も光也を諭した。雅司との癒着を示す証拠がすべて鈴夏を指していたとしても、彼女の恋人なのだから最後まで信じてやれと。しかし、光也には届かなかった。鈴夏が涙をためながら頷くのを見て、翔は深く嘆息した。風が強く吹きつけて、母子の影がいっそう細く揺れる。翔は急いでドアを大きく引き開け、風よけにしながら言った。「乗ってから話そう」車内で、翔はどう口火を切ればいいかわからなかった。光也と鈴夏のすべてを、翔は隣で見てきたのだ。聞けば、彼女の古傷を抉ることになる。聞かなければ、この二人のこ
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第6話
光也が柚乃の実の父親のはずなのに……?柚乃を抱きしめたまま、鈴夏は震える片手でその紙を拾い上げ、何度も、何度も読み返した。【小野寺光也が井山柚乃の生物学的父親であることを否定する】その無機質な一行が、鈴夏の全身を駆け巡り、頭に血が上った。手足の力が抜け、思考が真っ白に染まっていく。井山、小野寺両家の人々が集まってきて、床の鑑定書を拾い上げ、それぞれ読み始めた。ざわめきが大きくなるにつれ、鈴夏の頭はさらに混乱した。皆がそれぞれの思惑を持って母子を眺め、責め立てる声が上がり始める。「実奈と光也はもう結婚するんだ。今さらこんな茶番を仕掛けて、恥ずかしくないのか」「その子は村瀬との子でしょう。また光也に押し付けようとして、二人の仲を壊したいわけ?」腕の中の柚乃がますます縮こまった。鈴夏は急いで娘を抱き上げ、憎悪に満ちた目で自分を見下ろしている光也を見つめ返した。「光也、結果はおかしいんです。柚乃は絶対にあなたの娘です!柚子の蜂蜜漬けが大好きで、落花生アレルギーで、あなたみたいに物覚えが良くて、絵を描くのが好きで。二歳の時から簡単な絵を描いていて、今はもうスケッチができるんです。ネギとパクチーが嫌いなのも、あなたとそっくりで……結果は絶対に間違いです。別の機関でもう一度やり直してください。お願いします……」母親の必死の哀願を、柚乃はじっと聞いていた。長い睫毛の奥が、じんわりと濡れている。小さな手がそっと鈴夏の涙を拭った。「ママ、泣かないで。柚乃、パパなんていなくていい。ママだけいればいい」その健気な言葉が、鈴夏の哀願をさらに駆り立てた。しかし懸命な声は、冷酷な怒声に叩き切られた。「もういい!」鈴夏は咄嗟に柚乃の耳をそっと両手で塞いだ。これ以上、この子を傷つけたくなかった。光也は深い失望と怒りをあらわにして鈴夏を見た。「鈴夏、数日前にお前が来た時、俺は自分を責めた。誤解してたんじゃないか、間違いだったんじゃないかって。お前に申し訳ないとすら思った。万が一のないよう、翔にも言わずに俺自身で柚乃の髪を鑑定に出した。念のため、複数の鑑定機関に回したけど、それでも全部同じ結果だった。柚乃は、俺の娘じゃない。余命が短いだと?全部でたらめだ!どうせ村瀬家と手を組んでうちの機密を奪うための、新しい芝居だろ
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第7話
鈴夏の足が、個室の入り口で一瞬だけ止まった。ほんのわずかな間。それでも、彼女が振り返ることはなかった。再び歩き出した足取りは、先ほどよりもずっと毅然として、揺るぎないものだった。光也はその背中を、いつまでも目で追っていた。愛と憎しみが入り混じり、胸の奥で激しくざわめいて、どうしても収まらなかった。……芙蓉の間の個室がようやく静まり返ったのは、それから三十分後のことである。その夜の食事会は、最悪の結末を迎えた。翔は他の者たちを帰らせ、光也だけを引き止めた。落ち着いて話がしたかったのだ。だが、今の光也には話を聞く気力すら残っていないようだった。翔がいくつか言葉をかけても、何一つ返事は返ってこない。「実奈との結婚、本当に五月に繰り上げるつもりなのか?」翔は光也の肩にそっと手を置いた。光也は我に返ったように、「ああ」とうわの空の返事をした。その眉間には深い皺が刻み込まれている。翔は胸を痛めた。「お前がそこまで苦しんでいるのは、鈴夏のことが忘れられないからだろ。この五年間、鈴夏が妊娠して、刑務所に入って、出てきて、一人で柚乃を育てて……お前が心から笑えた日が、ただの一度でもあったか?光也、愛が深いほど憎しみも深くなる。だから自分を見失うんだ」光也は顔を上げ、翔を鋭く睨みつけた。「誰が苦しんでいるって?」実奈がいる。こんなにも献身的な実奈が、傍にいるじゃないか。事故に遭った後、実奈は不眠不休でつきっきりで看病してくれた。大江寺でお百度参りをしながら、お守りを求めてきてくれた。そうして自分は奇跡的に意識を取り戻したのだ。その後も、人生で最も暗く苦しい時期を実奈と共に乗り越え、車椅子から立ち上がることができた。それなのに、実奈と一緒にいても、心のどこかに満たされない空洞のようなものがあった。翔は言葉に詰まった。深く息を吐き出し、もう一度光也の肩を叩く。「光也、恩義と愛情は別物だぞ。実奈がどんな人間かは、俺には評価できない。評価する資格もない。でも一つだけ言える。鈴夏が突然お前を訪ねてきたのは、必ず深刻な理由があるはずだ。もし癌だというのが本当だったら。もし本当にいなくなってしまったら――今日お前がやったこと、絶対に取り返しがつかないぞ」光也は椅子に座ったまま、翔の言葉を黙って聞いてい
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第8話
三十分後、光也は一人で鈴夏に会いに行った。その時、鈴夏はあるカフェで弁護士と打ち合わせをしていた。相手は高校時代の同級生、三谷一紀(みたに かずき)である。一紀はかつて、鈴夏に密かに想いを寄せていた。しかし鈴夏と光也は幼馴染みで、互いに深く惹かれ合っていたため、彼には告白する機会すらなかった。それから長い時が流れ、再会した時、鈴夏は出所して重い病を抱え、残り少ない命で娘の行く末を託そうとしていた。一紀はその間に所帯を持っていた。深く愛し合っているとまでは言えなくとも、穏やかに寄り添える妻がいた。鈴夏から事務所への依頼書を読んだ時、一紀は胸を締め付けられた。だからこそ、所長である彼が自ら足を運んだのだった。鈴夏が紫のトルコキキョウを好きだったことを覚えていた一紀は、一束を買って持参していた。「鈴夏、良くなってほしい」「資料を見てくれたでしょ。もう、助からないんだよ……」鈴夏は悲しみを押し殺し、無理に笑顔を作ってみせた。「三谷先生、さっそく本題に入りましょう。もし相葉さんご夫婦が最終的に柚乃を引き受けてくれるなら、どんな手続きが必要になりますか」「昔みたいに、一紀でいいよ」「……うん、わかった」久しぶりに会う懐かしい顔に、鈴夏は残酷な運命をひとしお強く感じていた。「鈴夏、この養子縁組の手続きは、少し難しい。柚乃の親権者である君が、一方的に養子に出すことはできないんだ。できるのは、君が……」「死亡」という言葉を、一紀は口にできなかった。こんなに若く美しい鈴夏が、どうして死ななければならないのか。精一杯の化粧をして今日ここへ来た鈴夏だったが、一紀にはその瞳の奥に確かな死の翳りが見えた。「遺言書を作っておけば、その時が来た後で……養子縁組の手続きを進められる。鈴夏、この件は俺が必ず力になるから」「一紀、ありがとう」その時、光也はカフェの入り口に立っていた。鈴夏と一紀の会話までは聞こえなかった。ただ、二人が打ち解けた様子で親しげに話しているのが見えた。鈴夏が何度か、柔らかく微笑むのも見えた。一紀が鈴夏に、彼女の好きな紫のトルコキキョウを手渡すのも見えた。一紀は鈴夏に力を貸したかった。でも生死という壁の前では、彼にも為す術がなかった。帰り際、一紀は鈴夏を労わるように軽く抱き
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第9話
端正な顔に冷酷な表情を浮かべた光也の言葉には、本人すら気づいていない嫉妬の棘が混じっていた。一紀という男のことはよく覚えていた。ずっと昔から鈴夏に想いを寄せていた男だ。今では法曹界で名の知れた弁護士になっている。もう妻帯者のはずだが。「実の娘まで捨てて、あいつの愛人にでもなるつもりか。そんなに可愛い娘なのに……なぜ産んだんだ」パシッ。乾いた音が響いた。鈴夏は光也の頬を思い切り張り飛ばした。「光也……最低!」親子鑑定書を鵜呑みにし、鈴夏の必死の哀願を無視し、柚乃を認めようとしなかったのは光也自身だ。鈴夏を絶望の淵まで追い詰めて、里親を探すしか道を残さなかったのも光也だ。それでいて、こんな非道な侮辱ができるのか。放った平手打ちには、残されたすべての力が込められていた。力を使い果たした鈴夏の体が、小刻みに震えだす。傍のテーブルに手をついて、かろうじて立ち続けていた。「あなたのことは……一生許さない」かすれた声が、空気を引き裂いた。そして、光也の心をも。細く頼りない体が最後の気力を振り絞るように、ふらつく足取りで遠ざかっていく。光也は打たれた左の頬にそっと手を当てた。今の言葉は、本来なら自分が彼女に言うべきものだった。遠ざかる鈴夏の後ろ姿を目で追いながら、光也の胸の中で愛と憎しみが激しく絡み合い、いつまでも収まることはなかった。火曜日の朝。鈴夏は画廊を訪れていた。担当のエージェントが柚乃の絵を何枚か見て、ぜひ委託契約を結びたいと言ってきたのだ。「抽象画は柚乃の名前でお預かりできます。でも、この人物画だけは」それは柚乃が描いた、二十九歳の鈴夏の絵だった。誕生日プレゼントとして贈ってくれた、かけがえのない一枚だ。鈴夏はその絵だけを持ち帰り、他の作品の契約を済ませた。帰りがけに、一本の電話が入った。相葉さんからだった。「柚乃ちゃんのお母さん、本当に申し訳ないんですが……うちではもう、柚乃ちゃんをお引き受けできなくなってしまって」鈴夏の胸が嫌な音を立てた。「どうしてですか、柚乃のことが好きだって言っていただいたのに」「柚乃ちゃんの、耳のことが……」「それはご存じでしたよね、最初から。それなのに急に……」「義母がそれを理由に、死んでも許さないと騒ぎ立ててしまって。本当に
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第10話
光也が振り返り、ひどく冷たい目で鈴夏を見た。春先の三月、まだ肌寒い風が吹き抜けていた。風の中、鈴夏は乱れた髪を手で押さえた。蒼白な顔には、背水の陣の覚悟が浮かんでいた。「五年前、宇野(うの)先生が亡くなる間際に、鈴野製薬の開発機密の中核となる配合データを持ち去りました。そのデータが、今、私の手元にあります。光也、柚乃が十八歳になるまで後見人として育てて、信託を組んで財産を確保し、成人後に渡すと約束してくれるなら……その配合式を、あなたに渡します」もう他に道は残されていなかった。相葉夫婦が突然心変わりした。柚乃の耳のことがある以上、すぐに別の里親が見つかるとは到底思えない。頼れる最後の希望は、やはり光也しか残っていなかったのだ。二人の間には、数歩の距離があった。光也はゆっくりと近づいてきた。鈴夏の目の前まで来ると、その表情は陰鬱で険しいものだった。「なぜ俺が信じると思う。その配合式が本当にお前の手にあるなら、村瀬製薬の特効薬はとっくに製品化されているはずだ」鈴野製薬グループは、特定の癌を治療できる特効薬の研究開発を長年続けていた。前の世代から受け継ぎ、すでに二十年近い月日を費やしてきた悲願の事業だ。五年前、ついに成果が見え始めた矢先、コア配合式が盗み出された。しかし盗まれた後も、ライバルである村瀬製薬に目立った動きはなかった。おそらく宇野先生が死の間際に配合式を死守したのだろうと、光也は推測していた。そうでなければ、村瀬製薬はとうに大成功を収めていたはずだからだ。「……」核心を突かれ、鈴夏は黙り込んだ。配合式そのものは持っていない。ただ、配合式に繋がる手がかりがあるだけだ。でも、光也は信じない。しばらく考えた後、鈴夏はバッグの中から一枚の絵を取り出した。「これを見てほしいんです。私の二十九歳の誕生日に、柚乃が描いてくれた絵です」額縁もない、むき出しの肖像画を光也が受け取った。光也には非凡な絵の才能があった。デッサンも油絵も水墨画も、どれにも独自の個性があった。中でも人物画を最も得意としていた。柚乃も、まったく同じだった。光也が絵に見入っている間に、鈴夏は最も触れたくない過去の記憶を口にした。「光也、覚えてる?私が十八歳の時、あなたが私の肖像画を描いてプレゼントしてくれたこと。あの時
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