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第5話

Author: 緋色の追憶
目を覚ますと、視界には病室の白さが広がっていた。

下腹部はひどく虚ろで、そこに宿っていたはずの、ささやかな命の鼓動は完全に消え失せていた。

そっと手を伸ばして自分のお腹に触れてみる。平坦で、ひどく冷たかった。

ドアが開き、風哉が姿を現した。彼はベッドの傍らに立ち、複雑な眼差しで陽翠を見下ろしている。

「……子供は、駄目だった」彼が短く告げた。

目尻から一筋の涙が溢れ出し、枕にじわりと吸い込まれていく。

声を上げることもなく、陽翠はただ静かに涙を流し続けた。

まだ形さえ成していなかった我が子も、あの淡い水色のロンパースを着せる未来も、すべて失われてしまった。

風哉は数秒の沈黙の後、口を開いた。「ひどい出血だった。ここに運ばれた時には、もう手遅れで……あの時、どうして避けなかったんだ?」

陽翠はゆっくりと首を巡らせ、彼を見つめ返した。

「……あなたが、私を突き飛ばしたんじゃない」その声はひどく掠れ、乾ききっていた。

風哉は眉間に深い皺を刻んだ。「俺は、お前を助けようとしたんだ」

そして、彼の声には抑えきれない怒りが滲み出し始めた。「医者の話では、お前は倒れるとき、背中が地面に着いたそうだな」

陽翠は目を見開いて彼を直視した。「……どういう意味?」

「碧泉が言っていた。お前が後ろへ倒れ込んだ時、本当なら踏みとどまることができたはずなのに、お前は故意に……」

風哉はそこで言葉を切り、深く息を吸い込んだ。「悠和は、今も臍帯血を待っているんだ。あの子の病状がどれほど深刻か、お前は分かっているのか?」

病室は、ぞっとするほどの静寂に包まれた。

陽翠はゆっくりと上体を起こし、ベッドの背もたれに身を預けた。

彼女は目の前の風哉を見つめた。十数年もの間、ただひたすらに愛し続けてきた男。そして、自分自身の夫。

「私が、わざとやったと……そう言いたいのね」陽翠は静かに呟いた。

「そこまでは言っていない」

「でも、そう思っているんでしょう」

陽翠はふっと笑みをこぼした。だが、皮肉にもその瞬間に涙はさらに堰を切って溢れ出した。

「風哉……あれは、私の子なのよ。私のお腹の子供が死んだというのに、あなたが真っ先に口にしたのは、私がわざと転んだという疑いだなんて……」

風哉は視線を逸らした。「俺はただ、事実を口にしただけだ」

「事実って、何よ」陽翠の声が激しく震え出す。

「事実はあなたが碧泉と悠和を助けようと飛び出してきて、私を突き飛ばしたことよ!私は冷たい地面に叩きつけられて、血まみれになっていたのに、あなたは最後まで私を見向きもしなかった。

そして今の事実は……私の子供が死んで、あろうことかあなたが、私が故意に殺したのかと冷酷に問いただしていることよ!」

「……もういい、やめろ」

風哉は苛立たしげに彼女の言葉を遮った。「起きてしまったことは、今さらどうしようもない。これ以上喚いたところで何の意味もないんだ。今日はゆっくり休め。また後で様子を見に来る」

ドアが静かに閉まり、再び病室には重苦しい静寂が落ちた。

陽翠は背もたれに寄りかかったまま、窓の外の鉛色に沈んだ空をただぼんやりと見つめていた。

下腹部からは、波打つような鈍い痛みが絶え間なく伝わってくる。だが、心をズタズタに引き裂かれるようなこの絶望的な痛みに比べれば、些細なものだった。

先ほどの風哉の眼差しが脳裏をよぎる。

そこにあったのは、疑念。失望。そして、身勝手な怒り。

ただの一つとして、そこには「罪悪感」の欠片さえ存在していなかった。

午後、看護師が点滴を交換して部屋を出て行った直後、不意にドアが押し開けられた。

悠和が隙間からこそこそと顔を覗かせ、病室に潜り込んできた。その手には、正体不明の小さなボトルが握られている。

「……どうしてここにいるの?」陽翠は上体を起こした。

「ママは下でお金払ってるから、僕一人で来た」

悠和は小首を傾げて彼女を見つめた。その瞳には、無邪気で残酷な悪意がちらついていた。「陽翠さんが、僕を助けてくれない悪い人なんでしょ?」

陽翠は言葉を失った。

「ママが言ってたよ。陽翠さんのお腹の赤ちゃんが僕の病気を治してくれるはずだったのに、わざと転んで、赤ちゃんを殺しちゃったんだって」

悠和はじりじりとベッドに近づいてきた。「どうして僕を助けてくれない?僕のこと、嫌いなの?」

「そんなこと――」

「絶対そうだよ!」悠和は突然、手にしていたボトルを振り上げると、蓋をひねって開け、陽翠の点滴筒めがけて中身をぶちまけた。

得体の知れない液体が点滴筒の周囲に飛び散り、ポタポタと落ちる薬液の中に混入していく。

危険を察知した陽翠は、咄嗟に手の甲に刺さっていた点滴の針を乱暴に引き抜いた。瞬時に血が流れ出す。

「何をするのっ!」

悠和はその剣幕にビクッと身をすくませたが、それでも生意気な口答えをした。「お薬にオマケしてあげたんだよ!陽翠さんも病気になっちゃえ!」

陽翠は血の滲む手の甲を押さえながら、点滴筒の中に目を落とした。そこにあるはずの透明な薬液は、すでに不気味な濁りを帯びていた。

彼女は血相を変えてナースコールを連打した。

ナースステーションから駆けつけた看護師は、床に転がるボトルと濁りきった薬液を見るなり、顔から血の気を引かせた。「これは……一体何を入れたんですか?」

「分からない……」陽翠も蒼白な顔で答えた。「この子が、突然ぶちまけて……」

看護師は慌てて点滴のルートと薬液をすべて取り外し、陽翠の身体に異常がないかを確認した。「気分が悪いところは?息苦しさはありませんか?」

陽翠は首を横に振った。

その騒ぎの最中、風哉と碧泉が血相を変えて病室に駆け込んできた。

「悠和!」碧泉は悠和をきつく抱きしめた。「どうしてこんなところにいる?ママ、あちこち探し回ったのよ!」

悠和は陽翠を指差し、泣きそうな顔を作った。「陽翠さんが僕を怒鳴ったんだ!ひどいよ!」

風哉は床に転がる開いたボトルに目をやり、それから陽翠の手の甲に滲む血と、すっかり取り外された点滴の器具を交互に見て言った。「……何があった?」

「あの子が、私の点滴に得体の知れないものを混入させたのよ」陽翠は、恐ろしいほど静かな声で答えた。

碧泉はさっと顔色を変え、悠和を覗き込んだ。「あなた、何を入れた?」

「……僕の、ジュース……」悠和がモゴモゴと小声で弁明する。

看護師が床のボトルを拾い上げ、匂いを嗅いだ。「……フルーツジュースのようです。ですが、何であれ患者の点滴に異物を混入させるなんて、一歩間違えば命に関わる非常に危険な行為です」

碧泉はみるみるうちに目を赤くし、悠和を抱き抱えたまま陽翠に向かって深々と頭を下げた。

「ごめんなさい、本当にごめんなさい!悠和に悪気はなかった、ただの子供の悪戯で……!陽翠、体調に異常はない?大丈夫?」

風哉もベッドへ歩み寄り、陽翠の手の甲をちらりと見て言った。「……大丈夫か?」

「……ええ」陽翠は短く返した。

風哉は悠和に振り返り、父親のように厳格な口調で言った。「悠和。二度とこんないたずらをしてはいけない。分かったな?」

悠和は不満げに唇を尖らせた。「だって、陽翠さんが僕を助けてくれないから……」

「悠和!」碧泉は慌てて悠和の口を塞ぎ、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。「もう言わないで……!ママが悪い、ママのしつけがなっていなかったせいで……」

彼女が縋り付くように泣き崩れるのを見て、風哉の厳しかった表情が途端に柔らかく緩んだ。

「……もういい」彼は陽翠に向き直り、突き放すように言った。「まだ分別もない子供のやったことだ。お前に怪我がなかったのなら、それでいいじゃないか」

陽翠は彼の顔を見つめ、不意に、すべてがひどく滑稽に思えてきた。

「ねえ、風哉」彼女はゆっくりと唇を動かした。「もし今日、このベッドで点滴に異物を混入されたのが碧泉だったとしても……あなたは、同じ言葉を口にするの?」

風哉の顔が途端に険しく沈み込んだ。

「お前は、自分の腹を痛めた子供でさえ、平気で見殺しにできるような女だろう」彼は陽翠の目を冷酷に射抜いた。

「そのくせ、他人の子供のちょっとした悪戯にそうやって目くじらを立てるのか。陽翠……お前には、母親としての情愛や、思いやりの欠片すら残っていないのか?」

陽翠は、もう何も言い返さなかった。

彼女はただ彼を見つめていた。その瞳は、すべての感情が削ぎ落とされた、底の知れない暗い淵のように、不気味なほど静まり返っていた。

風哉はその異様な静けさに居心地の悪さを覚えたのか、ふいっと視線を逸らした。「……頭を冷やして休んでいろ。看護師を呼んで、針を刺し直させる」

彼は悠和を抱き上げると、背を向けて病室を出て行こうとした。

ドアが閉まる間際、悠和が風哉の肩越しに振り返り、陽翠に向かって勝ち誇ったように「あっかんべー」と舌を出した。

パタン、と無情にドアが閉まる。

陽翠は視線を落とし、手の甲からじわりと滲み出した血が、小さな赤い花が綻ぶように広がっていくのをぼんやりと見つめていた。

戻ってきた看護師が再び針を刺しながら、気の毒そうに吐息をついた。「……旦那様、あんまりじゃありませんか。あの子、点滴に異物を入れるなんて……一歩間違えれば命に関わるかもしれないのに、あんなふうに事も無げに済ませてしまうなんて」

陽翠は沈黙したままだった。

看護師はやりきれない様子で首を振ると、処置を終えて静かに病室を後にした。

病室には、再び彼女ひとりだけが取り残された。
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