Mag-log inカイルはエマの言葉にしばらく固まっていた。
けれどようやくエマの言葉を正しく理解したのか、途端に眉根を寄せてあからさまに声を詰まらせた。 「何を、言ってるんだ? 君は」 「あなたが帰って来なかったから言うタイミングを失っていたのよ」 「タイミングを失っていた? 正気か? 君はもう僕の妻だぞ? それに君がそんな事をしたら、僕たちの夫婦仲を疑われかねないじゃないか。それは僕の、引いてはグランツ家の恥になるんだぞ?」 「そんな事にはならないわ」 「そうかな? 僕はそうは思わない。そもそも妻は常に夫の側にいるべきだし、何よりも君はもうグランツ家に嫁いできたんだから仕事なんてしなくていいはずだろう? それは妻がするべき事じゃないはずだ。疲れた。この話はもうしたくない」 それだけ言ってカイルは夫婦の部屋を後にした。 カイルの言葉と態度にエマは目を見開いた。彼の言い分がまるで妻さえいれば良いという風に聞こえたからだ。 エマは結婚の為にほとんどの物を捨てた。キャリア、学歴、進学、期待されていた将来。そのどれも捨てたのだ。それは偏にカイルと結婚する事が嬉しかったから。 もちろん家の援助をしてくれた事もあったけれど、それ以上にエマはカイルを愛していた。この人と一緒になれるのならば、他の何を手放しても構わないとさえ思っていたのだ。 エマは震える拳を握りしめて深く息を吐いた。 エマはカイルにとって、ただ都合の良い妻でいればそれで良かったのだろう。数日後、エマに速達で実家から手紙が届いた。そこには突然カイルから父の治療費の為に、と多額のお金が振り込まれたという感謝の連絡だ。
どうして突然? そんな思いがエマの脳裏に浮かぶ。 カイルはいつも決まった日に決まった額をエマの実家に送金してくれるが、こんな事はこの三年間の中でただの一度も無かったからだ。 不思議に思ったエマは貴族の議会に出席する直前だったカイルを捕まえて、その事を尋ねてみた。 「ねぇ、母様からこんな手紙が届いたんだけど……」 あの言い合いから二人の間に会話という会話はなく、明らかにカイルはエマを避けていた。 それはまるであの時の話を完全に無かった事にするかのように。いつかこの関係を修復する事が出来るのだろうか。そんな事を考えていた矢先に、今回の出来事である。 カイルが何を考えているのか、エマにはもうさっぱり分からない。 エマが差し出した手紙をちらりと見たカイルは、鏡を見ながらクラバットを整え、こちらを見もせずに言う。 「ああ、あれか。君が仕事を続けている理由を潰せば、君にもグランツ家の次期当主の妻だという自覚が湧くかと思ったんだ。それにこの屋敷を出なければならないほど過酷な仕事だと言うなら、そんなものは辞めてしまえばいい。君とその家族を養うぐらい、僕一人でも十分だからな」 当然だとでも言うかのようにそんな事を言うカイルに、エマは言葉も無いまま立ち尽くした。 そこへ、誰かが夫婦の寝室のドアをノックする。 それに気付いたカイルは時計を見て相変わらずエマとは視線も合わさずに部屋を出た。 廊下から聞こえてくる話し声の相手は女性だ。クロエの声に似ているような気がしてエマはその場に思わず縫い留められる。 カイルの返事はエマと話していた時とは打って変わって随分と明るい。 どうして自分と話す時はいつも喧嘩腰なのに、クロエにはそんなにも楽しそうに話しかけるのか。 そんな出来事があった数日後、エマは執事のイーサンと共にカイルの収支を書類にまとめる作業をしていた。 「凄いわね……これは何年分?」 「約1年分ですね。本当ならもっとこまめにすべきなのですが」 疲れ切った顔でそんな事を言うイーサンにエマは苦笑いして労うと、ついでに過去の書類の整理をし始める。 そこにあったのは丁度三年前からのもので、エマとカイルが結婚した日など物凄い額が動いてる事に驚いてしまう 作業を手伝っている中で、エマはふと一枚の書類を見つけて手を止めた。 書類はカイルから留学中のクロエに宛てて送金した際の手書きの証書だ。 『なに、この額……』 その額にエマは思わず手を止めて書類に見入ってしまったが、ふと気づいて他にも無いか探していると、この三年間の間に実に5回もクロエに送金されていた事が分かった。 カイルがエマの実家に仕送りをしてくれた額はせいぜい1千万ほどに対し、クロエの元には億にも届きそうなほどの金額が支払われている。 『……嘘でしょ……?』 その時だ。イーサンが突然動きを止めたエマを不審に思ったのか、エマの手元の書類を覗き込んできたかと思うと、その書類をエマの手から取り上げた。 「失礼しました。奥様、こちらはもう大丈夫ですので、どうぞ今日はゆっくりお過ごしください。せっかくのお休みなのですから。お手伝い頂きありがとうございました」 「……ええ……そうね……」 半ば無理やり部屋から追い出されたエマは、ただ呆然と自室に戻ってソファに座り込んだ。エマの反応がやけに薄い事に気付いたのか、カイルが訝しげな顔をしてエマを覗き込んできた。「気に入らないのなら、別の物を買う。何がいいか言ってくれ」その言葉にエマは小さく首を振った。「いいえ。これでいいわ。ありがとう」 小さな声で呟いたエマに満足したのか、カイルは尊大に頷いてエマを馬車に乗せてくれたが、エマの胸中は穏やかではない。 けれど、カイルの真意はどうあれエマの為にプレゼントを選んで買ってきてくれた事は素直に嬉しいので、もしかしたらカイルも今の状態を嘆いていて、エマとの関係を良くしようとしてくれているのかもしれないと思うと、そんな考えはどこかへ行ってしまった。 学生時代は二年上のカイルに密かに恋心を抱いていただけのエマだったが、まさかこんな関係になるなどとは思ってもいなかった。だからこそ、この結婚が決まった時は絶対にカイルを大切にしようと思ったし、カイルにも家や借金とは関係なく愛されたいと願っていた。 この三年間の間でカイルの言葉や態度は酷くエマを傷つけてきたけれど、こんな事をされると不意にあの時の気持ちが蘇ってきて胸を締め付ける。 屋敷へ戻ってドレスに着替えたエマは、いつも通りの時間に食卓についた。隣にはカイルが座っており、向かいに座る両親と何やら真剣な表情で話し込んでいる。内容はグランツ家の事業と、国の議会の事だ。「——ですから、その決断をするにはまだ時期尚早かと」「切るのは早い方がいい。売上が上がらないのであれば、即座にその会社は畳むべきだ」「ですが——なんだ?」カイルが言葉を止めた。クロエがカイルの肘を小突いたからだ。「カイル、私もお義父さまの意見に賛成よ。ザックに頼んで見せてもらったあの会社、売上があまりにも酷いわ。あれではいずれ立ち行かなくなってしまうと思うの」 突然のクロエの参戦にエマが驚いて目を丸くしていると、カイルが何か言いたげにクロエを見て首を横に振った。「わかりました。では、あと半年の猶予をください」「ああ、いいだろう」 そこで会話は終了したが、エマはカイルがクロエの言葉を聞いて自分の意見を曲げた事
翌朝、カイルはイーサンを部屋に呼びつけると、オークションで目玉のジュエリーを一つ競り落とすよう言いつけた。 けれどふとある事を思い出してイーサンを呼び止める。 「やはり二つ競り落としてこい」 「お二つですか? 畏まりました」 イサーンはそれだけ言うと屋敷を後にした。 エマは朝食の後から続く胸焼けとめまいを堪えながら、久しぶりに仕事場に顔を出していた。 「エマさん、大丈夫ですか? 何だか顔色が悪い気が……」 「大丈夫。少し寝不足なの。ありがとう」 後輩がふらつくエマに声をかけてくれた事が嬉しくて思わず微笑むと、後輩もはにかむような笑顔を浮かべた。 体調が悪い時に誰かがこんな風に声をかけてくれる事がこれほど嬉しい事だったのだと身に沁みて感じる。 それに比べてカイルは今朝もエマの体調になど気付きもしない様子で、朝食が終わるなりさっさと自室に戻ってしまった。 残されたエマはクロエとザックの何気ない会話を聞きながら居心地の悪さを感じていたのだが、最後まで誰もエマの体調になど気づいてくれはしなかった。 「無理しないでくださいね。それよりも聞きましたよ! エマさん、今季の考査課題に挑戦するって本当ですか⁉」 「だ、誰に聞いたの⁉」 「誰だったかな……忘れちゃったけど、物凄く話題になってますよ! あの天才が帰ってくるぞーって」 「じょ、冗談でしょ⁉ お願い! 嘘って言って!」 誰にもバレないようにこっそりと物事を進めたかったエマにとってこれは嬉しくない情報だ。 けれどその後に後輩から聞いた話では、冗談でも誇張でもなく本当にエマの事が話題になっているらしい。 このままではいつかカイルの耳に入ってしまうのではないかと怯えたエマは、後輩に頼み込んで今回の事は絶対に外部には漏らさないで欲しいと頼み込んだ。 そしてそれを薬学員全員に出来れば周知してほしい、とも。 「危ないとこだった……教授にはちゃんと話しておいた方が良いかも」 単純に今回の事をエマの復帰だと思っているであろうスターリンが、こんな噂を流すほどエマの復帰を喜んでくれているのだと分かり何だか忘れ
今まではエマが勝手にカイルの気持ちを想像し、ただ落ち込むだけだったけれど、数字という嘘をつかない証拠が見つかった途端、エマの心が急激にスッと冷え込んでいく。 カイルへの疑惑が急に現実となって突きつけられたようで、傷つくというよりもむしろスッキリした気分だ。 彼への思いが冷めたと思った瞬間、ふとある人物の姿が思い浮かんだ。 エマの才能を見出し、エマを導いてくれた恩師の顔が。 エマは意を決して筆を取り、教授に手紙を書いた。 こちらの事は出来るだけ伏せて、教授が今どんな研究に携わっているのかを尋ねようと思ったのだ。別に本気であの場所に戻りたいと思った訳ではなかったが、エマの心の中には多少なりの打算があったのかもしれない。 教授からの返事は日をまたいですぐに届いた。まるでエマのそんな心を見透かすような返事に恥じ入りたくなったけれど、すぐに学生時代を思い出す。 スターリン教授は誰よりも厳しかったけれど、骨のある学生や優秀な学生にはやる気がある限りとことんまで付き合ってくれた。どんなに遅くなろうとも、失敗しようとも出来る限り力を貸してくれるような、そんな教授だったのだ。 教授の手紙に書かれていたのは、大半がエマに対しての説教だった。『今さらなんだ。この世界にまだ未練があるのか。それならどうして全てを捨てた。君は天才だった。支援者もあれほど居たのに、どうして結婚という道を選んだんだ』こんな内容から始まって、最後はこう締めくくられている。『もし君が、まだこの世界に未練があるというのならもう一度試験を受けなさい。この三年間の間、君がどんな人生を送っていたのかは知らないが、一度研究を離れた者をそう安々と受け入れてくれるほど薬学の道は甘くない。それは君が一番よく知っているだろう?』 と。 その一文を見てエマは決意した。もう一度、手放してしまった全てを取り戻そうと。 この手で放してしまった全ての物は、今のエマを形作るとても大切な物だったはずだ。エマはカイルと結婚した事でそんな事すらも忘れてしまっていたのだ。 エマにはエマの人生がある。 その為にもう一度自分の足で歩き出したい。今度こ
カイルはエマの言葉にしばらく固まっていた。 けれどようやくエマの言葉を正しく理解したのか、途端に眉根を寄せてあからさまに声を詰まらせた。「何を、言ってるんだ? 君は」「あなたが帰って来なかったから言うタイミングを失っていたのよ」「タイミングを失っていた? 正気か? 君はもう僕の妻だぞ? それに君がそんな事をしたら、僕たちの夫婦仲を疑われかねないじゃないか。それは僕の、引いてはグランツ家の恥になるんだぞ?」「そんな事にはならないわ」「そうかな? 僕はそうは思わない。そもそも妻は常に夫の側にいるべきだし、何よりも君はもうグランツ家に嫁いできたんだから仕事なんてしなくていいはずだろう? それは妻がするべき事じゃないはずだ。疲れた。この話はもうしたくない」それだけ言ってカイルは夫婦の部屋を後にした。 カイルの言葉と態度にエマは目を見開いた。彼の言い分がまるで妻さえいれば良いという風に聞こえたからだ。 エマは結婚の為にほとんどの物を捨てた。キャリア、学歴、進学、期待されていた将来。そのどれも捨てたのだ。それは偏にカイルと結婚する事が嬉しかったから。 もちろん家の援助をしてくれた事もあったけれど、それ以上にエマはカイルを愛していた。この人と一緒になれるのならば、他の何を手放しても構わないとさえ思っていたのだ。 エマは震える拳を握りしめて深く息を吐いた。 エマはカイルにとって、ただ都合の良い妻でいればそれで良かったのだろう。 数日後、エマに速達で実家から手紙が届いた。そこには突然カイルから父の治療費の為に、と多額のお金が振り込まれたという感謝の連絡だ。 どうして突然? そんな思いがエマの脳裏に浮かぶ。 カイルはいつも決まった日に決まった額をエマの実家に送金してくれるが、こんな事はこの三年間の中でただの一度も無かったからだ。 不思議に思ったエマは貴族の議会に出席する直前だったカイルを捕まえて、その事を尋ねてみた。「ねぇ、母様からこんな手紙が届いたんだけど……」 あの言い合いから二人の間に会話という会話はなく、明らかにカイルはエマを避けていた。 それはまるであの時の話を完全に無かった事にするかのように。いつかこの関係を修復する事が出来るのだろうか。そんな事を考えていた矢先に、今回の出来事である。 カイルが何を考えているのか、エマにはもうさっ
カイルの笑顔を見た翌日から、カイルはほとんど屋敷に戻って来なくなってしまった。執事の話ではカイルは仕事を理由にタウンハウスに寝泊まりしているという。「……やっぱり好きな人が弟の婚約者だなんて、居辛いわよね……」 それほどカイルは今もなおクロエに想いを寄せているという事だ。 エマはどんどん自己嫌悪に陥っていった。そんなつもりは無かったとは言え、カイルとクロエの間に横恋慕したようなものなのだから。 その事について、それでも結婚したのは自分なのだから、と思う事が出来たらどれほど良かっただろうか——。 エマは結婚してからも続けている薬学研究をしながらぼんやりとそんな事を考えていた。 周りから反対されても結婚後にエマが研究職を続けているのは、エマにとってこの仕事こそが天職だと思っているからで、実際、エマはその分野においては常に優秀な成績を収め続けてきた。 グランツ家がエマにカイルの結婚相手として白羽の矢を立てたのは、それも理由の一つなのだろう。「考え事かな? 優秀な君が珍しいね」 声をかけてきたのは研究所の所長だ。声は至って穏やかだが、目は明らかに怒っている。「申し訳ありません。集中します!」「ああ、そうしてくれ。万が一にでも君に事故を起こされたら困るからね」それだけ言って所長は去っていく。 この研究所が結婚後もエマを受け入れてくれたのは、偏にエマの類稀な薬学の才能と、学生時代から培った知名度だ。この積み上げてきたキャリアは、決してエマを裏切らない。 その事を思い出してエマはすぐさまカイルの事を一旦脇に追いやって、目の前の事に集中した。 とは言え仕事を終えて屋敷に戻ると、帰ってこないカイルを思ってエマの胸中は痛む。「あの人、大丈夫なのよね? 元気にしてるのよね?」エマが尋ねると、執事はにこやかに頷いてくれた。 どこへ行くにもエマを連れ歩くカイルと、それに従順に付き従うエマは一見すれば仲の良い夫婦に映っているのだろう。けれどカイルの心の中に居るのは今もクロエなのだ。「もちろん大丈夫でございますよ、奥様。旦那様は至って健康そのものです。ただ今は……何というか、少々自己嫌悪に陥ってらっしゃるようで」「自己嫌悪?」 意味がわからなくてエマが首を傾げると、執事は言いにくそうに視線を彷徨わせ、しばらくしてようやく答えてくれる。「ええ。自分の
『どうしてこれほど愛しても、この人は少しも愛してくれないのだろう。この人は……どうして私を選んだのだろう』 エマは身体の中を行き交いするカイルを感じながらそんな事を考えていた。「んっ、私、もう……」 下腹部に疼くような熱を感じてエマは身体をしならせる。 けれどいくら甘い声を出してもカイルの口からは決して甘い言葉は聞こえてこないし、そんなエマに対してカイルが何を思っているのかも分からない。 エマを抱く腕はいつもこれほど熱いのに、カイルの愛だけはいつも冷たく、その綺麗な顔立ちと相まってまるで氷のようだ。 その事が余計にエマの心を押しつぶしていった。「はぁ、っ」 何かを我慢するようなカイルの声にエマの鼓動も自然と早まる。この人を愛している。もう何度そう思っただろう。 この人に愛されたい。もう何度そう思っただろう。「おい、力を、抜け」 息を詰めるようなカイルの声にエマは全身から力を抜こうとするが、エマの中はまるでエマの心の中を映す鏡のようにカイルを締め付けた。「エマ——っ!」「あぁっ」 何を言おうとしたのか、カイルはエマの名を呼び、腰をさらに強くエマに押し付けてくる。その衝撃にエマの下腹部はまるで喜ぶかのように彼をさらに奥へと促そうとした。それと同時にカイルの身体がビクリと震え、熱い飛沫と脈動を体内で感じる。 カイルは肩で息をしながらエマを恨みがましげに見下ろすと、ゆっくりとエマの中から自身を取り出していく。「はぁ、なぁ、もう一度いいか」「……はい」 エマはそれだけ言うのがやっとだった。カイルとの行為は決して一度では終わらない。 結婚してからほとんど毎夜のように身体を重ねてもなお、カイルは夜の間中エマを放さない。 それこそカイルがエマを愛している証拠なのではないかと言う人もいるだろう。 エマもこの三年間の間にたったの一度も愛を囁かれなくても、穏やかな夫婦生活が送れるのであれば、それでも構わないのではないかと思っている。 翌朝、エマが目を覚ますと、隣で寝ていたはずのカイルの姿はもうない。「……ああ、今日だっけ……」エマはノロノロとベッドから出ると、支度をしてメイドを呼んだ。 今日はカイルの幼馴染であるクロエ・ハワードと、カイルの異母弟ザックの婚約発表会だ。 普段よりずっと豪華なドレスに身を包んだエマは、ロングギャ







