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5:小さなハプニング

Auteur: けもこ
last update Date de publication: 2026-07-09 23:22:36

翌朝、緊張して予定より1時間も早く会社についてしまった。

まだ、御園さんも来ていない。でも、昨日、聞いたとおりに、まずは、PCで一週間分のスケジュールと昨日までの変更の確認をする。

PCを立ち上げて画面を見ていると、扉の向こうの専務のオフィスに人がいる気配がする。

いるのはわかっているのに、挨拶もしないのはどうなのだろうか。でも、昨日、御園さんからは8時半まで気にしなくていいと言われている。今は専務もプライベートの時間に入るのかもしれないし‥‥

モヤモヤと悩んでいると、オフィスの扉が開いて、ノーネクタイでシャツの襟元が開いた姿の水無瀬専務が現れた。

「綾香、おはよう。まだ、8時前だよ。出社が早すぎないか?」

「お、おはようございます。専務」

急に挨拶をされて、どう返すのが正解かわからずアワアワする。

その姿に面白そうに目を細めて、秘書のカウンター越しに水無瀬専務が身を乗り出す。

「随分、よそよそしいね。まだ、始業前だから仕事をしなくてもいいんだよ。この会社は優良企業だろう?そんなに時間外勤務をしなきゃいけないのか?」

半分笑いながら、グッと顔が近づき、慌てて体を引いたら予想以上にデスクチェアが下がってしまって後ろにひっくり返りそうになった。慌てて水無瀬専務が手を伸ばしてそれを防ぐ。

反動ではだけたシャツの専務の胸に引き寄せられ、頬が胸元にくっつく。

無駄なもののないしなやかな体。

ドキッとした拍子に慌てて体を離そうとしたら、思いっきり水無瀬専務の顎に頭頂部をぶつけてしまった。

「アイタっ!」

「イテっ!」

二人で同時に呻く。

「ご、ごめん、廉くん!」

顎をさすりながら半笑いでこちらを見ている専務に、慌てて思わず昔のように謝ってしまった。

「はは、綾香の頭は相変わらず石頭だな。中身だけかと思ったら、ちゃんとホントに石頭だったな。綾香も、頭痛かっただろ?大丈夫か?」

「顎と頭だったら絶対に顎の方が痛いわ。本当にごめんなさい」

思わず手でその顎に触れて撫でる。スベスベとした顎を撫でていると、ハッと我に返った。

「あわわわ、すみません。なんてことを、あ、あの、水無瀬専務」

手を引こうとしたら、今度はその手を掴まれた。

「だから、言っただろう? まだ就業時間前だって。仕事以外でそう呼ぶの禁止ね」

「で、では、なんとお呼びすれば‥‥」

「時間外では、いつものように呼べばいいじゃないか」

「水無瀬さん?」

「綾香‥‥俺をそんな風に呼んだことあったっけ?」

「れ、廉くん‥‥」

ふっと笑みがこぼれる。乱れた髪で少年のように微笑む彼を見ると、昔、一緒に笑い合ったことを思い出す。

「さすがに三十を過ぎた男を“くん”づけで呼ぶのは痛いから、廉でいいよ」

「廉さん‥‥」

「廉」

「れ、廉」

「よしよし、よくできました。綾香は石頭だけど、約束は守る子だからね」

「子ども扱いしないでよ‥‥」

なんとなくからかわれているのがわかり、顔を赤くしながらもムッとしてみると、廉が頬を撫でる。

「久しぶりだね、綾香。会うのを楽しみにしてたんだ」

「私も久しぶりに会えて嬉しい‥‥です」

仕事をしなくてもいい、と言われたけれど、どこまでを線引きすべきか、わからずあやふやに答える。

「おはようございます、専務。あ、高辻さんもすごく早いじゃない。わかるわ、緊張して初日は早く来ちゃうわね」

なんだか、妖しい空気になりそうなところを、出社してきた御園さんがかき消してくれる。

「専務と高辻さんは、もともとお知り合いだから、自己紹介をせずに済むのは助かります」

「おはよう、御園さん。そして、改めてよろしくね、高辻さん」

廉は、そう言ってあえて呼び名を強調して口元に笑みを浮かべた。はい、わかりました。お仕事モードにシフトチェンジですよね。

「こちらこそ、よろしくお願いいたします、水無瀬専務」

負けじとすました顔で笑みを浮かべて、役職をことさらに強調してみる。すると面白がるような顔をして、さっきのことは忘れてないよ、とばかりに顎をさする。

「専務、顎が赤くなってますが、どうかされましたか?」

「あぁ、さっき、石にぶつかってしまってね」

「はぁ、顎を石に、ですか?」

ちょっとだけ意地悪な感じも昔とちっとも変っていない。御園さんのいぶかし気な表情に、なぜか綾香の顔が赤くなる。

「君たちは、少し仕事の始まりが早すぎるよ。就業時間は守ってくれ。プライベートも大事にしてこその仕事だよ」

そう言うと、廉は自分のオフィスに戻っていった。

「何かあったの? 顎を石にぶつけるって‥‥ランニングで転んだとかかしら?」

不思議そうに首をかしげる御園さんに、さぁ?なんでしょうね、と何もわからないふりをして返事をした。

初日から胸がドキドキして、ちゃんと仕事ができる気が少しもしなかった。

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