LOGIN夫のズボンを洗濯しようとした時、ポケットからマンションの管理費等の滞納督促状が出てきた。 記載されていた住所は、我が家の真上の部屋だった。 ただし、所有者名義には、はっきりと夫の名前が書かれていた。 その紙を握りしめる指先が、一瞬で凍り付く。 ふと思い返せば、ここ半年、彼は「残業だ」と言って深夜帰宅が増えていた。 何度もあった。彼が仕事に出かけたはずなのに、車がマンションの駐車場に停まったままだったことが。 問い詰めると、彼は決まってこう言った。 「最近はガソリン代もバカにならないしな。電車の方が楽だし、節約だよ。将来のためだろ?」 家庭を思う彼の言葉に、私は密かに感心さえしていたのだ。 だが、今ならわかる。彼の言う「残業」の行き先は、真上の部屋だったのだ。 その時、玄関の鍵が回る音がした。 夫が帰ってきた。 私の手にある督促状を見るなり、彼は無造作にそれを奪い取った。 「ああ、管理会社の誤配だろう。たまにあるんだよ」 私は頷き、無理に笑って見せた。 「そうね、気にしないで。 ……ちょっと、ゴミ出しに行ってくるわ」 部屋を出た私は、そのまま上の階へと向かった。 扉を叩くと、目の前に現れた女のお腹は大きく膨らんでいた。 見たところ、もう臨月だろう。
View More「お願いです!」環奈はいきなり私の腕に縋り付き、涙を流した。「私が間違っていました、あなたの家庭を壊してすみませんでした。でも、お腹の子には罪はないんです!お医者様が……生まれてから遺伝子検査や治療に莫大なお金がかかるって……もう、行き場がないんです!」私は彼女の膨らんだお腹を見つめた。そこには、無垢でありながら不幸な運命を背負うかもしれない命が宿っている。心の冷たい荒野が、微かに揺れた。環奈の手を振り払い、バッグから一枚のカードを取り出した。「ここに400万円入っている。あなたにあげるんじゃない。その子のために使いなさい。暗証番号は0が6つ。使い切っても私の前に現れないで。あなたたちの人生に関わるのは、これで最後よ」環奈は呆然とカードを受け取ると、その場に膝をついて号泣した。私は一度も振り返らず、エレベーターに乗り込んだ。お人好しになるつもりはない。けれど、まだ生まれてもいない子供の命に無関心ではいられなかった。これが、私にできる最後の慈悲なのかもしれない。一ヶ月後、悠平の裁判が開かれた。事件が複雑で、関与した金額も巨額だったため、公判は非公開で行われた。私は最重要証人として、公判に出席した。再会した悠平は囚人服を纏い、手錠をかけられ、髪は丸刈りにされ、顔からはかつての意気軒昂な面影は消え失せていた。彼は法廷で一言も発さず、一切の弁護を放棄した。複数の重大犯罪なので「主文、被告人を懲役二十年に処する」と言い渡された時、彼はまるで他人事のようにぼうぜんと立ち尽くしていた。公判が終わり、刑務官に連行される際、彼は私の前で足を止めた。「……笙子」掠れた声で、彼は言った。「……すまなかった」私は答えなかった。謝って済むのなら、法も警察もいらない。これから、彼は高い壁の中で、20年という月日をかけて罪を償うことになる。そして私の人生は、今始まったばかりなのだ。半年後。私は国内のスタジオと全不動産を売却し、あまりにも多くの苦い思い出を背負ったあの街に完全に別れを告げた。「リバース」シリーズが大成功を収め、ヨーロッパの王族に高値で買い取られた。世界トップクラスのジュエリー・アカデミーから招待を受け、私は客員教授として教壇に立つことになった。新しい生活、新し
「その病気は、四分の一の確率で次世代に遺伝します。結婚前の健診で、彼は医師を買収し、健康診断書を偽造しました。結婚後、私は姑が『体調を整えるため』と毎日サプリメントを飲み続け、そのせいで妊娠しにくい体質にさせられていたのです。なぜか?正当な医療機関で不妊治療を始めれば、彼の隠し事が発覚するのを恐れたからです」スクリーンに、悠平の名前が記された本物の診断書が映し出された。「彼は必死になって、跡継ぎを産んでくれる『都合のいい女』を探しました。そうすれば江口の血を誰にも知られずに繋げると信じて。ですが、嘘で塗り固められた血脈に、光が宿ることなどない……彼はそのことに気づかなかったのです」画面には、環奈の家族の病歴データが表示された。「不幸なことに、彼が見つけた林環奈さんもまた、別の劣性遺伝病の遺伝子を持っていたそうです。そして、この二つの遺伝子が組み合わさると、彼らの子供は、出生時に複数の先天性異常を伴うリスクが極めて高くなる。つまり、あらゆる手段を尽くして手に入れようとしたその後継者は、最初から悲劇を背負わされる運命だったのです」会場は死のような静寂に包まれた。誰もが、この予想外の展開が次々と続く名門の秘話に、言葉を失うほど衝撃を受けていた。悠平は完全に崩れ落ち、虚空を見つめてうわ言のように繰り返した。「嘘だ……そんなはずはない……環奈は健康だと……」姑も目を白黒させ、そのまま気を失った。繰り広げられる無残な茶番劇を、私は冷めた心で見つめていた。快感などない。あるのはただ、ただ冷たい虚無感だけが広がっていた。私はマイクを掲げ、最後を締めくくった。「本日、私はここに立ちました。同情を買うためではなく、一つの事実を宣言するためです。本日をもって、私は江口悠平氏と正式に離婚いたします。既に彼が行った詐欺、背任、横領の証拠は全て警察に提出済みです。国が公正な裁きを下すと信じています」言い終えると、私は鳴り止まないフラッシュと拍手の中、背筋を伸ばしてステージを降りた。これで終わりだ。悠平も、その一族も。そして、私は、ここから再生するのだ。個展の翌日、悠平が巨額詐欺と横領の疑いで逮捕されたというニュースが、全てのメディアのトップを飾った。悠平キャピタルの株価は暴落し、調査のため取引停
環奈は高価なマタニティドレスを着ており、お腹はもうかなり目立っていた。会場には入らず、入り口付近で不安げに立ち尽くし、悠平の方をじっと見つめている。悠平は環奈に気づくと、眉を僅かにひそめた。そして私に「電話してくる」と言い残し、足早に外へ出た。悠平が入り口まで行き、環奈に何かを囁き、ウェイターのトレイからジュースを渡して彼女を宥めている様子を、私は冷ややかに見ていた。その光景は多くの客の目にも留まり、会場がざわつき始めた。いいわ、全ては私の想定したシナリオ通りに進んでいる。私はマイクを手に、ステージへと上がった。スポットライトを一身に浴びる私に、会場中の数百もの視線が注がれていた。まず、来場者の皆様に感謝の言葉を述べた。そして、私は視線を悠平に向けた。「今日は、特に感謝を伝えたい人がいます」私は満面の笑みで言った。「夫の悠平です。彼がいなければ、今の私はいませんでした。そして、今回の『リバース』シリーズも生まれませんでした」人混みの中、悠平は得意げな笑みを浮かべ、誇らしげにグラスを掲げた。周囲の羨望の眼差しを享受している。「私の『リバース』シリーズのインスピレーションは、ある『幻影』の物語から得たものです」私は言葉を切った。「これからお話しするのは、誰もが羨むような成功を収めた、ある男性の物語です。彼は自分のために完璧な人生を構築しました。成功したキャリア、幸せな家庭、そして忠実な妻。しかし、その全ては、彼が鏡合わせに作り出した虚構、所詮は蜃気楼のようなものです」会場は次第に静まり返った。悠平の笑顔が凍りついた。私の背後の巨大LEDスクリーン――さっきまでジュエリーの紹介を流していた画面が切り替わり、一枚の不動産権利証が映し出された。「彼は非常に有能で、一つの屋根の下に二つの『家』を構築することさえできました」スクリーンには、真上の部屋の管理費等の滞納督促状が映り、赤枠で囲まれた「所有者:江口悠平」の文字がこれ以上なく鮮明に浮かび上がった。会場は騒然となった。悠平の顔から一瞬にして血の気が引いた。「彼はまた、天才的な投資家でもあります」画面が切り替わり、銀行の送金記録と、海外のペーパーカンパニーの資料が映し出された。「妻から奪った1億6000万円を自分の一族の会社
文喜の顔に一瞬、申し訳なさそうな色がよぎったが、すぐに支配者特有の威厳がそれを塗りつぶした。「笙子、君の無念はわかる。だが、これには悠平なりの事情があったんだ。江口家としても相応の対価を支払う用意がある。ここ数年、君が会社のために尽くしてくれたことは、我々の目にもしっかりと映っている。離婚に同意し、かつ悠平キャピタルの全株式を放棄するなら、解決金として2億円を支払おう。今のマンションも君に譲る。これだけあれば、残りの人生が不自由ない暮らしができるはずだ」2億円で、私の三年間の青春を買い取り、私が一から育て上げた会社を買い取り、彼ら一族にバカ扱いされ弄ばれたプライドを買い取るつもりか。なんと気前の良い対価だ!思わず鼻で笑った。「江口文喜、あなたは私がまだ、言いなりになる世間知らずの小娘だとでも思っているの?」私は立ち上がり、冷徹な眼差しで一人一人を射抜いた。「言っておくけれど、離婚はするよ。でも、私の分は一円たりとも残さず取り戻す。そして……」言葉を切って、噛みしめるように言った。「あなたたちが私に負っているものは、倍返しにしてやる」言い捨てると、私は三人の青ざめた顔を見ることなく、背を向けて立ち去った。背後から姑のヒステリックな叫びが聞こえた。「何様のつもりよ!やれるもんならやってみなさい!江口家を離れたら、あんたなんてただの女じゃないの!」ただの女?いいわ、見せてあげる。江口家という寄生虫を離れて、ただの空っぽになるのは一体誰なのかを。江口の実家を後にした私は、家には帰らず自分のスタジオへ直行した。こここそが私の城であり、私の力の源泉だ。幼馴染の弁護士に電話を入れた。「お願い、離婚訴訟を起こすわ。財産分与は私に最大限有利なプランで。それと、国内トップクラスの弁護士チームを組んで。悠平を『業務上横領』と『特別背任』で訴えるわ」「覚悟はできたのか?」幼馴染の声には、どこか安堵が混じっていた。「ええ。犬に噛まれて、黙って泣き寝入りするほどお人好しじゃないわ」それからの一週間、私は目前に迫った個展「ジュエリー・リバース」の準備に没頭した。一年余りの歳月を費やし、心血を注ぎ込んだ渾身の作。テーマは『リバース』。皮肉にも、今の状況にこれ以上ふさわしい言葉はなかった。