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『音川君、今ちょっといい?』
ピコン、という通知音と共に送られてきたメッセージを見てすぐ、音川はヘッドセットを装着した。
在宅勤務となり4年目。IT会社に務める音川にとっては出社してようが在宅だろうがチャットによるコミュニケーションは常だったが、通話は以前に比べて圧倒的に増えた。『はい、大丈夫です』
チャットではどうしても堅くなるな、と表示された自分の返信を見ながら、メッセージの送り主である課長からかかってきた通話を受ける。これが口頭なら、『いっすよ』だっただろう。
「お疲れ様でーす」と課長の軽快な掛け声が思ったより大きく、音川は急いでボリュームを下げた。
「おつかれっす」
「急にごめんね。ちょっと相談なんだけど、T社の件について何か聞いてる?」
「ああ、あの揉めてるやつ」
「こっちはもうカツカツで人が増やせないから、音川君どうかなって」
T社とは、自社のWebアプリケーションのカスタマイズを一手に引き受けてくれているインドの開発会社だ。
最近先方でボイコットがあり、本社の企画と開発が現地入りしていると音川は本社の開発担当の速水から直接チャットで聞いていた。 騒動の内容と、音川の手を借りることになるだろうという話も。「えー、めんどくさい」
「ホンネがすぎる」と課長が言うが、音川のこういった素直さを何よりも頼りにしているのは当の課長だった。
営業の持ってくる仕事を選別する際に、音川のように現場の声をダイレクトに伝えてくれるエンジニアがいると大変に助かる。 ただ今回は、『忙しい』ではなく『めんどくさい』なのが厄介だ。「で、やれそう?」
「いけるっちゃいける」
「助かるよ。まいどまいど。で、新人を付けるから、教育も兼ねて欲しいんだよね」
「あっ。そっち?……余計にめんどくさい」
「まあそう言わずに。いい機会だから育ててみてよ。元デザイン部の貴重な人材なんだ」
課長は、今年度から開発部に配属された新人の名前を出した。フルネームは青木泉というが、社内に同じ青木姓がすでにいるため、慣例に沿って新人は名前の『泉』だけを通称にしており、混乱を避けるため社内SNSも同様とのことだ。
「ああ、彼か」
「知ってるの?」
「名前と仕事は一致するよ。いいデザインをあげてくるコ。話したことは、ないかな。たぶん」
開発部門には、前業務や勤続年数に関わらず、配属された時をまるで入社日のように扱う風潮があるため新人と呼ばれるが、確か入社2、3年目のはずだ。
「じゃあ、本社の速水君と連絡取って、できるだけ早く入ってほしい。報告があれば定例ミーティングでいいから。じゃ、お願いしまーす」
課長が軽快にそう告げて通話を切ったあと、音川はすぐに速水にチャットを送った。
『やっぱり俺が入ることになった』
『助かる。今日の17時から打ち合わせできる?日本時間で』
インドと日本は3時間半の時差だから現地はまだ早朝だろうに、速水からは即レスがあった。
音川は『OK』とだけ返信し、メールアプリの検索欄にT社の名前を入れた。案件について詳しく探るには、CCで届いている関連メールの全てを最初から辿るしかない。
ついでにチャットアプリのユーザーリストから、課長が名指しした、泉という新人を探し出して『17時から空いてる?』とチャットを送る。『はい!空いています!』
新人君からは、すぐに文字だけでも伝わる元気な返答があった。
インドとの通話が繋がったのは17時を5分ほど過ぎた時だった。 画面の向こうでは、デスクの中央に集音マイク、左右にはそれぞれ本社の開発担当の速水と、同じくそのプロジェクトマネージャーをしている高屋が席についていた。「お疲れ様です。ごめんね、ちょっと機材の調子が悪くて」と高屋が開口一番に謝った。
音川が高屋の案件にアサインされるのは今回が始めてとなり、中途採用の高屋とは顔見知り程度だ。
かなり鋭い男だという噂は聞いているが、人懐こい話し方や、柔和そうな目元からはおっとりとした印象しかない。音川が所属しているシステム開発会社と、高屋と速水が所属するコンサルタント会社は元は1つのシステム開発会社だった。
自社のアプリケーションが成功したことで業務を拡大し、開発部門を独立させて子会社化した経緯があるというだけで、内部ではお互い『本社』と『ITの人たち』と通称で呼び合い、別会社という意識は全く無かった。 社屋も同じで、フロアが異なるだけだ。速水と音川は同期入社で、たしか年齢も同じはずだ。お互い技術者枠としての採用で、10代の早い頃から独学でプログラミングをしていたことからすぐに打ち解けた。
どちらも、ソフトウェアの仕様に神経を注力するせいか、それ以外のことにはどうも大雑把で、そういう加減の振り幅が合う。音川にとって速水は、最も信頼のおける技術者であり、また親友と呼べる存在だった。 結婚後に速水は本社に異動したため、以前ほど密に会うことはないが、それでも出社のタイミングが合えば昼飯に誘うし、飲みにも行く。速水が本社へ移ったのは2年ほど前になる。
生粋のエンジニアである彼が管理側に行くことは社内に多少の混乱を起こしたが、最も身近にいた音川は、速水が入籍すると聞いた時にすでに予感していた。 残業を増やして収入をあげようとする人もいれば、第一線を退いて家族との時間を増やす人もいる。 速水は前者のようなバリバリのエンジニアの皮を被った後者だ。「音川君が入ってくれるって聞いて本当に安心したよ」と高屋は気さくに言い、続けて「見かけたことはあるけど話すのは始めてだね。高屋です」と泉に笑顔を向ける。
「イズミです。どうぞよろしくお願いします!」
新人は歯切れよく名乗り、律儀にもカメラ越しに頭を下げた。
「開発の音川です。よろしく」
音川はメンバーが映し出されている画面から少しだけ目線を上げて、自分のPCモニターに取り付けているWebカメラを見た。
きちんと、相手から目が合うように。「音川さん。どうぞよろしくお願いします!」
挨拶と共に泉の顔がカッと紅潮したのを音川は目ざとく気付く。
エンジニアであることに間違いはないが、技術責任者となった今、音川はどちらかというと管理や営業の仕事に近い。 そのため、チームメイトの体調や、ちょっとした変化には敏感なのだ。「緊張してる?気を楽にして、今日はおじさんたちの話を聞いててよ」と音川が言うと、「はーい」と速水が返事をする。
「おまえはこっち側だろ。高屋さんはまだ20代かもしれないけど」
「おれ30」
「じゃあこっち側だ。若く見えるね。で、どう?英語は通じてる?」
「たかやんがベラベラだからいーの。俺はソースコードで通じ合ってる」
速水は自分より3つ年下の高屋のことを、プロジェクトマネージャーとしての敬意を残した上で『たかやん』と呼ぶことがある。通常はきちんと全員を「さん」付けで呼ぶが、音川がいると気が緩むのか遠慮もなにも無い。
速水は、高屋の爽やかな外見に似合わないそのバタ臭い呼称を気に入っている。「いや、ギリギリ通じる程度だよ。本気でやんなきゃなって自覚する日々」高屋の発言は本音だったが、速水はコンプレックスに近いほど語学が不得手であり、今最も身近で恩恵を受けている立場からすれば謙遜だと捉えただろう。
「やっぱカレーばっかり食ってんの?」
音川はテンプレート通りのような質問をインド組に向けた。実際気になるところだ。
「それがさ、半分は中華料理なんだよ」
すぐに高屋が答える。
音川の雑な物言いを、高屋は全く気にもとめずに、ホテルのルームサービスがいかに美味しいかを語った。「音川、俺と交代するか。美味いから食べに来いよ」
「遠慮しとく。面倒くさい」と音川は即答した。自宅から4駅離れただけの会社へ行くことすら面倒なのに、飛行機での出張など言語道断だ。
ITエンジニアには、こういった極度の面倒くさがりがよく見られ、音川も例外ではなかった。
より効率良く使えて、将来的に管理の手間が掛からず、稼働速度が早く、属人化しないコードが書けること。こういったことができるのは、面倒くさがりの性質がゆえだ。 作業に手間を惜しまないタイプの人間に言わせれば「ITの人は楽することばかり考えている」と言われがちだが、逆から言わせれば「なんでそんなめんどくさいこと毎回してんの?」だ。 楽するために努力するエンジニアと、非効率に耐えることを努力だと考える事務方、この溝が埋まることは決して無い。「しかも、たかやんなんて携帯の盗難に遭ってさ」
「うわ、ご愁傷様です。スリ?」
高屋は首を振った。
「いや、ホテルの部屋。寝てる間に侵入されて。当然鍵は掛けてたけど、金庫には入れてなかったんだよね」
「酷いな。他は大丈夫だった?」
「見事に携帯だけ。常習かもしれない。おれ、すぐに南京錠とチェーンを買ったよ。マスターキーがある以上、ホテルの従業員も信用できない」
「それは気が休まらないな。いつ帰れそう?」
「あと数週間は掛かりそうなんだ。盗難届もまだ貰えていないし。かろうじて、実家には連絡できたんだけどね……他に覚えている番号が無くて」と答える高屋の表情はかなり暗い。
音川はあえて聞き返さなかったが、高屋なら当然連絡すべき親しい人間がいるだろう。
今どき、パートナーはおろか家族の携帯番号さえ記憶している方が少数だ。1ヶ月も音信不通だと下手すりゃ大事になりそうなものだし、高屋の落ち込みようはその不安からだろうと予想した。「俺、実家の番号すらもう思い出せない」と音川が同情する。
「ま、なるようにしかなんねーよな」
そう高屋は締めくくり、「さて、やりますか」と、プロジェクトのガントチャートを表示した。
「音川君たちに、バックエンドを引き継いで欲しいと考えていて」
「サーバー周りだけでいいのか?」
「うん。こっちでインターンを採用することになってね。フロントは任せられそうなんだ。速水君が指導してくれるから」
高屋がざっとプロジェクトの概要を説明し、技術面の話は速水に引続いだ。音川は、高屋がエンジニアにとって冗長となる情報を上手く省いて説明していることを察知し、『鋭い男』と速水が言ったことを思い出した。
「わかった。そうか、納期を延ばせたんだったな。速度改善もできるかもしれない」
「さすがですなあ」と速水が褒める。
「泉くんも居ることだし」
とつぜん音川にそう言われ、「ハ、ハイ!」と泉は居住まいを正した。
その、画面越しにも分かるほど緊張した様子の泉に、音川は新鮮さを感じた。「いい返事だな。俺にもこんな時代があったような気がする」
「いや、無かったね。おまえは最初からふてぶてしかった」と速水がツッコんだ。
高屋はそのやりとりに「想像できる」とけらけらと笑った。
本社組とIT組とで担当作業を把握したことを確認し、インドとの会議は締めくくられた。
音川は、引き続き泉に作業指示をしようと思ったが、定時を過ぎていることに気付いて取りやめた。代わりに、明日の朝10時からの会議案内を送っておく。
泉の様子からは、この仕事に対する真剣さがよく伝わってきていた。
そういう人間は、頑張りすぎる傾向があることを音川は経験から知っている。 いくら成果をあげて納期を守っても、心身を壊しては意味がない。 それに、健康より仕事を優先しなければならないようなスケジュールを立てるプロジェクトマネージャーは仕事ができない。 その点、高屋は十分に信頼できそうだった。音川はすぐにチャットアプリから自分のステータスをオフラインに変えた。もう退勤しました、という対外的なアピールだ。これで泉も気兼ねなく退勤できるだろう。
しかし仕事を終えたわけではなかった。あちこちの共有フォルダから設計書や運用に関するドキュメントを引っ張ってきて、1つの資料に落とし込んでいく。
自分がすべきことを把握するためでもあり、泉への説明のためでもあり、また、大げさに言えば後世に引き継ぐ担当者がメンテナンスをしやすくするためにも、丁寧なドキュメントを残しておくことは重要だからだ。 最後にざっと目を通す。技術的な用語で少々難解ではあるが、内部の技術者向けであるから十分だろう。音川は、仕上がった資料を泉にメールしておいてからPCの電源を落とした。
フルリモートワークであるから残業をし始めると際限がなくなってしまう。きちんと退勤時間を決めておくことは、作業にメリハリをつけるためにも重要だ。 また音川は副業でもアプリケーションの開発をしており、そちらへの頭の切り替えをするためにも、多少の休憩時間は必要だった。 この場合の休憩とは、行きつけの居酒屋へ夕飯を兼ねて飲みに行くことを指す。 自宅マンションから最寄り駅までは徒歩10分程度で、行きつけの店は駅前の飲み屋街に集中している。そこで焼き鳥とアルコールを少々、時には刺身や焼肉だったりもするが、大抵は蛋白質を中心とした食事を摂る。 そうしてほろ酔いの身を風にさらしながら、のんびり遠回りをして帰るのが夜の日課だった。歩いているとふいに引っかかっていたロジックがホロリとほぐれることがある。稀に見かける地域猫に目を細めていると、悩ましいバグの解決策がひらめくこともある。この少しの有酸素運動は週4日で通うパーソナルジムのトレーナーからの指示でもあった。 数年前にPC仕事の宿命ともいえる腰痛を患ってから、医師の薦めで筋トレを始めたらみるみるうちに筋肉が付き始め、面白くなってしまった。 開始から1年足らずで手持ちの服の袖周りが窮屈になり、Yシャツのボタンが留まらなくなった。 この恵まれた体質は、音川の出生の特性が関連している。 音川は日本人の父とドイツ系ポーランド人の母を持つ。そして母方の祖先から続く大きな骨格と柔軟な筋肉の遺伝子は、半分日本人であることを周囲に悟らせないほどに、音川に強烈に受け継がれた。 今ではトレーナーから、見事なギリシャ彫刻のようだと褒められる身体になっていたが、あくまで腰痛対策から生まれた幸運な副産物であるから、音川は摂取カロリーなど面倒な計算をしない。そもそも食にあまり興味がなく、学生時代は脳にブドウ糖さえ送ればよかったためほとんどまともに食事をしておらず、ひどく痩せていた。 その上夜にしか行動しないから、吸血鬼ではないかと言われていたほどだ。 それは音川の西のものとも東のものとも分からないミステリアスな容姿の美しさと相まってのことだが—— ともかく面倒なことが苦手な性格もあり、細かいカロリー計算をしての体型維持などできるわけもないから、ついでに歩いて、腰痛にならないための筋トレを行い、あとは好きに食べる。それだけで、脂肪が薄くキレが良い身体を保っているのは、やはりDNAに組み込まれたものだろう。その夜も熱帯夜で、いつものように焼き鳥屋で串を何本かとハイボールを数杯重ねてから散歩をしながら帰宅すると、すっかり酔いは覚めている。
何のためにアルコールを飲むのか毎度疑問に思いながらシャワーを浴び、好物のラム酒を少しグラスに注いでリビングのソファにどっかりと腰を下ろすと、ニャン、と小さく声を上げて愛猫が膝に乗ってくる。「マックスさんも飲むかい」
猫に晩酌をさせるわけはないが、毎晩のようにそう声をかけるのが習慣になっていた。やや高台の住宅街に建つ3LDKの分譲マンションに独りと一匹。最上階であるため周囲に邪魔されることのない高さからは街の夜景と星空の輝きがぼんやりと揺れ、夜の静寂を楽しむことができる。
これ以上ない贅沢な休憩時間だ。ラムを飲み終え、猫が膝の上から飛び降りて廊下へトコトコと歩いて行く。音川を仕事部屋へと誘うかのように。
「もうそんな時間か」
副業の時間は深夜より少し前に始まる。
あまり眠れる質ではないし、昼の仕事と異なり打ち合わせもないから真夜中は開発に最も入れ込むことができる。睡眠障害に片足を突っ込んでいるとも言えるが、まだ頭に衰えは来ていない。時間の問題かもしれないが、スポーツ選手とエンジニアは似たようなもので、能力がある内に最大限の力を注ぎ込むしかない。 それほど、今とりかかっている副業の開発は、音川にとって重要だった。 3時間ほど集中し、目にかすかな疲労を感じた頃に寝室へ向かう。仕事部屋での寝落ちは腰痛経験者としては避けなければならない。 翌朝、音川が会議通話を開始するとすでに泉は参加していて、「おはようございます」と元気に挨拶をしてくれる。「早速だけど、送っておいた資料を一緒に見ていこうか」
「はい。ざっとですが読んでみました。いくつか質問がありますので、後ほど教えてください」
「もう読んだの?早いね。……そうか、それなら質疑応答だけで進めようか。時間も省けるし」
「承知しました。私の方で画面共有してよろしいでしょうか?」
「うん、助かるよ。あと、さ……」
「はい?」
「もっとこう、なんつーの、砕けていいよ。丁寧な扱いに俺が慣れてないっつーか。昨日のインドとの打ち合わせでも、雰囲気が分かったと思うけど」
「あ、ハイ、でも……まだ僕には難しいかもしれません」
「ああそう。まあそのうち。この部署は部長にすらタメ口だし」
「それは音川さんだけでは?」
スピーカー越しに軽く含み笑いが聞こえたような気がして、音川はニヤリとした。
「その調子だ。リモートで一度距離ができてしまうともう縮まることがなくてね。俺、絶対に出社したくないから」
「僕は当面の間は出社しています。本社の方にも会えるし、それに自宅では開発環境がまだ整っていなくて」
「そんなの全部家に送れば。課長に言っとくから」
「場所の問題があるんです。デザイン部からのMacもそのまま使ってよいとのことで、そこにPCまで置くとなると……僕まだ実家暮らしなんです」
「ああ、なるほど。子供部屋か」
「そうですが……さすがに学習机は無いですよ?」
「冗談だよ。デザイナーがそんな部屋に住んでるとは思わない。じゃあ、始めようか」
「はい。では……いまから画面共有するね?」
突然優しく語りかけられ、音川は笑いを漏らした。それは愉快というよりか、じわりと胸に温かな灯火が与えられたような、奇妙なくすぐったさからだった。
「あ、違うんです!つい、すみません!」
「なにそれ、か……」
音川は急いで言葉を飲み込んだ。
昨日の打ち合わせで見た泉のクリンとした大きな瞳が、画面の向こうで焦って白黒しているであろう様子が思い切り想像できてしまい、つい『かわいいね』なんて……自分でも到底信じられない軽率な感想を発してしまうところだった。「いや、話しやすいように話してくれれば何でもい」
音川の仕事部屋にコーヒーを持って行った泉は、パソコンに向かう恋人の口元に笑みが浮かんでいるのを見て、(よほど仕事が楽しくて仕方がないんだな)と理解したが、それは思い違いだった。確かに最近の音川は泉が入手した暗号データの解読に取り憑かれていたが、それはこれが、長年苦しめられてきた自アプリの不正改ざんについてのヒントがそこにあるからだけではない。 この、自分に明るい未来を与えてくれるであろうデータは、泉が身を挺して手に入れたものだからだ。 彼が、右も左も分からない環境で独り、どれほど苦心していたか……どれほど勇気のいることだったか、想像に難くない。 すべて、音川の過去の傷を慮ったためだ。 その——とっくに愛されていたのだという事実が、音川の胸を焦がす。 ゆえに、暗号化解読中の音川には常に微笑が浮かんでいた。 実際、解読作業が楽しいのは間違いない。しかし、さすがにニンマリと笑いながらでは、まるで映画に出てくるハッカーだ。泉は恋人の集中力の妨げにならぬよう、持ってきたコーヒーは自分で飲むことにして、ソファにどかりと座り出窓にカップを置いた。こうなっている時の音川の集中力は凄まじく、声をかければ返事は帰ってくるが空返事で、後で確認しても会話の内容は何も覚えていないことが多い。 泉自身にも思い当たる節があり、お互い様だから気にもならない。集中している場面であっても存在が邪魔にならない——むしろ、居てくれる方が心地が良いのは、特別なものだと泉は感じていた。 これが音川以外の人間であったなら、例え無言でその場に居るだけでも気が散ってしまうだろう。コーヒーを一口のみ、ほろ苦さに若干眉をひそめながら本棚に詰められている背表紙を眺める。どれを読もうかと選別してみるものの、結局はいつものように、ひときわ擦り切れた一冊を手に取る。 The code bookと題されたそれは音川が小学校に上がると同時に祖父から贈られたものらしく、裏表紙には著者のサインが入っていた。 初めて見た時、「こんなものを7歳から読んでたんですか」と驚きに目を見開いて音川に尋ねると、「このせいで俺は暗号世界の住人になったんだ」と自嘲気味に笑う。 泉がたまらなく好きな、少しの自虐と、照れが混ざった笑顔。あれから——音川は最高技術責任者として社に残ったが、大半の業務は泉が引き継いだ。重責を半分
寝室の扉を開いたのは泉だった。音川の手を握り、引き入れるように誘う。その遠慮がちながらも情熱の籠もった眼差しに音川の胸は激しく高鳴り、泉に触れる瞬間を待ち望む思いが募ってゆく。音川の手によって静かにベッドに横たえられると、親指が優しく頬を撫でる。腰を引き寄せられ、身体のラインがぴたりと重なった瞬間、泉は音川の男の熱さと硬さにはっと息を呑んだ。期待と不安が熱となり体の芯へと広がってゆく。「この時を、どれほど待ったか……」音川が呟く。その唇はゆっくりとじらすように泉の素肌を滑り降りてゆく。「……ん……どれ、くらい……?」「何ヶ月も。きみを押し倒して自分のものにしたいという衝動と、何ヶ月も闘い続けてきたんだ」音川は上体を起こしてわずかに頭を傾け、泉の頬に鼻先をすべらせながら、耳元でそっと息を吐いた。その声は低くかすれ、抑えきれない欲を滲ませている。泉の背筋をぞくりと震えが走った。胸の奥で、言葉にならない想いが膨れ上がる。音川はその一瞬の隙を見逃さず、唇で泉の首筋をゆっくりとなぞり始めた。肌に触れたその熱が、瞬く間に泉の全身を灼く。泉の指は無意識に音川の黒髪に絡みついた。髪を掻き抱くその感触に、音川もまた反応し、僅かに身を震わせる。泉の指先に呼応するように、欲望が頭をもたげる。音川の唇が泉の首の敏感な一点を探り当て、吸い上げる。泉の口から、抗いきれない吐息が漏れる——その響きは、寝室の空気を熱く揺らした。「おと、かわさん……」音川は頭を少し引き、泉を見下ろした。その瞳は欲望に濡れ、普段の冷静さはどこにもない。乱れた髪、わずかに開いた唇、荒く上下する胸——今にも理性が崩れそうなその姿はあまりに妖しく——泉は自分の中心が堅く痛いほどに張り詰めるのを感じた。彼をこうしたのは、自分だ—
泉の役職が正式に発表されたその日、祝杯を上げるために2人はヒューゴの店を訪れた。ちょうどバイトに入っていた高屋が「後でおれも合流していい?」とニコニコ顔でおしぼりとメニューを差し出してくる。もちろん大歓迎だった。「おすすめ、ある?」「ブルーチーズが好きならキツいのがあるよ。あと、ガトーショコラが1切れ」音川はどちらも即注文した。飲み物はお任せだ。高屋はすぐに踵を返してカウンターに戻り、ヒューゴが穏やかに微笑みながらオーダーを聞いている。軽く頷きながら、高屋に向けている眼差しは蕩けそうなほどに柔らかい。すぐに最初のカクテルが届き、泉と軽く乾杯する。「これからは、公私共々よろしく」グラスを置いて、ひととき見つめ合った。「なあ泉。ここで高屋さんに話してもいいかな」ピタリと泉の手が止まった。「僕らのことですか?」「うん」「音川さんが気にしなければ……」「きみはどうなの?」「僕は、どこでだって拡声器で言って回りたいくらいですよ」めずらしく泉が口角を上げてニヤリと笑ってみせ、音川に悪戯心が芽生える。「お兄さーん。マイクある?」高屋がいるカウンターの方に向けて音川が声を上げた。「ねぇよ!スナックと一緒にすんな」突然、ヒューゴがシェーカーを振りながら荒っぽく返答したものだから、周りの客は一瞬ギョッとしてから笑いに湧いて、高屋は床に座り込んで肩を揺らしていた。後で聞いた話では、普段は接客アンドロイドを思わせるほど礼儀正しい彼が初めて粗野な言葉遣いをしたものだから、常連たちが度肝を抜かれたらしい。23時を過ぎると客が引けて、店じまいを終えた高屋が音川たちのテーブルに合流する。高屋は音川と泉を横並びに座り直させ、そして自分専用の銅製のカップを持ってきて乙川の向かいに座った。ヒューゴはカウンターでドリンクを用意しているようだった。客が捌けた店内で、シェーカーを振る音が小気味よく響く。それぞれ異なる行
それは、泉の出向が正式に終了した日だった。東京から音川の元へ『帰宅』した泉は、音川同様に取りそこねていた夏季休暇を申請し、その期間に引越しを計画した。ついでに数ヶ月も不在にしていた実家に戻り、幾日かを親孝行に費やすことにした。音川はそんな泉に実家まで送ると申し出ておいて、まるでついでのように1通の封筒を差し出した。そこに「退職願」と書かれているのを見て、泉は青ざめた。「……どうして……」「理由は、個人的事情による退職。俺は、上司であり、管理職であり、君より年上だ。道理は明白だろう?君には、事後報告のほうがよかったかもしれないが……こういうことは、けじめとして、きちんと伝えるべきだと思った」音川の声は至極冷静で、当然のことのように述べる。反対に泉は震えそうになるのを押し殺しながら、両の拳を握りしめた。「でも、交際が社内規定に反するわけじゃない。上層部に言われたんですか? 」「いや。誰にも咎められていない。俺の倫理の問題だ。――俺は君の才能に惚れ込み、次のリーダーとして名指しした。その決断に私情は一切無いと言い切れる。しかし、恋愛関係にあることが知れれば、職務上の優遇や贔屓があったのではと誤解されてしまうかもしれない。そうなれば、きみの努力や才能が歪めて見られる。それだけはどうしても避けたいんだ」「そうやって、全部自分だけで決めて、自分だけ傷ついて、何でも一人で完結させようとするの、やめてくださいよ……」音川は伏せていた目を見開いた。思わぬ反発だった。自分が去ることは、どう考えても理にかなっているはずだ。泉の瞳は堅い意思を宿し、音川を静かに見つめていた。「僕たちが付き合ってることは、たしかに簡単なことじゃない。でも、だからってどちらかが犠牲になるのが当然なんて、おかしいです。――馬鹿げている」「……犠牲、というつもりはなかった。ただ……きみを守りたい。それだけだ」「守るなら、
音川は徐々に弛緩してゆく恋人の身体を支え起こし、唇は繋げたままで膝の上に座らせた。「ん……」合わせ目から泉がため息のような声を漏らす。自他共に認める甘党の音川だが、この唇や舌を越える甘い口当たりのものは知らなかった。このままでは抱き締め潰してしまうかもしれないと怖くなり、音川は無造作に立ち上がった。肩に頭をもたせかけて、完全に身体の力が抜けていた泉の身体が宙に浮き、驚きの声があがる。「ほら、ちゃんと掴まってて」ずかずかと部屋に踏み込んだ音川は、膝を突くと上体を倒し、泉の身体を布団へ寝かせた。首に両腕と腰回りに両足が巻きついたままのため、覆い被さる態勢だ。「もう落ちないよ」音川にそう言われて、自分の背中がすでに布団の上であることにようやく気付いた様子で慌てて身体を離す。音川は微動だにせず、泉を見下ろしていた。長く密着することは危険だと分かっていても、離れ難かった。しばらくそうしていると身体の下で泉がもぞりと身を捩り、硬い太ももが音川の下半身に触れる。これが限界だと音川はようやく身を引き剥がして隣の布団に仰向けに倒れ込んだ。部下に手を出すような人間じゃない、そう己を自己分析していたのは真実だったが、しかし、想いが募るにつれ、肉体的にも恐ろしいほどに泉に惹かれているのも事実だ。つい数十時間前の、泉の艶やかさが脳裏に蘇る。しばしの煩悶の後、音川は一際大きいため息をついた。これまでの自分なら、ここで布団を引き離してさっさと寝てしまっただろう。……紳士的な行動と言えなくもないが、今、それは正しい選択肢では無いはずだ。音川は枕元に置かれたスタンドライトの灯りを落とした。漆黒の闇が落ちる。しかし目を閉じても眠れる訳無く、自分の心臓の音に集中していたが、このまま無言で横たわったまま朝を迎えてしまったら心臓がオーバーヒートして燃え尽きるかもしれないと思い、口火を切った。「……喫茶店、もう高齢で週末にしか開けていないらしい」「音川さん家族が通っていたんですよね?」「うん。俺はもう数年ぶりになるかな」「最初にその話を聞いたとき、下町のタバコ臭い店を想像してしまいました」「価格的にはそうだろうな。大人になってから知ったが、このあたりの地主の道楽だってよ。ミックスジュースが絶品なんだ。俺の甘党の始まりは間違いなくそれ」「楽しみです。早く寝た
そうして、飛行機の予定時刻まで、ふたりはラウンジでゆっくりと会話を楽しむことにした。テーブルには、それぞれ好きなものをビュッフェから持ってきており、音川は一口サイズのケーキをいくつか、泉は数種類のコールドサラダに牛肉の煮込みと、アメリカンなセレクトだった。音川は泉の帰国便を自分と同じフライトに変更し、イーサンには「彼を連れて帰る」とだけメールで知らせておいた。彼が社に対して行ったことと同じような通達のみになるが、泉が残っても、イーサンに利用されるだけであると判断した。そもそも、本来の研修内容はすでに修了しており、会社間において実害は何もなければ、文句を言われる筋合いも無かった。「かわいいね」音川は塊肉をもぐもぐと頬張る恋人を見つめながら、そう呟いた。「リスみたいで、ですか」「ううん。きみが。可愛くてたまらない」「んぐ」泉は急いで水を飲み、むせそうになった呼吸を整える。「どうしたんです?急に……」「もう口をつぐんでおく必要がないのであれば、言いたい時に言う」「……それ、僕も同じことしていいですか?」音川はそう返され、視線を合わせたまま微かに首を傾げた。「俺に可愛い要素があるならな」「眼の前に甘いものを並べてニコニコしている音川さん、可愛い要素しかないです」今度は音川が声に詰まる番だった。「……ただの甘党です」泉がクスクスと笑い、「音川さんはかっこよくて可愛いです」とまっすぐに目を見つめたまま言うと、音川は小さく唸り声を上げて、後頭部に手をやった。その照れる様子がめずらしく、泉は目を細める。まもなくして、搭乗ゲートが開いたとアナウンスがあった。「そうだ」並んで機上の人となって幾時間も経たずに、音川は思いついたように、自分の左手首から腕時計を外すと、「俺だと思って持ってて」と泉の手首に巻き付けた。ブレスレットの留め具を抑える衝撃に少し顔を
『本日19時、現地集合』金曜日、速水は飲み会のメンバー全員にリマインドを送った。子会社側の音川と泉は間違いなくリモート勤務で、本社で出社をしているのは速水と高屋だけだ。阿部は毎週金曜日は在宅だから恐らく集合時間より前に出向き、あの美貌の北欧騎士を鑑賞する可能性は高いと速水は踏んでいた。出社組がヒューゴの店に到着するとほぼ同時に、音川と泉を乗せたタクシーが公園脇に横付けされる。「こんな洋館が近くにあったんだな」音川が感心したように建物を見上げて言った。祖父母が住んでいるクラコウを彷彿とさせるほど、本格的にヨーロッパ風の
泉の視線は、無人となった脱衣所に縛り付けられていた。音川の裸の上半身はつややかに光るほど水々しく、そしてスウェットパンツに手をかける仕草で——鼠径部のマーメイドラインがくっきりと現れてしまい、それは泉の下半身に身震いするほどの痺れを走らせた。もし通話の呼び出しがかからず、『背中を流そうか』など体育会系のノリで(そんなことはあり得ないが)、裸の音川が浴室に入って来ていたなら、あの美しいグリーンの両目にシャンプーで目潰しをして逃げるか、一生湯船から出られなくなっていただろう。硬く反応した下半身が見られたりすれば、もう一巻の終わりだ。
美術館前を出発してまもなく、泉が「着替えを取りに帰りたい」と言い出したことで、音川も自分のクルマにPCを置いたままなのを思い出した。特に仕事があるわけではないが、遠出する場合の習慣で持ってきている。職業病というよりマシン依存に近い。タクシーの行き先を泉のマンションに変更し、そこから音川の無骨な愛車に乗り換えてホテルに向かうことになった。長距離運転の後で車体に多少の汚れはあるが、高級車の部類に入るので、行き先が五ツ星ホテルであっても見劣りすることはないはずだ。見栄とは正反対にいるような音川だが、泉を——大切な人を連れて行くのだから、多少は気になる。ああいう場所には、行動や持ち物で人の扱い方
オフィスを出てマンションに戻る足取りは、今夜に限ってやけに重たかった。イーサンからの食事の誘いを断ったのは、これで三度目だ。にもかかわらず、彼は笑顔のまま言う。「気にしないで、イズミ。今日は金曜日で、僕はフリーだから誘っているだけ。定時後は君の時間だ。自由にするといい」一見、紳士的で余裕のある態度。けれどその言葉の隅々に微かな圧力が潜んでいるように受け取ってしまう。ただ、それはイーサンが母国語でない日本語を使用してくれている所為だとも十分考えられるため、あまり気にすべきでないのかもしれない。出向初日は、歓迎会を兼ねてと言われ誘わ