音川は失言を回避できたことにひとまず胸を撫で下ろした。
職場の人間に対して『かわいい』などと言ってしまえば、自分より目下に見ているせいだと誤解される可能性がある。もしも泉が女性だったなら、容姿についての感想だとしてセクハラにもなりかねない。
ずいぶん神経質に思えるかもしれないが、これには、7月の夏真っ盛りである中途半端な時期に実施された泉の人事異動に関連した事情がある。
泉は元々デザイン部の有望な若手だった。
デザイン部と開発部は同じフロアだが、廊下の端と端という位置で、休憩室がちょうど中間地点にあり、ちょっと話に行くには億劫な距離で基本的にそれぞれの一般社員たちは往来をしない。休憩室で顔を合わす程度の交流だ。 リーダー格以上となれば本社を含めた会議などそれなりの交流はあるため、音川もデザイン部の課長とはよく話をする。なんせ、デザインが上がってこない限り開発もすすめられないから、本来なら二人三脚で進めるべきなのだ。 それがなぜ袂を分かつかのように距離ができたのか—— デザイン部部長は保木という40代後半の男で、10年前に元の勤務先から顧客をごっそり連れての中途入社だった。 顧客を奪うのはまともな転職ではないが、本社から独立したばかりの子会社にとっては大きな機動力となる。保木と社長とは故知の仲らしく、チーフデザイナーとしての採用で給与も高く、地位も約束されていた。 しかし保木には、社長には絶対に見せない、裏の顔があった。デザイナーはダメ出しされるのも仕事のうちだと言われる。
しかし、それが技術の未熟さではなく、上司の機嫌で左右されるとなると、まごうことなきパワハラだ。 当初は同じオフィスだった開発部からデザイン部へ『声が大きくて集中力をそがれる』という申し入れがされた。 実際は保木部長の怒鳴り声とその内容に耐えかねた批判だった。 それが当のデザイン部内部からの発出であれば対策も立てられたかもしれないが、若手デザイナー達はよくも悪くも職人気質であり、理不尽にジッと耐えていた。というのも、保木が持っている案件は誰もが知る大手企業ばかりで、それに関わることは自分の実績に箔がつくことになる。
イコール、転職に優位となる。 耐えて実績を積み華麗に転職する—— それが若手デザイナー全員の共通意識だった。音川と速水は、保木が中途入社した年の新入社員だった。
独立したことで、これからより高度で専門性の高いサービスを提供するための補強要員であり、時期的には会社の創立メンバーと考えても良い。 しかし、先進的な考え方を持つ若い技術者である2人は、すぐに、保木ひとりのせいで雰囲気が悪くなってしまう環境に辟易し、何度も上長に申し入れをしていた。 それは若者特有のフレッシュな正義感から発生したものではなく、単純に、音川や速水にとって、理の通らない保木の言動は生理的に受け付けられなかったのだ。そして、理不尽なデザインの差し戻しによる時間の無駄遣いは、その後の開発工程にしわ寄せがくる。
そんなことは入社したばかりの新人でも分かるのに、なぜ保木が平気で人に迷惑をかけることができるのか。 「周囲に、自分は特別だと見せたいんだよ。単なるエゴ」と当時の開発部の上長は吐き捨てるように言った。音川にはその手法もまるで逆効果で、一層保木を軽蔑するだけだった。しかしここ1、2年、保木が通したデザインが顧客からあまりよい評価を得ない例が散見されるようになって来ていた。
目新しさがなく、多様化についていけていないという厳しい指摘。そして費用とWebサイトの集客結果が見合わずに契約更新がなかったりといった案件が増えてきたのだ。 これは客側のマーケティングで世代交代が起こったことを意味している。 自社のサイトがありインターネットに広告を出しておけば何でもいいという上層部が消えて、Webやソーシャルメディアでの集客こそが主力であることを知っている世代になったのだ。そうすると保木の理不尽なダメ出しに耐えていた若手も方向転換を考える。
実績として出すのが恥ずかしい仕事は誰もやりたくない。 若手に慕われているという幻覚に浸っていた保木は——そういうことに鼻が効く。 見切られようとしていることを察して、若手を逃すまいと躍起になった。しかし顧客という後ろ盾の前にあぐらをかき、センスも技術も磨かず天狗になっていただけの保木ができることは、売り上げが落ちた責任を部下になすりつけるという最低な行為だけだった。
契約更新を断られたきっかけになった納品物を、俺のデザインじゃない、と部下の居ない経営会議で言い放ったのだ。責任をなすりつけられたのは2番手のデザイナーで当時の課長であり、人望も、実力もあったから、当然のようにさっさと転職し、次々と腕の良い者がそれに並んだ。
人材の流動が大きい業界とは言え退職者が多すぎると、本社から事情を聞かれた自社の人事が、問題の大きさにようやく気付いた時にはもう手遅れだった。とうとう、保木に対してセクハラの訴訟が起こったのだ。
相手は入社したばかりの女性デザイナーで、保木より25歳以上も年下だ。証拠として提出されたボイスレコーダーの音声は明瞭で、保木の執拗な粘着と、それをキッパリ拒否する女性の声の往復だった。何度も拒否され腹が立ったのか、脅しに該当する発言もあった。
即日、本社は子会社に保木の停職を命じ、社員との一切の接触を禁止した。 見て見ぬふりだった人事部長にはきつい注意と相応の処分がなされ、それ以降だれも保木を見ていない。音川は古参で本社に人脈があり噂話はよく耳に入る。また役職もあることから、本社のハラスメント研修を兼ねて詳しく事件の経緯を聞いていた。
自分の保身のためにもハラスメントをしてはいけない、と取れる指導もあったため音川は首を捻ったが、そう伝えることでしか響かない人間もいることは理解していた。音川は徹底した論理的思考の持ち主で、感情を仕事に持ち込むことは一切ない。個人的な人の好き嫌いも無い。
だが、自身が所属する開発部では音川を巡って新人エンジニアがとある事件を起こしたことがある。未遂に終わったため大事に至らず、また本人の知らぬところであったが、音川は不穏因子に気が付かなかったのは自分の不注意であると自責の念を持ち、それ以降、部下との一切の個人的な交流を絶った。就業後の飲みや、出社時のランチでさえ同行しない。しかも音川には外見上の問題もある。
母方の祖父から譲られた緑色の瞳と鋭い視線は、恐ろしく澄んで氷のナイフさながらだ。鋭い視線にゴリゴリの筋肉が与える印象は、エンジニア志望で入社してくる真っ白な男子には威圧感でしかなく、最初は目を合わせて貰えない。 しかし、怖いという第一印象は、新入社員研修が終わる頃には180度転換して、話しやすく頼り甲斐がある先輩に変わる。 ひとえに音川のフェアでフレンドリーな言動によるものだ。 部下も上司も関係なく、なんでも話せるオープンな雰囲気を作ることを音川は自分の役割だと決めていた。 エンジニアの中にはコミュニケーションが苦手な人がいるが、音川は、せめて自分が関わる範囲においては、あけすけでもいいから、良いことも悪いことも全てを話し合える関係を築くことが何よりも大切だと考えていた。 それが、技術力向上の土台になると信じているからだ。新人の泉に対して音川が出した「もっと砕けて」という要望はそういう背景からだ。
デザイン部で保木が泉をどう扱っていたかは知らないが、恐らく、理不尽な圧力によって本来の能力を出せていなかったのではないかと推測する。今回、高屋のプロジェクトに参加するにあたり、音川が作成した資料は詳細設計に近く、サーバー構築の知識がなければ読み解くことは難しい。
音川の意図としては、泉には実践練習として参加してもらい、学びがあればそれでよいと考えていた。 しかし泉は資料をなんなく理解しており、出された質疑は技術的なことをすっ飛ばして、ほとんどがユーザーでの運用に関することだった。 まずは業務内容やユーザーの要望だ。そこが掴めれば、組むべきシステムは自然と見えてくる—— この感覚を持ち合わせているのかもしれない、と音川は泉のエンジニアとしての能力に期待値を上げていった。「泉くんて、デザイン部だった割にサーバー構築についてよく知ってるね?」
「あ、ありがとうございます。僕、元々は開発志望だったんです。ただ、美大出身だったので……それで希望が通らなかったんだと思います」
「じゃあプログラミングは独学で?」
「そうですね……課題で3DCGを作ってからそっちの方に興味が出て。あとはアプリなんかも作って、それを仲間内で遊ぶためにサーバーを立てたりして」
「すごいね」と音川は心底関心した。
「いえ……」
「本気で仕事任せていい?」
「もちろんです!」
「うん、じゃあ泉くん主導でやってみてよ。もし不明な点が出てきたら何でも聞いて。あと、インドとは当面の間は毎日17時に会議設定してあるから、そこでも聞きたいことあれば、気兼ねなく」
「ありがとうございます!」
心の底から嬉しそうなはずんだ返事は、音川を笑顔のさせる。開発が好きなんだと十分に伝わった。
「楽にやってね。何しても怒んねーから。でもデザインも開発もできるのなら……泉くんは転職とか考えなかったの?例の事件で」
「まだ2年目ですから。それに、開発部に異動できるなら願ったりで」
「会社のせいで、少し遠回りさせたか」
「いえ、デザインも好きです。会社に遺恨はありません。保木部長は別ですが」
「嫌な目にあってたのか?」
「被害に合った新人女性、学校の後輩なんです。心配で残業時はできるだけ一緒に残るようにしていました。あの日は……」
「ああ、あれ泉くんのことだったのか」
音川は独り合点がいった。聞いた話では、当該の新人女性と共に残業していた男性社員がいたが、保木が事件を起こした夜だけは定時で帰宅していたらしい。
「家族の集まりがあって、どうしても出席する必要があったので」
「それにしても、よく証拠が残せたね」
「残れる人が居なかった時のために、ボイスレコーダーを用意していました。みんなでお金を出し合って買っておいたんです」
「あ!そういうことか」
「僕の予定は本物です。新人の彼女は留学が決まって、退職はすでに予定済みでした。保木さんは欲で頭がおかしくなっていましたし、すべてのタイミングが合った。安心して働ける職場を、という彼女の置き土産です」
「それもあって、辞めなかったのか」
「少しは。開発への異動を申し出たのは——デザイナーの間では、音川さんから戻って来る修正の指示をいつも取り合っていました。的確で、常に明確な理由があった。僕はずっと、音川さんと仕事がしたかったんです」
「え、褒めても何も出ねーけど」
ふふ、とスピーカー越しに泉の微かな笑い声が聞こえる。
「本社のデザイナーの阿部さんってご存知ですか?」
「ああ、うん」
阿部は音川や速水と同期入社で、数年前、出産をきっかけに本社に異動していた。3人とも独身だった頃は散々飲み歩いた仲だ。
「僕、よく阿部さんとランチに行くんですよ」
「何か吹き込まれたのか?」音川は怖怖尋ねた。
「開発のガサツでマッチョなやつに気をつけろって」
「なんだ、そんなことか」
音川は思い浮かんでいた若かりし日の失態を急いで記憶の奥に再びしまい込んだ。
「腰痛対策で鍛えてるだけ。俺は人畜無害ですよ。どうだった?昨日、初めて話してみて」
「えっ、と。音川さんは、かっ......」
泉は言いかけた言葉を急いで飲み込んだ。
音川の方は泉と初対面だと認識していたが、その実、泉は入社して間もなくの頃、音川と言葉を交わしたことがある。あれは新入社員研修が長引いた日で、たしか20時頃だった。
飲み物を求めて休憩室へ行くと、街のネオンが差し込む暗い部屋で、長身の男性が窓辺にもたれかかるように佇んでいた。 ひと目で、あれが噂の音川だと分かった。 泉は音川に気が付かれていないことを幸いに、デッサンをする時のように、窓辺に立つ姿を上から下まで詳細に観察した。 同期たちが、新入社員にありがちなテンションでしきりに話題にしている音川は、例えば、学生時代に開発したアプリが米国の企業に数億円で買収されたらしいとか、入社後半年で1階のショールームの女性コーディネーター全員から告白されたという伝説があるとか、真偽を疑うものばかりだったが…… こと外見に関しては、実物が噂を遥かに凌駕していた。完璧な頭身に、密度の高い絞まった四肢、すっと伸びた細い鼻筋に、軟らかく光るグリーンの瞳と、軽く癖のある豊かな黒髪がまとわりつく額、高い頬。それ自体が鈍く発光しているかのように白く水々しい皮膚。
夜の闇とネオンの光を混ぜ合わせたような存在はまるで、夜のオフィスをしなやかに散策する、一匹の美しい黒豹のようだった。 雄々しく、逞しく、そしてひどく妖しい。泉は頭の中のキャンパスに、その存在しない黒豹を素早くデッサンしてみたが満足できずに破り捨てた。
そしてまた描き始める。 しかし一生描き続けても足りないような気がして、このまま、ずっと見ていられたらと立ち尽くしていると、ふと音川がこちらに顔を向けた。 一瞬だけバツが悪そうに微笑み、部屋の中から手招きをしている。「新人かな。遠慮してたの?」と、気遣うようにかけてくれた声はしっとりと低く、夜の森のように深かった。
音川は慣れた動作で『来客用』とラベルの貼られたケースから出してきたカプセルでコーヒーを淹れてカップを泉に手渡し、そして自分にも同じものを使うと、「共犯な?」と泉の顔を覗き込んでニッと笑った。
「デザイナーかな。そっちがブラックすぎたら開発においで」と言い残して、美しい黒豹はしなやかに休憩室を出ていった。
泉は一言も発することができず、ただ呆けたように音川を見つめていた自覚がある。
短い出来事で、音川の記憶に残っていなかったのも当然だが、泉には強烈な思い出だ。それから本格的にデザイナーとしての業務が始まり、音川と仕事で関わるうちに、音川の丁寧で非常に論理的に書かれたデザインの修正依頼を心待ちにするようになった。
もちろん、修正が無いに越したことはない。ただ、どれだけプログラミング寄りに考えたデザインをしても、部長である保木がそれを改悪するのだから、開発からの修正依頼はどうしたって上がってくる。 音川は、そこを十二分に分かってくれていて、だれも反論できない、完璧な修正依頼を返してくれていた。それも、保木を含め、デザイナーが傷付かない表現で、だ。そんなだから、明確で精密な指示であっても、何かしら理由を付けて音川の元へ質問をしにいくデザイナーが後を絶たなかった。
音川は口癖のように、『馬鹿な質問なんてない。あるのは馬鹿げた答えだけだ』と笑ってどんなに初歩的な質問であっても、見当外れな意見であっても、何でも丁寧に答えてくれると評判だったが——泉は音川を意識する余りに、他の同期たちのように話しかけに行くことができず、ただ文章と図でもたらされる接点だけを何よりも大切にしていた。
それに、プライドが無駄に邪魔をして、分かりきったことを質問しに行くことがどうしてもできなかった。泉がデザイン部で高い評価を得ていたのは、ひとえに、仕事の結果で音川に認識されたいという自己顕示欲が生んだ結果だった。
いつか開発に異動すると決めて、プログラミングの鍛錬も手を抜かなかった。そうして、1年目を過ぎた頃には、完全に——
恋に落ちているという自覚があった。そのまま黙った泉に、音川はふっと笑い、「何聞いてんだろ、俺」と自問してすぐに、「じゃ、また夕方のインドとの打ち合わせで」と締めくくった。
「はい。音川さん、カメラ、つけてくださいね」
「なんで?」
「顔が見たいからです」
音川は言葉にならない唸り声で返事をして、通話を終了した。
そして、泉が何世代に属するのかは知らないが、カメラ越しの通話が当たり前の世代では、別れ際にそう言うものかもしれないな、と一人納得した。
「すまん、金曜日に残業なんて」音川が発する申し訳無さそうな声色は本心から来るものだと、泉はちゃんと分かっていた。とりあえず謝っておけばいいというおざなりさとは感情の深みが違う。 それに、静かに合わされた視線が——優しい。「本当にいいんですよ。むしろ、嬉しいです」「残業好きなの?変わったヤツだな」「違います。早く検証して貰いたかったので」「そうか。まあこれまでの単体テストでも問題は無かったから、今日は総仕上げだな。検証用サーバーで動きだけ見れたらいいよ。ぱぱっと終わらせて早く帰ろう」「お急ぎですか?」「俺?いや、そういうわけじゃ……」音川としては、泉が早く帰りたいだろうと思ってのことだった。残業好きでないというのなら。「この後、ジムの予約があるとか?」「それは朝」「うわ、すごい」「すごかねぇよ。どうせモーニング食いに駅前の喫茶まで行くからな」「毎朝モーニングですか?」2人は話しながらテキパキとテレフォンカンファレンスの機材を片付け、モニター等々の電源を落としたことを確認してから会議室を後にした。 出社する人数が極端に減った今、会議室はほとんど使われておらず、うっかり付けっぱなしにしておくといつまでもそのままになってしまう。「ウォーキングを兼ねてな。雨なら行かない」「面倒なんですね」「うん。ジムの日なら雨でも車で行くけどね」「僕、いわゆる喫茶のモーニングって食べたことがないです」「ほんまに?」「あ。音川さんの関西弁、始めて聞きます」ドアの傍で立ち止まり、音川は口をあんぐりと開けた。 大阪を離れ20年ほど経った今では、実家の家族や友達と会う時でさえ最初は標準語が出てしまう。それがまさか、職場で、しかも部下の前で咄嗟に関西弁が出てしまうとは自分でも信じがたい。 さらに大阪弁が出るかもしれないと思えば迂闊に口を開けない。いや、別に何の問題もないのだが、またしても『らしくない』自分の行動に少し動揺しそうになり、軽く咳払
社に戻るとすぐに音川は高屋にチャットを送っておいた。仕事ではなく私用の方だ。連絡できない相手がいるという一番の心配は取り除いてやれないが、それでも、夕方の定例会議で音川に礼を述べる高屋は安堵したように微笑み、顔色もやや血色が戻ったように見えた。次の安心材料として、「こっちは概ねスケジュール通り進んでるよ」と音川は丁寧な声色で開発状況について報告する。泉の進捗を精査したわけではないが、ちらほらと見た感じでは画面上の動作に違和感は全く無く、むしろ元よりずいぶんスムースな動きに感じられた。それにもし無理難題だったなら、泉は臆せず音川にヘルプを求めてくるはずだ。「泉くん主導でやってくれているんだってね。音川さんのつもりでスケジュール引いてるから、厳しそうなら言ってね」「はい。ありがとうござ……」と泉が言い終わらないうちに、「俺がマンツーマンで付いてるから大丈夫だ」と音川が割り込み、高屋と速水を交互に見る。「二人しかいないんだから必然だろ」と速水は辛辣に言い、高屋は「音川さんから直接指導が受けられるなんていいね」とにこやかに頷く。「それはそうですね……でも放置……いえ、自由にやらせてもらっています」泉の返答に高屋は「上手く言い換えたね」と笑い、音川はいたずらがバレた子供のように不満顔を作った。「実は教えることがほとんど無いんだよ」「それは優秀だ。泉くん、本社に来ない?」ニヤリと笑う速水に「だめ」と音川が即答した。速水の勧誘は半分冗談だが、音川は内心、こんなに優秀なやつ渡してなるものかと本気の拒絶だ。「そうだ、速水さん。インド料理のレシピ本を買ってきてもらえないでしょうか。もちろん代金は払います」「いいよ代金なんて。俺もこっちの本屋に興味があるからついでだし、インドのエンジニア向けの出版物なんて日本じゃ手に入らないからな。それに奥さんにも文房具だの雑貨を頼まれてんだよなあ。どこかで買い物に出なきゃならん」「ありがとうございます。お願いします」「泉くん、料理するの?」と高屋が音川
音川の役職は最高技術責任者だ。コンサルティング会社である本社には、技術面の諸判断を行うために速水がいるが、両社合せてこの肩書を持つのは音川だけだ。ゆえに部長や課長といった一般的な序列とは別のルートであり、孤高の存在である。普段、音川本人は自分の立場の強さをおくびにも出さず、あくまで一般技術者として開発目線で行動しているが、いざというときは全責任を負う立場として顧客と交渉する。学生から、『キーボードを持って生まれてきた男』と揶揄されるほど開発に没頭してきたが、今の役職ではシステムやデータベース設計の上流工程を受け持つだけで、社内で開発そのものに取り掛かることは非常に稀だった。そのせいもあり、音川は副業の方で思う存分アプリケーション開発をしている。今のところ開発も設計もデザインも自分独りのワンマンで、実験的なことをやりたい放題、出資者はいるが、受け取っているのは金銭ではなくデータのため、共同開発者と呼べる。納期もない趣味の延長のようなもの——周囲にはそう見せかけているが、其の実、音川は明確なゴールを持って開発に取り組んでいる。いずれ完成すれば、今の会社務めの方が副業になるだろう。音川が子会社のフロアに到着する頃、泉は開発部のオフィスで独り、ヘッドフォンを装着して目下の課題にのめり込んでいた。高屋から提供されたサーバー再構築のスケジュールは音川が担当することを想定して組まれているためタイトだが、自分にも不可能ではないと判断した。泉は——この日がくるのを夢見てずっと独学でプログラミングの鍛錬をしてきたのだ。デザイン部では開発の音川の目に留まることを期待して懸命にやってきたが、今与えられているチャンスはそれとは比較にならない。これからは開発部の一員として、あの孤高の存在であるエンジニア——我こそ右腕にならんと皆を切磋琢磨させるカリスマ性に誰もが憧れている——と仕事ができる。憧れが昂じて恋に変化している者もいないとは言い切れない。まさに、泉自身がそうであるからだ。昨夜、その音川から出社の連絡を受けた時は、心臓が躍動し
音川は、毎日のインド組との定例会は1時間まるごと雑談に当ててもいいと考えていた。話の分かる人間とざっくばらんに語らうことで、インド滞在中の速水と高屋のストレスを少しでも軽減しようというのが真の目的だからだ。 会社では公にしていないが、音川は中学から20歳頃までポーランドで過ごした帰国子女であり、異文化圏でなにかを遂行する難しさをよく知っているから愚痴も面白く聞けるし、的はずれなアドバイスをしない思慮深さも持ち合わせている。加速する日焼けに比例して、どんどんやつれていく2人は、気象と立場の両方の意味で過酷な環境にいる。 特に高屋の疲労感は酷かった。「高屋さん、目の隈がすごい」「そう?」高屋はモニターを鏡代わりにして見ながら顔に手をやった。確かに目の周辺が窪んで、頬もこけたように思う。「寝不足?」「うん。本来はどこでも眠れるはずなんだけどね、今回はそうもいかないみたい」そう言って高屋は目を伏せた。「なにか、心配事ですか?」それまで、にこやかに先輩3人の雑談を聞いていた泉が、ふと口を挟んだ。「ケータイが無いからだろ」と音川は端的に言った。「そう……連絡しなきゃいけない人がいるのに……連絡先がわからなくて」さらに沈んだトーンになった高屋に、音川が「その相手って、帰国後に事情を説明しても、分かってくれなさそう?」と少し踏み込んで問いかける。「恐らく理解してくれると思う。でも、毎週末泊まりに行く習慣なんだ。それを急に連絡もなくすっぽかすことになって……向こうからおれの番号にかけても音信不通だろう。心配かけていると思うとね、自分を責めてしまって。眠れない」「恋人ですか?」と泉がさらりと訪ねた。 毎週末の泊まりや憔悴した様子からして聞くまでもないことだろうと、音川と速水は敢えて言及しなかったが。「いや……友達、かな」高屋のその答えに、30代2人は椅子から転げ落ちそうになった。「んだよ、てっきり……」「なんで2人共ちょっと怒ってるの?」高屋がキョトンとした表情で、向
音川は失言を回避できたことにひとまず胸を撫で下ろした。職場の人間に対して『かわいい』などと言ってしまえば、自分より目下に見ているせいだと誤解される可能性がある。もしも泉が女性だったなら、容姿についての感想だとしてセクハラにもなりかねない。ずいぶん神経質に思えるかもしれないが、これには、7月の夏真っ盛りである中途半端な時期に実施された泉の人事異動に関連した事情がある。泉は元々デザイン部の有望な若手だった。デザイン部と開発部は同じフロアだが、廊下の端と端という位置で、休憩室がちょうど中間地点にあり、ちょっと話に行くには億劫な距離で基本的にそれぞれの一般社員たちは往来をしない。休憩室で顔を合わす程度の交流だ。リーダー格以上となれば本社を含めた会議などそれなりの交流はあるため、音川もデザイン部の課長とはよく話をする。なんせ、デザインが上がってこない限り開発もすすめられないから、本来なら二人三脚で進めるべきなのだ。それがなぜ袂を分かつかのように距離ができたのか——デザイン部部長は保木という40代後半の男で、10年前に元の勤務先から顧客をごっそり連れての中途入社だった。顧客を奪うのはまともな転職ではないが、本社から独立したばかりの子会社にとっては大きな機動力となる。保木と社長とは故知の仲らしく、チーフデザイナーとしての採用で給与も高く、地位も約束されていた。しかし保木には、社長には絶対に見せない、裏の顔があった。デザイナーはダメ出しされるのも仕事のうちだと言われる。しかし、それが技術の未熟さではなく、上司の機嫌で左右されるとなると、まごうことなきパワハラだ。当初は同じオフィスだった開発部からデザイン部へ『声が大きくて集中力をそがれる』という申し入れがされた。実際は保木部長の怒鳴り声とその内容に耐えかねた批判だった。それが当のデザイン部内部からの発出であれば対策も立てられたかもしれないが、若手デザイナー達はよくも悪くも職人気質であり、理不尽にジッと耐えていた。というのも、保木が持っている案件は誰もが知る大手企業ばかりで、それに関わることは自分の実績に箔がつくことになる。イコール、転職に優位となる。耐えて実績を積み華麗に転職する—— それが若手デザイナー全員の共通意識だった。音川と速水は、保木が中途入社した年の新入社員だった。独立したことで、
『音川君、今ちょっといい?』ピコン、という通知音と共に送られてきたメッセージを見てすぐ、音川はヘッドセットを装着した。 在宅勤務となり4年目。IT会社に務める音川にとっては出社してようが在宅だろうがチャットによるコミュニケーションは常だったが、通話は以前に比べて圧倒的に増えた。『はい、大丈夫です』チャットではどうしても堅くなるな、と表示された自分の返信を見ながら、メッセージの送り主である課長からかかってきた通話を受ける。これが口頭なら、『いっすよ』だっただろう。「お疲れ様でーす」と課長の軽快な掛け声が思ったより大きく、音川は急いでボリュームを下げた。「おつかれっす」「急にごめんね。ちょっと相談なんだけど、T社の件について何か聞いてる?」「ああ、あの揉めてるやつ」「こっちはもうカツカツで人が増やせないから、音川君どうかなって」T社とは、自社のWebアプリケーションのカスタマイズを一手に引き受けてくれているインドの開発会社だ。 最近先方でボイコットがあり、本社の企画と開発が現地入りしていると音川は本社の開発担当の速水から直接チャットで聞いていた。 騒動の内容と、音川の手を借りることになるだろうという話も。「えー、めんどくさい」「ホンネがすぎる」と課長が言うが、音川のこういった素直さを何よりも頼りにしているのは当の課長だった。 営業の持ってくる仕事を選別する際に、音川のように現場の声をダイレクトに伝えてくれるエンジニアがいると大変に助かる。 ただ今回は、『忙しい』ではなく『めんどくさい』なのが厄介だ。「で、やれそう?」「いけるっちゃいける」「助かるよ。まいどまいど。で、新人を付けるから、教育も兼ねて欲しいんだよね」「あっ。そっち?……余計にめんどくさい」「まあそう言わずに。いい機会だから育ててみてよ。元デザイン部の貴重な人材なんだ」課長は、今年度から開発部に配属された新人の名前を出した。フルネームは青木泉というが、社内に同じ青木姓がすでにいるため、慣例に沿って新人は名前の『泉』だけを通称にしており、混乱を避けるため社内SNSも同様とのことだ。「ああ、彼か」「知ってるの?」「名前と仕事は一致するよ。いいデザインをあげてくるコ。話したことは、ないかな。たぶん」開発部門には、前業務や勤続年数に関わらず、配属された時を