紅の月、籠の鳥

紅の月、籠の鳥

last updateLast Updated : 2025-09-23
By:  桜木いとかCompleted
Language: Japanese
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■「なぜここに来たのだろう。どうしてここにいるのだろう」 自ら館に囚われる少年と、彼を慈しむ主の紳士。 二人の歪んだ愛の先に待つのものは、幸福か、破滅か。 完璧紳士×おっとり少年のダークファンタジーBL。

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【序】Ⅰ
 その館は非常に大きく、しかし童話から飛び出してきたような可愛らしさを兼ね備えていた。まず尖った屋根が人々の目を引く。グレーのレンガと黒の木材が使われた壁には、絵画を思わせるように蔦が這い、広い庭では色とりどりの花が咲き誇っていた。  館の主はハーベンと呼ばれる年の頃二十五、六歳の青年である。長めのストレートの銀髪と翡翠を思わせる瞳が、彼の美貌を引き立てた。  ハーベンの館には数名の使用人のほかに、一人の少年が住んでいる。その少年――羽山五月――は濃茶の髪にこげ茶の瞳の持ち主で、十八歳くらいに見えた。東洋人のためか、やや幼く見える容姿の五月は、館の敷地からほとんど外へは出ない。今朝も目覚めると食堂に用意された食事を食べながら、午前の間は読書でもしようと考えていた。 「サツキ、今日は何をして過ごすのかな?」  五月のためにきれいな指先で器用にゆで玉子の殻を剥きながら、ハーベンが優しい声で尋ねる。サンドイッチを齧っていた五月は口の中のものをこくんと飲み込んでから急いで返事をした。 「本を読みたいんだけど、書斎に行ってもいい?」 「もちろんだとも。君がいてくれれば私の仕事もはかどるよ」  笑顔を深めたハーベンは、食後のコーヒーの支度に取りかかった。もちろんコーヒーは五月の体を気遣ったカフェインレスのものをチョイスするこだわりっぷりだ。  毎食こうして五月の食事の準備をしてくれることに、以前、五月は遠慮したいと申し出たのだが、ハーベンはにこにこしながら「私の楽しみだから」と五月の頭をなでるばかりで聞き入れてくれなかった。あまりしつこく食い下がるのも厚意を無下にするようで、五月はそれ以来、ハーベンの手作りの料理のみを口にする生活を送っている。世界各国の様々な料理を作るハーベンの料理の腕はレストランのシェフにも匹敵するのではないかと思うほどのもので、五月はハーベンの料理がとても好きだった。あまり食べる方ではない五月が丁度食べきれる量を作ってくれるのも手伝って、いつもどの料理も残さず食べられるのも嬉しい。  給仕をしてくれていたハーベンが二人分のコーヒーを手に、ようやく五月のすぐ隣の席に腰を落ち着けた。 「夕方は私も時間が取れそうだから、庭を歩こうか……少し天気は悪いけれど」 「本当に!?」 「ああ。でも今日は少し冷えるから、暖かくしておいで」  自分
last updateLast Updated : 2025-09-02
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【序】Ⅱ
 五月は書斎で本を読みながら、忙しく動き回るハーベンの姿をちらちらと盗み見ていた。気づかれたいけれど、こちらを見てほしくない。そんな気持ちで穏やかな顔で仕事をしているハーベンへ視線を向ける。すると、ふっとハーベンの笑みが深まった。「はかどると思ったけれど」「え?」 銀色の髪をかき上げて、ハーベンがつかつかと五月が座っているソファへの方へと歩いてくる。五月は彼を見ていたことがバレてしまったのかと、手にしていた本で顔を覆った。その本を柔らかな手つきで取り上げたハーベンは笑っている。「同じ部屋に君がいたら、構いたくて仕方ない」「――……あ」 ハーベンの白くて骨ばった手が五月の顎に添えられた。されるがままに上を向くと、羽が触れるような口づけが降ってくる。額に瞼に頬に、そうして最後に唇が重なった瞬間、五月の体を甘やかなしびれが襲った。「ん、う……」 長いキスではないはずなのに、五月の口からは吐息交じりにつうっと銀糸が零れ落ちる。唇を離したハーベンが、微笑みを浮かべたままそれを指先で拭ってくれた。「サツキ、愛している」「ん、僕も。ハーベン」 もう一度、今度は本当に軽く唇を合わせて、ハーベンは五月の手を取りソファから立ち上がらせる。「どうしたの?」「今日はもう仕事はやめだ! 昼食を摂ったら庭に出よう」「ぼ、僕のせい?」「私のためだよ」 少しおびえた目をした五月の頬に手のひらを当てて、ハーベンは笑いながら答えた。そしてつないでいる方の手を軽く引っぱって書斎を出る。ハーベンが調理をすることを差し引いても、まだ昼には少し早かったが、二人は食堂へと歩いて行った。
last updateLast Updated : 2025-09-04
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【序】Ⅲ
 翡翠の瞳に見守られながら昼食を終えた五月は、その瞳の持ち主である麗しい紳士ハーベンと共に屋敷の南側に広がる庭へ向かった。もちろんハーベンに言われた通り、体を冷やさないようショールを体に巻き付けることは忘れない。昼食にと出された食事は肉を薄く叩いたカツにポテトサラダとライ麦パンが添えられていて、ハーブが効いていてとても美味しかったなと、五月は思い出していた。 ランチの後にはいつもカフェの時間を取るハーベンと五月は、折角の庭の散策だからと、後ほど庭でケーキとコーヒーを楽しむもうとバスケットの用意をしてきている。「ね、ハーベン。ランチのハーブ、珍しいのだった?」「ああ。特別に取り寄せたんだよ。サツキの体調に合わせて使ってみたかったんだ」「そうなんだ。すごく美味しかった」 食事の感想を話しながら、五月はハーベンと手を取り合ったまま庭を歩いていた。別に人目を忍んでいるわけでもないのだけれど、庭でのデートは五月にとってまるで砂糖菓子のような秘密の恋を育む大切な時間なのだ。 庭に咲くポピーやカサブランカ、チューベローズやアネモネなどの大量の花々は、あいにくの曇り空にもかかわらず、きらきらと水滴を弾いて輝いている。色とりどりの花の中を歩いていた五月が急に大きな声を上げた。「わ! この花、昨日は咲いてなかったよ!?」「――……サツキの好きな花だからね」 五月の指さす先では、クレマチスが蔦を絡め合わせながら、見事に時計の形の紫色の花を咲かせている。幼子のようにはしゃぐ五月を見るハーベンの視線は柔らかく一向にクレマチスを見てくれなかった。そのことに焦れた五月はクレマチスの前まで走っていき、振り返ってハーベンへと手を振る。流石にこれにはハーベンも声を立てて笑った。「僕のことはいいから、クレマチスを見て」「わかったよ、サツキ。花も君もきれいだ」「もう……!」 口をへの字の結んで頬を膨らませた五月を見て笑ったまま、ハーベンは近くに置かれているガーデンテーブルにケーキとコーヒーの準備を始める。五月は慌ててテーブルへと駆け寄って手伝おうとした。「サツキは座っておいで」
last updateLast Updated : 2025-09-06
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【序】Ⅳ
 そんな午後のひとときを過ごし、夕食と入浴を終えた五月は、ベッドルームでアロマキャンドルの炎を見つめていた。不規則に揺れる炎を見ていると、自然と心が落ち着いてくる。しかし五月に眠気にはなかなか訪れなかった。別に不眠症というわけではないのだが、眠る前にはある習慣を済ませなければなんとなく安心することができないのだ。 ぼんやりとキャンドルを眺めていた五月の耳に、ドアが開く音が届く。振り返らなくともハーベンだとわかった。「サツキ、ホットミルクを持ってきたよ」「うん。ありがとう!」「今夜は冷えるからね。飲んで温まってから眠ろう」 差し出されたカップには、毎夜飲んでいるホットミルクが温かな湯気を立てている。こくこくと小さく喉を鳴らしてホットミルクを飲む五月を、ハーベンはいつも通り優しいまなざしで見つめていた。ハーベンは空になったカップを五月から受け取り、ベッドサイドの小さなテーブルに置く。そしてほうっと小さく息をつく五月を優しく抱き寄せた。「おやすみ、サツキ。愛しているよ」「……ん」 五月が短く返事をすることしかできないのは、いつものことだ。このホットミルクは五月のお気に入りで、飲むと途端に眠気を連れてくる。五月にはそれが不思議だった。 特別なものは入っていないのだとハーベンは笑っていたけれど、何かの魔法がかかっているに違いない。痛みも悲しみも何もかもが薄れてしまうような素敵な魔法を、ハーベンのように素敵な紳士なら使いこなせてもおかしくはない。だってこんなにもしあわせな眠りを与えてくれるのだ。 体が重くなって指先すらも動かせない。けれどそれすら心地よくて堪らない――怖いほどに。眠りに落ちていきながら、五月はひとつだけ思った。 ――でも、なぜ僕はここに来たのだろう。
last updateLast Updated : 2025-09-09
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【破】Ⅰ
 変わることなく過ぎていく日々の中、ある朝の食卓でのことだった。五月がいつもの通りハーベンお手製の朝食を食べていると、コーヒーを淹れていた彼がつかつかと五月の元へとやってくる。怪訝に思って顔を上げた五月の濃茶の髪を耳にかけたハーベンはじっと五月の顔を見た後、全身へと視線を滑らせた。 「どうしたの? ハーベン」 「少し痩せたかな?」  そのハーベンの言葉に五月は言い知れぬ恐怖にも似た感情を抱き、握っていたフォークを取り落とす。フォークは皿にぶつかってガチャンと嫌な音を立てた。五月は食堂を走り抜け、果ては屋敷からも飛び出して行く。  まだ朝の早い時間帯で人もまばらな町の中を走って、走って、走って、よくわからない場所まで来てから足を止めた。そこからはゆっくりと歩いて、ひたすら町をさまよい続ける。  五月は荒くなった呼吸を整え、一度考えを整理しようと深呼吸を繰り返した。 「だって、僕は、ちゃんと食べてた……」  自分の食事や間食はすべてハーベンが用意していた。余計なものは口にはしていない。それから食事を残していないことも確認できた。五月は少しだけ安堵する。  それに先程のハーベンはいつもと変わらぬ笑みを湛えていたし、多分怒っていたのではないだろう。五月の体調を純粋に心配してくれただけかもしれないのに、なぜ自分はこんな風にパニックを起こしてしまったのか。  歩き回りながらそんなことをずっと考え続けていた五月は、徐々に意識が遠のいていくのを感じた。  暗くなった視界に気づいた五月が慌てて目を開くと、見慣れたレンガと梁が目に入る。 「――……あれ?」  五月は館のベッドで眠っていた。仄かに香る石けんの匂いと着替えが済んでいる。そして隣には寝息を立てているハーベンがいた。まるきりいつもの夜を迎えていることに五月は戸惑ったが、ハーベンを起こして問いただす勇気は出ない。  自分は朝、この館を出て行ったはずなのに、いつの間に戻ったのだろうか。疑問を抱きつつ身じろぎすると、ハーベンの翡翠の瞳が薄く開いた。 「お帰り、サツキ」 「……ご、ごめんなさい」 「構わないよ。ああ、君は本当によい香りがするね」  ハーベンはそう
last updateLast Updated : 2025-09-11
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【破】Ⅱ
 あの日の出来事がいったい何だったのか正体はわからないままだ。それでもハーベンと五月の暮らしは揺らぐことなく続いていた。 次の朝には五月は落ち着きを取り戻し、いつものようにハーベンが作った食事を食べて、本を読んだり庭の花々を見て回ったり、午後のケーキの時間にはハーベンと談笑したりと、しあわせな時間を過ごし、夜には彼と共に眠る。 今日はハーベンに借りていた本を返して、違う本を読ませてもらおうと書斎に行く予定にしていた。五月は自分の部屋を出て長い廊下を歩いて行く。規則的に並んだ窓からは庭がよく見えた。「天気、悪いなあ」 いつぞやのハーベンとの庭でのデートの時のように、重く暗く空には雲が垂れ込めている。しばし外を眺めていた五月の耳に、ハーベンの声が微かに届いた。何を言っているのかはわからないが、使用人と話しているようだ。ここ一週間ほどはハーベンの仕事が忙しく、食事と就寝の時しか顔を併せることができていなかったこともあって、五月は嬉しくなり話声のする方へと走り出そうとした。 ところが、そこへ使用人の小さな声が聞こえてきて、五月の足は自然と止まる。「申し訳なく存じます」「私はなぜ規則を破ったかと訊いているんだ」「それは……」 ハーベンが使用人に対して怒っているのは明白だった。廊下を曲がれば、そこにハーベンと使用人がいるだろう。五月は早鐘を打つ鼓動が鎮まるよう願いながら、こっそりと二人の様子をうかがった。 そこには想像通り、うなだれる若い男性の使用人とハーベンの姿がある。悲しそうにしている使用人は心から反省しているのだと思われた。対してハーベンの顔からは常日頃絶やすことのない笑みが完全に消えていて、本気で怒っている。 ハーベンの表情を見た瞬間、五月は体の芯から震え上がった。体温が急速に下がっていく感覚に襲われ、歯の根が合わない。 ここにいてはいけない。 理由もなく強く感じた五月は足音が立つのも構わずに走って、再び館から逃げ出した。 曇っていた空からとうとう雨粒が落ちてきた。薄着のまま館から出てきたからか、それとも恐怖からか、五月はガタガタと震えたまま町はずれの細い路地に座り込
last updateLast Updated : 2025-09-13
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【破】Ⅲ
 雨の降る中を二人で館まで歩く。さっきまであんなに混乱していた気持ちが不思議と収まっていくのを五月は感じていた。門扉をくぐって敷石を踏み、重厚なドアを開くと、館の中はとても暖かい。居間に行くと暖炉には薪がくべられており、パチパチと火の粉が舞っていた。 ハーベンはすぐにホットチョコレートを淹れて五月に手渡してくれる。しかし五月は冷え切っていて、上手くカップを受け取れなかった。「先に体を温めよう。もう準備はできているからね」「お風呂?」「そう。今日はローズマリーを入れてみたよ」 なんでもハーベンが言うにはローズマリーには殺菌や抗菌の効果が期待できるほかにも、血行をよくしたりリフレッシュを助けたりもできるらしい。外出して冷え切った体を流すにはピッタリだと選んでくれたのだろう。 五月はハーベンに連れられてバスルームへ行き、衣類を丁寧に脱がせてもらって、ローズマリーの入浴剤が入ったバスタブへ浸かった。ハーベンはかたわらで腕まくりをして五月の髪と体を洗うと、より温まるよう腕やふくらはぎをマッサージしてくれる。 急に体が温まったせいなのか、五月は何度か小さく咳をした。「大丈夫かい?」「うん」「風邪でないといいだが……どんな薬も使いたくないからね。君には強すぎるかもしれないし」「平気だよ、ハーベン」 しっかりと温まった五月を、まるでこの世でもっとも貴重な宝石でも扱うかのような手つきでハーベンはタオルで包み込んだ。そして冷えない内にと手早く夜着とガウンを着せる。 五月は今、自分がどんな顔をしているだろうかと恥ずかしくなった。子供のようにハーベンに風呂に入れてもらって、すべての世話を任せてしまっている。自然と顔が熱くなるのを感じた。バスルームに鏡がなくてよかったと心底思う。「今日はもう疲れただろう? 早めに眠るといい」「そうする」「ホットミルクを持っていくから、先にベッドに入っていなさい」 ベッドルームの前でハーベンはそう言い残して一度キッチンへと引き返して行った。五月はガウンを脱いで、言われた通りにベッドにもぐりこむ。サラサラと肌に当たる寝具が気持ち
last updateLast Updated : 2025-09-16
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【急】Ⅰ
 さいわいなことに、五月の風邪はそれ以上ひどくはならず、すぐに快復した。ハーベンは五月が館を飛び出してしまったことを責めることはなく、五月もその日の出来事に触れない。そうやって二人は日常へと戻っていった。 ただ、あの日から例の使用人の姿を見かけることはない。課されたルールはたったひとつだった。それは『五月と話さないこと』だ。五月もそれは心得ていたのだが、たまたま廊下で使用人の彼が落としてしまったハンカチを、五月が拾って渡したことに彼が礼を述べ、五月はそれに対して「どういたしまして」と返した。それだけだったのだ。 そんなこともあってか、五月はあの日以来、ハーベンの姿が視界に入らないと落ち着かない。「ね、今日も書斎に行っていい?」「ああ。好きな本を読むといい」 朝食の時にそうお願いをして、五月はハーベンが仕事をするかたわらで本を読んでいた。室内にはハーベンが走らせるペンの音と、五月が本のページをめくる紙がこすれる音だけが響いている。「おや、いけない」 ぽつりとハーベンがつぶやいた。五月は反射的に本を置いてハーベンの机まで歩いていく。ハーベンは長くきれいな指先で万年筆を遊ばせるように何度か振って、小さなため息をついた。「どうしたの?」「万年筆がダメになってしまってね。これはもういらないな」 困ったように笑ったハーベンが、万年筆をまだ何も書かれていない書類の上に、まるで無価値で興味を失ったとでもいうように無造作に放り投げる。壊れてしまっていた万年筆は、インクも溜めておくことができなかったのか、書類の上に真っ黒な染みを作っていった。 その様子を見ていた五月はみるみるうちに顔色を変えて、自分で自分を抱くようにしながら、カタカタと震え始める。「サツキ? どうしたんだい?」 優しい問いかけにも五月が答えることはなかった。 五月にこげ茶の目には、広がるインクだけが映っている。広がり続けるインクは、これまで何度も警鐘を鳴らしていた光景を呼び起こすのに十分なものだった。 血だまりに立つ『男』、そして事切れている父母と、姉――……。「うわああああ――っ!」
last updateLast Updated : 2025-09-18
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【急】Ⅱ
 混乱したまま、行くあてもなく五月はふらふらとひたすら歩き続けていた。どこをどう歩いてきたのかもよく覚えていない。ただ、もうあの館には戻ってはいけないと考えていた。しかしそう思ったとたんに、堪らなくハーベンに会いたくなってしまう。その気持ちを打ち消すようにまた一歩、一歩と五月は歩を進めた。なるべく館から離れるようにと考えてのことだ。「ハーベン……」 愛しい名前を呼んでみた。だが、その人がどうしてあの時あそこにいたのだろうか。さっき見た広がる黒いインクが赤い血の海とすり替わる。父と母と姉が切り裂かれて目を見開き、倒れ伏していたあの場所に、ハーベンがいるはずがなかった。 考えよう、思い出そう、そう強く思えば思うほど五月の呼吸と鼓動は速まって、頭痛と吐き気がひどくなっていく。あまりの体調の悪さに意識がもうろうとしてきた時、五月の体は甘くしびれるような感覚に包まれたような気がした。ホットミルクを飲んだ時のようでもあり、ハーベンにキスをされている時のようでもある。「う……ハーベン、ハーベン」 今、ここにハーベンがいないことが、とても苦しい。どうしたって五月はハーベンを愛していた。あのホットミルクを差し出してくれる優しいまなざしと、キスをして抱きしめて眠ってくれる愛しい人のそばにいたい。 けれど、頭のどこか遠くの方で「戻ってはいけない」ともう一人の自分が叫んでいるような気もしている。 おぼつかない足取りで歩き続ける五月を見かねたのか、通りかかった白髪交じりの老翁が「おい、大丈夫かい?」と手を差し伸べてきた。しかし、その声は五月の耳にはもう届いていない。今にも倒れ込みそうなのに、どうしても足を止めることができなかった。 ふらりふらりと必死に歩いて、五月がたどり着いたのは、尖った屋根にグレーのレンガ、絡まった蔦に重厚な門扉を持つハーベンの館だ。まるで酩酊している者のように、五月は門を開いて力なくドアをノックしようとした。 その時、バンっと音を立ててドアが開く。ハーベンが満面の笑みを浮かべ、拍手と共に五月を迎えた。「お帰り! 愛しいサツキ! 待っていたよ!」「……ハ
last updateLast Updated : 2025-09-20
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【急】Ⅲ
 五月は翌日には目覚めたものの、ひどい貧血で起き上がることができなかった。ハーベンはそんな五月の世話を一から十まで焼く。体を拭いてやり、手ずからリゾットを口へと運んで食事を摂らせた。そしていつものホットミルクを飲ませて、五月を寝かしつける。 「おやすみ、サツキ。愛しているよ。よい夢を」 「……ぼくも。すき」  あのディナーの夜以来、初めて五月が発した言葉だった。  五月はハーベンによる死の一歩手前までの強烈な吸血行為による大量の失血と精神的なショックから、多くの記憶を壊されてしまった。痛みも悲しみも、真実さえも、もはや思い出すことができない。ただ、この館にずっといる事実と、目の前で甲斐甲斐しく自分の世話をしてくれるハーベンという人物を愛している感情だけが、白い紙にインクで丁寧に書き込まれて残っており、後はまるで塗りつぶされたかのように失われているのだ。  ふいに、こげ茶の瞳がハーベンを見上げた。 「ぼく、ここ、いていい?」  ―ー……ああ! とうとうこの瞬間が訪れた! とハーベンは心の内で歓喜に打ち震えた。今、この瞬間に五月は完全にハーベンのものになったと確信する。  表情には露ほども表わさず、優しい微笑みを浮かべたハーベンが五月をこの上なく優しい手つきで抱き寄せた。 「もちろん。君にはここがとてもよく似合うのだから」  そして五月の喉元に白く長い指を這わせ、ゆっくりと唇を重ねる。  窓の外には二人を静かに見下ろす、紅月がひっそりと浮かんでいた。      了
last updateLast Updated : 2025-09-23
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