Masuk音川の役職は最高技術責任者だ。
コンサルティング会社である本社には、技術面の諸判断を行うために速水がいるが、両社合せてこの肩書を持つのは音川だけだ。ゆえに部長や課長といった一般的な序列とは別のルートであり、孤高の存在である。 普段、音川本人は自分の立場の強さをおくびにも出さず、あくまで一般技術者として開発目線で行動しているが、いざというときは全責任を負う立場として顧客と交渉する。 学生から、『キーボードを持って生まれてきた男』と揶揄されるほど開発に没頭してきたが、今の役職ではシステムやデータベース設計の上流工程を受け持つだけで、社内で開発そのものに取り掛かることは非常に稀だった。そのせいもあり、音川は副業の方で思う存分アプリケーション開発をしている。
今のところ開発も設計もデザインも自分独りのワンマンで、実験的なことをやりたい放題、出資者はいるが、受け取っているのは金銭ではなくデータのため、共同開発者と呼べる。納期もない趣味の延長のようなもの——周囲にはそう見せかけているが、其の実、音川は明確なゴールを持って開発に取り組んでいる。 いずれ完成すれば、今の会社務めの方が副業になるだろう。音川が子会社のフロアに到着する頃、泉は開発部のオフィスで独り、ヘッドフォンを装着して目下の課題にのめり込んでいた。
高屋から提供されたサーバー再構築のスケジュールは音川が担当することを想定して組まれているためタイトだが、自分にも不可能ではないと判断した。 泉は——この日がくるのを夢見てずっと独学でプログラミングの鍛錬をしてきたのだ。 デザイン部では開発の音川の目に留まることを期待して懸命にやってきたが、今与えられているチャンスはそれとは比較にならない。 これからは開発部の一員として、あの孤高の存在であるエンジニア——我こそ右腕にならんと皆を切磋琢磨させるカリスマ性に誰もが憧れている——と仕事ができる。 憧れが昂じて恋に変化している者もいないとは言い切れない。まさに、泉自身がそうであるからだ。 昨夜、その音川から出社の連絡を受けた時は、心臓が躍動した。 出社して来いという業務命令ではなく(であれば明確にそう書くはずだと泉は音川の性格を理解している)ただの共有なのだろうと瞬時に分かったが、敢えて出社の誘いだと受け取ることに決めて、今朝早くに家を出た。メッセージには時間が記載されていなかったが、午前中は来なさそうだと踏んで泉は音楽を聴きながらコーディングに集中していた——その時。ぞわり、と首の後ろから後頭部にかけての髪の毛が総毛立った。
まるで天井から見えない水滴がぽたりと落ちてきたかのような感覚は、少し恐怖にも似ている。 ——間違いなく、すぐ近くに音川がいる——と全身の神経が反応している。ヘッドフォンをむしり取って勢いよく振り返ると、憧れのエンジニアは佇んでいた。まるでそこに幽霊でも見たかのように両目を開いて静止していることに、自分でも気がついていないのか、束の間泉と視線が交わる。
軽いウェーブのかかった前髪は引き締まった顔にまとわり、グリーンの瞳を引き立てる。滑らかな上質の白いシャツは袖を肘まで捲くられ、そこからのぞくたくましい腕は、元来の白い皮膚が夏の日差しで焼かれたのか微かなオリーブ色に艶めいている。 実体は、カメラ越しより何百倍も美しい。 泉は頭の中だけで美術的な称賛を贈った。 音川がなぜ声をかけてこなかったは分からないし、そこまで気が回らなかったが、見とれていることにハッと気が付き、急いで「お疲れ様です!」と頭を下げた。「あ、ああ。おはよ」と低い声で挨拶が返ってきた。
「すみません、気が付かず」
「いや、俺がこっそり入ってきただけ。なあ、……メシ、行かない?」
「あ、ぜひ!」
音川は適当なデスクに書籍を置き踵を返した。食後は社に戻り、泉に進捗を見せてもらうつもりだ。
社屋から出た途端に真夏の太陽光がギラリと目に突き刺さる。 手で顔にひさしを作ると多少の軽減にはなるが、アスファルトからの照り返しも強くて、目の色素が薄い音川には痛いほどだ。「眩しそうですね。サングラスは?」
「そんなの掛けて昼食に向かうサラリーマンなんて、この辺には居ないだろ」
建前だった。
これが一人の外出なら、間違いなくサングラスを掛けている。 音川は同行する人が奇異に見られないように気を遣っただけだ。大昔だが、目立つからやめてくれ、と言われた経験があるから。「そういうの、気にするタイプには見えないのに」と泉は呟いた。
「意外?」
「ですね。音川さん、眩しさであまり見えてないんじゃないですか?だから、サングラスを掛けるほうが合理的だし、自然ですよ。それに、すごく似合うと思う」
音川から、「そうか」と感嘆とも安心ともとれる低い返事が漏れた。
「持ってきていないんですか?ちなみに僕は持ってます。通勤時にかなり眩しいから」
そう言う泉の顔を覗き込むと、明るいブラウンの瞳とぶつかった。風になびく髪も明るい色で、元から色素が薄いのだろう。
お互いが眩しさに眉間にシワを寄せた顔をしており、奇妙な連帯感に笑い合う。「あるよ。上に置いてる」と音川は振り返り気味にオフィスを見た。
「取ってきましょうか」
「いい。一緒に行く」
2人は連れ立ってエレベーターホールに戻った。
泉は自分より少し背の高い音川の顔をふいに見上げ、「僕、インドカレーがいいです」と言う。 下方から顔をじっと覗きこんでくる泉の瞳は、眼底まで光が届いているかのように澄んでいた。 細身だがしっかりした身体の質感、ふわりと揺れる髪に整髪料の微かな匂い、マイク越しでは分からなかった声の柔らかさ。 音川は突然、隣りにいる泉の実体を認識した。「もっと小柄かと思ってたよ」
「よく言われます。童顔のせいかも。音川さんは身長何センチですか」
「188センチで……AB型。33歳。大阪出身。母親がポーランド人。猫1匹で名前はマックス。一人暮らし。筋トレは週4」
「なんですかそれ」
「初対面の人から聞かれること。以上」
「噂には聞いていましたが、本当に面倒くさがりなんですね」
「きみは?」
そう聞き返してきた音川を、泉は意外に思った。社外の人間ならまだしも、後輩や部下に社交辞令など言いそうにないと思っていたからだ。
「そんな、いいですよ僕のことは」
「興味がある」音川の口は頭で考えるより先に動いていた。「あ、いや、これから仕事を一緒にしていくわけだし……俺はこれ以上話すことがない退屈な人間だが、まあ質問があれば何でも」
泉は笑みが零れそうになるのを必死に耐えた。音川のストレートな言葉が、正直に嬉しい。
「僕は178cmでO型で25歳です。ここが地元で実家暮らしです。あとは……特にないかなぁ。ああ、猫はかなり好きです。自己紹介って難しいですよね」
「だろ」
「大阪出身なのは意外でした。関西弁じゃないんですね」
「うん。もう滅多に出ないな。地元の学校へは行っていないし」
泉は「へえ」と相槌を打って、なんとなく音川は私立の中高一貫男子校に行ってそうだなと想像した。極端に理数に強いようなところと、稀のイベント事に職場で遭遇した際はいつも男性エンジニア達に囲まれているからだ。とはいえ開発部に女性がいたかどうか自信がないが。
連れ立ってサングラスを掛けて屋外へ出ると、やはり相当歩きやすい。
泉の少しだけ色の薄いレンズは、明るい髪色と日に焼けていない肌によく似合っていた。サングラスが与える一般的な(そして古い)印象とは真逆で、知性をきちんと感じさせ、やや神経質さを伺わせる。「速水たちのせいだよな」
会社近くにあるインド・ネパールカレー屋で、音川は前菜のパパドを割りながら泉に同意を求めた。在宅勤務になってからも食べに出向くほどお気に入りの店だ。
ランチ時間を過ぎた昼下がりで客は音川たちだけだった。 薄暗く、空調の効きが悪いため扇風機がぶんぶんと盛大に回っている。空いた席では、店主の子供がタブレットで算数ドリルを解いている。「僕、ずっとインドカレーが食べたくて」
「俺も」
「速水さんに現地でレシピ本を買って来てもらいたいんですけど、頼んでもいいと思います?」
「いいだろ。料理すんの?」
「いえ……でも本格的なカレーに憧れが」と言いサービスのラッシーに手を伸ばして一口すする。
「俺もやろうかな」とは単なる相槌だ。音川の自宅マンションには立派なキッチンが備えられているが、湯を沸かす以外の目的で使われたことはない。
「音川さん。スパイスカレーの他に、バイク、ジョギング、そば打ち、サウナ。興味があるものはどれですか?」
「いや、どれも興味ない」
「よかったです。これ、おじさんになると始めることらしいですよ。だから音川さんはスパイスカレーに手を出しちゃだめです。僕が作ってあげます」
「おじさん……?俺まだ33なんだけどね」と音川は釘を刺しておいて続ける。「どうせきみたちデザイン系は、おしゃれなキッチンで、リビングの本棚には読みもしないのにフランス語のデザイン雑誌が置いてあるんだろ」
泉は大げさに目をむいて見せ、「偏見ですよ」と細く千切ったナンで音川を指差す。
「ここに食いにくればいいさ」
「その通り!」といつの間にかテーブル脇に立っていた店主が満面の笑みで音川に同意する。「ナンのおかわりは?」
「あ、僕欲しいです。小さめで」
「俺も」
「あと、男女問わず、独身の一人暮らしが猫を飼うと婚期が遅れるらしいですよ」
もっともらしく言う泉を、「そんなのとっくに逃してるさ」と音川は笑い飛ばした。
「そもそもだな、ペットが居れば決まった時間にごはんをやるし、遊んでストレスも発散させないといけないから、必然的に毎晩家に帰るようになるんだ。うちは18時に夕飯、23時に夜食と決まっている。帰省でもせいぜい2泊がいいところ、しかも事前に相応の準備しておかなければ無理だし、心境的には1泊でも心配だね。旅行なんて家に残してきている猫が気になってどうせ楽しめない。それどころか丸一日の外出ですら、18時には帰宅するんだよ。そんな男に恋人がいると思うか?わざわざ出会いの場にも行く理由もないし」「急にめっちゃ喋りますね。そんなにかっこいいのに、パートナーが猫だけなんて信じられませんけど」
音川は後輩のお世辞を聞き流した。外見など物心ついた時から褒められ慣れている。
息子から見ても母は美しい人だと思う。その母によく似ていると言われるのだから、恐らく自分もそうなんだろうと薄々は思うが、それよりも一見で外国人扱いされる不便さの方が日常生活では勝る。「性格に難があるんだろ」
「Yes、ちゃんとナンありますよ」
顔を上げると、店主がバスケットいっぱいに広がるナンを嬉しそうに持って立っていた。小さめというオーダーは無視されたようだ。
笑いを噛み殺す泉に「今のは俺のダジャレじゃないからな」と念を押す。 この量いけます?と目だけで泉が尋ね、音川は自分の方に寄越せと手の動きで答えた。たっぷりとバターが塗られて芳しい。「でもさ、俺は別に何を聞かれても気にならないけど、うちの部、こういう話題は苦手な人もいるからちょっと気にした方がいいかもな。婚期どころか、3次元の人間とコミュニケーションを取れないやつもチラホラいるし」
「すみません」
「いや、俺には何を言ってもいい」
「会ってみたら……なんか喋りやすくて、つい」
「俺も」
「あ……そ、そうですか。感情が分かりにくいですね。僕、昨日から緊張してたんです。会社行ったら音川さんがいると思うと」
緊張する、これも初対面で言われ慣れた言葉だった。
見た目に威圧感があるんだろう。確かに、泉も初回の会議では相当緊張した面持ちだった。「呼び出すつもりはなかった。じゃあなんのつもりだったかと聞かれると困るけど」
「なんでもいいです。僕が自主的に出社したんで」
「あ、そ」ついそっけない返事になってしまったことに気がついたが訂正はしなかった。理由を聞けば答えは返ってくるだろうが意味はないだろう。現に、出社しなければならない理由が開発部には無いからだ。
「音川さんて……無口ではないですよね?」
「開発の中じゃ喋る方だ。半分営業みたいなところもあるし」
「僕は、前の部署ではあまり話さなかった」
そう言うと泉は伏し目がちになりそっとスプーンを口に運ぶ。
その丁寧な仕草は、泉の細やかな感受性を表しているかのようだった。 先だってのインドとの打ち合わせでは、泉だけが、高屋の悩みの本質を見抜いたように。「避けてたのか?」
「ええ、まあ。僕と関わると、保木部長からの当たりがキツくなるだろうし。でも、阿部さんがとても良くしてくれて、出社すればランチに連れて行ってくれるんです」
音川はテーブルの隅にあるシュガーポットを引き寄せ、食後のチャイにティースプーンで砂糖を3杯入れながら「ふーん」と音だけで返事をする。
「ごめんな」
音川は、なんのことだと小首を傾げている泉の瞳をじっと見た。
「保木の件」
「どうして音川さんが謝るんですか」
「俺たちがもっと早い段階で対処していれば、こんなことにならなかったんだよ。部署が違うからと突き放したのは失敗だった。オフィスを分けて臭いものに蓋をするようなことをして、きみたちに迷惑をかけた」
「そんなことは無いです。それに、おかげで僕は開発に来ることができたので、感謝してもいいくらい」
そう言い切る泉の視線はまっすぐに音川に注がれ、ぶれることがなかった。
真摯な響きを持った言葉だった。「泉くんが望まない限り異動はないから。実力もありそうだし、ずっと開発にいてよ」
そう言いながら音川はテーブルの上に置かれている泉の手首をさっと掴んだ。
突然の接触に戸惑う様子の泉に頓着せず、そのまま腕を自分の方に向けて「もう3時じゃねえか」と呟く。 時間が気になったが自分のポケットからスマートフォンを出すより先に、泉のスマートウォッチが目に入ったからだった。「戻ろうぜ」と音川は席を立ち、財布を出そうとする泉を「ふざけんなよ」と一刀両断で制止して会計を済ませた。「ごちそうさまです」と再びサングラスを掛けながら泉が軽く頭を下げた。
1000円そこそこで感謝されては返って気恥ずかしい。上司との食事なんて、無銭飲食できることだけがメリットだろうに。 そのうち奢られ慣れてくれればいい。勝手な意見だが、部下は、ちょっと図々しいくらいがやりやすい。「これから、よろしくね」
音川はサングラスを頭上にずらして掛け、少しだけ上体を折り曲げると泉の顔をひょいと覗き込んだ。
すっきりとした秀麗な額があらわになり、薄い緑の瞳は日光を湛えてミモザ色にも見える。 その知性でコントロールされてもなお放出される雄々しさ、与えられた容姿には無頓着だが、使い方を知っている。 軽いのか、堅いのか、まったく混沌とした人格のくせに、どこか1本筋が通っている。泉は、まるでその混沌が腕を伸ばしてきて身体を引き込もうとしたかのような錯覚を覚えてくらりと揺れた。
音川は、暴力的なほどに魅力的だった。そうして、飛行機の予定時刻まで、ふたりはラウンジでゆっくりと会話を楽しむことにした。テーブルには、それぞれ好きなものをビュッフェから持ってきており、音川は一口サイズのケーキをいくつか、泉は数種類のコールドサラダに牛肉の煮込みと、アメリカンなセレクトだった。音川は泉の帰国便を自分と同じフライトに変更し、イーサンには「彼を連れて帰る」とだけメールで知らせておいた。彼が社に対して行ったことと同じような通達のみになるが、泉が残っても、イーサンに利用されるだけであると判断した。そもそも、本来の研修内容はすでに修了しており、会社間において実害は何もなければ、文句を言われる筋合いも無かった。「かわいいね」音川は塊肉をもぐもぐと頬張る恋人を見つめながら、そう呟いた。「リスみたいで、ですか」「ううん。きみが。可愛くてたまらない」「んぐ」泉は急いで水を飲み、むせそうになった呼吸を整える。「どうしたんです?急に……」「もう口をつぐんでおく必要がないのであれば、言いたい時に言う」「……それ、僕も同じことしていいですか?」音川はそう返され、視線を合わせたまま微かに首を傾げた。「俺に可愛い要素があるならな」「眼の前に甘いものを並べてニコニコしている音川さん、可愛い要素しかないです」今度は音川が声に詰まる番だった。「……ただの甘党です」泉がクスクスと笑い、「音川さんはかっこよくて可愛いです」とまっすぐに目を見つめたまま言うと、音川は小さく唸り声を上げて、後頭部に手をやった。その照れる様子がめずらしく、泉は目を細める。まもなくして、搭乗ゲートが開いたとアナウンスがあった。「そうだ」並んで機上の人となって幾時間も経たずに、音川は思いついたように、自分の左手首から腕時計を外すと、「俺だと思って持ってて」と泉の手首に巻き付けた。ブレスレットの留め具を抑える衝撃に少し顔を
部屋に入りドアを後ろ手に閉めるなり、音川は泉を抱きしめた。頭に顎を軽く乗せ、ふわりと柔らかな髪の毛に顔を埋めて軽く深呼吸をする。 その上下する肺に、泉は頬を寄せた。「メールありがとう。とても嬉しかった。何度も、読み返したよ」泉は、胸部に響く深い声に身体を震わせる。 このままずっとこうしていたいと思ったが、ふっと足が地面から浮いて、音川に持ち上げられるようにしてベッド脇まで押され、その場に座らされる。 床から天井まで伸びるガラス窓に沿って置かれたベッドは、まるでマンハッタンの夜景の中心に浮いているかのようだ。 泉は少しだけ足がすくむのを感じた。 それは、高所にいるための本能的な恐怖だけでなく、これから起ころうとしていることへの、期待と——少しの不安も混じっていた。 泉は油断すると震えそうになる身体にきゅっと力を入れ、歯を食いしばる。「どうした?神妙な顔して」音川はそんな泉の様子を少し気にして、ジャケットを脱ぎながら尋ねた。 そんな仕草ですら、泉の目線を捉えて離さない。「あ……いえ。音川さんが、いつもより素敵で……スーツ姿、初めてだなと」「ああ、うん」「仕事のついで、とか……?」音川は鼻で笑い、向かいに布張りの椅子を引っ張ってくると、どかりと腰を下ろした。「なわけねぇだろ」音川は、泉の手をそっと持ち上げて、自分の両手を重ねた。「……あんなメール貰って、家でじっとしてられるかよ。きみが欲しいと言ってくれたものを、持ってきたんだ」肺を空気で満たし、たくましい胸が上がる。「泉。遅くなって、本当に申し訳ないと思っている。……俺は、上司であることを理由に、気持ちを抑え込んで……愚かなことだった。告白してもらうまで、そんなことにすら気が付かなかった。こんな男でよければ……俺は、きみの恋人になりたい」泉の身体を、歓喜の波が覆った。 全身が湧き立つような熱に包まれて、何も考えられなくなる。 ただ、嬉しい。それだけが、身体の奥から溢れ出して止まらない。 微かに震える身体で音川の手をしっかりと握り返し、グリーンに輝く瞳に目線を合わせる。 目元は情熱をはらんで力強く、しかし瞳の奥には微かな不安の影が揺れているようにも見えた。 泉は、握った手を自分の口元に持っていき、音川の手の甲に口づけた。「はい……。これからは恋
出発時刻とほぼ同時刻にJFK空港に降り立った音川は、時差のせいでこのフライト時間がゼロになることに少々不満を覚えた。運良くビジネスクラスに空席があったが、あまり眠れないたちだから長時間のフライトはそれなりに辛い。入国手続を通過し、タクシーに乗り込んで行き先を指定する。地図によれば、泉が滞在しているホテルまで30分程度で着くはずだ。高屋から入手した研修計画書によれば、すでに今日の行程は1時間以上前に終わっている。ホテルに到着した音川は、周りには目もくれずにつかつかとレセプションに向かい、自身の予約を告げてチェックインを申し出た。対応の女性スタッフは端末を確認しながら、「NYCをたった1泊で終わらせるなんて」と笑顔で冗談を投げかける。それに微笑を浮かべて、「しかも、1泊3日で東京NYの往復だと言ったら?」と返すと、彼女は「オーマイゴッド!」とアメリカ文化のステレオタイプさながらに大きな反応を見せてくれ、音川は笑みを強めた。カードキーで部屋をアンロックし、とりあえずシャワーを浴びて冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。非常によく冷えた液体が、頭の芯から身体を巡ってリフレッシュを促すようだ。しかし、それは音川の内心に付いた火を消すには至らない。ここまで突き動かされたのは一重に、堪えきれないほどの泉への恋心だった。音川はフライトの疲れが顔に出ていないか確認しながら身繕いをし、持参したスーツに着替えた。ノーネクタイだが、上質なシルクは引き締まった長駆と相まって品位を高める。鏡に、泉のために整えられた音川の姿が映る。無頓着な美貌に本人の意図が加えられたことで、その姿には、神々の彫像にも似た威厳が与えられていた。ゆるいウェーブがかった前髪は後ろへ撫でつけられ、カラスの羽のように艷やかで、白いドレスシャツから覗く喉元からは男の色香が立ち上る。肩幅は広く、腰は引き締まり、衣の下に潜む彫刻のような肉体を容易に想像させる。瞳は新緑のグリーンに輝き、視線を向けられた者はその鋭さに息を呑むだろう。だが音川の美は、冷たく遠いものではない。美貌というには生々しく、肉体というには洗練されていて&m
音川は遅い夏季休暇を申請し、副業であるAI開発に昼夜を忘れて没頭していた。泉がNYに発って1週間が過ぎようとしていた。 結局、出張について本人から聞かされていないままであったが、音川はそれを責める気など皆無で、ただ事実を受け入れていた。——平静なのか、と尋ねられれば、決してそうではない。 だから、休暇を申請してまで開発に没頭しているのだ。彼が音川に知らせなかった意味について、考える隙を自分に与えないために。リビングの窓を開け放し、どこか哀愁をはらんでいる夕暮れの風に吹かれながらソファに身体を沈め、視線は、コーヒーテーブルに置いたノートパソコンの画面に落とされていた。傍らには愛猫のマックスが背中をぴたりとくっつけて眠っている。 ようやく、泉が帰って来ないことを学習したようで、最近はドアの方向を向いて待ち続けることも少なくなった。音川は画面から視線を外して窓の外を見てみるが、どうしてもすぐにまた目が戻る。——そこには泉から届いたメールが、未読のままでおかれてあった。公私問わず返信を引き伸ばさない習慣を持つ音川であるが、今朝、個人のアドレス宛に届いたこのメールだけは、まだ開くことができずにいる。 しかし——読まずに削除する、という選択肢はありえない。音川はことさら大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出してから、そのメールにカーソルを滑らせ、クリックした。メールを開いた瞬間、音川の心臓が、ゆっくりと軋むように動いた。 息をするのも忘れて、指先がわずかに震える。 読み終えるまで数分かける。 一行ずつ、噛みしめるように読んで、読み終えた頃には、もう一度最初から読み返していた。 ——画面の光が滲んで、文字が霞む。 音川さん今、ホテルの部屋で、このメールを書いています。やっぱり言っておけばよかったと、いまさら後悔しています。 出張のことも、僕がそれを話せなかった理由も、全部。 ですが…… 音川さんの目に、独りで突き進んでしまっている自分がどう映るのか。 どこまで、音川さんの過
部屋のドアをノックする音がしたのは、泉が今日の研修の内容を整理し終えたちょうどそのときだった。「……どなたですか?」ドア越しに声をかけると、陽気な英語の返事が返ってくる。「Dinner delivery from a concerned colleague. Open up, Izumi.」泉は一瞬、言葉を失った。わざわざ届けに……?訝しげにドアを開けると、昼間と同じスーツ姿のイーサンが紙袋を片手に、にこやかに立っていた。「ちょうどこの時間、小腹が空く頃だと思ってね。 日本と違って、こっちは夜の始まりが早いから」彼は勝手知ったる様子で部屋に一歩踏み込もうとし――泉が無言で体を一歩引く。その動きを見て、イーサンは立ち止まり、苦笑いのような表情を浮かべた。「そんなに警戒しなくても」「……夜、部屋に男性を入れるなと言ったのはあなただったように思いますが」「うかうか訪れて行くのを止したほうがいい、と忠告したまで」イーサンは近くの高級デリで購入してきたラップサンドとクラフトビールが入った紙袋をテーブルに置きながら、まるでジョークのように肩をすくめた。「その気なら、こんな仕事帰りの姿でビールぶら下げて来たりしないさ。きちんと花束を持って、良い店に誘いに来るよ。それに、オトカワから遠く離したことを利用して、手を出そうなんて思っちゃいない」「それなら……いいです。でもわざわざ……」泉は眉をひそめながら、内心では、自分の居場所を気にかけてくれる存在が今、ここにいることに気づいていた。「近くを通ったんでね。それに正直に言うと——君に会わずに、今日を終わらせたくなかった」その言葉に、泉の心は小さく波立った。どう返せばいいのか、わからない。ストレートな言葉が、胸に踏み込んでくる。イーサンはビールの蓋を開け、泉のグ
「ふーん。悶々としてるのは、格好つけて帰ってきたからか」ヒューゴは目を細め、カウンター越しにからかうような声を投げかけた。「うるさい」音川はラムのボトルをおろして、カウンターの端でヒューゴ相手に飲んでいた。 高屋から誘われてヒューゴの店に夕飯がてら飲みに来てみたら、根堀葉掘りとあれこれ聞かれ、週末に東京へ足を運んだことや、泉との心の交流について洗いざらい吐かされてしまった。 ヒューゴが寡黙なバーテンダーでいられるのは、どうやら一般客に対してだけらしい。元々はかなりの話好きで、水商売の聞き上手も兼ね備えている。 音川はポーランドの大学に居た頃に知り合ったスウェーデン人たちを思い出していた。周辺国と比べると北欧人らしさは薄いが、物事の捉え方や価値観の傾向については、ドイツやフランスといった中央の人々よりヨーロッパ的思考の持ち主が多い印象だ。論理や理屈を重視し、平等と透明性を尊重する音川にとって、彼らとの付き合いは心地の良いものだった。 しかし、個人よりも周囲との調和を保とうとする日本人としては、時に行き過ぎた個人主義に出会うと疑問を抱くこともあった。それでも、同調圧力に屈するより遥かにマシだが。 その点、ヒューゴは日本育ちのためか協調性と個人主義のちょうどよいバランスを保っており、同じくどちらも理解できる音川は、彼との会話に並々ならぬ気安さを感じていた。「あのね、クバ。君みたいな顔なら、これまでは誰かを口説く必要なんてなかったんだろうけど……今の状況を考えるとね」「分かってるよ。泉が部下じゃなければ……あの場で抱いてる」「いいねぇ。そうやって苦悩しながら独りで飲んでくれていると、クバ目当ての客が増える一方だ。最高のロックフォーゲルとしてチップを渡さなければいけないな」「『サクラ』っつーんだよ日本語では。君ら狩猟民族と違ってこっちは情緒があるだろ」「50%だけのくせに、言うね」音川は向かいでグラスを拭いている北欧貴族のようなバーテンダーに目をやり、薄く笑った。礼儀正しい日本人相手では出てこないジョークだ。「俺もお前も、心は100%日本人だよ」