音川の役職は最高技術責任者だ。
コンサルティング会社である本社には、技術面の諸判断を行うために速水がいるが、両社合せてこの肩書を持つのは音川だけだ。ゆえに部長や課長といった一般的な序列とは別のルートであり、孤高の存在である。 普段、音川本人は自分の立場の強さをおくびにも出さず、あくまで一般技術者として開発目線で行動しているが、いざというときは全責任を負う立場として顧客と交渉する。 学生から、『キーボードを持って生まれてきた男』と揶揄されるほど開発に没頭してきたが、今の役職ではシステムやデータベース設計の上流工程を受け持つだけで、社内で開発そのものに取り掛かることは非常に稀だった。そのせいもあり、音川は副業の方で思う存分アプリケーション開発をしている。
今のところ開発も設計もデザインも自分独りのワンマンで、実験的なことをやりたい放題、出資者はいるが、受け取っているのは金銭ではなくデータのため、共同開発者と呼べる。納期もない趣味の延長のようなもの——周囲にはそう見せかけているが、其の実、音川は明確なゴールを持って開発に取り組んでいる。 いずれ完成すれば、今の会社務めの方が副業になるだろう。音川が子会社のフロアに到着する頃、泉は開発部のオフィスで独り、ヘッドフォンを装着して目下の課題にのめり込んでいた。
高屋から提供されたサーバー再構築のスケジュールは音川が担当することを想定して組まれているためタイトだが、自分にも不可能ではないと判断した。 泉は——この日がくるのを夢見てずっと独学でプログラミングの鍛錬をしてきたのだ。 デザイン部では開発の音川の目に留まることを期待して懸命にやってきたが、今与えられているチャンスはそれとは比較にならない。 これからは開発部の一員として、あの孤高の存在であるエンジニア——我こそ右腕にならんと皆を切磋琢磨させるカリスマ性に誰もが憧れている——と仕事ができる。 憧れが昂じて恋に変化している者もいないとは言い切れない。まさに、泉自身がそうであるからだ。 昨夜、その音川から出社の連絡を受けた時は、心臓が躍動した。 出社して来いという業務命令ではなく(であれば明確にそう書くはずだと泉は音川の性格を理解している)ただの共有なのだろうと瞬時に分かったが、敢えて出社の誘いだと受け取ることに決めて、今朝早くに家を出た。メッセージには時間が記載されていなかったが、午前中は来なさそうだと踏んで泉は音楽を聴きながらコーディングに集中していた——その時。ぞわり、と首の後ろから後頭部にかけての髪の毛が総毛立った。
まるで天井から見えない水滴がぽたりと落ちてきたかのような感覚は、少し恐怖にも似ている。 ——間違いなく、すぐ近くに音川がいる——と全身の神経が反応している。ヘッドフォンをむしり取って勢いよく振り返ると、憧れのエンジニアは佇んでいた。まるでそこに幽霊でも見たかのように両目を開いて静止していることに、自分でも気がついていないのか、束の間泉と視線が交わる。
軽いウェーブのかかった前髪は引き締まった顔にまとわり、グリーンの瞳を引き立てる。滑らかな上質の白いシャツは袖を肘まで捲くられ、そこからのぞくたくましい腕は、元来の白い皮膚が夏の日差しで焼かれたのか微かなオリーブ色に艶めいている。 実体は、カメラ越しより何百倍も美しい。 泉は頭の中だけで美術的な称賛を贈った。 音川がなぜ声をかけてこなかったは分からないし、そこまで気が回らなかったが、見とれていることにハッと気が付き、急いで「お疲れ様です!」と頭を下げた。「あ、ああ。おはよ」と低い声で挨拶が返ってきた。
「すみません、気が付かず」
「いや、俺がこっそり入ってきただけ。なあ、……メシ、行かない?」
「あ、ぜひ!」
音川は適当なデスクに書籍を置き踵を返した。食後は社に戻り、泉に進捗を見せてもらうつもりだ。
社屋から出た途端に真夏の太陽光がギラリと目に突き刺さる。 手で顔にひさしを作ると多少の軽減にはなるが、アスファルトからの照り返しも強くて、目の色素が薄い音川には痛いほどだ。「眩しそうですね。サングラスは?」
「そんなの掛けて昼食に向かうサラリーマンなんて、この辺には居ないだろ」
建前だった。
これが一人の外出なら、間違いなくサングラスを掛けている。 音川は同行する人が奇異に見られないように気を遣っただけだ。大昔だが、目立つからやめてくれ、と言われた経験があるから。「そういうの、気にするタイプには見えないのに」と泉は呟いた。
「意外?」
「ですね。音川さん、眩しさであまり見えてないんじゃないですか?だから、サングラスを掛けるほうが合理的だし、自然ですよ。それに、すごく似合うと思う」
音川から、「そうか」と感嘆とも安心ともとれる低い返事が漏れた。
「持ってきていないんですか?ちなみに僕は持ってます。通勤時にかなり眩しいから」
そう言う泉の顔を覗き込むと、明るいブラウンの瞳とぶつかった。風になびく髪も明るい色で、元から色素が薄いのだろう。
お互いが眩しさに眉間にシワを寄せた顔をしており、奇妙な連帯感に笑い合う。「あるよ。上に置いてる」と音川は振り返り気味にオフィスを見た。
「取ってきましょうか」
「いい。一緒に行く」
2人は連れ立ってエレベーターホールに戻った。
泉は自分より少し背の高い音川の顔をふいに見上げ、「僕、インドカレーがいいです」と言う。 下方から顔をじっと覗きこんでくる泉の瞳は、眼底まで光が届いているかのように澄んでいた。 細身だがしっかりした身体の質感、ふわりと揺れる髪に整髪料の微かな匂い、マイク越しでは分からなかった声の柔らかさ。 音川は突然、隣りにいる泉の実体を認識した。「もっと小柄かと思ってたよ」
「よく言われます。童顔のせいかも。音川さんは身長何センチですか」
「188センチで……AB型。33歳。大阪出身。母親がポーランド人。猫1匹で名前はマックス。一人暮らし。筋トレは週4」
「なんですかそれ」
「初対面の人から聞かれること。以上」
「噂には聞いていましたが、本当に面倒くさがりなんですね」
「きみは?」
そう聞き返してきた音川を、泉は意外に思った。社外の人間ならまだしも、後輩や部下に社交辞令など言いそうにないと思っていたからだ。
「そんな、いいですよ僕のことは」
「興味がある」音川の口は頭で考えるより先に動いていた。「あ、いや、これから仕事を一緒にしていくわけだし……俺はこれ以上話すことがない退屈な人間だが、まあ質問があれば何でも」
泉は笑みが零れそうになるのを必死に耐えた。音川のストレートな言葉が、正直に嬉しい。
「僕は178cmでO型で25歳です。ここが地元で実家暮らしです。あとは……特にないかなぁ。ああ、猫はかなり好きです。自己紹介って難しいですよね」
「だろ」
「大阪出身なのは意外でした。関西弁じゃないんですね」
「うん。もう滅多に出ないな。地元の学校へは行っていないし」
泉は「へえ」と相槌を打って、なんとなく音川は私立の中高一貫男子校に行ってそうだなと想像した。極端に理数に強いようなところと、稀のイベント事に職場で遭遇した際はいつも男性エンジニア達に囲まれているからだ。とはいえ開発部に女性がいたかどうか自信がないが。
連れ立ってサングラスを掛けて屋外へ出ると、やはり相当歩きやすい。
泉の少しだけ色の薄いレンズは、明るい髪色と日に焼けていない肌によく似合っていた。サングラスが与える一般的な(そして古い)印象とは真逆で、知性をきちんと感じさせ、やや神経質さを伺わせる。「速水たちのせいだよな」
会社近くにあるインド・ネパールカレー屋で、音川は前菜のパパドを割りながら泉に同意を求めた。在宅勤務になってからも食べに出向くほどお気に入りの店だ。
ランチ時間を過ぎた昼下がりで客は音川たちだけだった。 薄暗く、空調の効きが悪いため扇風機がぶんぶんと盛大に回っている。空いた席では、店主の子供がタブレットで算数ドリルを解いている。「僕、ずっとインドカレーが食べたくて」
「俺も」
「速水さんに現地でレシピ本を買って来てもらいたいんですけど、頼んでもいいと思います?」
「いいだろ。料理すんの?」
「いえ……でも本格的なカレーに憧れが」と言いサービスのラッシーに手を伸ばして一口すする。
「俺もやろうかな」とは単なる相槌だ。音川の自宅マンションには立派なキッチンが備えられているが、湯を沸かす以外の目的で使われたことはない。
「音川さん。スパイスカレーの他に、バイク、ジョギング、そば打ち、サウナ。興味があるものはどれですか?」
「いや、どれも興味ない」
「よかったです。これ、おじさんになると始めることらしいですよ。だから音川さんはスパイスカレーに手を出しちゃだめです。僕が作ってあげます」
「おじさん……?俺まだ33なんだけどね」と音川は釘を刺しておいて続ける。「どうせきみたちデザイン系は、おしゃれなキッチンで、リビングの本棚には読みもしないのにフランス語のデザイン雑誌が置いてあるんだろ」
泉は大げさに目をむいて見せ、「偏見ですよ」と細く千切ったナンで音川を指差す。
「ここに食いにくればいいさ」
「その通り!」といつの間にかテーブル脇に立っていた店主が満面の笑みで音川に同意する。「ナンのおかわりは?」
「あ、僕欲しいです。小さめで」
「俺も」
「あと、男女問わず、独身の一人暮らしが猫を飼うと婚期が遅れるらしいですよ」
もっともらしく言う泉を、「そんなのとっくに逃してるさ」と音川は笑い飛ばした。
「そもそもだな、ペットが居れば決まった時間にごはんをやるし、遊んでストレスも発散させないといけないから、必然的に毎晩家に帰るようになるんだ。うちは18時に夕飯、23時に夜食と決まっている。帰省でもせいぜい2泊がいいところ、しかも事前に相応の準備しておかなければ無理だし、心境的には1泊でも心配だね。旅行なんて家に残してきている猫が気になってどうせ楽しめない。それどころか丸一日の外出ですら、18時には帰宅するんだよ。そんな男に恋人がいると思うか?わざわざ出会いの場にも行く理由もないし」「急にめっちゃ喋りますね。そんなにかっこいいのに、パートナーが猫だけなんて信じられませんけど」
音川は後輩のお世辞を聞き流した。外見など物心ついた時から褒められ慣れている。
息子から見ても母は美しい人だと思う。その母によく似ていると言われるのだから、恐らく自分もそうなんだろうと薄々は思うが、それよりも一見で外国人扱いされる不便さの方が日常生活では勝る。「性格に難があるんだろ」
「Yes、ちゃんとナンありますよ」
顔を上げると、店主がバスケットいっぱいに広がるナンを嬉しそうに持って立っていた。小さめというオーダーは無視されたようだ。
笑いを噛み殺す泉に「今のは俺のダジャレじゃないからな」と念を押す。 この量いけます?と目だけで泉が尋ね、音川は自分の方に寄越せと手の動きで答えた。たっぷりとバターが塗られて芳しい。「でもさ、俺は別に何を聞かれても気にならないけど、うちの部、こういう話題は苦手な人もいるからちょっと気にした方がいいかもな。婚期どころか、3次元の人間とコミュニケーションを取れないやつもチラホラいるし」
「すみません」
「いや、俺には何を言ってもいい」
「会ってみたら……なんか喋りやすくて、つい」
「俺も」
「あ……そ、そうですか。感情が分かりにくいですね。僕、昨日から緊張してたんです。会社行ったら音川さんがいると思うと」
緊張する、これも初対面で言われ慣れた言葉だった。
見た目に威圧感があるんだろう。確かに、泉も初回の会議では相当緊張した面持ちだった。「呼び出すつもりはなかった。じゃあなんのつもりだったかと聞かれると困るけど」
「なんでもいいです。僕が自主的に出社したんで」
「あ、そ」ついそっけない返事になってしまったことに気がついたが訂正はしなかった。理由を聞けば答えは返ってくるだろうが意味はないだろう。現に、出社しなければならない理由が開発部には無いからだ。
「音川さんて……無口ではないですよね?」
「開発の中じゃ喋る方だ。半分営業みたいなところもあるし」
「僕は、前の部署ではあまり話さなかった」
そう言うと泉は伏し目がちになりそっとスプーンを口に運ぶ。
その丁寧な仕草は、泉の細やかな感受性を表しているかのようだった。 先だってのインドとの打ち合わせでは、泉だけが、高屋の悩みの本質を見抜いたように。「避けてたのか?」
「ええ、まあ。僕と関わると、保木部長からの当たりがキツくなるだろうし。でも、阿部さんがとても良くしてくれて、出社すればランチに連れて行ってくれるんです」
音川はテーブルの隅にあるシュガーポットを引き寄せ、食後のチャイにティースプーンで砂糖を3杯入れながら「ふーん」と音だけで返事をする。
「ごめんな」
音川は、なんのことだと小首を傾げている泉の瞳をじっと見た。
「保木の件」
「どうして音川さんが謝るんですか」
「俺たちがもっと早い段階で対処していれば、こんなことにならなかったんだよ。部署が違うからと突き放したのは失敗だった。オフィスを分けて臭いものに蓋をするようなことをして、きみたちに迷惑をかけた」
「そんなことは無いです。それに、おかげで僕は開発に来ることができたので、感謝してもいいくらい」
そう言い切る泉の視線はまっすぐに音川に注がれ、ぶれることがなかった。
真摯な響きを持った言葉だった。「泉くんが望まない限り異動はないから。実力もありそうだし、ずっと開発にいてよ」
そう言いながら音川はテーブルの上に置かれている泉の手首をさっと掴んだ。
突然の接触に戸惑う様子の泉に頓着せず、そのまま腕を自分の方に向けて「もう3時じゃねえか」と呟く。 時間が気になったが自分のポケットからスマートフォンを出すより先に、泉のスマートウォッチが目に入ったからだった。「戻ろうぜ」と音川は席を立ち、財布を出そうとする泉を「ふざけんなよ」と一刀両断で制止して会計を済ませた。「ごちそうさまです」と再びサングラスを掛けながら泉が軽く頭を下げた。
1000円そこそこで感謝されては返って気恥ずかしい。上司との食事なんて、無銭飲食できることだけがメリットだろうに。 そのうち奢られ慣れてくれればいい。勝手な意見だが、部下は、ちょっと図々しいくらいがやりやすい。「これから、よろしくね」
音川はサングラスを頭上にずらして掛け、少しだけ上体を折り曲げると泉の顔をひょいと覗き込んだ。
すっきりとした秀麗な額があらわになり、薄い緑の瞳は日光を湛えてミモザ色にも見える。 その知性でコントロールされてもなお放出される雄々しさ、与えられた容姿には無頓着だが、使い方を知っている。 軽いのか、堅いのか、まったく混沌とした人格のくせに、どこか1本筋が通っている。泉は、まるでその混沌が腕を伸ばしてきて身体を引き込もうとしたかのような錯覚を覚えてくらりと揺れた。
音川は、暴力的なほどに魅力的だった。「すまん、金曜日に残業なんて」音川が発する申し訳無さそうな声色は本心から来るものだと、泉はちゃんと分かっていた。とりあえず謝っておけばいいというおざなりさとは感情の深みが違う。 それに、静かに合わされた視線が——優しい。「本当にいいんですよ。むしろ、嬉しいです」「残業好きなの?変わったヤツだな」「違います。早く検証して貰いたかったので」「そうか。まあこれまでの単体テストでも問題は無かったから、今日は総仕上げだな。検証用サーバーで動きだけ見れたらいいよ。ぱぱっと終わらせて早く帰ろう」「お急ぎですか?」「俺?いや、そういうわけじゃ……」音川としては、泉が早く帰りたいだろうと思ってのことだった。残業好きでないというのなら。「この後、ジムの予約があるとか?」「それは朝」「うわ、すごい」「すごかねぇよ。どうせモーニング食いに駅前の喫茶まで行くからな」「毎朝モーニングですか?」2人は話しながらテキパキとテレフォンカンファレンスの機材を片付け、モニター等々の電源を落としたことを確認してから会議室を後にした。 出社する人数が極端に減った今、会議室はほとんど使われておらず、うっかり付けっぱなしにしておくといつまでもそのままになってしまう。「ウォーキングを兼ねてな。雨なら行かない」「面倒なんですね」「うん。ジムの日なら雨でも車で行くけどね」「僕、いわゆる喫茶のモーニングって食べたことがないです」「ほんまに?」「あ。音川さんの関西弁、始めて聞きます」ドアの傍で立ち止まり、音川は口をあんぐりと開けた。 大阪を離れ20年ほど経った今では、実家の家族や友達と会う時でさえ最初は標準語が出てしまう。それがまさか、職場で、しかも部下の前で咄嗟に関西弁が出てしまうとは自分でも信じがたい。 さらに大阪弁が出るかもしれないと思えば迂闊に口を開けない。いや、別に何の問題もないのだが、またしても『らしくない』自分の行動に少し動揺しそうになり、軽く咳払
社に戻るとすぐに音川は高屋にチャットを送っておいた。仕事ではなく私用の方だ。連絡できない相手がいるという一番の心配は取り除いてやれないが、それでも、夕方の定例会議で音川に礼を述べる高屋は安堵したように微笑み、顔色もやや血色が戻ったように見えた。次の安心材料として、「こっちは概ねスケジュール通り進んでるよ」と音川は丁寧な声色で開発状況について報告する。泉の進捗を精査したわけではないが、ちらほらと見た感じでは画面上の動作に違和感は全く無く、むしろ元よりずいぶんスムースな動きに感じられた。それにもし無理難題だったなら、泉は臆せず音川にヘルプを求めてくるはずだ。「泉くん主導でやってくれているんだってね。音川さんのつもりでスケジュール引いてるから、厳しそうなら言ってね」「はい。ありがとうござ……」と泉が言い終わらないうちに、「俺がマンツーマンで付いてるから大丈夫だ」と音川が割り込み、高屋と速水を交互に見る。「二人しかいないんだから必然だろ」と速水は辛辣に言い、高屋は「音川さんから直接指導が受けられるなんていいね」とにこやかに頷く。「それはそうですね……でも放置……いえ、自由にやらせてもらっています」泉の返答に高屋は「上手く言い換えたね」と笑い、音川はいたずらがバレた子供のように不満顔を作った。「実は教えることがほとんど無いんだよ」「それは優秀だ。泉くん、本社に来ない?」ニヤリと笑う速水に「だめ」と音川が即答した。速水の勧誘は半分冗談だが、音川は内心、こんなに優秀なやつ渡してなるものかと本気の拒絶だ。「そうだ、速水さん。インド料理のレシピ本を買ってきてもらえないでしょうか。もちろん代金は払います」「いいよ代金なんて。俺もこっちの本屋に興味があるからついでだし、インドのエンジニア向けの出版物なんて日本じゃ手に入らないからな。それに奥さんにも文房具だの雑貨を頼まれてんだよなあ。どこかで買い物に出なきゃならん」「ありがとうございます。お願いします」「泉くん、料理するの?」と高屋が音川
音川の役職は最高技術責任者だ。コンサルティング会社である本社には、技術面の諸判断を行うために速水がいるが、両社合せてこの肩書を持つのは音川だけだ。ゆえに部長や課長といった一般的な序列とは別のルートであり、孤高の存在である。普段、音川本人は自分の立場の強さをおくびにも出さず、あくまで一般技術者として開発目線で行動しているが、いざというときは全責任を負う立場として顧客と交渉する。学生から、『キーボードを持って生まれてきた男』と揶揄されるほど開発に没頭してきたが、今の役職ではシステムやデータベース設計の上流工程を受け持つだけで、社内で開発そのものに取り掛かることは非常に稀だった。そのせいもあり、音川は副業の方で思う存分アプリケーション開発をしている。今のところ開発も設計もデザインも自分独りのワンマンで、実験的なことをやりたい放題、出資者はいるが、受け取っているのは金銭ではなくデータのため、共同開発者と呼べる。納期もない趣味の延長のようなもの——周囲にはそう見せかけているが、其の実、音川は明確なゴールを持って開発に取り組んでいる。いずれ完成すれば、今の会社務めの方が副業になるだろう。音川が子会社のフロアに到着する頃、泉は開発部のオフィスで独り、ヘッドフォンを装着して目下の課題にのめり込んでいた。高屋から提供されたサーバー再構築のスケジュールは音川が担当することを想定して組まれているためタイトだが、自分にも不可能ではないと判断した。泉は——この日がくるのを夢見てずっと独学でプログラミングの鍛錬をしてきたのだ。デザイン部では開発の音川の目に留まることを期待して懸命にやってきたが、今与えられているチャンスはそれとは比較にならない。これからは開発部の一員として、あの孤高の存在であるエンジニア——我こそ右腕にならんと皆を切磋琢磨させるカリスマ性に誰もが憧れている——と仕事ができる。憧れが昂じて恋に変化している者もいないとは言い切れない。まさに、泉自身がそうであるからだ。昨夜、その音川から出社の連絡を受けた時は、心臓が躍動し
音川は、毎日のインド組との定例会は1時間まるごと雑談に当ててもいいと考えていた。話の分かる人間とざっくばらんに語らうことで、インド滞在中の速水と高屋のストレスを少しでも軽減しようというのが真の目的だからだ。 会社では公にしていないが、音川は中学から20歳頃までポーランドで過ごした帰国子女であり、異文化圏でなにかを遂行する難しさをよく知っているから愚痴も面白く聞けるし、的はずれなアドバイスをしない思慮深さも持ち合わせている。加速する日焼けに比例して、どんどんやつれていく2人は、気象と立場の両方の意味で過酷な環境にいる。 特に高屋の疲労感は酷かった。「高屋さん、目の隈がすごい」「そう?」高屋はモニターを鏡代わりにして見ながら顔に手をやった。確かに目の周辺が窪んで、頬もこけたように思う。「寝不足?」「うん。本来はどこでも眠れるはずなんだけどね、今回はそうもいかないみたい」そう言って高屋は目を伏せた。「なにか、心配事ですか?」それまで、にこやかに先輩3人の雑談を聞いていた泉が、ふと口を挟んだ。「ケータイが無いからだろ」と音川は端的に言った。「そう……連絡しなきゃいけない人がいるのに……連絡先がわからなくて」さらに沈んだトーンになった高屋に、音川が「その相手って、帰国後に事情を説明しても、分かってくれなさそう?」と少し踏み込んで問いかける。「恐らく理解してくれると思う。でも、毎週末泊まりに行く習慣なんだ。それを急に連絡もなくすっぽかすことになって……向こうからおれの番号にかけても音信不通だろう。心配かけていると思うとね、自分を責めてしまって。眠れない」「恋人ですか?」と泉がさらりと訪ねた。 毎週末の泊まりや憔悴した様子からして聞くまでもないことだろうと、音川と速水は敢えて言及しなかったが。「いや……友達、かな」高屋のその答えに、30代2人は椅子から転げ落ちそうになった。「んだよ、てっきり……」「なんで2人共ちょっと怒ってるの?」高屋がキョトンとした表情で、向
音川は失言を回避できたことにひとまず胸を撫で下ろした。職場の人間に対して『かわいい』などと言ってしまえば、自分より目下に見ているせいだと誤解される可能性がある。もしも泉が女性だったなら、容姿についての感想だとしてセクハラにもなりかねない。ずいぶん神経質に思えるかもしれないが、これには、7月の夏真っ盛りである中途半端な時期に実施された泉の人事異動に関連した事情がある。泉は元々デザイン部の有望な若手だった。デザイン部と開発部は同じフロアだが、廊下の端と端という位置で、休憩室がちょうど中間地点にあり、ちょっと話に行くには億劫な距離で基本的にそれぞれの一般社員たちは往来をしない。休憩室で顔を合わす程度の交流だ。リーダー格以上となれば本社を含めた会議などそれなりの交流はあるため、音川もデザイン部の課長とはよく話をする。なんせ、デザインが上がってこない限り開発もすすめられないから、本来なら二人三脚で進めるべきなのだ。それがなぜ袂を分かつかのように距離ができたのか——デザイン部部長は保木という40代後半の男で、10年前に元の勤務先から顧客をごっそり連れての中途入社だった。顧客を奪うのはまともな転職ではないが、本社から独立したばかりの子会社にとっては大きな機動力となる。保木と社長とは故知の仲らしく、チーフデザイナーとしての採用で給与も高く、地位も約束されていた。しかし保木には、社長には絶対に見せない、裏の顔があった。デザイナーはダメ出しされるのも仕事のうちだと言われる。しかし、それが技術の未熟さではなく、上司の機嫌で左右されるとなると、まごうことなきパワハラだ。当初は同じオフィスだった開発部からデザイン部へ『声が大きくて集中力をそがれる』という申し入れがされた。実際は保木部長の怒鳴り声とその内容に耐えかねた批判だった。それが当のデザイン部内部からの発出であれば対策も立てられたかもしれないが、若手デザイナー達はよくも悪くも職人気質であり、理不尽にジッと耐えていた。というのも、保木が持っている案件は誰もが知る大手企業ばかりで、それに関わることは自分の実績に箔がつくことになる。イコール、転職に優位となる。耐えて実績を積み華麗に転職する—— それが若手デザイナー全員の共通意識だった。音川と速水は、保木が中途入社した年の新入社員だった。独立したことで、
『音川君、今ちょっといい?』ピコン、という通知音と共に送られてきたメッセージを見てすぐ、音川はヘッドセットを装着した。 在宅勤務となり4年目。IT会社に務める音川にとっては出社してようが在宅だろうがチャットによるコミュニケーションは常だったが、通話は以前に比べて圧倒的に増えた。『はい、大丈夫です』チャットではどうしても堅くなるな、と表示された自分の返信を見ながら、メッセージの送り主である課長からかかってきた通話を受ける。これが口頭なら、『いっすよ』だっただろう。「お疲れ様でーす」と課長の軽快な掛け声が思ったより大きく、音川は急いでボリュームを下げた。「おつかれっす」「急にごめんね。ちょっと相談なんだけど、T社の件について何か聞いてる?」「ああ、あの揉めてるやつ」「こっちはもうカツカツで人が増やせないから、音川君どうかなって」T社とは、自社のWebアプリケーションのカスタマイズを一手に引き受けてくれているインドの開発会社だ。 最近先方でボイコットがあり、本社の企画と開発が現地入りしていると音川は本社の開発担当の速水から直接チャットで聞いていた。 騒動の内容と、音川の手を借りることになるだろうという話も。「えー、めんどくさい」「ホンネがすぎる」と課長が言うが、音川のこういった素直さを何よりも頼りにしているのは当の課長だった。 営業の持ってくる仕事を選別する際に、音川のように現場の声をダイレクトに伝えてくれるエンジニアがいると大変に助かる。 ただ今回は、『忙しい』ではなく『めんどくさい』なのが厄介だ。「で、やれそう?」「いけるっちゃいける」「助かるよ。まいどまいど。で、新人を付けるから、教育も兼ねて欲しいんだよね」「あっ。そっち?……余計にめんどくさい」「まあそう言わずに。いい機会だから育ててみてよ。元デザイン部の貴重な人材なんだ」課長は、今年度から開発部に配属された新人の名前を出した。フルネームは青木泉というが、社内に同じ青木姓がすでにいるため、慣例に沿って新人は名前の『泉』だけを通称にしており、混乱を避けるため社内SNSも同様とのことだ。「ああ、彼か」「知ってるの?」「名前と仕事は一致するよ。いいデザインをあげてくるコ。話したことは、ないかな。たぶん」開発部門には、前業務や勤続年数に関わらず、配属された時を