Mag-log in音川の役職は最高技術責任者だ。
コンサルティング会社である本社には、技術面の諸判断を行うために速水がいるが、両社合せてこの肩書を持つのは音川だけだ。ゆえに部長や課長といった一般的な序列とは別のルートであり、孤高の存在である。 普段、音川本人は自分の立場の強さをおくびにも出さず、あくまで一般技術者として開発目線で行動しているが、いざというときは全責任を負う立場として顧客と交渉する。 学生から、『キーボードを持って生まれてきた男』と揶揄されるほど開発に没頭してきたが、今の役職ではシステムやデータベース設計の上流工程を受け持つだけで、社内で開発そのものに取り掛かることは非常に稀だった。そのせいもあり、音川は副業の方で思う存分アプリケーション開発をしている。
今のところ開発も設計もデザインも自分独りのワンマンで、実験的なことをやりたい放題、出資者はいるが、受け取っているのは金銭ではなくデータのため、共同開発者と呼べる。納期もない趣味の延長のようなもの——周囲にはそう見せかけているが、其の実、音川は明確なゴールを持って開発に取り組んでいる。 いずれ完成すれば、今の会社務めの方が副業になるだろう。音川が子会社のフロアに到着する頃、泉は開発部のオフィスで独り、ヘッドフォンを装着して目下の課題にのめり込んでいた。
高屋から提供されたサーバー再構築のスケジュールは音川が担当することを想定して組まれているためタイトだが、自分にも不可能ではないと判断した。 泉は——この日がくるのを夢見てずっと独学でプログラミングの鍛錬をしてきたのだ。 デザイン部では開発の音川の目に留まることを期待して懸命にやってきたが、今与えられているチャンスはそれとは比較にならない。 これからは開発部の一員として、あの孤高の存在であるエンジニア——我こそ右腕にならんと皆を切磋琢磨させるカリスマ性に誰もが憧れている——と仕事ができる。 憧れが昂じて恋に変化している者もいないとは言い切れない。まさに、泉自身がそうであるからだ。 昨夜、その音川から出社の連絡を受けた時は、心臓が躍動した。 出社して来いという業務命令ではなく(であれば明確にそう書くはずだと泉は音川の性格を理解している)ただの共有なのだろうと瞬時に分かったが、敢えて出社の誘いだと受け取ることに決めて、今朝早くに家を出た。メッセージには時間が記載されていなかったが、午前中は来なさそうだと踏んで泉は音楽を聴きながらコーディングに集中していた——その時。ぞわり、と首の後ろから後頭部にかけての髪の毛が総毛立った。
まるで天井から見えない水滴がぽたりと落ちてきたかのような感覚は、少し恐怖にも似ている。 ——間違いなく、すぐ近くに音川がいる——と全身の神経が反応している。ヘッドフォンをむしり取って勢いよく振り返ると、憧れのエンジニアは佇んでいた。まるでそこに幽霊でも見たかのように両目を開いて静止していることに、自分でも気がついていないのか、束の間泉と視線が交わる。
軽いウェーブのかかった前髪は引き締まった顔にまとわり、グリーンの瞳を引き立てる。滑らかな上質の白いシャツは袖を肘まで捲くられ、そこからのぞくたくましい腕は、元来の白い皮膚が夏の日差しで焼かれたのか微かなオリーブ色に艶めいている。 実体は、カメラ越しより何百倍も美しい。 泉は頭の中だけで美術的な称賛を贈った。 音川がなぜ声をかけてこなかったは分からないし、そこまで気が回らなかったが、見とれていることにハッと気が付き、急いで「お疲れ様です!」と頭を下げた。「あ、ああ。おはよ」と低い声で挨拶が返ってきた。
「すみません、気が付かず」
「いや、俺がこっそり入ってきただけ。なあ、……メシ、行かない?」
「あ、ぜひ!」
音川は適当なデスクに書籍を置き踵を返した。食後は社に戻り、泉に進捗を見せてもらうつもりだ。
社屋から出た途端に真夏の太陽光がギラリと目に突き刺さる。 手で顔にひさしを作ると多少の軽減にはなるが、アスファルトからの照り返しも強くて、目の色素が薄い音川には痛いほどだ。「眩しそうですね。サングラスは?」
「そんなの掛けて昼食に向かうサラリーマンなんて、この辺には居ないだろ」
建前だった。
これが一人の外出なら、間違いなくサングラスを掛けている。 音川は同行する人が奇異に見られないように気を遣っただけだ。大昔だが、目立つからやめてくれ、と言われた経験があるから。「そういうの、気にするタイプには見えないのに」と泉は呟いた。
「意外?」
「ですね。音川さん、眩しさであまり見えてないんじゃないですか?だから、サングラスを掛けるほうが合理的だし、自然ですよ。それに、すごく似合うと思う」
音川から、「そうか」と感嘆とも安心ともとれる低い返事が漏れた。
「持ってきていないんですか?ちなみに僕は持ってます。通勤時にかなり眩しいから」
そう言う泉の顔を覗き込むと、明るいブラウンの瞳とぶつかった。風になびく髪も明るい色で、元から色素が薄いのだろう。
お互いが眩しさに眉間にシワを寄せた顔をしており、奇妙な連帯感に笑い合う。「あるよ。上に置いてる」と音川は振り返り気味にオフィスを見た。
「取ってきましょうか」
「いい。一緒に行く」
2人は連れ立ってエレベーターホールに戻った。
泉は自分より少し背の高い音川の顔をふいに見上げ、「僕、インドカレーがいいです」と言う。 下方から顔をじっと覗きこんでくる泉の瞳は、眼底まで光が届いているかのように澄んでいた。 細身だがしっかりした身体の質感、ふわりと揺れる髪に整髪料の微かな匂い、マイク越しでは分からなかった声の柔らかさ。 音川は突然、隣りにいる泉の実体を認識した。「もっと小柄かと思ってたよ」
「よく言われます。童顔のせいかも。音川さんは身長何センチですか」
「188センチで……AB型。33歳。大阪出身。母親がポーランド人。猫1匹で名前はマックス。一人暮らし。筋トレは週4」
「なんですかそれ」
「初対面の人から聞かれること。以上」
「噂には聞いていましたが、本当に面倒くさがりなんですね」
「きみは?」
そう聞き返してきた音川を、泉は意外に思った。社外の人間ならまだしも、後輩や部下に社交辞令など言いそうにないと思っていたからだ。
「そんな、いいですよ僕のことは」
「興味がある」音川の口は頭で考えるより先に動いていた。「あ、いや、これから仕事を一緒にしていくわけだし……俺はこれ以上話すことがない退屈な人間だが、まあ質問があれば何でも」
泉は笑みが零れそうになるのを必死に耐えた。音川のストレートな言葉が、正直に嬉しい。
「僕は178cmでO型で25歳です。ここが地元で実家暮らしです。あとは……特にないかなぁ。ああ、猫はかなり好きです。自己紹介って難しいですよね」
「だろ」
「大阪出身なのは意外でした。関西弁じゃないんですね」
「うん。もう滅多に出ないな。地元の学校へは行っていないし」
泉は「へえ」と相槌を打って、なんとなく音川は私立の中高一貫男子校に行ってそうだなと想像した。極端に理数に強いようなところと、稀のイベント事に職場で遭遇した際はいつも男性エンジニア達に囲まれているからだ。とはいえ開発部に女性がいたかどうか自信がないが。
連れ立ってサングラスを掛けて屋外へ出ると、やはり相当歩きやすい。
泉の少しだけ色の薄いレンズは、明るい髪色と日に焼けていない肌によく似合っていた。サングラスが与える一般的な(そして古い)印象とは真逆で、知性をきちんと感じさせ、やや神経質さを伺わせる。「速水たちのせいだよな」
会社近くにあるインド・ネパールカレー屋で、音川は前菜のパパドを割りながら泉に同意を求めた。在宅勤務になってからも食べに出向くほどお気に入りの店だ。
ランチ時間を過ぎた昼下がりで客は音川たちだけだった。 薄暗く、空調の効きが悪いため扇風機がぶんぶんと盛大に回っている。空いた席では、店主の子供がタブレットで算数ドリルを解いている。「僕、ずっとインドカレーが食べたくて」
「俺も」
「速水さんに現地でレシピ本を買って来てもらいたいんですけど、頼んでもいいと思います?」
「いいだろ。料理すんの?」
「いえ……でも本格的なカレーに憧れが」と言いサービスのラッシーに手を伸ばして一口すする。
「俺もやろうかな」とは単なる相槌だ。音川の自宅マンションには立派なキッチンが備えられているが、湯を沸かす以外の目的で使われたことはない。
「音川さん。スパイスカレーの他に、バイク、ジョギング、そば打ち、サウナ。興味があるものはどれですか?」
「いや、どれも興味ない」
「よかったです。これ、おじさんになると始めることらしいですよ。だから音川さんはスパイスカレーに手を出しちゃだめです。僕が作ってあげます」
「おじさん……?俺まだ33なんだけどね」と音川は釘を刺しておいて続ける。「どうせきみたちデザイン系は、おしゃれなキッチンで、リビングの本棚には読みもしないのにフランス語のデザイン雑誌が置いてあるんだろ」
泉は大げさに目をむいて見せ、「偏見ですよ」と細く千切ったナンで音川を指差す。
「ここに食いにくればいいさ」
「その通り!」といつの間にかテーブル脇に立っていた店主が満面の笑みで音川に同意する。「ナンのおかわりは?」
「あ、僕欲しいです。小さめで」
「俺も」
「あと、男女問わず、独身の一人暮らしが猫を飼うと婚期が遅れるらしいですよ」
もっともらしく言う泉を、「そんなのとっくに逃してるさ」と音川は笑い飛ばした。
「そもそもだな、ペットが居れば決まった時間にごはんをやるし、遊んでストレスも発散させないといけないから、必然的に毎晩家に帰るようになるんだ。うちは18時に夕飯、23時に夜食と決まっている。帰省でもせいぜい2泊がいいところ、しかも事前に相応の準備しておかなければ無理だし、心境的には1泊でも心配だね。旅行なんて家に残してきている猫が気になってどうせ楽しめない。それどころか丸一日の外出ですら、18時には帰宅するんだよ。そんな男に恋人がいると思うか?わざわざ出会いの場にも行く理由もないし」「急にめっちゃ喋りますね。そんなにかっこいいのに、パートナーが猫だけなんて信じられませんけど」
音川は後輩のお世辞を聞き流した。外見など物心ついた時から褒められ慣れている。
息子から見ても母は美しい人だと思う。その母によく似ていると言われるのだから、恐らく自分もそうなんだろうと薄々は思うが、それよりも一見で外国人扱いされる不便さの方が日常生活では勝る。「性格に難があるんだろ」
「Yes、ちゃんとナンありますよ」
顔を上げると、店主がバスケットいっぱいに広がるナンを嬉しそうに持って立っていた。小さめというオーダーは無視されたようだ。
笑いを噛み殺す泉に「今のは俺のダジャレじゃないからな」と念を押す。 この量いけます?と目だけで泉が尋ね、音川は自分の方に寄越せと手の動きで答えた。たっぷりとバターが塗られて芳しい。「でもさ、俺は別に何を聞かれても気にならないけど、うちの部、こういう話題は苦手な人もいるからちょっと気にした方がいいかもな。婚期どころか、3次元の人間とコミュニケーションを取れないやつもチラホラいるし」
「すみません」
「いや、俺には何を言ってもいい」
「会ってみたら……なんか喋りやすくて、つい」
「俺も」
「あ……そ、そうですか。感情が分かりにくいですね。僕、昨日から緊張してたんです。会社行ったら音川さんがいると思うと」
緊張する、これも初対面で言われ慣れた言葉だった。
見た目に威圧感があるんだろう。確かに、泉も初回の会議では相当緊張した面持ちだった。「呼び出すつもりはなかった。じゃあなんのつもりだったかと聞かれると困るけど」
「なんでもいいです。僕が自主的に出社したんで」
「あ、そ」ついそっけない返事になってしまったことに気がついたが訂正はしなかった。理由を聞けば答えは返ってくるだろうが意味はないだろう。現に、出社しなければならない理由が開発部には無いからだ。
「音川さんて……無口ではないですよね?」
「開発の中じゃ喋る方だ。半分営業みたいなところもあるし」
「僕は、前の部署ではあまり話さなかった」
そう言うと泉は伏し目がちになりそっとスプーンを口に運ぶ。
その丁寧な仕草は、泉の細やかな感受性を表しているかのようだった。 先だってのインドとの打ち合わせでは、泉だけが、高屋の悩みの本質を見抜いたように。「避けてたのか?」
「ええ、まあ。僕と関わると、保木部長からの当たりがキツくなるだろうし。でも、阿部さんがとても良くしてくれて、出社すればランチに連れて行ってくれるんです」
音川はテーブルの隅にあるシュガーポットを引き寄せ、食後のチャイにティースプーンで砂糖を3杯入れながら「ふーん」と音だけで返事をする。
「ごめんな」
音川は、なんのことだと小首を傾げている泉の瞳をじっと見た。
「保木の件」
「どうして音川さんが謝るんですか」
「俺たちがもっと早い段階で対処していれば、こんなことにならなかったんだよ。部署が違うからと突き放したのは失敗だった。オフィスを分けて臭いものに蓋をするようなことをして、きみたちに迷惑をかけた」
「そんなことは無いです。それに、おかげで僕は開発に来ることができたので、感謝してもいいくらい」
そう言い切る泉の視線はまっすぐに音川に注がれ、ぶれることがなかった。
真摯な響きを持った言葉だった。「泉くんが望まない限り異動はないから。実力もありそうだし、ずっと開発にいてよ」
そう言いながら音川はテーブルの上に置かれている泉の手首をさっと掴んだ。
突然の接触に戸惑う様子の泉に頓着せず、そのまま腕を自分の方に向けて「もう3時じゃねえか」と呟く。 時間が気になったが自分のポケットからスマートフォンを出すより先に、泉のスマートウォッチが目に入ったからだった。「戻ろうぜ」と音川は席を立ち、財布を出そうとする泉を「ふざけんなよ」と一刀両断で制止して会計を済ませた。「ごちそうさまです」と再びサングラスを掛けながら泉が軽く頭を下げた。
1000円そこそこで感謝されては返って気恥ずかしい。上司との食事なんて、無銭飲食できることだけがメリットだろうに。 そのうち奢られ慣れてくれればいい。勝手な意見だが、部下は、ちょっと図々しいくらいがやりやすい。「これから、よろしくね」
音川はサングラスを頭上にずらして掛け、少しだけ上体を折り曲げると泉の顔をひょいと覗き込んだ。
すっきりとした秀麗な額があらわになり、薄い緑の瞳は日光を湛えてミモザ色にも見える。 その知性でコントロールされてもなお放出される雄々しさ、与えられた容姿には無頓着だが、使い方を知っている。 軽いのか、堅いのか、まったく混沌とした人格のくせに、どこか1本筋が通っている。泉は、まるでその混沌が腕を伸ばしてきて身体を引き込もうとしたかのような錯覚を覚えてくらりと揺れた。
音川は、暴力的なほどに魅力的だった。音川の仕事部屋にコーヒーを持って行った泉は、パソコンに向かう恋人の口元に笑みが浮かんでいるのを見て、(よほど仕事が楽しくて仕方がないんだな)と理解したが、それは思い違いだった。確かに最近の音川は泉が入手した暗号データの解読に取り憑かれていたが、それはこれが、長年苦しめられてきた自アプリの不正改ざんについてのヒントがそこにあるからだけではない。 この、自分に明るい未来を与えてくれるであろうデータは、泉が身を挺して手に入れたものだからだ。 彼が、右も左も分からない環境で独り、どれほど苦心していたか……どれほど勇気のいることだったか、想像に難くない。 すべて、音川の過去の傷を慮ったためだ。 その——とっくに愛されていたのだという事実が、音川の胸を焦がす。 ゆえに、暗号化解読中の音川には常に微笑が浮かんでいた。 実際、解読作業が楽しいのは間違いない。しかし、さすがにニンマリと笑いながらでは、まるで映画に出てくるハッカーだ。泉は恋人の集中力の妨げにならぬよう、持ってきたコーヒーは自分で飲むことにして、ソファにどかりと座り出窓にカップを置いた。こうなっている時の音川の集中力は凄まじく、声をかければ返事は帰ってくるが空返事で、後で確認しても会話の内容は何も覚えていないことが多い。 泉自身にも思い当たる節があり、お互い様だから気にもならない。集中している場面であっても存在が邪魔にならない——むしろ、居てくれる方が心地が良いのは、特別なものだと泉は感じていた。 これが音川以外の人間であったなら、例え無言でその場に居るだけでも気が散ってしまうだろう。コーヒーを一口のみ、ほろ苦さに若干眉をひそめながら本棚に詰められている背表紙を眺める。どれを読もうかと選別してみるものの、結局はいつものように、ひときわ擦り切れた一冊を手に取る。 The code bookと題されたそれは音川が小学校に上がると同時に祖父から贈られたものらしく、裏表紙には著者のサインが入っていた。 初めて見た時、「こんなものを7歳から読んでたんですか」と驚きに目を見開いて音川に尋ねると、「このせいで俺は暗号世界の住人になったんだ」と自嘲気味に笑う。 泉がたまらなく好きな、少しの自虐と、照れが混ざった笑顔。あれから——音川は最高技術責任者として社に残ったが、大半の業務は泉が引き継いだ。重責を半分
寝室の扉を開いたのは泉だった。音川の手を握り、引き入れるように誘う。その遠慮がちながらも情熱の籠もった眼差しに音川の胸は激しく高鳴り、泉に触れる瞬間を待ち望む思いが募ってゆく。音川の手によって静かにベッドに横たえられると、親指が優しく頬を撫でる。腰を引き寄せられ、身体のラインがぴたりと重なった瞬間、泉は音川の男の熱さと硬さにはっと息を呑んだ。期待と不安が熱となり体の芯へと広がってゆく。「この時を、どれほど待ったか……」音川が呟く。その唇はゆっくりとじらすように泉の素肌を滑り降りてゆく。「……ん……どれ、くらい……?」「何ヶ月も。きみを押し倒して自分のものにしたいという衝動と、何ヶ月も闘い続けてきたんだ」音川は上体を起こしてわずかに頭を傾け、泉の頬に鼻先をすべらせながら、耳元でそっと息を吐いた。その声は低くかすれ、抑えきれない欲を滲ませている。泉の背筋をぞくりと震えが走った。胸の奥で、言葉にならない想いが膨れ上がる。音川はその一瞬の隙を見逃さず、唇で泉の首筋をゆっくりとなぞり始めた。肌に触れたその熱が、瞬く間に泉の全身を灼く。泉の指は無意識に音川の黒髪に絡みついた。髪を掻き抱くその感触に、音川もまた反応し、僅かに身を震わせる。泉の指先に呼応するように、欲望が頭をもたげる。音川の唇が泉の首の敏感な一点を探り当て、吸い上げる。泉の口から、抗いきれない吐息が漏れる——その響きは、寝室の空気を熱く揺らした。「おと、かわさん……」音川は頭を少し引き、泉を見下ろした。その瞳は欲望に濡れ、普段の冷静さはどこにもない。乱れた髪、わずかに開いた唇、荒く上下する胸——今にも理性が崩れそうなその姿はあまりに妖しく——泉は自分の中心が堅く痛いほどに張り詰めるのを感じた。彼をこうしたのは、自分だ—
泉の役職が正式に発表されたその日、祝杯を上げるために2人はヒューゴの店を訪れた。ちょうどバイトに入っていた高屋が「後でおれも合流していい?」とニコニコ顔でおしぼりとメニューを差し出してくる。もちろん大歓迎だった。「おすすめ、ある?」「ブルーチーズが好きならキツいのがあるよ。あと、ガトーショコラが1切れ」音川はどちらも即注文した。飲み物はお任せだ。高屋はすぐに踵を返してカウンターに戻り、ヒューゴが穏やかに微笑みながらオーダーを聞いている。軽く頷きながら、高屋に向けている眼差しは蕩けそうなほどに柔らかい。すぐに最初のカクテルが届き、泉と軽く乾杯する。「これからは、公私共々よろしく」グラスを置いて、ひととき見つめ合った。「なあ泉。ここで高屋さんに話してもいいかな」ピタリと泉の手が止まった。「僕らのことですか?」「うん」「音川さんが気にしなければ……」「きみはどうなの?」「僕は、どこでだって拡声器で言って回りたいくらいですよ」めずらしく泉が口角を上げてニヤリと笑ってみせ、音川に悪戯心が芽生える。「お兄さーん。マイクある?」高屋がいるカウンターの方に向けて音川が声を上げた。「ねぇよ!スナックと一緒にすんな」突然、ヒューゴがシェーカーを振りながら荒っぽく返答したものだから、周りの客は一瞬ギョッとしてから笑いに湧いて、高屋は床に座り込んで肩を揺らしていた。後で聞いた話では、普段は接客アンドロイドを思わせるほど礼儀正しい彼が初めて粗野な言葉遣いをしたものだから、常連たちが度肝を抜かれたらしい。23時を過ぎると客が引けて、店じまいを終えた高屋が音川たちのテーブルに合流する。高屋は音川と泉を横並びに座り直させ、そして自分専用の銅製のカップを持ってきて乙川の向かいに座った。ヒューゴはカウンターでドリンクを用意しているようだった。客が捌けた店内で、シェーカーを振る音が小気味よく響く。それぞれ異なる行
それは、泉の出向が正式に終了した日だった。東京から音川の元へ『帰宅』した泉は、音川同様に取りそこねていた夏季休暇を申請し、その期間に引越しを計画した。ついでに数ヶ月も不在にしていた実家に戻り、幾日かを親孝行に費やすことにした。音川はそんな泉に実家まで送ると申し出ておいて、まるでついでのように1通の封筒を差し出した。そこに「退職願」と書かれているのを見て、泉は青ざめた。「……どうして……」「理由は、個人的事情による退職。俺は、上司であり、管理職であり、君より年上だ。道理は明白だろう?君には、事後報告のほうがよかったかもしれないが……こういうことは、けじめとして、きちんと伝えるべきだと思った」音川の声は至極冷静で、当然のことのように述べる。反対に泉は震えそうになるのを押し殺しながら、両の拳を握りしめた。「でも、交際が社内規定に反するわけじゃない。上層部に言われたんですか? 」「いや。誰にも咎められていない。俺の倫理の問題だ。――俺は君の才能に惚れ込み、次のリーダーとして名指しした。その決断に私情は一切無いと言い切れる。しかし、恋愛関係にあることが知れれば、職務上の優遇や贔屓があったのではと誤解されてしまうかもしれない。そうなれば、きみの努力や才能が歪めて見られる。それだけはどうしても避けたいんだ」「そうやって、全部自分だけで決めて、自分だけ傷ついて、何でも一人で完結させようとするの、やめてくださいよ……」音川は伏せていた目を見開いた。思わぬ反発だった。自分が去ることは、どう考えても理にかなっているはずだ。泉の瞳は堅い意思を宿し、音川を静かに見つめていた。「僕たちが付き合ってることは、たしかに簡単なことじゃない。でも、だからってどちらかが犠牲になるのが当然なんて、おかしいです。――馬鹿げている」「……犠牲、というつもりはなかった。ただ……きみを守りたい。それだけだ」「守るなら、
音川は徐々に弛緩してゆく恋人の身体を支え起こし、唇は繋げたままで膝の上に座らせた。「ん……」合わせ目から泉がため息のような声を漏らす。自他共に認める甘党の音川だが、この唇や舌を越える甘い口当たりのものは知らなかった。このままでは抱き締め潰してしまうかもしれないと怖くなり、音川は無造作に立ち上がった。肩に頭をもたせかけて、完全に身体の力が抜けていた泉の身体が宙に浮き、驚きの声があがる。「ほら、ちゃんと掴まってて」ずかずかと部屋に踏み込んだ音川は、膝を突くと上体を倒し、泉の身体を布団へ寝かせた。首に両腕と腰回りに両足が巻きついたままのため、覆い被さる態勢だ。「もう落ちないよ」音川にそう言われて、自分の背中がすでに布団の上であることにようやく気付いた様子で慌てて身体を離す。音川は微動だにせず、泉を見下ろしていた。長く密着することは危険だと分かっていても、離れ難かった。しばらくそうしていると身体の下で泉がもぞりと身を捩り、硬い太ももが音川の下半身に触れる。これが限界だと音川はようやく身を引き剥がして隣の布団に仰向けに倒れ込んだ。部下に手を出すような人間じゃない、そう己を自己分析していたのは真実だったが、しかし、想いが募るにつれ、肉体的にも恐ろしいほどに泉に惹かれているのも事実だ。つい数十時間前の、泉の艶やかさが脳裏に蘇る。しばしの煩悶の後、音川は一際大きいため息をついた。これまでの自分なら、ここで布団を引き離してさっさと寝てしまっただろう。……紳士的な行動と言えなくもないが、今、それは正しい選択肢では無いはずだ。音川は枕元に置かれたスタンドライトの灯りを落とした。漆黒の闇が落ちる。しかし目を閉じても眠れる訳無く、自分の心臓の音に集中していたが、このまま無言で横たわったまま朝を迎えてしまったら心臓がオーバーヒートして燃え尽きるかもしれないと思い、口火を切った。「……喫茶店、もう高齢で週末にしか開けていないらしい」「音川さん家族が通っていたんですよね?」「うん。俺はもう数年ぶりになるかな」「最初にその話を聞いたとき、下町のタバコ臭い店を想像してしまいました」「価格的にはそうだろうな。大人になってから知ったが、このあたりの地主の道楽だってよ。ミックスジュースが絶品なんだ。俺の甘党の始まりは間違いなくそれ」「楽しみです。早く寝た
そうして、飛行機の予定時刻まで、ふたりはラウンジでゆっくりと会話を楽しむことにした。テーブルには、それぞれ好きなものをビュッフェから持ってきており、音川は一口サイズのケーキをいくつか、泉は数種類のコールドサラダに牛肉の煮込みと、アメリカンなセレクトだった。音川は泉の帰国便を自分と同じフライトに変更し、イーサンには「彼を連れて帰る」とだけメールで知らせておいた。彼が社に対して行ったことと同じような通達のみになるが、泉が残っても、イーサンに利用されるだけであると判断した。そもそも、本来の研修内容はすでに修了しており、会社間において実害は何もなければ、文句を言われる筋合いも無かった。「かわいいね」音川は塊肉をもぐもぐと頬張る恋人を見つめながら、そう呟いた。「リスみたいで、ですか」「ううん。きみが。可愛くてたまらない」「んぐ」泉は急いで水を飲み、むせそうになった呼吸を整える。「どうしたんです?急に……」「もう口をつぐんでおく必要がないのであれば、言いたい時に言う」「……それ、僕も同じことしていいですか?」音川はそう返され、視線を合わせたまま微かに首を傾げた。「俺に可愛い要素があるならな」「眼の前に甘いものを並べてニコニコしている音川さん、可愛い要素しかないです」今度は音川が声に詰まる番だった。「……ただの甘党です」泉がクスクスと笑い、「音川さんはかっこよくて可愛いです」とまっすぐに目を見つめたまま言うと、音川は小さく唸り声を上げて、後頭部に手をやった。その照れる様子がめずらしく、泉は目を細める。まもなくして、搭乗ゲートが開いたとアナウンスがあった。「そうだ」並んで機上の人となって幾時間も経たずに、音川は思いついたように、自分の左手首から腕時計を外すと、「俺だと思って持ってて」と泉の手首に巻き付けた。ブレスレットの留め具を抑える衝撃に少し顔を