Masuk音川は、毎日のインド組との定例会は1時間まるごと雑談に当ててもいいと考えていた。話の分かる人間とざっくばらんに語らうことで、インド滞在中の速水と高屋のストレスを少しでも軽減しようというのが真の目的だからだ。
会社では公にしていないが、音川は中学から20歳頃までポーランドで過ごした帰国子女であり、異文化圏でなにかを遂行する難しさをよく知っているから愚痴も面白く聞けるし、的はずれなアドバイスをしない思慮深さも持ち合わせている。加速する日焼けに比例して、どんどんやつれていく2人は、気象と立場の両方の意味で過酷な環境にいる。
特に高屋の疲労感は酷かった。「高屋さん、目の隈がすごい」
「そう?」
高屋はモニターを鏡代わりにして見ながら顔に手をやった。確かに目の周辺が窪んで、頬もこけたように思う。
「寝不足?」
「うん。本来はどこでも眠れるはずなんだけどね、今回はそうもいかないみたい」そう言って高屋は目を伏せた。
「なにか、心配事ですか?」
それまで、にこやかに先輩3人の雑談を聞いていた泉が、ふと口を挟んだ。
「ケータイが無いからだろ」と音川は端的に言った。
「そう……連絡しなきゃいけない人がいるのに……連絡先がわからなくて」
さらに沈んだトーンになった高屋に、音川が「その相手って、帰国後に事情を説明しても、分かってくれなさそう?」と少し踏み込んで問いかける。
「恐らく理解してくれると思う。でも、毎週末泊まりに行く習慣なんだ。それを急に連絡もなくすっぽかすことになって……向こうからおれの番号にかけても音信不通だろう。心配かけていると思うとね、自分を責めてしまって。眠れない」
「恋人ですか?」と泉がさらりと訪ねた。
毎週末の泊まりや憔悴した様子からして聞くまでもないことだろうと、音川と速水は敢えて言及しなかったが。「いや……友達、かな」
高屋のその答えに、30代2人は椅子から転げ落ちそうになった。
「んだよ、てっきり……」
「なんで2人共ちょっと怒ってるの?」
高屋がキョトンとした表情で、向かいにいる速水と画面に映る音川を交互に見た。
「呆れてんの。俺、海外出張でもわざわざ友達に言わない」
「俺も。それに、そこまで仲が良いのなら、多少の音信不通程度で縁が切れるなんてありえん」と速水が賛同する。
しかし、泉は「僕が思うに、その人は高屋さんにとって友達じゃないのでは……」とポツリと言った。
「えっ?あ、どうして?」高屋はやつれてより大きく見える瞳を更に見開いて、泉に問いかける。
「連絡出来ないことをとても気に病むのも、心配かけていることを心苦しく思うのも、きっと特別な存在だからですよ。ただの友達なら、速水さんの言う通り、そこまで不安にならないと思って」
「なるほど。うん、それならわかる。この中で泉くんが年長者な気がしてきた」と速水が言うと音川が即座に同意した。
「普通はそう思いません?」と泉は純粋に不思議そうな顔を音川に向けた。
「普通ってなんだよ。俺が鈍感みたいな言い方するじゃねぇか」
速水は、泉が無言で笑いをこらえている顔が映し出されたモニターを一瞥した。音川が後輩に好き勝手言わせ、それを楽しんでいるかのようなやりとりは大変に珍しいことだが、コンビネーションが上手く行ってそうなのは疑いようが無い。
「どうやら高屋さん、図星だったようで」と音川はテーブルに突っ伏している高屋に向けて同情を含んだ声を出す。
「あ〜……帰りてぇ」と高屋からくぐもった悲痛な叫びが漏れる。
「まあでも、モチベになっていいじゃねーの。速水も奥さんが待ってることだし」
「そうだよな。もし音川がこっちに来ることになっていたら……インドの雑踏に消えて、もう帰って来ないかもしれない」
「どういう意味だよ」
「カレーが好きな上に、待ってる人が居ない」
「居るっつの」
そう答える音川の背後で、ニャーンと可愛らしい鳴き声がした。
「ほら、ちゃんと返事してるだろ。じゃ、そろそろ終わるぞ」
退出ボタンを押すとほぼ同時に、飼い猫がデスクの上に飛び乗り、PCのキーボードと音川の間を往復する。鼻先に体の横側をこすりつけられむず痒い。18時の夕飯のおねだりだ。
「マックスさん、ごはんにしよう」
在宅勤務になってから、すっかり甘えん坊になってしまった飼い猫は『ごはん』という言葉の響きを理解していて、大慌てでデスクから飛び降りてお皿に向かって駆けて行く。
その姿を目を細めて見ていた音川は、突然、高屋の苦悩が身に突き刺さった。
もしこの子を残したまま1ヶ月も帰れなかったら……。 想像するだけでぎゅっと心臓が縮む。 前例ができたということは、繰り返される可能性がある。次にトラブルが発生したらインド行きは自分かもしれない。音川は猫に食事を与えるとすぐに仕事部屋に戻り、業務用のチャットアプリで高屋を検索した。個人的にメッセージを送るのは初めてだ。
『俺でよければ、家の様子を見てこようか?』
『ありがたい!』と高屋からすぐに返信があり、続いて自宅の住所が書き込まれた。特に置き配の荷物で玄関前が散らかってはいないか心配らしい。
続けて音川は『あと、さっきの連絡したい人には?』と入力してみたものの、すぐに思い至って削除した。
セキュリティに関してはどの職業よりも敏感でなくてはならない現代のシステムエンジニアが、第三者の個人情報を求めてはいけない。たとえば急病などの非常事態であればやむを得ないため、高屋からインプットしてくるはずだ。『平日の9時から17時なら管理人さんが居るから、不在の件を伝えて欲しい。ごめんね』
『気にするな。ちょうど会社に取りに行きたい物があるから』と入力して画面右上に表示させている日付を見る。明日は金曜で、会議の予定も無い。『明日の午前中に行ってくる』
高屋から再度感謝の言葉が書き込まれ、それに軽く返事をしてから、次は泉との会話画面を開いて、『明日、出社する』と送った。
その直後、音川は少し違和感を持った。
ほとんどのエンジニアが在宅勤務に慣れた今では、誰がどこで仕事をしていようが業務連絡に差し障りはない。気まぐれに出社する場合でも知らせは無用だ。 それなのに。 なぜ泉へメッセージを送ったのか。 自分でも明確な意図に思い当たらないまま音川の指はキーボードの上で静止していた。普段なら、何か道理が通らない事象に直面した際、音川の頭には靄がかかったような不快感が現れて、何かがおかしいと直感で分かる。
しかし、今湧き上がった違和感には、不快な要素が感じられなかった。 頭だか胸だか、身体のどこかしらにちょっとしたざわつきがあるだけだ。翌朝。
トレーニングを終えた音川は喫茶へ直行し、モーニングを食べてから自宅に戻り、シャワーと着替えを済ませるとちょうど10時。 いつもなら始業開始だが、今朝は、高屋のマンションへ移動するためにタクシーを呼ぶ。タクシーで15分ほど走ったところで、運転手が「このあたりは住環境がいいでしょう?」と声を掛けてきた。
高屋のマンションにほど近いはずで、音川の自宅からすれば会社とは逆方向だ。そのため出不精の音川にとっては初めて見知るエリアとなる。 車窓を見ると、大きな公園が目に入る。「そのようですね。この辺りは初めて来ますが」
「そうでしたか。静かでね、地盤も硬い。戦争中に学者やら外国人の貿易商なんかが疎開してきたせいで今でも洋風の家がいくつもあってね、特に公園の周辺は見事なもんです」
「散歩によさそうですね」と話を合わせる。
年配者の話を聞くのは嫌いじゃない。一度、病院の待合室で音川にのど飴をくれた老婆がいて、そのままおしゃべりで長い待ち時間を潰したことがあるほどだ。「すみませんね、早とちりで。このあたりは昔から外国人さんが多いから」と運転手はバックミラー越しにチラリと音川を見た。
どうやら目的地の住人だと思っていたらしい。 平日の午前中にマンションからマンションへタクシーで移動する外国人風の男は、接客のプロの目にはどのように映るのか。ま、朝帰りの遊び人……というのが妥当だろうな、と音川は正しく自己分析する。音川は日本で生まれて公立の小学校へ通ったのだから、一番多く接したのは日本語であり母語だと言える。しかし言葉とは裏腹に、音川の外見は成長するに連れてどんどん母方に近づいていった。骨格や髪質が変わり、細く高い鼻梁や目元の彫りの深さが目立つようになった。
そして、20代後半から鍛え始めた筋肉は長い手足にほどよくまとわりつき、オーロラのようにゆらりと男の色気を立ち昇らせている。本人が知覚しにくいところではあるが、外見だけで周囲を魅了してしまう。音川は運転手の言葉に肯定も否定もせずただ微笑み返した。パスポートも運転免許証も2国分ある以上、日本人とも外国人ともどちらであっても音川には同じことだった。
タクシーがマンションの前に停車すると、運転手に待機を頼み、駆け足でエントランスに向かう。 ちょうど管理人が集合ポストの前をほうきで掃いているところだった。「すみません、301号室の高屋の代理の者ですが」
「ああ!よかった。心配してたんですよ!」と管理人はほっとしたような表情を音川に向けた。枯れ木のように痩せているが快活な老男性だ。
音川はあらかじめ用意してきた名刺を手渡し、手短に事情を説明すると、帰国までの間は管理人室で郵便物等を預かってくれることになった。 高屋の心配の種を一つ減らすことができたようだ。丁寧に礼を述べてから、駐車場に待機させていたタクシーで会社へ移動する。
まず本社があるフロアでエレベーターを止めた。 自動ドアからひょっこり覗き込むと、デザイナーの阿部が見える。彼女が金曜日に出社しているのは珍しい。「よう」
声を掛けると、阿部は億劫そうに振り向いた。出社がダルいと全身で表明しているかのようだ。
「ガサツなマッチョで悪かったな」
「事実でしょ。また成長したんじゃない?」と阿部は自分の二の腕を叩いて音川に言った。「音川くんが出社なんて、どういう風の吹き回し?」
「本を取りに寄っただけ。ついでに昼飯、どう?」
「子供のお迎えがあるから午後は在宅の予定だけど……今なら時間あるよ」
「じゃ、コーヒーでも」と音川は阿部を誘い出した。
全社的にリモートワークが主流となったため休憩室は無人で、込み入った話にはもってこいだ。音川は阿部の好みを覚えていて、カプセル式コーヒーマシンにモカを投入する。自分にはカプチーノだ。マシンが工事現場のような爆音を響かせて抽出を終えると、阿部と横並びで外の景色が見えるソファに座った。「久しぶりねぇ」
「ん」
「で、なによ」
「新人の泉だけど。仲が良いんだって?」
「2年目よ。多田さんが辞める時に、直々に頼まれたのがきっかけ。いい子でしょ」
「いい子かどうかはまだ良くわかんねぇな。優秀なのは間違いない」
多田とは、保木から謂れのない責任を擦り付けられたのをきっかけに退職した元デザイン部の課長だ。立場は2番手だったが、実力では保木より上で人望もあったし、大手のWebマーケティング企業で要職に就いたと聞いている。
「デザインも開発もできるし、さっぱりと明朗で心持ちの良い青年よ。入社してきてくれたことが奇跡の人材」
「えらく買ってるじゃねぇか。しかし、骨を折っていたらしいな、例の件で」
「彼なら誰にでも同じことをしたと思う」
「へぇ。正義感の強いタイプか」
「というより、理不尽なことが嫌いらしい。それを聞いて、あんたと速水くんのことを思い出したんだよね。昔の2人も、保木から何をされても一切ダメージ受けてなかったでしょ。理が通らない人間は相手にするに値しないと思っていたから。泉くんもそっちのタイプ」
「それで、彼が代表して被害に遭っていた子を守ってたのか」
「何を言われても耳にノイズキャンセリング機能が付いてるから平気、って冗談言っていたくらいよ。多少の強がりはあったのかもしれないけれど」
軽く笑う音川に、「彼、信頼できるよ」と言い阿部はさらに話を続けた。
「それに、デザイン部のみんなは、保木の古い考え方のせいで評価が下がっている状況を悔しがってた。本来なら部長の保木が危機感を持つべきなのに、何もしないどころか足を引っ張り続けて。その上、一番実力のあった多田さんを経営会議で晒し者にしたでしょ……。
被害に合ってた彼女はね、そういうのも含めて対策しない人事に見切りをつけて、復学を選んだの。夢を持って入社して来た若者にあんな仕打ちするなんてね。それでみんな、限界がきちゃった」「で、共同出資でボイスレコーダーを買った、と」
「ペッパースプレーもね」
「阿部は知ってたのか」
「まあね」
「用意周到だったわけだ。つーか、そんなにヤバかったの?」泉は『保木さんは欲でおかしくなっていた』と言っていたが。
「何度か会社の前で待ち構えていて、自分のタクシーに引っ張り込もうとしていたらしいわ。ほら、いつも呼んでたでしょ」
保木はほぼ毎日夜7時を過ぎると社屋の駐車場にタクシーを待機させていた。電車がある時間であってもタクシーで帰宅するのが日課で、もちろん経費だ。
「そんな状況に麻痺していたのが異常だったな。泉には、いや、デザイナーたち皆に、悪いことをした」
「開発の音川くんが気に病むことじゃないけど……まあうちの若手の大半があんたに懐いてるし、仕方がないか。デザイン部はブラックな働き方が常識になっていたから……いずれにせよ立て直しは必要だっただろうね。だから、泉くんがそっちへ行ったのはかなり痛手のはず」
「元からシステム希望だったんだろ?」
「泉くんがそう言ってた?」
「ああ」と音川は答えて、カプチーノを啜った。めずらしく無糖だ。
「そうだ、今度みんなで飲みにいかない?泉くんの歓迎会という名目でさ。公園の所にカフェバーあるでしょ。前に誘ったけど、会社から反対方向だからって断ったの覚えてる?高屋さんがたまにバイトしてるから、すごくサービスしてくれるんだ」
「はあ?あの忙しさで、副業までしてんの?」
「気分転換に良いんだって。音川くんの筋トレと同じじゃない?私からすればどっちもしんどくて無理」
そう言うと阿部はスマートウォッチで時間を確認し、「そろそろ帰るわ。お迎えいかなきゃ」とソファから立ち上がった。
「そうだ。泉くん、もう来てるよ」
「えっ!?」
「あら?てっきり出社させたのかと」
音川は頭を掻いた。
「呼んでねーけど……ああ、開発環境が家に無いとは聞いたが……」
「まあ、せっかくだしランチに誘ってあげたら?」
「んー、そうだな。じゃ、歓迎会は速水たちが帰国したらすぐに」と軽く約束をして、音川は阿部と休憩室の前で別れ、エレベーターへ向かった。
エレベーターの庫内で鏡に映る自分を見て、なんとなく服のホコリと猫の毛を払った。そして、顔にかかる髪を整えようとしたが、そのままとりやめた。
「クソ、なんか調子狂うんだよな」
そうして、飛行機の予定時刻まで、ふたりはラウンジでゆっくりと会話を楽しむことにした。テーブルには、それぞれ好きなものをビュッフェから持ってきており、音川は一口サイズのケーキをいくつか、泉は数種類のコールドサラダに牛肉の煮込みと、アメリカンなセレクトだった。音川は泉の帰国便を自分と同じフライトに変更し、イーサンには「彼を連れて帰る」とだけメールで知らせておいた。彼が社に対して行ったことと同じような通達のみになるが、泉が残っても、イーサンに利用されるだけであると判断した。そもそも、本来の研修内容はすでに修了しており、会社間において実害は何もなければ、文句を言われる筋合いも無かった。「かわいいね」音川は塊肉をもぐもぐと頬張る恋人を見つめながら、そう呟いた。「リスみたいで、ですか」「ううん。きみが。可愛くてたまらない」「んぐ」泉は急いで水を飲み、むせそうになった呼吸を整える。「どうしたんです?急に……」「もう口をつぐんでおく必要がないのであれば、言いたい時に言う」「……それ、僕も同じことしていいですか?」音川はそう返され、視線を合わせたまま微かに首を傾げた。「俺に可愛い要素があるならな」「眼の前に甘いものを並べてニコニコしている音川さん、可愛い要素しかないです」今度は音川が声に詰まる番だった。「……ただの甘党です」泉がクスクスと笑い、「音川さんはかっこよくて可愛いです」とまっすぐに目を見つめたまま言うと、音川は小さく唸り声を上げて、後頭部に手をやった。その照れる様子がめずらしく、泉は目を細める。まもなくして、搭乗ゲートが開いたとアナウンスがあった。「そうだ」並んで機上の人となって幾時間も経たずに、音川は思いついたように、自分の左手首から腕時計を外すと、「俺だと思って持ってて」と泉の手首に巻き付けた。ブレスレットの留め具を抑える衝撃に少し顔を
部屋に入りドアを後ろ手に閉めるなり、音川は泉を抱きしめた。頭に顎を軽く乗せ、ふわりと柔らかな髪の毛に顔を埋めて軽く深呼吸をする。 その上下する肺に、泉は頬を寄せた。「メールありがとう。とても嬉しかった。何度も、読み返したよ」泉は、胸部に響く深い声に身体を震わせる。 このままずっとこうしていたいと思ったが、ふっと足が地面から浮いて、音川に持ち上げられるようにしてベッド脇まで押され、その場に座らされる。 床から天井まで伸びるガラス窓に沿って置かれたベッドは、まるでマンハッタンの夜景の中心に浮いているかのようだ。 泉は少しだけ足がすくむのを感じた。 それは、高所にいるための本能的な恐怖だけでなく、これから起ころうとしていることへの、期待と——少しの不安も混じっていた。 泉は油断すると震えそうになる身体にきゅっと力を入れ、歯を食いしばる。「どうした?神妙な顔して」音川はそんな泉の様子を少し気にして、ジャケットを脱ぎながら尋ねた。 そんな仕草ですら、泉の目線を捉えて離さない。「あ……いえ。音川さんが、いつもより素敵で……スーツ姿、初めてだなと」「ああ、うん」「仕事のついで、とか……?」音川は鼻で笑い、向かいに布張りの椅子を引っ張ってくると、どかりと腰を下ろした。「なわけねぇだろ」音川は、泉の手をそっと持ち上げて、自分の両手を重ねた。「……あんなメール貰って、家でじっとしてられるかよ。きみが欲しいと言ってくれたものを、持ってきたんだ」肺を空気で満たし、たくましい胸が上がる。「泉。遅くなって、本当に申し訳ないと思っている。……俺は、上司であることを理由に、気持ちを抑え込んで……愚かなことだった。告白してもらうまで、そんなことにすら気が付かなかった。こんな男でよければ……俺は、きみの恋人になりたい」泉の身体を、歓喜の波が覆った。 全身が湧き立つような熱に包まれて、何も考えられなくなる。 ただ、嬉しい。それだけが、身体の奥から溢れ出して止まらない。 微かに震える身体で音川の手をしっかりと握り返し、グリーンに輝く瞳に目線を合わせる。 目元は情熱をはらんで力強く、しかし瞳の奥には微かな不安の影が揺れているようにも見えた。 泉は、握った手を自分の口元に持っていき、音川の手の甲に口づけた。「はい……。これからは恋
出発時刻とほぼ同時刻にJFK空港に降り立った音川は、時差のせいでこのフライト時間がゼロになることに少々不満を覚えた。運良くビジネスクラスに空席があったが、あまり眠れないたちだから長時間のフライトはそれなりに辛い。入国手続を通過し、タクシーに乗り込んで行き先を指定する。地図によれば、泉が滞在しているホテルまで30分程度で着くはずだ。高屋から入手した研修計画書によれば、すでに今日の行程は1時間以上前に終わっている。ホテルに到着した音川は、周りには目もくれずにつかつかとレセプションに向かい、自身の予約を告げてチェックインを申し出た。対応の女性スタッフは端末を確認しながら、「NYCをたった1泊で終わらせるなんて」と笑顔で冗談を投げかける。それに微笑を浮かべて、「しかも、1泊3日で東京NYの往復だと言ったら?」と返すと、彼女は「オーマイゴッド!」とアメリカ文化のステレオタイプさながらに大きな反応を見せてくれ、音川は笑みを強めた。カードキーで部屋をアンロックし、とりあえずシャワーを浴びて冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。非常によく冷えた液体が、頭の芯から身体を巡ってリフレッシュを促すようだ。しかし、それは音川の内心に付いた火を消すには至らない。ここまで突き動かされたのは一重に、堪えきれないほどの泉への恋心だった。音川はフライトの疲れが顔に出ていないか確認しながら身繕いをし、持参したスーツに着替えた。ノーネクタイだが、上質なシルクは引き締まった長駆と相まって品位を高める。鏡に、泉のために整えられた音川の姿が映る。無頓着な美貌に本人の意図が加えられたことで、その姿には、神々の彫像にも似た威厳が与えられていた。ゆるいウェーブがかった前髪は後ろへ撫でつけられ、カラスの羽のように艷やかで、白いドレスシャツから覗く喉元からは男の色香が立ち上る。肩幅は広く、腰は引き締まり、衣の下に潜む彫刻のような肉体を容易に想像させる。瞳は新緑のグリーンに輝き、視線を向けられた者はその鋭さに息を呑むだろう。だが音川の美は、冷たく遠いものではない。美貌というには生々しく、肉体というには洗練されていて&m
音川は遅い夏季休暇を申請し、副業であるAI開発に昼夜を忘れて没頭していた。泉がNYに発って1週間が過ぎようとしていた。 結局、出張について本人から聞かされていないままであったが、音川はそれを責める気など皆無で、ただ事実を受け入れていた。——平静なのか、と尋ねられれば、決してそうではない。 だから、休暇を申請してまで開発に没頭しているのだ。彼が音川に知らせなかった意味について、考える隙を自分に与えないために。リビングの窓を開け放し、どこか哀愁をはらんでいる夕暮れの風に吹かれながらソファに身体を沈め、視線は、コーヒーテーブルに置いたノートパソコンの画面に落とされていた。傍らには愛猫のマックスが背中をぴたりとくっつけて眠っている。 ようやく、泉が帰って来ないことを学習したようで、最近はドアの方向を向いて待ち続けることも少なくなった。音川は画面から視線を外して窓の外を見てみるが、どうしてもすぐにまた目が戻る。——そこには泉から届いたメールが、未読のままでおかれてあった。公私問わず返信を引き伸ばさない習慣を持つ音川であるが、今朝、個人のアドレス宛に届いたこのメールだけは、まだ開くことができずにいる。 しかし——読まずに削除する、という選択肢はありえない。音川はことさら大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出してから、そのメールにカーソルを滑らせ、クリックした。メールを開いた瞬間、音川の心臓が、ゆっくりと軋むように動いた。 息をするのも忘れて、指先がわずかに震える。 読み終えるまで数分かける。 一行ずつ、噛みしめるように読んで、読み終えた頃には、もう一度最初から読み返していた。 ——画面の光が滲んで、文字が霞む。 音川さん今、ホテルの部屋で、このメールを書いています。やっぱり言っておけばよかったと、いまさら後悔しています。 出張のことも、僕がそれを話せなかった理由も、全部。 ですが…… 音川さんの目に、独りで突き進んでしまっている自分がどう映るのか。 どこまで、音川さんの過
部屋のドアをノックする音がしたのは、泉が今日の研修の内容を整理し終えたちょうどそのときだった。「……どなたですか?」ドア越しに声をかけると、陽気な英語の返事が返ってくる。「Dinner delivery from a concerned colleague. Open up, Izumi.」泉は一瞬、言葉を失った。わざわざ届けに……?訝しげにドアを開けると、昼間と同じスーツ姿のイーサンが紙袋を片手に、にこやかに立っていた。「ちょうどこの時間、小腹が空く頃だと思ってね。 日本と違って、こっちは夜の始まりが早いから」彼は勝手知ったる様子で部屋に一歩踏み込もうとし――泉が無言で体を一歩引く。その動きを見て、イーサンは立ち止まり、苦笑いのような表情を浮かべた。「そんなに警戒しなくても」「……夜、部屋に男性を入れるなと言ったのはあなただったように思いますが」「うかうか訪れて行くのを止したほうがいい、と忠告したまで」イーサンは近くの高級デリで購入してきたラップサンドとクラフトビールが入った紙袋をテーブルに置きながら、まるでジョークのように肩をすくめた。「その気なら、こんな仕事帰りの姿でビールぶら下げて来たりしないさ。きちんと花束を持って、良い店に誘いに来るよ。それに、オトカワから遠く離したことを利用して、手を出そうなんて思っちゃいない」「それなら……いいです。でもわざわざ……」泉は眉をひそめながら、内心では、自分の居場所を気にかけてくれる存在が今、ここにいることに気づいていた。「近くを通ったんでね。それに正直に言うと——君に会わずに、今日を終わらせたくなかった」その言葉に、泉の心は小さく波立った。どう返せばいいのか、わからない。ストレートな言葉が、胸に踏み込んでくる。イーサンはビールの蓋を開け、泉のグ
「ふーん。悶々としてるのは、格好つけて帰ってきたからか」ヒューゴは目を細め、カウンター越しにからかうような声を投げかけた。「うるさい」音川はラムのボトルをおろして、カウンターの端でヒューゴ相手に飲んでいた。 高屋から誘われてヒューゴの店に夕飯がてら飲みに来てみたら、根堀葉掘りとあれこれ聞かれ、週末に東京へ足を運んだことや、泉との心の交流について洗いざらい吐かされてしまった。 ヒューゴが寡黙なバーテンダーでいられるのは、どうやら一般客に対してだけらしい。元々はかなりの話好きで、水商売の聞き上手も兼ね備えている。 音川はポーランドの大学に居た頃に知り合ったスウェーデン人たちを思い出していた。周辺国と比べると北欧人らしさは薄いが、物事の捉え方や価値観の傾向については、ドイツやフランスといった中央の人々よりヨーロッパ的思考の持ち主が多い印象だ。論理や理屈を重視し、平等と透明性を尊重する音川にとって、彼らとの付き合いは心地の良いものだった。 しかし、個人よりも周囲との調和を保とうとする日本人としては、時に行き過ぎた個人主義に出会うと疑問を抱くこともあった。それでも、同調圧力に屈するより遥かにマシだが。 その点、ヒューゴは日本育ちのためか協調性と個人主義のちょうどよいバランスを保っており、同じくどちらも理解できる音川は、彼との会話に並々ならぬ気安さを感じていた。「あのね、クバ。君みたいな顔なら、これまでは誰かを口説く必要なんてなかったんだろうけど……今の状況を考えるとね」「分かってるよ。泉が部下じゃなければ……あの場で抱いてる」「いいねぇ。そうやって苦悩しながら独りで飲んでくれていると、クバ目当ての客が増える一方だ。最高のロックフォーゲルとしてチップを渡さなければいけないな」「『サクラ』っつーんだよ日本語では。君ら狩猟民族と違ってこっちは情緒があるだろ」「50%だけのくせに、言うね」音川は向かいでグラスを拭いている北欧貴族のようなバーテンダーに目をやり、薄く笑った。礼儀正しい日本人相手では出てこないジョークだ。「俺もお前も、心は100%日本人だよ」







