Mag-log in音川は、毎日のインド組との定例会は1時間まるごと雑談に当ててもいいと考えていた。話の分かる人間とざっくばらんに語らうことで、インド滞在中の速水と高屋のストレスを少しでも軽減しようというのが真の目的だからだ。
会社では公にしていないが、音川は中学から20歳頃までポーランドで過ごした帰国子女であり、異文化圏でなにかを遂行する難しさをよく知っているから愚痴も面白く聞けるし、的はずれなアドバイスをしない思慮深さも持ち合わせている。加速する日焼けに比例して、どんどんやつれていく2人は、気象と立場の両方の意味で過酷な環境にいる。
特に高屋の疲労感は酷かった。「高屋さん、目の隈がすごい」
「そう?」
高屋はモニターを鏡代わりにして見ながら顔に手をやった。確かに目の周辺が窪んで、頬もこけたように思う。
「寝不足?」
「うん。本来はどこでも眠れるはずなんだけどね、今回はそうもいかないみたい」そう言って高屋は目を伏せた。
「なにか、心配事ですか?」
それまで、にこやかに先輩3人の雑談を聞いていた泉が、ふと口を挟んだ。
「ケータイが無いからだろ」と音川は端的に言った。
「そう……連絡しなきゃいけない人がいるのに……連絡先がわからなくて」
さらに沈んだトーンになった高屋に、音川が「その相手って、帰国後に事情を説明しても、分かってくれなさそう?」と少し踏み込んで問いかける。
「恐らく理解してくれると思う。でも、毎週末泊まりに行く習慣なんだ。それを急に連絡もなくすっぽかすことになって……向こうからおれの番号にかけても音信不通だろう。心配かけていると思うとね、自分を責めてしまって。眠れない」
「恋人ですか?」と泉がさらりと訪ねた。
毎週末の泊まりや憔悴した様子からして聞くまでもないことだろうと、音川と速水は敢えて言及しなかったが。「いや……友達、かな」
高屋のその答えに、30代2人は椅子から転げ落ちそうになった。
「んだよ、てっきり……」
「なんで2人共ちょっと怒ってるの?」
高屋がキョトンとした表情で、向かいにいる速水と画面に映る音川を交互に見た。
「呆れてんの。俺、海外出張でもわざわざ友達に言わない」
「俺も。それに、そこまで仲が良いのなら、多少の音信不通程度で縁が切れるなんてありえん」と速水が賛同する。
しかし、泉は「僕が思うに、その人は高屋さんにとって友達じゃないのでは……」とポツリと言った。
「えっ?あ、どうして?」高屋はやつれてより大きく見える瞳を更に見開いて、泉に問いかける。
「連絡出来ないことをとても気に病むのも、心配かけていることを心苦しく思うのも、きっと特別な存在だからですよ。ただの友達なら、速水さんの言う通り、そこまで不安にならないと思って」
「なるほど。うん、それならわかる。この中で泉くんが年長者な気がしてきた」と速水が言うと音川が即座に同意した。
「普通はそう思いません?」と泉は純粋に不思議そうな顔を音川に向けた。
「普通ってなんだよ。俺が鈍感みたいな言い方するじゃねぇか」
速水は、泉が無言で笑いをこらえている顔が映し出されたモニターを一瞥した。音川が後輩に好き勝手言わせ、それを楽しんでいるかのようなやりとりは大変に珍しいことだが、コンビネーションが上手く行ってそうなのは疑いようが無い。
「どうやら高屋さん、図星だったようで」と音川はテーブルに突っ伏している高屋に向けて同情を含んだ声を出す。
「あ〜……帰りてぇ」と高屋からくぐもった悲痛な叫びが漏れる。
「まあでも、モチベになっていいじゃねーの。速水も奥さんが待ってることだし」
「そうだよな。もし音川がこっちに来ることになっていたら……インドの雑踏に消えて、もう帰って来ないかもしれない」
「どういう意味だよ」
「カレーが好きな上に、待ってる人が居ない」
「居るっつの」
そう答える音川の背後で、ニャーンと可愛らしい鳴き声がした。
「ほら、ちゃんと返事してるだろ。じゃ、そろそろ終わるぞ」
退出ボタンを押すとほぼ同時に、飼い猫がデスクの上に飛び乗り、PCのキーボードと音川の間を往復する。鼻先に体の横側をこすりつけられむず痒い。18時の夕飯のおねだりだ。
「マックスさん、ごはんにしよう」
在宅勤務になってから、すっかり甘えん坊になってしまった飼い猫は『ごはん』という言葉の響きを理解していて、大慌てでデスクから飛び降りてお皿に向かって駆けて行く。
その姿を目を細めて見ていた音川は、突然、高屋の苦悩が身に突き刺さった。
もしこの子を残したまま1ヶ月も帰れなかったら……。 想像するだけでぎゅっと心臓が縮む。 前例ができたということは、繰り返される可能性がある。次にトラブルが発生したらインド行きは自分かもしれない。音川は猫に食事を与えるとすぐに仕事部屋に戻り、業務用のチャットアプリで高屋を検索した。個人的にメッセージを送るのは初めてだ。
『俺でよければ、家の様子を見てこようか?』
『ありがたい!』と高屋からすぐに返信があり、続いて自宅の住所が書き込まれた。特に置き配の荷物で玄関前が散らかってはいないか心配らしい。
続けて音川は『あと、さっきの連絡したい人には?』と入力してみたものの、すぐに思い至って削除した。
セキュリティに関してはどの職業よりも敏感でなくてはならない現代のシステムエンジニアが、第三者の個人情報を求めてはいけない。たとえば急病などの非常事態であればやむを得ないため、高屋からインプットしてくるはずだ。『平日の9時から17時なら管理人さんが居るから、不在の件を伝えて欲しい。ごめんね』
『気にするな。ちょうど会社に取りに行きたい物があるから』と入力して画面右上に表示させている日付を見る。明日は金曜で、会議の予定も無い。『明日の午前中に行ってくる』
高屋から再度感謝の言葉が書き込まれ、それに軽く返事をしてから、次は泉との会話画面を開いて、『明日、出社する』と送った。
その直後、音川は少し違和感を持った。
ほとんどのエンジニアが在宅勤務に慣れた今では、誰がどこで仕事をしていようが業務連絡に差し障りはない。気まぐれに出社する場合でも知らせは無用だ。 それなのに。 なぜ泉へメッセージを送ったのか。 自分でも明確な意図に思い当たらないまま音川の指はキーボードの上で静止していた。普段なら、何か道理が通らない事象に直面した際、音川の頭には靄がかかったような不快感が現れて、何かがおかしいと直感で分かる。
しかし、今湧き上がった違和感には、不快な要素が感じられなかった。 頭だか胸だか、身体のどこかしらにちょっとしたざわつきがあるだけだ。翌朝。
トレーニングを終えた音川は喫茶へ直行し、モーニングを食べてから自宅に戻り、シャワーと着替えを済ませるとちょうど10時。 いつもなら始業開始だが、今朝は、高屋のマンションへ移動するためにタクシーを呼ぶ。タクシーで15分ほど走ったところで、運転手が「このあたりは住環境がいいでしょう?」と声を掛けてきた。
高屋のマンションにほど近いはずで、音川の自宅からすれば会社とは逆方向だ。そのため出不精の音川にとっては初めて見知るエリアとなる。 車窓を見ると、大きな公園が目に入る。「そのようですね。この辺りは初めて来ますが」
「そうでしたか。静かでね、地盤も硬い。戦争中に学者やら外国人の貿易商なんかが疎開してきたせいで今でも洋風の家がいくつもあってね、特に公園の周辺は見事なもんです」
「散歩によさそうですね」と話を合わせる。
年配者の話を聞くのは嫌いじゃない。一度、病院の待合室で音川にのど飴をくれた老婆がいて、そのままおしゃべりで長い待ち時間を潰したことがあるほどだ。「すみませんね、早とちりで。このあたりは昔から外国人さんが多いから」と運転手はバックミラー越しにチラリと音川を見た。
どうやら目的地の住人だと思っていたらしい。 平日の午前中にマンションからマンションへタクシーで移動する外国人風の男は、接客のプロの目にはどのように映るのか。ま、朝帰りの遊び人……というのが妥当だろうな、と音川は正しく自己分析する。音川は日本で生まれて公立の小学校へ通ったのだから、一番多く接したのは日本語であり母語だと言える。しかし言葉とは裏腹に、音川の外見は成長するに連れてどんどん母方に近づいていった。骨格や髪質が変わり、細く高い鼻梁や目元の彫りの深さが目立つようになった。
そして、20代後半から鍛え始めた筋肉は長い手足にほどよくまとわりつき、オーロラのようにゆらりと男の色気を立ち昇らせている。本人が知覚しにくいところではあるが、外見だけで周囲を魅了してしまう。音川は運転手の言葉に肯定も否定もせずただ微笑み返した。パスポートも運転免許証も2国分ある以上、日本人とも外国人ともどちらであっても音川には同じことだった。
タクシーがマンションの前に停車すると、運転手に待機を頼み、駆け足でエントランスに向かう。 ちょうど管理人が集合ポストの前をほうきで掃いているところだった。「すみません、301号室の高屋の代理の者ですが」
「ああ!よかった。心配してたんですよ!」と管理人はほっとしたような表情を音川に向けた。枯れ木のように痩せているが快活な老男性だ。
音川はあらかじめ用意してきた名刺を手渡し、手短に事情を説明すると、帰国までの間は管理人室で郵便物等を預かってくれることになった。 高屋の心配の種を一つ減らすことができたようだ。丁寧に礼を述べてから、駐車場に待機させていたタクシーで会社へ移動する。
まず本社があるフロアでエレベーターを止めた。 自動ドアからひょっこり覗き込むと、デザイナーの阿部が見える。彼女が金曜日に出社しているのは珍しい。「よう」
声を掛けると、阿部は億劫そうに振り向いた。出社がダルいと全身で表明しているかのようだ。
「ガサツなマッチョで悪かったな」
「事実でしょ。また成長したんじゃない?」と阿部は自分の二の腕を叩いて音川に言った。「音川くんが出社なんて、どういう風の吹き回し?」
「本を取りに寄っただけ。ついでに昼飯、どう?」
「子供のお迎えがあるから午後は在宅の予定だけど……今なら時間あるよ」
「じゃ、コーヒーでも」と音川は阿部を誘い出した。
全社的にリモートワークが主流となったため休憩室は無人で、込み入った話にはもってこいだ。音川は阿部の好みを覚えていて、カプセル式コーヒーマシンにモカを投入する。自分にはカプチーノだ。マシンが工事現場のような爆音を響かせて抽出を終えると、阿部と横並びで外の景色が見えるソファに座った。「久しぶりねぇ」
「ん」
「で、なによ」
「新人の泉だけど。仲が良いんだって?」
「2年目よ。多田さんが辞める時に、直々に頼まれたのがきっかけ。いい子でしょ」
「いい子かどうかはまだ良くわかんねぇな。優秀なのは間違いない」
多田とは、保木から謂れのない責任を擦り付けられたのをきっかけに退職した元デザイン部の課長だ。立場は2番手だったが、実力では保木より上で人望もあったし、大手のWebマーケティング企業で要職に就いたと聞いている。
「デザインも開発もできるし、さっぱりと明朗で心持ちの良い青年よ。入社してきてくれたことが奇跡の人材」
「えらく買ってるじゃねぇか。しかし、骨を折っていたらしいな、例の件で」
「彼なら誰にでも同じことをしたと思う」
「へぇ。正義感の強いタイプか」
「というより、理不尽なことが嫌いらしい。それを聞いて、あんたと速水くんのことを思い出したんだよね。昔の2人も、保木から何をされても一切ダメージ受けてなかったでしょ。理が通らない人間は相手にするに値しないと思っていたから。泉くんもそっちのタイプ」
「それで、彼が代表して被害に遭っていた子を守ってたのか」
「何を言われても耳にノイズキャンセリング機能が付いてるから平気、って冗談言っていたくらいよ。多少の強がりはあったのかもしれないけれど」
軽く笑う音川に、「彼、信頼できるよ」と言い阿部はさらに話を続けた。
「それに、デザイン部のみんなは、保木の古い考え方のせいで評価が下がっている状況を悔しがってた。本来なら部長の保木が危機感を持つべきなのに、何もしないどころか足を引っ張り続けて。その上、一番実力のあった多田さんを経営会議で晒し者にしたでしょ……。
被害に合ってた彼女はね、そういうのも含めて対策しない人事に見切りをつけて、復学を選んだの。夢を持って入社して来た若者にあんな仕打ちするなんてね。それでみんな、限界がきちゃった」「で、共同出資でボイスレコーダーを買った、と」
「ペッパースプレーもね」
「阿部は知ってたのか」
「まあね」
「用意周到だったわけだ。つーか、そんなにヤバかったの?」泉は『保木さんは欲でおかしくなっていた』と言っていたが。
「何度か会社の前で待ち構えていて、自分のタクシーに引っ張り込もうとしていたらしいわ。ほら、いつも呼んでたでしょ」
保木はほぼ毎日夜7時を過ぎると社屋の駐車場にタクシーを待機させていた。電車がある時間であってもタクシーで帰宅するのが日課で、もちろん経費だ。
「そんな状況に麻痺していたのが異常だったな。泉には、いや、デザイナーたち皆に、悪いことをした」
「開発の音川くんが気に病むことじゃないけど……まあうちの若手の大半があんたに懐いてるし、仕方がないか。デザイン部はブラックな働き方が常識になっていたから……いずれにせよ立て直しは必要だっただろうね。だから、泉くんがそっちへ行ったのはかなり痛手のはず」
「元からシステム希望だったんだろ?」
「泉くんがそう言ってた?」
「ああ」と音川は答えて、カプチーノを啜った。めずらしく無糖だ。
「そうだ、今度みんなで飲みにいかない?泉くんの歓迎会という名目でさ。公園の所にカフェバーあるでしょ。前に誘ったけど、会社から反対方向だからって断ったの覚えてる?高屋さんがたまにバイトしてるから、すごくサービスしてくれるんだ」
「はあ?あの忙しさで、副業までしてんの?」
「気分転換に良いんだって。音川くんの筋トレと同じじゃない?私からすればどっちもしんどくて無理」
そう言うと阿部はスマートウォッチで時間を確認し、「そろそろ帰るわ。お迎えいかなきゃ」とソファから立ち上がった。
「そうだ。泉くん、もう来てるよ」
「えっ!?」
「あら?てっきり出社させたのかと」
音川は頭を掻いた。
「呼んでねーけど……ああ、開発環境が家に無いとは聞いたが……」
「まあ、せっかくだしランチに誘ってあげたら?」
「んー、そうだな。じゃ、歓迎会は速水たちが帰国したらすぐに」と軽く約束をして、音川は阿部と休憩室の前で別れ、エレベーターへ向かった。
エレベーターの庫内で鏡に映る自分を見て、なんとなく服のホコリと猫の毛を払った。そして、顔にかかる髪を整えようとしたが、そのままとりやめた。
「クソ、なんか調子狂うんだよな」
音川の仕事部屋にコーヒーを持って行った泉は、パソコンに向かう恋人の口元に笑みが浮かんでいるのを見て、(よほど仕事が楽しくて仕方がないんだな)と理解したが、それは思い違いだった。確かに最近の音川は泉が入手した暗号データの解読に取り憑かれていたが、それはこれが、長年苦しめられてきた自アプリの不正改ざんについてのヒントがそこにあるからだけではない。 この、自分に明るい未来を与えてくれるであろうデータは、泉が身を挺して手に入れたものだからだ。 彼が、右も左も分からない環境で独り、どれほど苦心していたか……どれほど勇気のいることだったか、想像に難くない。 すべて、音川の過去の傷を慮ったためだ。 その——とっくに愛されていたのだという事実が、音川の胸を焦がす。 ゆえに、暗号化解読中の音川には常に微笑が浮かんでいた。 実際、解読作業が楽しいのは間違いない。しかし、さすがにニンマリと笑いながらでは、まるで映画に出てくるハッカーだ。泉は恋人の集中力の妨げにならぬよう、持ってきたコーヒーは自分で飲むことにして、ソファにどかりと座り出窓にカップを置いた。こうなっている時の音川の集中力は凄まじく、声をかければ返事は帰ってくるが空返事で、後で確認しても会話の内容は何も覚えていないことが多い。 泉自身にも思い当たる節があり、お互い様だから気にもならない。集中している場面であっても存在が邪魔にならない——むしろ、居てくれる方が心地が良いのは、特別なものだと泉は感じていた。 これが音川以外の人間であったなら、例え無言でその場に居るだけでも気が散ってしまうだろう。コーヒーを一口のみ、ほろ苦さに若干眉をひそめながら本棚に詰められている背表紙を眺める。どれを読もうかと選別してみるものの、結局はいつものように、ひときわ擦り切れた一冊を手に取る。 The code bookと題されたそれは音川が小学校に上がると同時に祖父から贈られたものらしく、裏表紙には著者のサインが入っていた。 初めて見た時、「こんなものを7歳から読んでたんですか」と驚きに目を見開いて音川に尋ねると、「このせいで俺は暗号世界の住人になったんだ」と自嘲気味に笑う。 泉がたまらなく好きな、少しの自虐と、照れが混ざった笑顔。あれから——音川は最高技術責任者として社に残ったが、大半の業務は泉が引き継いだ。重責を半分
寝室の扉を開いたのは泉だった。音川の手を握り、引き入れるように誘う。その遠慮がちながらも情熱の籠もった眼差しに音川の胸は激しく高鳴り、泉に触れる瞬間を待ち望む思いが募ってゆく。音川の手によって静かにベッドに横たえられると、親指が優しく頬を撫でる。腰を引き寄せられ、身体のラインがぴたりと重なった瞬間、泉は音川の男の熱さと硬さにはっと息を呑んだ。期待と不安が熱となり体の芯へと広がってゆく。「この時を、どれほど待ったか……」音川が呟く。その唇はゆっくりとじらすように泉の素肌を滑り降りてゆく。「……ん……どれ、くらい……?」「何ヶ月も。きみを押し倒して自分のものにしたいという衝動と、何ヶ月も闘い続けてきたんだ」音川は上体を起こしてわずかに頭を傾け、泉の頬に鼻先をすべらせながら、耳元でそっと息を吐いた。その声は低くかすれ、抑えきれない欲を滲ませている。泉の背筋をぞくりと震えが走った。胸の奥で、言葉にならない想いが膨れ上がる。音川はその一瞬の隙を見逃さず、唇で泉の首筋をゆっくりとなぞり始めた。肌に触れたその熱が、瞬く間に泉の全身を灼く。泉の指は無意識に音川の黒髪に絡みついた。髪を掻き抱くその感触に、音川もまた反応し、僅かに身を震わせる。泉の指先に呼応するように、欲望が頭をもたげる。音川の唇が泉の首の敏感な一点を探り当て、吸い上げる。泉の口から、抗いきれない吐息が漏れる——その響きは、寝室の空気を熱く揺らした。「おと、かわさん……」音川は頭を少し引き、泉を見下ろした。その瞳は欲望に濡れ、普段の冷静さはどこにもない。乱れた髪、わずかに開いた唇、荒く上下する胸——今にも理性が崩れそうなその姿はあまりに妖しく——泉は自分の中心が堅く痛いほどに張り詰めるのを感じた。彼をこうしたのは、自分だ—
泉の役職が正式に発表されたその日、祝杯を上げるために2人はヒューゴの店を訪れた。ちょうどバイトに入っていた高屋が「後でおれも合流していい?」とニコニコ顔でおしぼりとメニューを差し出してくる。もちろん大歓迎だった。「おすすめ、ある?」「ブルーチーズが好きならキツいのがあるよ。あと、ガトーショコラが1切れ」音川はどちらも即注文した。飲み物はお任せだ。高屋はすぐに踵を返してカウンターに戻り、ヒューゴが穏やかに微笑みながらオーダーを聞いている。軽く頷きながら、高屋に向けている眼差しは蕩けそうなほどに柔らかい。すぐに最初のカクテルが届き、泉と軽く乾杯する。「これからは、公私共々よろしく」グラスを置いて、ひととき見つめ合った。「なあ泉。ここで高屋さんに話してもいいかな」ピタリと泉の手が止まった。「僕らのことですか?」「うん」「音川さんが気にしなければ……」「きみはどうなの?」「僕は、どこでだって拡声器で言って回りたいくらいですよ」めずらしく泉が口角を上げてニヤリと笑ってみせ、音川に悪戯心が芽生える。「お兄さーん。マイクある?」高屋がいるカウンターの方に向けて音川が声を上げた。「ねぇよ!スナックと一緒にすんな」突然、ヒューゴがシェーカーを振りながら荒っぽく返答したものだから、周りの客は一瞬ギョッとしてから笑いに湧いて、高屋は床に座り込んで肩を揺らしていた。後で聞いた話では、普段は接客アンドロイドを思わせるほど礼儀正しい彼が初めて粗野な言葉遣いをしたものだから、常連たちが度肝を抜かれたらしい。23時を過ぎると客が引けて、店じまいを終えた高屋が音川たちのテーブルに合流する。高屋は音川と泉を横並びに座り直させ、そして自分専用の銅製のカップを持ってきて乙川の向かいに座った。ヒューゴはカウンターでドリンクを用意しているようだった。客が捌けた店内で、シェーカーを振る音が小気味よく響く。それぞれ異なる行
それは、泉の出向が正式に終了した日だった。東京から音川の元へ『帰宅』した泉は、音川同様に取りそこねていた夏季休暇を申請し、その期間に引越しを計画した。ついでに数ヶ月も不在にしていた実家に戻り、幾日かを親孝行に費やすことにした。音川はそんな泉に実家まで送ると申し出ておいて、まるでついでのように1通の封筒を差し出した。そこに「退職願」と書かれているのを見て、泉は青ざめた。「……どうして……」「理由は、個人的事情による退職。俺は、上司であり、管理職であり、君より年上だ。道理は明白だろう?君には、事後報告のほうがよかったかもしれないが……こういうことは、けじめとして、きちんと伝えるべきだと思った」音川の声は至極冷静で、当然のことのように述べる。反対に泉は震えそうになるのを押し殺しながら、両の拳を握りしめた。「でも、交際が社内規定に反するわけじゃない。上層部に言われたんですか? 」「いや。誰にも咎められていない。俺の倫理の問題だ。――俺は君の才能に惚れ込み、次のリーダーとして名指しした。その決断に私情は一切無いと言い切れる。しかし、恋愛関係にあることが知れれば、職務上の優遇や贔屓があったのではと誤解されてしまうかもしれない。そうなれば、きみの努力や才能が歪めて見られる。それだけはどうしても避けたいんだ」「そうやって、全部自分だけで決めて、自分だけ傷ついて、何でも一人で完結させようとするの、やめてくださいよ……」音川は伏せていた目を見開いた。思わぬ反発だった。自分が去ることは、どう考えても理にかなっているはずだ。泉の瞳は堅い意思を宿し、音川を静かに見つめていた。「僕たちが付き合ってることは、たしかに簡単なことじゃない。でも、だからってどちらかが犠牲になるのが当然なんて、おかしいです。――馬鹿げている」「……犠牲、というつもりはなかった。ただ……きみを守りたい。それだけだ」「守るなら、
音川は徐々に弛緩してゆく恋人の身体を支え起こし、唇は繋げたままで膝の上に座らせた。「ん……」合わせ目から泉がため息のような声を漏らす。自他共に認める甘党の音川だが、この唇や舌を越える甘い口当たりのものは知らなかった。このままでは抱き締め潰してしまうかもしれないと怖くなり、音川は無造作に立ち上がった。肩に頭をもたせかけて、完全に身体の力が抜けていた泉の身体が宙に浮き、驚きの声があがる。「ほら、ちゃんと掴まってて」ずかずかと部屋に踏み込んだ音川は、膝を突くと上体を倒し、泉の身体を布団へ寝かせた。首に両腕と腰回りに両足が巻きついたままのため、覆い被さる態勢だ。「もう落ちないよ」音川にそう言われて、自分の背中がすでに布団の上であることにようやく気付いた様子で慌てて身体を離す。音川は微動だにせず、泉を見下ろしていた。長く密着することは危険だと分かっていても、離れ難かった。しばらくそうしていると身体の下で泉がもぞりと身を捩り、硬い太ももが音川の下半身に触れる。これが限界だと音川はようやく身を引き剥がして隣の布団に仰向けに倒れ込んだ。部下に手を出すような人間じゃない、そう己を自己分析していたのは真実だったが、しかし、想いが募るにつれ、肉体的にも恐ろしいほどに泉に惹かれているのも事実だ。つい数十時間前の、泉の艶やかさが脳裏に蘇る。しばしの煩悶の後、音川は一際大きいため息をついた。これまでの自分なら、ここで布団を引き離してさっさと寝てしまっただろう。……紳士的な行動と言えなくもないが、今、それは正しい選択肢では無いはずだ。音川は枕元に置かれたスタンドライトの灯りを落とした。漆黒の闇が落ちる。しかし目を閉じても眠れる訳無く、自分の心臓の音に集中していたが、このまま無言で横たわったまま朝を迎えてしまったら心臓がオーバーヒートして燃え尽きるかもしれないと思い、口火を切った。「……喫茶店、もう高齢で週末にしか開けていないらしい」「音川さん家族が通っていたんですよね?」「うん。俺はもう数年ぶりになるかな」「最初にその話を聞いたとき、下町のタバコ臭い店を想像してしまいました」「価格的にはそうだろうな。大人になってから知ったが、このあたりの地主の道楽だってよ。ミックスジュースが絶品なんだ。俺の甘党の始まりは間違いなくそれ」「楽しみです。早く寝た
そうして、飛行機の予定時刻まで、ふたりはラウンジでゆっくりと会話を楽しむことにした。テーブルには、それぞれ好きなものをビュッフェから持ってきており、音川は一口サイズのケーキをいくつか、泉は数種類のコールドサラダに牛肉の煮込みと、アメリカンなセレクトだった。音川は泉の帰国便を自分と同じフライトに変更し、イーサンには「彼を連れて帰る」とだけメールで知らせておいた。彼が社に対して行ったことと同じような通達のみになるが、泉が残っても、イーサンに利用されるだけであると判断した。そもそも、本来の研修内容はすでに修了しており、会社間において実害は何もなければ、文句を言われる筋合いも無かった。「かわいいね」音川は塊肉をもぐもぐと頬張る恋人を見つめながら、そう呟いた。「リスみたいで、ですか」「ううん。きみが。可愛くてたまらない」「んぐ」泉は急いで水を飲み、むせそうになった呼吸を整える。「どうしたんです?急に……」「もう口をつぐんでおく必要がないのであれば、言いたい時に言う」「……それ、僕も同じことしていいですか?」音川はそう返され、視線を合わせたまま微かに首を傾げた。「俺に可愛い要素があるならな」「眼の前に甘いものを並べてニコニコしている音川さん、可愛い要素しかないです」今度は音川が声に詰まる番だった。「……ただの甘党です」泉がクスクスと笑い、「音川さんはかっこよくて可愛いです」とまっすぐに目を見つめたまま言うと、音川は小さく唸り声を上げて、後頭部に手をやった。その照れる様子がめずらしく、泉は目を細める。まもなくして、搭乗ゲートが開いたとアナウンスがあった。「そうだ」並んで機上の人となって幾時間も経たずに、音川は思いついたように、自分の左手首から腕時計を外すと、「俺だと思って持ってて」と泉の手首に巻き付けた。ブレスレットの留め具を抑える衝撃に少し顔を