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第2話

Autor: 誤字ラ
美空がその理由を聞く間もなく、社長室の扉が開き、中から玲奈が出てきた。

身にまとっているのは、オーダーメイドの高級ドレス。隙のないメイクに、何不自由なく大切に育てられた令嬢ならではの気品が漂う。社内を歩く姿も堂々としていて、まるでこのビルの主にでもなったかのようだった。

美空はようやく、同僚たちがあんな目で自分を見ていた理由を悟った。

誰もが、いずれ美空が社長夫人になると思っていたのだ。

それなのに、あっという間に雅人の婚約が決まり、美空は気まずい立場に追い込まれてしまった。

一方、玲奈は美空の姿を見つけても、何事もなかったかのように微笑んだ。手にしていた招待状を差し出し、親しげに声をかけてくる。

「吉沢さん、おはよう。1週間後に、雅人と私の婚約披露パーティーを開くの。今日は、みんなに招待状を配りに来たのよ」

そう言ってから、玲奈はにこやかに続けた。

「雅人の秘書をいちばん長く務めているのは吉沢さんでしょう?当日はぜひ来てちょうだいね」

美空はすぐに愛想のよい笑みを浮かべ、両手で招待状を受け取った。

「誘ってくださってありがとうございます。ぜひ出席させていただきます」

玲奈は笑顔を崩さないまま、そっと美空に顔を寄せた。そして、2人にしか聞こえない声で囁く。

「自分も雅人のお嫁さんになれるって、ずっと思い込んでたんですって?身の程知らずもいいところね。

雅人にとって、あなたはただの遊び相手。結婚したあと、私を満足させられるように、あなたで練習してたのよ。

だから、そろそろ現実を見ようね。自分と私たちの違いを思い知って、早いうち諦めなさい」

口元には相変わらず甘い笑みを浮かべ、親しげに身を寄せる玲奈。その様子だけを見れば、2人が内緒話に花を咲かせているようにしか見えない。

美空も表情を変えなかった。

ただ、バッグの持ち手を握る指先は、白くなるほど力がこめられていた。

玲奈の気持ちは、わからなくもない。自分の夫になる男の元恋人が、いつまでも目の前にいるのは面白くないだろう。

それでも、胸の奥には重苦しいものが残った。

美空は唇を引き結び、自分の立場をわきまえていると示すように、あえて一歩引いた言い方をした。

「ご安心ください。これからどう行動すべきか、ちゃんと理解していますから」

玲奈の笑みに、冷ややかな色が差した。

「本当にそうだといいけど。でも私……口だけの約束は信じない主義なの」

次の瞬間、玲奈は美空の手を取った。そして突然、後ろに体を傾ける。

美空が何が起きたのか理解するより早く、玲奈はその場に倒れ込んでいた。

短い悲鳴を上げたあと、玲奈は信じられないものを見るような顔で美空を見上げた。

「吉沢さん、私、婚約披露パーティーの招待状を渡しただけなのに……どうして急に突き飛ばすの?」

そのとき、社長室の扉が開き、雅人が出てきた。

床に倒れている玲奈の姿を目にすると、すぐさま歩み寄り、彼女を抱き起こす。

「玲奈、何があったんだ?」

玲奈は赤く潤んだ目で雅人を見上げた。

「吉沢さんに婚約披露パーティーの招待状を渡して、出席してもらおうと思ったの。そしたら急に不機嫌になって、私を突き倒して『ここから出てって』って言われて……」

雅人は美空に視線を向けた。その眼差しには、冷ややかな色が浮かんでいる。

美空は眉をひそめ、慌てて口を開いた。

「誤解です。私は、そんなことを――」

しかし、雅人は最後まで聞こうともせず、玲奈を見た。

「玲奈、あいつはただの社員だ。お前がわざわざ婚約披露パーティーに招待する必要なんてない」

その場の空気が凍りついた。

容赦のない言葉が胸に突き刺さり、美空は一瞬、息が詰まるような痛みを覚えた。

一方、玲奈は一瞬きょとんとしたものの、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべ、甘えるように雅人の袖を引いた。

「でも、吉沢さんは雅人の秘書の中でも一番頼りになる人でしょう?私、雅人のためにも、彼女と仲良くなりたいの」

雅人は答える代わりに、玲奈を軽々と抱き上げ、社長室のほうへ戻っていく。

「そんなことしなくていい。俺にとって、婚約者のお前のほうが一番大事なんだ。それより、足はひねってないか?あとで見せてくれ」

美空は表情を変えず、2人が遠ざかっていく背中を見つめていた。

玲奈はよほど焦っているらしい。美空が退職届を提出するのさえ待てず、こんな芝居まで打ったのだ。

あれほど見え透いた演技を、雅人が見抜けないはずがない。

それでも彼は、玲奈をかばうことを選んだ。

大人の世界で、理不尽だと泣いたり騒いだりすれば、欲しいものが手に入るわけではない。

美空は胸の奥に広がる苦さを押し殺し、あらかじめ用意していた退職届を取り出した。

雅人に署名してもらおうと、社長室へ向かおうとした、そのときだった。

雅人が中から出てきた。

すらりとした長身に、隙のない立ち姿。歩くたびにスーツの裾が揺れる。

彼は美空の前で足を止めると、事務的な口調で告げた。

「玲奈がお前に会いたくないそうだ。退職してくれ」

その端正な顔立ちには、取りつく島もない冷淡さが浮かんでいた。

美空の胸が、どくりと跳ねた。手にしていた退職届を、思わず強く握りしめる。

篠原グループで7年間、与えられた仕事に誠実に向き合い、ひたすら努力を重ねてきた。まさか自分が、こんな惨めな形で会社を去ることになるとは思いもしなかった。

美空は自嘲するように小さく笑い、ゆっくりとうなずいた。

「……分かりました」

泣きもせず、取り乱しもしない。

あまりにあっさりした返事に、雅人はなぜか苛立ちを覚えた。眉間にしわを寄せ、さらに言い放つ。

「今日中に手続きを済ませてくれ。退職金は規定の倍を支払うよう、経理に指示しておく」

美空はかすかに微笑んだ。

「承知しました。ありがとうございます」

雅人はそれ以上何も言わず、踵を返して立ち去った。

美空は自分の席に戻ると、用意していた退職届を細かく破り捨てた。

そして会社のシステムを開き、正式に退職申請を出す。

雅人が人事に話を通していたのか、申請は驚くほどあっさり承認され、あっという間に雅人のもとまで回っていった。

次の瞬間、パソコンの画面に通知が表示される。

【退職申請が承認されました】

さらにその直後、美空の口座には高額な退職補償金が振り込まれた。

美空は手早く私物をまとめ、荷物を抱えて会社を後にした。

社長室の前を通りかかったとき、扉がわずかに開いていることに気づく。

隙間から中を覗くと、雅人は書類に目を落とし、静かにページをめくっていた。その隣には玲奈が座り、ケーキを食べている。

自分でひと口食べたあと、玲奈はスプーンですくったケーキを雅人の口元へ差し出した。

「雅人も食べてみて、おいしいよ」

雅人はためらうことなく、ケーキを食べた。

眉ひとつ動かさず、素直に感想を口にする。

「確かに、うまいな」

美空はその横顔を見つめ、自嘲気味に笑った。

入社した初日から、美空は雅人には絶対に踏んではいけない地雷が2つあると知っていた。

一つは、他人と食器を共有すること。

雅人は極度の潔癖症であり、取り箸でさえ、ほかの人と同じものを使おうとはしなかった。

付き合い始めた頃、2人が身体を重ねていたときでさえ、彼が美空にキスをすることはなかった。

初めて唇が触れたのは、美空が高熱を出していたときだ。

ぼんやりした状態で彼と話しているうちに、うっかり唇が触れてしまった。

驚いた美空は、血の気が引くほど青ざめた。

けれど、雅人は気だるげに顔を寄せると、そのまま彼女にキスをした。

あのとき、美空は思ったのだ。

自分は彼にとって、特別な存在なのだと。

もう一つは、甘いもの。

7年間、彼のそばで働いてきた美空は、雅人が甘いものを口にする姿を一度も見たことがなかった。

自分が食べたくてケーキを買ってきたとき、彼は目もくれなかった。

美空は、こうして彼の好みや苦手なものを一つ残らず覚えようとした。

機嫌を損ねないように。

余計なことをして嫌われないように。

そんな思いから、彼の習慣や細かな好みを3冊もの手帳に書き留め、何度も読み返してきた。

彼を理解し、彼の望むとおりに振る舞うための、いわば自分だけの攻略本だった。

けれど――

今となっては、そんなものは何の意味もなかった。

本当に大切な相手なら、潔癖症も甘いもの嫌いも、あっさり乗り越えられるらしい。

美空は重い手帳を取り出し、乾いた笑みを浮かべると、迷いなくゴミ箱へ放り込んだ。

そうして背を向け、その場を立ち去った。

その頃、雅人は書類からふと顔を上げた。

扉の隙間を、見覚えのある人影が通り過ぎていった気がしたのだ。

彼は一瞬、手を止めた。

なぜか胸の奥に、かすかな引っかかりが残った。

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