Short
中絶を強いられた日に私は姿を消した

中絶を強いられた日に私は姿を消した

By:  誤字ラCompleted
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
25Chapters
24views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

篠原雅人(しのはら まさと)に抱かれる、最後の夜。 吉沢美空(よしざわ みく)は、いつになく激しい彼の衝動を全身で受け止めていた。 ふと、雅人の薬指にはめられた指輪が目に留まる。その瞬間、数日前に耳にした噂が脳裏をよぎった。 ――篠原グループの社長である雅人が、白川家の令嬢・白川玲奈(しらかわ れな)と結婚するらしい。 そのことが頭から離れず、ぼんやりと意識をさまよわせていた美空。そんな彼女の様子に気づいたのか、雅人は指先で顎を持ち上げ、有無を言わせぬほど深く長いキスをした。 息もできないほどの口づけに、美空の思考は次第に溶けていった。何も考えられなくなった彼女を見下ろしながら、雅人はそっと一枚のキャッシュカードを取り出し、彼女のブラジャーの中へと滑り込ませた。 「来月、俺が結婚するんだ。もう終わりにしよう」 美空は素直に頷いた。 「分かりました」 泣きもせず、騒ぎもせず、あっさりと受け入れる彼女を見て、雅人は不思議そうに眉をひそめた。 「本当に……いいんだな?」 美空は小さく笑い、首を縦に振った。 「はい」 心の準備なら、とっくにできていた。 2人のことを知っている人なら、みんな分かっていた。美空は、誰より雅人を愛していることを。 18歳の頃から彼の仕事を手伝い、大学を卒業すると同時に篠原グループに入社し、彼の秘書になった。 昼間は仕事で彼を支え、夜は彼の遊び相手になった。 危険が迫れば真っ先に飛び出して彼をかばい、酒の席では彼の代わりに酒を飲んだ。 それだけではない。美空は、彼の好き嫌いを記録した手帳を3冊も作り、いつも持ち歩いていた。彼が視線を送ってくるだけで、その意図を汲んで動くことができた。 そんなふうに、美空は7年間も雅人に尽くしてきた。 最初こそ、周囲から「身の程知らずの片思い」と笑われたが、次第に彼女の覚悟と努力が認められ、いつしか、からかうように笑っていた人たちまで、「まだ結婚しないの?」と尋ねるようになっていたのだ。 だからこそ、誰もが驚いた。 美空が、雅人がほかの女性と結婚することを、あっさり受け入れたなんて。 当の雅人でさえ、彼女の反応は予想外だった。 けれど、誰一人として知らなかった。 1週間前、美空は両親と約束を交わし、故郷に帰ってお見合いをすることを決めていたのだ。

View More

Latest chapter

More Chapters
No Comments
25 Chapters
第1話
初めて雅人と出会ったのは、美空が18歳のときだった。母から電話がかかってきたのは、そんなある日のこと。「美空、落ち着いて聞いて……お父さんが交通事故に遭ったの。今、病院で救命処置を受けてるんだけど、かなり危ないらしくて……今から来てくれないかな……」頭の中が真っ白になった美空は、居ても立ってもいられず、家を飛び出した。夢中で走り出したせいで、前を見る余裕さえなかった。その直後、彼女の体が走ってきた車にぶつかった。運転していたのは、雅人だった。雅人はとっさにブレーキを踏んだため、大事には至らなかった。美空は、足を引きずりながらも病院へ向かおうとした。「待ってくれ!」背後から雅人の声が飛んできた。彼は美空を呼び止め、何があったのかを尋ねると、すぐさま電話をかけた。それから彼女を車に乗せ、病院へと向かった。美空が到着すると、なぜか病院の院長も駆けつけた。腕利きの医師たちを率いて、手術室に入っていく。長い手術を経て、美空の父は一命を取り留めた。美空は母と抱き合い、安堵の涙を流した。滲む視界の向こう、少し離れた廊下に雅人の姿が見える。彼は院長と言葉を交わし、丁寧に頭を下げていた。その背中を見て、美空は初めて悟った。――病院のトップである院長を動かし、父の元へ駆けつけさせてくれたのは、他ならぬ雅人だったのだ。光の中に立つ、凛とした眼差しの男性。あの日の美空には、まるで自分の世界に舞い降りた神様のように見えた。最初は、ただお礼がしたかっただけだった。だから美空は雅人の仕事を手伝い、自分にできることを探しては、少しでも彼の役に立とうとした。卒業後、篠原グループに入社。思いがけず彼と一線を越え、いつしか彼の秘書を務めるようになった。感謝の気持ちは、いつしか別の感情へと変わっていた。彼がふと見せる優しさに触れるたび、抱いてはいけない期待が、少しずつ膨らんでいった。2人の関係が変わり始めたのは、1ヶ月前のことだった。雅人が突然、美空を避けるようになった。理由がわからず、美空は不安を募らせた。ずっと聞けずにいたその疑問を、ある夜、雅人に抱かれたあと、彼女は恐る恐る口にした。「篠原さん……私、何か気に障ることをしてしまいましたか?」雅人の端正な顔から、すっと表情が消えた。しばらく沈黙したあ
Read more
第2話
美空がその理由を聞く間もなく、社長室の扉が開き、中から玲奈が出てきた。身にまとっているのは、オーダーメイドの高級ドレス。隙のないメイクに、何不自由なく大切に育てられた令嬢ならではの気品が漂う。社内を歩く姿も堂々としていて、まるでこのビルの主にでもなったかのようだった。美空はようやく、同僚たちがあんな目で自分を見ていた理由を悟った。誰もが、いずれ美空が社長夫人になると思っていたのだ。それなのに、あっという間に雅人の婚約が決まり、美空は気まずい立場に追い込まれてしまった。一方、玲奈は美空の姿を見つけても、何事もなかったかのように微笑んだ。手にしていた招待状を差し出し、親しげに声をかけてくる。「吉沢さん、おはよう。1週間後に、雅人と私の婚約披露パーティーを開くの。今日は、みんなに招待状を配りに来たのよ」そう言ってから、玲奈はにこやかに続けた。「雅人の秘書をいちばん長く務めているのは吉沢さんでしょう?当日はぜひ来てちょうだいね」美空はすぐに愛想のよい笑みを浮かべ、両手で招待状を受け取った。「誘ってくださってありがとうございます。ぜひ出席させていただきます」玲奈は笑顔を崩さないまま、そっと美空に顔を寄せた。そして、2人にしか聞こえない声で囁く。「自分も雅人のお嫁さんになれるって、ずっと思い込んでたんですって?身の程知らずもいいところね。雅人にとって、あなたはただの遊び相手。結婚したあと、私を満足させられるように、あなたで練習してたのよ。だから、そろそろ現実を見ようね。自分と私たちの違いを思い知って、早いうち諦めなさい」口元には相変わらず甘い笑みを浮かべ、親しげに身を寄せる玲奈。その様子だけを見れば、2人が内緒話に花を咲かせているようにしか見えない。美空も表情を変えなかった。ただ、バッグの持ち手を握る指先は、白くなるほど力がこめられていた。玲奈の気持ちは、わからなくもない。自分の夫になる男の元恋人が、いつまでも目の前にいるのは面白くないだろう。それでも、胸の奥には重苦しいものが残った。美空は唇を引き結び、自分の立場をわきまえていると示すように、あえて一歩引いた言い方をした。「ご安心ください。これからどう行動すべきか、ちゃんと理解していますから」玲奈の笑みに、冷ややかな色が差した。「本当に
Read more
第3話
帰宅した美空は、親しい友人たちに退職して故郷へ帰ることを伝えた。話を聞いた友人たちは、翌日にみんなで食事をしようと提案した。美空も快く応じた。もう、雅人と顔を合わせることはないだろう。そう思っていた。けれど翌日、店員に案内されて個室へ向かっていたとき、ふと視界の端に見覚えのある姿が映った。2階の喫煙所で、友人と並んで、雅人が煙草を吸っていた。指先には赤い火が灯り、その後ろ姿には、どこか人を寄せつけない寂しさが漂っていた。美空は一度だけ目を向けると、すぐに視線を落とした。何も見なかったように、そのまま通り過ぎる。けれど、吹き抜ける風に乗って、2人の会話が耳に届いた。「本当に白川さんと結婚するつもり?吉沢さんがずっとそばにいたから、てっきりあの子と結婚するんだと思ってたよ」雅人は淡々と答えた。「そんなこと、考えたこともないよ」友人は面白がるように笑った。「でも、吉沢さんって家柄以外は申し分ないだろ。顔がいいし、仕事もできる。何より、お前に一筋だ。7年も一緒にいて、一度でも本気で結婚するって考えなかったのか?」雅人は数秒ほど黙った。そして、冷淡な声で言い切る。「ただのおもちゃに、本気になるわけないだろ」その言葉が耳に入った瞬間、美空の顔から血の気が引いた。思わずその場に立ち尽くす。「お客様、どうかなさいましたか?」案内していた店員が、不思議そうに振り返る。美空は爪が掌に食い込むほど指先を握りしめ、どうにか足を動かした。個室に入ってからも、食事はまるで味がしなかった。集まった友人たちは、大学時代からの同級生だ。美空が長年、雅人に想いを寄せていたこと、そして、その雅人がもうすぐほかの女性と結婚することを知っている。故郷へ帰ると聞けば、ようやく雅人から解放されることを喜んでくれた。その一方で、「今まで大変だったね」と、胸を痛めてくれた。話は尽きず、誰からともなく涙がこぼれた。最後には、みんなで抱き合って泣いた。食事会が終わる頃には、友人たちの夫や恋人が、次々と彼女たちを迎えに来ては、家へ帰った。そして、美空だけが残された。バッグの持ち手をぎゅっと握り、帰ろうとしたそのとき、突然、スマホが鳴った。画面に表示されたのは、雅人の名前だった。反射的に切ろうとしたものの、指
Read more
第4話
美空は小さく息を吐いた。「……とりあえず、傷の手当てをしますね」雅人は断らなかった。そんな彼がどこかおかしいと、美空は思った。そばに寄ると、鼻をつくほど強い酒の匂いがした。どうやら、本当に酔っているらしい。もしかすると、自分がもう彼の秘書ではないことさえ、忘れているのかもしれない。店員は助かったとばかりに、慌てて救急箱を取りに走った。美空は長年、雅人のそばで働いてきた。不測の事態に備えて応急処置の知識も身につけていたため、こうした手当てにはすっかり慣れている。彼の隣に腰を下ろし、血にまみれた手のひらを見た途端、美空は思わず眉を寄せた。「少し痛みますから、我慢してくださいね」「……ああ」美空は慎重に、掌に刺さったガラス片を一つずつ取り除いていった。傷口を消毒し、薬を塗る。そして、まるで子どもをあやすように、無意識のうちに傷口へそっと息を吹きかけた。雅人は、そんな彼女の横顔をじっと見つめていた。真剣で、優しくて、少しも手を抜かない。昔から変わらないその姿に、喉仏がかすかに上下した。やがて美空は、丁寧に包帯を巻き、最後にきれいな蝶結びを作った。「これで処置は――」言い終わる前だった。雅人が怪我をしていないほうの手で美空の顎をつかみ、身をかがめて唇を奪った。熱く、強引なキスだった。逃がすまいとするような、激しい口づけ。そこには、彼自身にも整理できていない感情が滲んでいた。美空は驚きに目を見開いた。けれど、次の瞬間には両手で雅人の胸を押し、ためらいなく彼を突き放した。体勢を崩した美空は、そのまま床に尻もちをつく。それでも、彼女の目は動揺したまま雅人を見上げていた。「……篠原さん」雅人は椅子に座ったまま、彼女を見下ろした。掠れた声が、静かな個室に落ちる。「美空……別に、辞めなくたってよかったんだぞ」美空の胸が、音もなく締めつけられた。昨日は自分を追い出しておきながら、今日は辞めなくてもよかったと言うのか。ついさっきだって、友人に向かって、自分はただのおもちゃだと言い放っていたくせに。美空には、雅人の瞳に浮かぶ熱がはっきりと見えていた。だからこそ、馬鹿らしくて、笑う気にもなれなかった。「篠原さん。私たちはもう終わったんです。あなた自身がそう言
Read more
第5話
翌朝、美空が目を覚ますと、元同僚からメッセージが届いていた。【吉沢さんの席の下からネックレスを拾ったんだけど、届けましょうか?】続けて送られてきた写真を開き、美空は思わず目を見開いた。それは、一昨年の誕生日に母からもらったネックレスだった。とても気に入っていて、ずっと大切にしていたものだ。退職するとき、急いで荷物をまとめたせいで置き忘れてしまったのだろう。美空はすぐに元同僚に返事を送り、受け取るついでに食事をする約束をした。食事の場所は出勤していた頃によく通っていたレストラン。約束の時間より早く店に着いた美空は、先に注文を済ませた。ところが、料理を待っていると、入り口から別の人物――玲奈が入ってきた。いつもの愛らしい笑顔は消え、冷たい表情を浮かべている彼女は、そのまままっすぐ美空のもとへやってきた。美空は眉をひそめる。「白川さん?どうして……」言い終わる前に、玲奈がいきなり手を振り上げた。パシンッ!乾いた音が店内に響き、美空の頬が横へ弾かれた。「この泥棒猫!会社を追い出されたくせに、まだ私の婚約者に付きまとうなんて、どういうつもり?」周囲に聞こえるよう、玲奈はわざと声を張り上げた。店内は一瞬にして静まり返った。食事をしていた客たちが、驚いた顔で2人を振り返る。美空は頬を押さえたまま、ようやく状況を理解した。昨夜のことを知った玲奈が、腹いせに来たのだ。打たれた頬が、じんじんと熱を持っている。その間にも、周囲からひそひそと声が上がり始めた。「えっ、婚約者の浮気相手をぶったの?すごい修羅場……」「やられて当然でしょ。あの人、あんなに綺麗なのに、なんで人の婚約者に手を出すのよ」「あの2人って、白川さんと、篠原社長の秘書だった吉沢さんじゃない?吉沢さん、何年も篠原社長と付き合ってたらしいけど、最近捨てられちゃったんですって。それどころか、白川さんにあそこまで責め立てられて……ほんと、気の毒よねえ」「どこが気の毒なのよ?相手は白川家のお嬢様よ?自分の立場もわきまえずに張り合おうとするなんて、身の程知らずにもほどがあるわ」好き勝手な言葉が、容赦なく美空に浴びせられる。悔しさと屈辱で、全身が小刻みに震えた。それでも、美空は何も言い返さなかった。玲奈の悪意に満ちた視線を浴びながら、
Read more
第6話
氷水は頭のてっぺんから服の中へと流れ込み、美空は寒さにぶるぶると震えた。濡れた髪が頬に張りつき、服もすっかり水を吸って肌に貼りついている。下着のラインまで透けて見え、見るも無惨な姿だった。雅人は、美空が悔しさをこらえながら、今にも涙がこぼれそうな目で自分を見つめているのを見ていた。それでも、彼の口から出たのは冷たい一言だった。「玲奈に謝れ」雅人は昔からずっとそうだった。何が正しく、何が間違っているかなど、どうでもいい。彼は守りたい相手だけを守る。それだけなのだ。隣にいた玲奈も、一瞬こそ驚いたものの、すぐに得意げな笑みを浮かべた。美空を挑発するように見つめ、謝罪を待つ。美空は呆然としたまま、かすれた声で尋ねた。「……もし、謝らないと言ったら?」雅人の表情には、情け容赦のない冷たさが浮かんでいた。「俺の婚約者に手を出したんだ。謝罪しないというのなら、この先、お前が京浜市で生活できなくなる。口座に入っている金も、一円たりとも持っていかせない」美空は、乾いた笑いを漏らした。周りの人は、彼女が金目当てで雅人と付き合っていたと思っている。この大都会で手に入れたものを手放したくないから、必死にしがみついているのだと。けれど、誰も知らない。美空がこの街に残ったのは、ほかでもない、雅人のためだったことを。そして、雅人が与えてくれた金など――美空は震える手でバッグを開け、かつて雅人から渡されたキャッシュカードを取り出した。それをテーブルの上に置く。「お金は、お返しします。京浜市にも、もういません。どうせ、実家に帰ってお見合いをするつもりでしたから」「お見合い」という言葉を聞いた瞬間、雅人の瞳がわずかに揺れた。だが、美空はもう振り返らなかった。背を向けて歩き出したものの、数歩ほど進んだところで、突然、目の前が暗くなる。視界がぐらりと揺れ、そのまま前のめりに倒れ込んだ。意識が遠のいていく中、耳元で雅人の叫び声が聞こえた。「美空!」……美空が再び目を覚ましたとき、そこは病院の病室だった。ベッドの脇には雅人が座っていた。深淵のように暗い瞳に、さまざまな感情が渦巻いている。美空が目を開けたのを確認すると、雅人は検査結果の用紙を彼女に突きつけた。何が書かれているのかわからず、美空
Read more
第7話
婚約披露パーティーの最中、雅人はどこか上の空だった。すべてが自分の思い描いたとおりに進んでいる。何ひとつ問題はないはずなのに、喜びも高揚感も、これっぽっちも湧いてこなかった。ただ、落ち着かない。心も身体も、言いようのない不快感に包まれていた。胸の奥が重苦しく、息が詰まりそうになる。ふとした拍子に、脳裏には美空の青白い顔が浮かんだ。そんな自分を押し殺し、どうにかパーティーを終えると、玲奈がすぐにそばへ寄ってきた。一歩踏み込んで雅人の胸に身を寄せ、両腕を彼の首に回す。婚約披露パーティーが滞りなく終わり、玲奈の機嫌はすこぶるよかった。彼の胸に甘えるようにもたれかかりながら、指先で胸元をなぞる。「雅人、今日からあなたは私のもの。私の男だって、みんなにお披露目したんだから、もう誰にも横取りさせないわ」玲奈がつけている香水の香りが鼻先に届いた瞬間、雅人は反射的に顔をしかめそうになった。思わず彼女を引き離したくなる。美空とは違って、玲奈の香水は、甘すぎた。美空は、ほとんど香水をつけなかった。だが、彼女の身体からは、ほのかな香りが漂っていた。強く主張するわけではないのに、ふとした瞬間、自然と鼻先をかすめる。決して存在を押しつけてこない。それでも、いつの間にかその香りがあることを当たり前に感じていた。まるで美空自身のように。いつもそばにいて、何も言わず、少しずつ日常に溶け込んでいく。気づけば、それが当たり前になっていた。雅人はこみ上げた違和感を押し殺し、何気ない笑みを浮かべた。「お前は白川家のお嬢様だ。お前から何かを奪える人間なんていないさ」玲奈はくすりと笑ったものの、その瞳の奥には暗い影がよぎった。美空のことが頭をかすめたのだろう。それでも、この場でわざわざ美空の名前を持ち出し、せっかくの雰囲気を台無しにするつもりはなかった。玲奈は蛇のように雅人の身体にまとわりつき、甘えた声で囁いた。「雅人、私たち、もう婚約したんでしょ?私はずっと、あなたになら、初めてをあげてもいいって思ってたの……だから今夜は、その……」そう言いながら、玲奈は顔を上げ、雅人の彫りの深い顔立ちを見つめた。雅人と美空が7年も一緒にいたことは、玲奈も知っている。2人の間にあったあれこれも、噂で耳にしたことがあった。彼に
Read more
第8話
「はい、手術は無事終わりました。吉沢さんも落ち着いていて、特にトラブルもありませんでした」男の返答を聞き、雅人はスマホを握る指に力を込めた。指先が少し白くなる。しばらく黙り込んだあと、ようやく口を開いた。「……あいつは泣かなかったか?」口にした途端、雅人は眉をひそめた。自分が何を聞いているのか。そんなことを知って、いったいどうするつもりなのか。結局、返事を待たずに電話を切った。胸の内が妙にざわつく。雅人は身をかがめ、助手席の収納ボックスを開けると、中から数冊の手帳を取り出した。もし美空がここにいたら、きっと驚いただろう。それは、彼女が退職の際、ゴミ箱に捨てた手帳だった。雅人が、ゴミ箱から拾い上げていたのだ。幸い、ちょうどゴミ袋が交換されたばかりだったらしく、手帳は汚れていなかった。雅人はそのうちの一冊を開き、見覚えのある筆跡を目で追った。ページに綴られていたのは、美空が篠原グループに入社してから観察し、記録してきた、雅人に関するさまざまなことだった。どのページを開いても、そこにあるのは彼のことばかり。【重要:篠原さんは重度の潔癖症。除菌シートを常に携帯すること】【篠原さんはネギが苦手】【篠原さんがいつも使っているコンドームは……柑橘系フレーバーのもの】ときには、些細な出来事も記録されていた。そのときの雅人の機嫌や、彼が何を嫌がるのか。美空は一つひとつの出来事から、彼の感情や触れてはいけない一線を読み取ろうとしていた。自分が失敗して怒られたときのことを書き留めたページもある。その脇には、涙を流す小さな女の子の落書きが添えられていた。雅人は、その絵をじっと見つめた。泣き顔の女の子が、怒られてうつむく美空の姿と重なる。入社したばかりの頃、失敗を恐れて何をするにもおそるおそるだった彼女。そんな美空が、いつしか周囲に気を配り、どんな状況にも臨機応変に対応できる、敏腕秘書へと成長していった。その過程を、雅人は今になって、もう一度たどっているような気がした。あの日、美空が去り際にドアの隙間から彼を見ていたことは、雅人も気づいていた。彼女の横顔が、視界の端に映っていたのだ。玲奈から差し出されたケーキを口にしたのも、わざとだった。玲奈を送り出したあと、雅人は自分でも理由がわ
Read more
第9話
雅人は眉間に深い皺を刻み、冷えきった声で問いただした。「お前たちこそ誰だ?美空はどこにいる?」男女は一瞬きょとんとしたが、女性のほうが先に思い出し、夫に告げた。「あ、前の家主さんじゃない?」そう言うと、男性もようやく合点がいったようにうなずいた。雅人の身なりから、ただものではないと察したのか、男性は態度を改め、丁寧に説明した。「私たちはこの家を吉沢さんから買い取りました。吉沢さんなら、もう引っ越されました。なんでも、実家に帰ってお見合いをして、結婚するつもりだとか」その言葉を聞いた途端、雅人の胸がざわついた。彼は男性の肩を乱暴に押しのけ、足早に室内へと踏み込んだ。かつて見慣れていたはずの部屋は、すっかり様変わりしていた。2人で暮らしながら、少しずつ買い足してきた小物は、一つ残らず消えていた。ソファといった大きな家具はそのまま残っているものの、今はそこに、男女の私物が置かれている。部屋のどこを見渡しても、雅人と美空が過ごした痕跡は、何ひとつ残っていなかった。美空が実家に帰って結婚するなど、雅人はまったく信じてはいなかった。家を売るための口実にすぎないと思ったのだ。けれど、彼女がここから去ったことだけは、紛れもない事実だった。雅人はかすれた声で尋ねた。「……いつ、この家を買ったんだ?」「2週間前です」その答えに、雅人の胸がじくりと痛んだ。2週間前。彼が美空に、「もう終わりにしよう」と告げた日だった。あの日の美空は、ひどく従順だった。どれだけ無理をさせても、彼女は拒絶をしなかった。ただ、体が耐えきれなくなったときだけ、彼の腕の中で目を潤ませ、小さな声で許しを乞った。それすらも、彼の意地の悪さをいっそう煽るだけだった。そして、雅人が別れを告げたときも、美空は大きく取り乱すことなく、あっさりと受け入れた。まるで、いつかこんな日が来ることを、ずっと前から覚悟していたかのように。そうか。あのときにはもう、彼女は離れる覚悟を決めていたのだ。雅人は、自分の胸に湧き上がる感情をうまく言葉にできなかった。美空との関係を終わらせると決めたとき、彼女がしつこくすがってくるのではないかと、少なからず警戒していた。何しろ、美空が自分をどれほど好きなのかは、誰もが知っていた。あれほど
Read more
第10話
美空は半ば呆然として、航平を見つめた。まさか、こんな偶然があるなんて。美空の故郷である川原市は、京浜市から飛行機で2時間ほどの距離にある。かつて美空が京浜市の大学に通っていた頃、父の正男(まさお)は研修のために京浜市を訪れた。せっかくだからと母の栄子(えいこ)も連れて、美空の顔を見に行こうとしたのだが、道中で交通事故に遭ってしまった。雅人のおかげで一命を取り留め、正男はしばらく京浜市で療養したあと、川原市へ戻った。それ以来、夫婦はずっと向こうで暮らしている。2人は美空が篠原グループで働き、雅人の秘書を務めていることは知っていた。けれど、雅人との間にそれ以上の関係があるとは、夢にも思っていなかった。雅人にはいろいろと世話になった。だから、故郷の特産品を美空に送るときは、いつも雅人の分も持たせていた。神社を参拝してお守りを授かる際も、雅人の分まで用意するほどだった。そんな両親も、美空が年頃になるにつれ、そろそろ結婚を考えてほしいと帰郷を促すようになった。美空は適当に返事をしたものの、お見合い相手が誰なのか、詳しく聞いてはいなかった。驚きと気まずさが入り混じった美空の表情を見て、航平は説明を続けた。「父と美空さんのお父さんは、昔、同じ職場で働いていました。僕たちの家も隣同士だったんです。そのあと、父が京浜市に転勤することになって、うちも引っ越したんですけどね。僕たち、子どもの頃はよく一緒に遊んでいましたよ。忘れちゃいました?」そう言いながら、航平は幼い頃によくしていた仕草を再現してみせた。すると、ぼんやりしていた記憶の霧が一気に払われたかのように、懐かしい光景が次々とよみがえった。美空は思わず声を上げた。「あっ、もしかして……航平兄ちゃん?好き嫌いばっかりしてた、あの航平兄ちゃんですか?」航平はふっと笑った。「はい、好き嫌いばかりしてた航平です」美空は改めて彼の顔をじっと見つめた。子どもの頃の航平は、好き嫌いが激しく、食事もろくに食べないことで有名だった。それが今では、すらりとした体つきで、立ち居振る舞いにも品がある。よく見れば、端正な顔立ちに幼い頃の面影も確かに残っていた。航平は目元に笑みを浮かべたまま、美空の好きなように眺めさせていた。相手が本当にあの航平だとわかり、幼い頃の思い出がよ
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status