LOGIN篠原雅人(しのはら まさと)に抱かれる、最後の夜。 吉沢美空(よしざわ みく)は、いつになく激しい彼の衝動を全身で受け止めていた。 ふと、雅人の薬指にはめられた指輪が目に留まる。その瞬間、数日前に耳にした噂が脳裏をよぎった。 ――篠原グループの社長である雅人が、白川家の令嬢・白川玲奈(しらかわ れな)と結婚するらしい。 そのことが頭から離れず、ぼんやりと意識をさまよわせていた美空。そんな彼女の様子に気づいたのか、雅人は指先で顎を持ち上げ、有無を言わせぬほど深く長いキスをした。 息もできないほどの口づけに、美空の思考は次第に溶けていった。何も考えられなくなった彼女を見下ろしながら、雅人はそっと一枚のキャッシュカードを取り出し、彼女のブラジャーの中へと滑り込ませた。 「来月、俺が結婚するんだ。もう終わりにしよう」 美空は素直に頷いた。 「分かりました」 泣きもせず、騒ぎもせず、あっさりと受け入れる彼女を見て、雅人は不思議そうに眉をひそめた。 「本当に……いいんだな?」 美空は小さく笑い、首を縦に振った。 「はい」 心の準備なら、とっくにできていた。 2人のことを知っている人なら、みんな分かっていた。美空は、誰より雅人を愛していることを。 18歳の頃から彼の仕事を手伝い、大学を卒業すると同時に篠原グループに入社し、彼の秘書になった。 昼間は仕事で彼を支え、夜は彼の遊び相手になった。 危険が迫れば真っ先に飛び出して彼をかばい、酒の席では彼の代わりに酒を飲んだ。 それだけではない。美空は、彼の好き嫌いを記録した手帳を3冊も作り、いつも持ち歩いていた。彼が視線を送ってくるだけで、その意図を汲んで動くことができた。 そんなふうに、美空は7年間も雅人に尽くしてきた。 最初こそ、周囲から「身の程知らずの片思い」と笑われたが、次第に彼女の覚悟と努力が認められ、いつしか、からかうように笑っていた人たちまで、「まだ結婚しないの?」と尋ねるようになっていたのだ。 だからこそ、誰もが驚いた。 美空が、雅人がほかの女性と結婚することを、あっさり受け入れたなんて。 当の雅人でさえ、彼女の反応は予想外だった。 けれど、誰一人として知らなかった。 1週間前、美空は両親と約束を交わし、故郷に帰ってお見合いをすることを決めていたのだ。
View More「玲奈がこっそり隣の市に出てきたって情報が入ったんだ。ちょうどお前も出張でこっちに来ていただろう?何かあったらと思って、心配だったんだ」彼は美空を見つめ、もう一度、安堵の息をついた。「間に合って、本当によかった」そう言い終えた雅人のまぶたが、次第に重くなっていった。視界が暗く閉ざされ、彼はそのまま前のめりに倒れ込む。美空はとっさに彼を抱き留め、床に倒れるのを防いだ。そのとき初めて、彼の背中が目に入った。玲奈が浴びせた硫酸は、すべて雅人の背中にかかっていた。衣服越しだったにもかかわらず、背中はすでに赤くなり、目を背けたくなるほどの状態だった。美空の涙が、堰を切ったようにあふれ出す。彼女は雅人のボディーガードたちとともに、急いで彼を病院へ運んだ。ようやく雅人が手術室へ運び込まれた頃、航平も慌てて駆けつけてきた。手術室の前にいる美空を見つけると、航平はまっすぐ彼女のもとへ駆け寄り、真っ先に怪我がないか確かめた。「私は大丈夫……硫酸は全部、篠原さんがかぶってくれたから」涙を流しながらそう答えると、美空の目からは、さらに激しく涙があふれた。航平は彼女の手をしっかりと握りしめた。「大丈夫。きっと、彼は助かるよ」航平はすぐに手配を進め、最も優秀な医師たちを集めて雅人の治療に当たらせた。手術は無事に終わり、雅人は目を覚ました。ただ、背中には、一生消えることのない傷痕が残るという。美空は彼の入院中、ずっと付き添い、身の回りの世話をした。そして、雅人がようやく退院する日を迎えた。この間、雅人は美空の気持ちを嫌というほど思い知らされていた。彼女が自分に向けるのは、もう愛情ではない。ただ、命を救われたことへの感謝だけだった。雅人の前では、美空は何もかもきちんと整え、必要なことをすべて手際よくこなす。けれど、航平の前では違った。彼女は肩の力を抜いていられる。航平に頼ることもできるし、自分の失敗も受け入れられる。退院の日、美空は航平と一緒に雅人を迎えに来た。少し離れたところに立つ航平を見つめてから、雅人は美空に尋ねた。「これからも友達でいてくれるか?」美空は一瞬きょとんとしたものの、やがて小さくうなずいた。雅人は何かを言いかけ、ためらいながら口を開く。「お前たちが結婚するときは、招待
まさか玲奈が、自分を狙って隣の市まで追いかけてくるとは、美空は思っていなかった。「白川さん、何をするつもりですか?」美空は歯を食いしばった。玲奈とは、決して仲がいいとは言えなかった。けれど、彼女を挑発し、恨みを買った覚えもない。それなのに、玲奈はいつも執拗に絡んでくるのだった。ドアの向こうから、傲慢な声が返ってくる。「私の婚約者を横取りしておいて、ただで済むと思ってるの?京浜市では雅人も天野さんもあなたをかばってくれるけど、ここなら誰もいないでしょ?今度こそ逃がさないわよ!」雅人が白川家に釘を刺して以来、玲奈はずっと両親に家へ閉じ込められ、外出を禁じられていた。そんな屈辱に、玲奈が耐えられるはずもない。篠原家には逆らえなくても、美空なら話は別だ。そもそも、篠原家に目をつけられる羽目になったのも、美空のせいだ。そう思うと、玲奈の憎しみは募るばかりだった。ただ、ここしばらくは雅人と航平が美空の周囲に目を光らせていて、手を出す隙がなかった。だからこそ、美空が京浜市を離れると知り、玲奈はチャンスだと思って、追っかけてきたのだ。玲奈は連れの男たちに命じた。「あなたたち、そのドアをぶち壊しなさい!」言葉が終わるやいなや、男の一人が寝室のドアを思いきり蹴りつけた。寝室の鍵は、玄関のものよりもずっと頼りない。美空は慌ててドアから離れた。次の瞬間、案の定、激しい音とともにドアが蹴破られた。入口には、屈強な男たちが何人も立っていた。その背後から、玲奈が冷ややかな目で美空を見据えている。美空の手にあるスマホに気づくと、玲奈は男に目配せした。男たちはすぐさま美空に駆け寄り、スマホを奪い取ると、床に叩きつけて粉々にした。美空が抵抗しようとしたが、2人の男に両腕を押さえ込まれた。さらに膝の裏を蹴られ、痛みに耐えきれず、その場に膝をつく。玲奈はゆっくりと歩み寄り、見下ろすように美空を眺めた。「吉沢さん、まさか自分がこんな目に遭うとは思ってもいなかったでしょう?雅人をその気にさせておいて、今度は天野さんにまで取り入って。自分がどれだけ得意になっているか、想像がつくわ。とうとう玉の輿に乗れるとでも思った?」玲奈は持っていた小さなバッグを開き、中から1つのボトルを取り出した。美空を見つめるその目には、隠
隣の市の空港に降り立った瞬間、美空はなぜか胸騒ぎを覚えた。誰かに見張られているような、妙な気配がする。反射的に周囲を見回す。だが、行き交う人々はどこにでもいる、ごく普通の旅行客ばかりだった。誰もが怪しく見えるのに、よく考えれば自分の気にしすぎにも思える。美空は足早に空港を出て、迎えに来ていた現地の同僚と合流した。同僚と一緒になってからは、誰かに見られているような感覚もいくらか薄れた。それ以上気にするのはやめ、ホテルで休むこともなく、そのまま同僚と支社へ向かった。打ち合わせを済ませると、支社のメンバーも連れて取引先との商談に臨む。慌ただしい一日を終え、ようやくホテルに戻ったのは夜になってからだった。荷物を置いたところで、スマホが鳴った。画面に表示されたのは航平の名前。美空は自然と頬を緩め、電話に出た。2人はごく自然に、その日の仕事の進み具合について話し始めた。もともと今回の商談は、航平が自ら出向いてまとめる予定だった。ところが急な仕事が入り、どうしても身動きが取れなくなったため、美空が一人で現地へ赴き、話をまとめることにしたのだ。そんな話をしている最中、美空はふと、カードキーでドアを開けようとする音を耳にした。しかし、ドアが開くことはなかった。入室したとき、念のため内鍵をかけ、ドアチェーンも掛けておいたからだ。ドアの外が一瞬静まり返ったかと思うと、すぐにチャイムが鳴り始めた。航平との会話を止め、美空は玄関へと向かう。鳴り続けるチャイムに重なるように、男の丁寧な声が聞こえてきた。「お客様、夜分遅く申し訳ございません。ご登録いただいた宿泊情報に不備があるようでして、もう一度確認させていただけますでしょうか」美空は特に疑うこともなく、スマホを手にしたままドアの前まで行き、ドアノブに手を伸ばした。そのとき、電話の向こうの航平も声を聞きつけた。「宿泊情報に不備?あのホテルは、うちの支社がずっと取引しているところだけど、どうして急にそんなことが……」航平の言葉を聞いた瞬間、美空の脳裏に、空港を出るときに感じたあの視線がよみがえった。それに、先ほどカードキーでドアを開けようとしていた音も。心臓がどくんと跳ねた。美空は慌てて、ドアノブにかけていた手を引っ込める。念のためドアスコープから
雅人に、こんなにも図々しい一面があったとは、美空も思いもしなかった。翌朝、出勤しようと玄関を開けると、案の定、雅人が待ち構えていた。手には朝食の入った袋。篠原グループで働いていた頃、美空がよく注文していた店のものだった。「これ、好きだっただろ?」差し出された袋に、美空は無表情のままちらりと目をやった。「よく注文していたのは、私が好きだったからじゃありません。あなたが好きだったからです。私、あの店の料理は大嫌いなんですけど」雅人の表情が、ぴたりと固まった。ちょうどそのとき、向かいの部屋から航平が出てきた。手には朝食が2人分。美空はそのうちの一つを受け取ると、航平と並んで歩き出した。数秒間、呆然と立ち尽くしていた雅人も、すぐに2人の後を追いかける。「じゃあ、何が好きなんだ?明日は別のを持ってくるよ」美空は彼に視線を向けた。「篠原さん、私はどちらかというと、昔みたいに不遜で人を寄せつけないあなたのほうが好きでしたけど」雅人は言葉を失った。その隣で、航平が思わず吹き出す。雅人は、美空がこれほど口が立つ女性だったとは知らなかった。面白くない気持ちはあったものの、同時に新鮮でもあった。そしてようやく、彼女が言っていた「あなたは私のことを何もわかっていない」という言葉の意味を理解し始めた。彼女が、なぜあれほど疲れてしまったのかも。美空は、自分を少しずつ削り、雅人の好みに合う人間になろうとしてきた。その結果、いつしか自分自身を見失ってしまったのだ。けれど、生まれ持った自分らしさまで、そう簡単に捨てられるはずがない。傷つくことを重ね、心が限界に達した末に、彼女はとうとう雅人を手放すことを選んだのだ。そう思うと、雅人の胸には、後悔とともに彼女への痛ましさが込み上げた。それでも、彼は諦めなかった。むしろ、拒絶されるほどに闘志を燃やしていった。翌日からは、朝食の店を変え、いくつもの店の料理をまとめて持ってくるようになった。これなら一つくらいは美空の好みに合うだろう、と考えたのだ。美空は会社に出勤すれば、毎日のように花が届いた。それを受け取るなりゴミ箱に捨てるか、同僚に譲ってしまうのだが、雅人はそれでも送り続けた。帰宅すれば、玄関の隣にはいくつものプレゼントの箱が置かれている。どれも雅人が自ら選ん