慎司はサインしなかった。
それどころか、まるでその用紙が見えていないかのように、書類を裏返して机に伏せた。
「先に病院へ行くぞ」
段ボールへ荷物を詰めていた私の手が止まる。
「何?」
慎司は車のキーをひっつかんだ。
「お前の手の傷も、事故の詳しい状況も、検査結果を自分の目で確かめたい」
その声音は、いつもの有無を言わせない調子を取り戻していた。
以前の私なら、その強引さに従っていたはずだ。
頼もしくて、ブレない人だと思っていた。
どれほど途方に暮れる事態が起きても、彼が隣に立ってくれれば、胸のざわつきは自然と収まった。
けれど、今は違う。
ただひたすらに鬱陶しい。
「もう行ったわ」
「明純」
慎司がその硬い声で私の名を呼ぶときは、不機嫌のサインだ。
私は顔を伏せ、父の古びたマグカップを緩衝材で包み込んだ。
「そんな顔しないで。あなたにそんな資格はないわ」
慎司が虚を突かれたように固まる。
私はもう、彼に視線を戻さなかった。
「今日はいろいろ立て込んでるの。夜には父の家へ行って片付けもしなきゃいけない。書かないなら、先に帰って」
慎司は長い間立ち尽くしていた。
結局、何も口にしなかった。
上着を脱ぎ捨てると、腰をかがめて段ボールを運び始める。
私は眉をひそめた。
「結構よ」
「俺がやる」
「本当にいらないから」
彼の手がぴたりと止まった。
私の拒絶を、肌で感じ取ったのだろう。
昔の私は、彼を拒むことなんてめったになかった。
ペットボトルのキャップを開けるときですら、彼が手を差し伸べれば、当たり前のように渡していた。
慎司がいないとき、自分でキャップを回して開けてから、ふと気づく。
なんだ、私1人でも普通にできるじゃないか、と。
思えば、大抵のことはそうだった。
できなかったわけじゃない。
彼に甘えるのが癖になっていただけだ。
そして、習慣というものは恐ろしい。
身につけるには何年もかかるくせに、断ち切るにはたった1晩あれば足りる。
あの夜、父は手術室の中にいた。
廊下のデジタル時計の表示が、21時47分から、深夜3時17分まで刻まれていく。
私はその数時間のあいだに、「寺岡慎司」という習慣を完全に削ぎ落とした。
*
慎司と結婚して5年目、汐里が帰国した。
彼女はダンサーだった。
22歳のとき海外のコンクールで負傷し、右膝のじん帯を断裂。その後エリュシオン州を転々として治療を続けていた。
慎司と別れたのも、その年だった。
この話は、ずっと前から知っていた。
結婚する前から耳にしていたことだ。
慎司は私に何も隠さなかった。
当時の私は、その率直さを誠実さだと信じ込んでいた。
彼は言った。
「全部昔のことだ。もし気になるなら、結婚はやめてもいい」
私は腹を立てて彼の足を踏んづけた。
「指輪まで買っておいて、今さらそんなこと言うわけ?デリカシーってものがないの?」
慎司は目を伏せて私を見下ろした。
口元にほんの少し笑みを浮かべ、それからゆっくりと私を胸の中へ引き寄せた。
「なら、結婚しよう。後で後悔するなよ」
後悔するなんて、夢にも思わなかった。
私は何年も前から彼に惹かれていた。
大学時代、慎司は建築学科で誰よりも目立つ存在だった。
容姿に恵まれ、成績も優秀で、家柄もいい。
決まってシンプルなモノトーンの服ばかり着ていたけれど、人混みの中でも一瞬で見つけられた。
私と彼は別の大学だった。
最初の接点は、2つの大学が合同で取り組んだ歴史的市街地の再生プロジェクトだった。
私が古い街並みの実測調査を担当し、彼が全体計画を取りまとめていた。
会議中、私は彼を盗み見ながら作業をしていて、調査数値を2列も書き間違えた。
後で教授から30分も絞られた。
友達からは情けないと散々笑われた。
自分でもそう思う。
けれど、恋なんてものは、ときにどうしようもなく情けないものだ。
*
一方的に視線を追っていただけだと思っていた。
3年後、慎司が私の職場のビルの下で待ち伏せするまでは。
あの日も雨だった。
黄色い傘を差していた私を、彼はビルのひさしの下からじっと見つめていた。
開口一番、慎司は言った。
「俺のこと、好きなんだろ?」
傘を取り落としそうになった。
恥ずかしさで頭が真っ白になった。
私はその場で意地を張って否定した。
「誰が好きだって?」
慎司はうなずいた。
「そうか。ならいい」
背を向けて歩き出してしまう彼に、私は雨の中で地団駄を踏んだ。
たまらなくなって追いかけ、慎司の袖口をひっつかんだ。
「ちょっと待ちなさいよ。そこまで聞いておいて、もう一声押そうとか思わないわけ?」
慎司が振り返った。
背後に雨足が白く煙っている。
いつも感情の読めないその瞳に、初めてかすかな笑みがにじんでいた。
「どうやって押せばいい?」
私は息を詰まらせ、耳まで熱くしながら絞り出した。
「たとえば……あなたも私のこと好きだって、言うとか」
慎司は長いこと私を見つめていた。
そして、顔を寄せて唇を重ねてきた。
落とした傘が地面を打ち、水しぶきを跳ね上げる。
「柴崎明純(しばさき あすみ)。俺、お前を半年追いかけてたんだけど」
ぽかんとしてしまった。
偶然見かけたカフェも、講義で隣の席に座ってきたことも、職場の前を通り過ぎた車も。
偶然なんかじゃなかったのだと、そのとき初めて知った。
だから、汐里の存在を知らされた後も、深く気には留めなかった。
私は慎司を信じていた。
あれほどまっすぐな好意を、私に向けてくれた人だったから。
一度起きた確かな事実は、いつまでも変わらないと思い込んでいた。
違ったのだと知る由もなく。
*
汐里が初めて私の前に姿を現したのは、グループの新しい文化センターのプロジェクト会議だった。
慎司の会社が古い工場跡地を取得し、劇場や美術館、商業エリアを融合させた文化複合施設へと再生する大型案件だ。
私はチーフアーキテクトを務めていた。
丸2年にわたり心血を注ぎ、敷地調査から基本設計まで、幾夜もの徹夜を重ねて形にしてきたプロジェクトだった。
会議の日、慎司は最後に部屋へ入ってきた。
その後ろに、1人の女性が続いている。
痩せぎすで、白いシャツに黒のロングスカートをまとい、歩く右足がわずかにぎこちない。
一目でわかった。
汐里だ。
写真で見るよりもずっと柔らかな雰囲気をまとっていた。
決して刺々しい美人ではない。
涼しげな目元で、声も静かだった。
慎司が紹介した。
「江上汐里さんだ。劇場の芸術顧問として招へいした」
会議室が一瞬、静まり返る。
2人の過去を知る人間は社内にも少なくなかった。
私へ探るような視線が集まる。
私は何食わぬ顔で図面に目を落とし、気づかないふりを通した。
汐里は私の隣へ腰を下ろした。
「チーフアーキテクトの柴崎さんですね。お噂はかねがね」
私は小さく微笑んだ。
「そんなに畏まらないでください。明純と呼んでいただければ」
会議そのものは至って順調に進んでいた。
小劇場のエントランスの動線について議論が及ぶまでは。
私の設計案は、あえて入口の天井高を抑え、既存のトラス構造を活かした狭小なピロティ空間を設けていた。
20メートルの陰影をくぐり抜けて初めて、吹き抜けの大空間へと視界が開ける。
設計全体の中で、私が最も思い入れを持っていた仕掛けだった。
けれど、汐里が口を開いた。
「私、ここあまり好きじゃないです」
私が目を向けると、彼女は静かに説明した。
「ダンサーは空間の圧迫感にとても敏感なんです。入口が重苦しいと、劇場に入る前から身体がこわばってしまいます」
「ですが、ここはもともとインダストリアルな工場建築です。場所の記憶を継承したいですし、一度圧縮された空間から解放されるプロセスそのものが、演劇的な体験になるはずです」
汐里はふわりと微笑んだ。
「でも、劇場ってリラックスできる場所であるべきだと思うんです」
反論を続けようとした矢先、上座に座る慎司が声を落とした。
「変更しろ」
部屋の空気が凍りついた。
私は顔を上げた。
「え?」
「エントランスは開放的な作りに見直せ。汐里の言うことにも一理ある」
頭が真っ白になった。
「ですが、それでは全体の動線計画が崩れます」
慎司は平然と言い放った。
「建築は利用者のためのものだ。設計者の自己表現のためにあるんじゃない」
周囲の視線が一斉に私へ突き刺さる。
頬に血が上るのを感じた。
プランを否定されたからではない。
仕事の上でのダメ出しなど日常茶飯事だ。専門的な議論ならいくらでも受けて立つ。
耐え難かったのは、慎司が私の説明の最後まで耳を傾けようとしなかったことだった。
会議が散会し、私は最後まで部屋に残った。
ノートパソコンを片付ける慎司に問いかける。
「本気で、彼女の意見が正しいと思っているの?」
慎司が視線を上げた。
「違うとでも?」
「彼女に建築のバックボーンはないわ」
「汐里は利用者側の人間だ。明純、最近少し過敏になりすぎていないか?」
言葉に詰まった。
言い方がきつかったと自覚したのか、彼は私の髪に軽く触れた。
「ただの仕事だ。深読みするな」
私は小さくうなずいた。
そのときは、自分にそう言い聞かせようと必死だった。
ただの仕事。
気にしすぎなだけ。
それからというもの、私は幾度となく同じ言葉で自分をなだめ続けることになる。
*
汐里が戻ってきてから、慎司は目に見えて多忙になった。
以前なら、残業になるときは必ず連絡をくれた。
たとえ「遅くなる」という、たった一言であっても。
夕食を作って待つべきかどうか、それだけで判断できた。
やがて、連絡は途絶えがちになった。
ある日、私は彼の好物のビーフシチューを作った。
7時から待ち続け、10時を回り、鍋を3度温め直した。
慎司が玄関の鍵を開けたのは、11時20分だった。
かすかに漂う、ジャスミンの香り。
鼻が利く私には、すぐにわかった。
汐里がSNSに載せていた、愛用の香水の匂いだった。
玄関口で立ち尽くす私に、慎司はカフスボタンを外しながら言った。
「まだ起きてたのか」
答えず、ただ見つめた。
「どこへ行っていたの?」
彼の手が止まる。
「会社だ」
「会社のディフューザー、いつからジャスミンの香りに変わったの?」
慎司が顔を上げた。
口にした瞬間、まるで尋問のような自分のみじめさに胸が詰まった。
数秒の沈黙の後、彼が言った。
「汐里のリハーサル中に古傷がぶり返してな。病院まで送っていたんだ」
喉の奥が引きつる。
「どうしてあなたが送るの?」
「運転手がいなかった」
「彼女には友達もいないの?」
慎司が眉根を寄せた。
「膝に大怪我を負った人間が、その場に崩れて立てなくなったんだぞ。見捨てて帰れとでも言うのか?」
唇を噛み締めた。
急に何も言いたくなくなった。
うつむいて背を向けた私の肩を、慎司が背後から抱き寄せる。
声音を和らげて。
「明純、俺と彼女の間には何もない。終わった相手に、そこまで神経を尖らせるな」
ツンと鼻の奥が痛んだが、それでも小さくうなずいた。
「わかったわ」
その夜、彼は私を抱きしめて眠りについた。
背を向けたままの私の隣で、慎司の規則正しい寝息がすぐに聞こえ始めた。
私はカーテンの隙間から差し込む街灯の明かりを、朝までじっと見つめていた。
*
翌朝、ベッドから起き上がりながら自分に言い聞かせた。
本当に何もないんだ。
怪我人を病院へ送り届けただけ。
私だって同じ立場ならそうする。
結婚したからといって、人としての思いやりまで捨てるべきじゃない。
何度も何度も、慎司を正当化する理由を探し集めた。
今振り返れば、あの頃の私はひび割れた壁に必死でモルタルを塗りたくる左官屋のようだった。
土台から傾いているのに。
平気、まだ埋め直せば大丈夫だと、毎日自分をだましていた。
*
31歳の誕生日。
慎司は古い街並みの再生建築展へ一緒に行くと約束してくれた。
ずっと楽しみにしていた日だった。
朝、家を出る前に彼が尋ねてきた。
「夜は何が食べたい?」
私はわざともったいぶって返した。
「寺岡社長が自分で当ててみて」
彼は薄く笑った。
「手のかかるやつだな」
浮かれた気分のまま、昼休みには化粧室でリップを塗り直した。
6時。
慎司は来ない。
6時半。
メッセージを送っても、既読がつかない。
7時15分。
ようやく電話がつながった。
向こう側はざわついていて、かすかに音楽が響いている。
「今、どこ?」
慎司が一瞬、口ごもった。
「少し手が離せなくてな」
「今日が何の日か、忘れたの?」
虚を突かれた気配の後、彼が言った。
「忘れてない」
少しだけ胸を撫で下ろした。
だが次の瞬間、受話器の向こうから男の声が割って入った。
「慎司、汐里のシューズの紐が引っかかって取れない、ちょっと見てくれ!」
すぐ近くからの叫び声だった。
私はスマホを握りしめたまま、言葉を失った。
慎司も沈黙した。
数秒後、彼が口を開いた。
「汐里が今日、復帰に向けて初めての舞台テストなんだ。急なトラブルがあって、少し遅れる」
「今、彼女のところにいるの?」
「ああ」
「今日、私の誕生日よ」
「知っている」
「なら、どうしてそっちへ行くの?」
長い沈黙が落ちた。
私が聞き分けのないわがままな人間に思えてくるほど、重い沈黙だった。
やがて慎司が言った。
「明純、あいつはこの舞台のために7年も待ったんだ。今日という日は、汐里にとって大事な節目なんだよ」
ふっと乾いた笑いが漏れた。
「じゃあ、私は?」
「何?」
「私にとっても、今日は大事な日なんだけど」
返事はなかった。
目の奥がじわじわと熱くなっていく。
私の声は、どんどん低くかすれていった。
「……もういいわ。そっちを優先して」
あの日、私は1人で展示を見て回った。
閉館のアナウンスが流れ、スタッフに声をかけられた。
「お客様、あと10分で閉館となります」
気づけば、同じ展示ケースの前に30分近く立ち尽くしていた。
ガラスの向こうには古い歴史的建造物の修復図面が広げられていた。
解説パネルの一節が目に留まる。
【修復とは、決して最初期の状態へ巻き戻すことではない】
その言葉を、穴の開くほど見つめた。
外へ出ると、雪がちらついていた。
11時40分、慎司からメッセージが届いた。
【どこにいる?】
返信しなかった。
12時3分。
再び着信。
【誕生日おめでとう】
もう日付は変わっていた。
画面の電源を落とした。
結婚してから初めて、私は彼のメッセージを無視した。
*
翌日、慎司が高価なブランドバッグを買って帰ってきたとき、私はまたしても毒気を抜かれてしまった。
クローゼットへバッグを掛け、背中から私を抱きしめてきた彼。
「昨日は悪かった」
「汐里さんの舞台、うまくいったの?」
「ああ」
慎司が一呼吸置いた。
「終わった後、少し取り乱してしまってな。それで遅くなった」
手の中のバッグが、急に鉛のように重く感じられた。
それでも私は口にしてしまった。
「いいのよ」
まだあの頃は。
「気にしてない」という言葉を、「とても傷ついた」と言い換える勇気を持てずにいたから。
*
文化センターのプロジェクトが実施設計の段階に入ると、汐里と顔を合わせる機会はさらに増えた。
彼女は私に対してあからさまな敵意を見せることはなかった。
むしろ終始、丁寧で腰が低かった。
だからこそ余計に、彼女を疎ましく思う自分の方が狭量に思えて仕方がなかった。
ある日の設計レビューでのことだった。
私は3日連続で徹夜し、劇場内部の音響空間を最適化するプランをまとめ上げた。
だが審査の前日になって、汐里が突然、舞台袖のバックヤード機器スペースを削ってダンサー専用のラウンジ回廊にしたいと言い出した。
私は拒否した。
音響性能だけでなく、消防法上の避難動線にも致命的な支障が出るからだ。
会議室で2人の押し問答が10数分続いた。
汐里が慎司へ視線を送る。
「慎司、私はただ、実際に舞台に立つ人間が、少しでも息をつける場所があってほしいと思っただけなの」
慎司は図面にパラパラと目を通した。
「汐里の言う通りに変更しろ」
耳を疑った。
「無理です」
会議の席で、私が彼に正面から歯向かったのは初めてだった。
出席者全員の視線が集まる。
私は図面を指し示した。
「避難距離が確保できません。機器スペースを圧縮すれば将来のメンテナンス性も犠牲になります。これは意匠や気分の問題ではありません」
慎司は平然と言った。
「なら技術提案をやり直せ」
私は彼を凝視した。
「彼女の思いつきひとつで、チーム全員に手戻りを強いるつもりですか?」
慎司の顔から表情が消えた。
「明純、言葉遣いに気をつけろ」
空気が一瞬で凍りついた。
指先がかすかに震える。
汐里が慌てて割って入った。
「もういいです、そこまでご迷惑をおかけするなら、変更しなくて結構ですから」
彼女が下手に出れば出るほど、私が理不尽にかみつく悪役へと仕立て上げられていく。
慎司が書類を閉じた。
「会議の後、社長室へ来い」
私は行かなかった。
設計事務所へそのまま直帰した。
夜の11時、慎司が帰宅した。
私が書斎で図面を直していると、彼がドアの前に立った。
「どうして来なかった」
「忙しかったから」
「すねているのか?」
私は顔を上げた。
「慎司、私は仕事の話をしていたのよ」
それは、かつて彼が口癖のように私へ投げていた台詞だった。
慎司もそれに気づいたのか、苦い表情を浮かべた。
「お前は個人的な感情をプロジェクトに持ち込んでいる」
「持ち込んでいないわ」
「汐里に偏見があるんだろう」
「なら、あなたは?」
生まれて初めて、私はその問いをぶつけた。