Short
生まれ変わっても、あなたの影には戻らない

生まれ変わっても、あなたの影には戻らない

By:  ごはんまんCompleted
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
26Chapters
44views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

茅野稚菜(かやの わかな)は生まれ変わった。 前世の彼女は卑劣な男に騙され、一家離散の悲運に見舞われた挙句、拉致犯の銃弾に倒れて命を落とした。 死の淵で、ようやく悟ったのだ。安井恭太(やすい きょうた)がたったひとりでアジトへ乗り込み、胸を撃たれてなお、彼女を連れ帰ろうとしてくれていたことを。 彼女の死後も彼は仇を討ち、没落した茅野家を密かに立て直し、最後には彼女の墓前で自ら命を絶った。 舞い散る雪の中、泣き腫らした彼の赤い瞳。それが前世の稚菜の脳裏に焼きついた最後の記憶だった。 だからこの人生で、彼女は迷いなく彼のもとへ嫁いだ。 5年間、彼は宝物のように彼女を大切に守り抜いてくれた。ついに運命が報われたのだと、彼女は信じて疑わなかった。 だが、結婚5周年の記念日の夜。サプライズのため着ぐるみに身を包んでいた稚菜の耳に、仲間たちが別の女性を囲んで話す声が聞こえてきた。 「綾奈さん!ようやく戻ってきてくれたんですね!恭太さん、気が狂いそうなほどあなたを恋しがってましたよ! 身代わりでも置いておかなきゃ、あの人、とっくにあなたの後を追ってたはずです!」

View More

Chapter 1

第1話

その一言に、稚菜の心臓は凍りついた。

立ち尽くしたまま、着ぐるみの覗き穴から外の様子を窺う。そこにはピンクのロングドレスをまとった女性に、まるで壊れ物に触れるように大切そうに寄り添う恭太の姿があった。

その眼差しに滲む優しさは、自分には一度も向けられたことのない、深く濃密な慈しみだった。

ほんの数時間前、兄の茅野健吾(かやの けんご)から写真が届き、電話が鳴った。

「恭太のやつ、浮気してるぞ!」

あの時彼女は写真に目もくれず、そのまますべてゴミ箱へ捨てた。

「この世の誰が私を裏切ろうと、恭太だけはあり得ないわ」

なぜそう言い切れたのか。理由は単純だった。彼女は本当に、一度死んだことがあるのだから。

前世、雪の舞い散るあの日。恭太は彼女の冷たい墓石にもたれかかり、静かに囁いたのだ。

「稚菜、そっちは寒いだろう。大丈夫、俺もすぐ行くから」

銃声が響いた瞬間、彼女は必死に彼を抱きしめようとした。だがその手は、次第に冷えゆく彼の身体をただ虚しくすり抜けるだけだった。

それなのに今、個室に響くあの朗らかな笑い声が、まるで鋭い刃のように彼女の心を切り刻んでいく。

「それって、稚菜さんのこと?」

あの女性の声だった。柔らかな響きに、戸惑いが滲んでいる。

かつて自分を慕い取り巻いていた面々が、今や我先にとその言葉に頷いた。

「そうだ、稚菜さんのことだよ!」

「綾奈さんは知らないでしょうけど、あの人ったら恭太さんへの想いが重すぎて、見ていて痛々しいほどだったんですから」

「恭太が何気なく『目の下のほくろが可愛い』って言ったら、血が止まりにくい体質だってのに、わざわざほくろを入れたんだぞ!」

「恭太さんがピンクが似合う人だって言えば、それきり他の色は一切着なくなって!」

「本当は綾奈さんの目の下にほくろがあって、綾奈さんがピンク好きなだけだって、あの人ったら知りもしなかったんですから」

着ぐるみの中で、稚菜は無意識に目の下のほくろへ指を這わせた。

あのほくろを入れた日、施術スタッフに何度もリスクを念押しされても聞き流し、彼女は恭太の手を握って笑ったのだ。

「恭太が可愛いって言うなら、怖くなんかないわ」

あの時、彼は稚菜の目尻に唇を寄せた。その瞳の奥にはたしかに、深い愛情が湛えられていた。

なのに、あのとろけるような濃密な優しさは、最初から自分に注がれたものではなかったのだ。

自分が本当に愛していたのは赤だったのに、彼のためだけに庭一面をピンクのバラで埋め尽くし、丸5年、ピンク以外の服には袖を通さなかった。

それがふたりだけのロマンスだと信じ切っていたのに、今になってようやく悟る。彼が愛していたのはピンクという色そのものではなく、ピンクを愛する綾奈だったのだと。

「綾奈さん、安心してください。恭太さんの心の中には、ずっと綾奈さんしかいませんでしたから」

「あいつ、まだ本家に迎えられる前、綾奈はもうこの世にいないんだと思い込んでさ、死に物狂いで働いて北陵霊園にふたり分の墓所を用意したんですよ。ひとつは綾奈の供養塔に、もうひとつは自分のためにって」

墓所……

震える指でスマホを握りしめたまま、稚菜は北陵霊園の管理事務所に問い合わせた。

しばらくして確認が取れると、職員から告げられたのは、その墓所が恭太と橋本綾奈(はしもと あやな)のために用意されたものだという事実だった。

その瞬間、稚菜の中で何かが音を立てて崩れた。

「生きている間はずっと一緒にいて、死んだら同じ墓に入ろう」

それは結婚式の日、恭太が自分に誓った言葉だった。

なのに、死んだあとまで一緒にいられると信じていたその場所さえ、最初から自分のために用意されたものではなかったのだ。

稚菜の目から、涙が一気に溢れ出した。

前世、息絶えた後もわずかに残った意識の中で、恭太が毎日墓前に立ち、苦しげに「なっちゃん」と呼び続ける姿を見ていた。その深い想いに、彼女は何度も胸を締め付けられた。

だが今になって、ようやく理解した。彼が命を賭したのは彼女のためではなかったのだと。彼が繰り返し呼んでいた「なっちゃん」という名は、稚菜のことではなく、綾奈のことだったのだと。

自分は、ただの身代わりに過ぎなかった。

前世は死者の身代わり、そして今世は生きている人間の身代わり。

稚菜の目頭が熱くなり、胸が締め付けられ、息をするのさえ苦しかった。

手にはまだ、あのベルベットの指輪ケースが握られていた。中には、恭太が半年もかけてデザインにこだわり抜いた、5周年の記念に贈るはずだった指輪が納まっている。

だが今、この愛と誓いの証であるはずの指輪は、ひどく滑稽に思えた。

力の抜けた足を叱咤し、稚菜は今すぐこの息苦しい場所から逃げ出したかった。ついでに、この馬鹿げた贈り物も投げ捨ててしまいたかった。

だが、ようやく一歩を踏み出したその時。手の中の指輪ケースが、何気なくすっと抜き取られた。

呆然と顔を上げた稚菜の目に映ったのは、恭太がそのダイヤモンドの指輪を手に取り、周囲が囃し立てる中、優しく真剣な面持ちで綾奈の薬指へとはめる姿だった。

「綾奈、これはお前への贈り物だ」

彼の声は甘く、愛おしさに満ちていた。

「戻ってきてくれてよかった。もう二度と、俺の前からいなくならないでくれ」

着ぐるみの中で、稚菜は低く笑った。

なるほど。彼が半年もの間、製作の進み具合を自ら確認し、細部までこだわっていたあの指輪も、自分のためのものではなかったというわけか。

だが自分もまた、本当のことを言えば、密かに彼だけのための特注の指輪を用意していた。今夜、サプライズとして贈るつもりだった。

もっとも、今となっては——彼にはもう必要のないものだろうし、私自身も、もう欲しいとは思わなくなったが。

Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters
No Comments
26 Chapters
第1話
その一言に、稚菜の心臓は凍りついた。立ち尽くしたまま、着ぐるみの覗き穴から外の様子を窺う。そこにはピンクのロングドレスをまとった女性に、まるで壊れ物に触れるように大切そうに寄り添う恭太の姿があった。その眼差しに滲む優しさは、自分には一度も向けられたことのない、深く濃密な慈しみだった。ほんの数時間前、兄の茅野健吾(かやの けんご)から写真が届き、電話が鳴った。「恭太のやつ、浮気してるぞ!」あの時彼女は写真に目もくれず、そのまますべてゴミ箱へ捨てた。「この世の誰が私を裏切ろうと、恭太だけはあり得ないわ」なぜそう言い切れたのか。理由は単純だった。彼女は本当に、一度死んだことがあるのだから。前世、雪の舞い散るあの日。恭太は彼女の冷たい墓石にもたれかかり、静かに囁いたのだ。「稚菜、そっちは寒いだろう。大丈夫、俺もすぐ行くから」銃声が響いた瞬間、彼女は必死に彼を抱きしめようとした。だがその手は、次第に冷えゆく彼の身体をただ虚しくすり抜けるだけだった。それなのに今、個室に響くあの朗らかな笑い声が、まるで鋭い刃のように彼女の心を切り刻んでいく。「それって、稚菜さんのこと?」あの女性の声だった。柔らかな響きに、戸惑いが滲んでいる。かつて自分を慕い取り巻いていた面々が、今や我先にとその言葉に頷いた。「そうだ、稚菜さんのことだよ!」「綾奈さんは知らないでしょうけど、あの人ったら恭太さんへの想いが重すぎて、見ていて痛々しいほどだったんですから」「恭太が何気なく『目の下のほくろが可愛い』って言ったら、血が止まりにくい体質だってのに、わざわざほくろを入れたんだぞ!」「恭太さんがピンクが似合う人だって言えば、それきり他の色は一切着なくなって!」「本当は綾奈さんの目の下にほくろがあって、綾奈さんがピンク好きなだけだって、あの人ったら知りもしなかったんですから」着ぐるみの中で、稚菜は無意識に目の下のほくろへ指を這わせた。あのほくろを入れた日、施術スタッフに何度もリスクを念押しされても聞き流し、彼女は恭太の手を握って笑ったのだ。「恭太が可愛いって言うなら、怖くなんかないわ」あの時、彼は稚菜の目尻に唇を寄せた。その瞳の奥にはたしかに、深い愛情が湛えられていた。なのに、あのとろけるような濃密な優しさは、最初から
Read more
第2話
稚菜は逃げるように従業員用の控室に駆け込み、やっとの思いで着ぐるみを脱ぎ捨てた。その途端、恭太からの電話が鳴り響いた。「なっちゃん、もう9時だぞ。まだ来ないのか?迎えに行こうか?」「なっちゃん」。そのいつもと変わらない親しげな呼びかけに、彼女の胸は残酷に締め付けられる。震える息を深く吸い込み、辛うじて平静な声を保ってみせた。「……いいの、今夜は用事があって行けない。みんなで楽しんできて」恭太の返事を待つことなく通話を切る。着ぐるみを端に寄せ、手の中に残ったふたつの指輪をただ静かに見つめた。ひとつは、結婚指輪。もうひとつは、彼女が密かに恭太だけを想って特注した指輪。なのに今、このふたつの指輪は掌を焼くように熱く感じられ、彼女の胸をひどく締め付けてくる。17歳のあの夏の記憶が、ふいに脳裏へ蘇った。薄暗い路地で不良たちに囲まれた時、駆けつけて庇ってくれたのが恭太だった。脚の骨を折られてもなお、彼は無理に笑ってみせたのだ。「怖がるな、俺は平気だ」その後、彼は安井家に戻り、身寄りのない少年から一躍後継者の座へと駆け上がった。それでも彼女へ向ける態度は、あの頃と何ひとつ変わることはなかった。机の上にはいつも温かい牛乳が置かれ、雨の日には決まって傘が用意されていた。悔しい思いをして泣いた時には、いつも「俺がいる」という揺るぎない言葉をかけてくれた。付き合って4年、結婚して5年。彼は壊れ物を扱うように、まるで幼い子供を相手にするかのように彼女を甘やかしてきた。……それなのに、自分がただの身代わりだったなんて!稚菜はゆっくりと目を閉じ、再び開いた時、その瞳の奥には氷のような冷たい光が宿っていた。彼女はすっとふたつの指輪を外すと、傍らの椅子の上に無造作に置き、そのまま踵を返した。会員制クラブを出るなり、彼女は弁護士に電話をかけた。「吉田先生、離婚協議書を作成してください。できるだけ早く」その「できるだけ早く」という言葉どおり、翌朝、稚菜のもとには法律事務所の職員から、分厚い離婚協議書と1枚の離婚届が届いた。財産分与の条項を丁寧に確認し、迷いなく自分の名前を書き込む。ちょうどその時、朝帰りの恭太が扉を開けて部屋へと入ってきた。「何にサインしてるんだ?」その声に、稚菜のペン先がぴたりと止まる。昨夜、誰かが離
Read more
第3話
声こそ落ち着いていたものの、稚菜の胸の奥では感情が激しく渦巻いていた。自分でも何と張り合っているのか分からない。まるで、些細な痕跡の中から、恭太が自分を愛していた証拠を必死に探しているかのようだった。だが結局、また笑い者にされただけだった。なぜなら恭太は、気にも留めない様子で笑い、軽く言葉を濁したからだ。「あぁ、それか。誤解だよ。綾奈は昔近所に住んでいた子で、最近帰国したばかりなんだ。少し世話を焼いているだけだ」その拙い言い訳が、稚菜の心を無残に切り裂いた。まさか彼が、まともな嘘すらついてくれないとは思わなかった。誰がただの近所の子の手を握り、抱きしめ、ましてや口づけまでするというのか。同じホテルの一室に泊まるなど論外だ。稚菜は恭太を見上げた。瞳には傷ついた色が滲み、胸の内には無数の問いが渦巻いている。だが結局、彼女は喉元にこみ上げるものを無理やり飲み込み、そっと笑ってみせた。「……分かったわ……私の勘違いね」そう言って踵を返そうとした瞬間、彼女の瞳に光る涙に胸を突かれた恭太が、慌てて彼女を抱き寄せた。「なっちゃん!嘘なんかじゃない。俺が愛してるのはいつだってお前だけだ。それに綾奈は来月には南港市に行くから、変な誤解はするな」その「愛してる」という言葉のあまりの白々しさに、稚菜はほとんど吹き出しそうになった。頭の中には、昨夜恭太が綾奈に囁いた「もう二度と、俺の前からいなくならないでくれ」という切実な言葉が渦巻いている。だが結局、彼女は笑わなかった。ただ涙を流すに任せ、力いっぱい恭太を押しのける。「もう『なっちゃん』って呼ばないで。嫌なの」誰かの代わりの名前で呼ばれるのも、誰かの代替品にされるのも、彼女はもう耐えられなかった。家に留まる気になれず、稚菜は自ら法律事務所へ向かい、離婚協議書を弁護士に預け、手続きを進めてもらった。条項は明確で、あとは必要な手続きが終わるのを待つだけだった。帰り際、彼女は弁護士に尋ねた。「離婚届の提出も、受理証明書の受け取りも、本人が行かなくて大丈夫ですか?」「ええ。ただ、離婚届については、代理人が本人に代わって離婚の意思表示をするわけではありません。本人たちが必要事項を記入して署名した届書を、代理人が窓口へ持参して提出する形になります。受理証明書のほうは、委任
Read more
第4話
「恭太さん、そんなに奥さんが目障りなら、俺に遊ばせてもらえないか?」「俺もやってみたいっすね。学生時代、あの女ってミスキャンパスだったし、まだ抱いたことないんで……ククク」下卑た笑い声と雑音が少し続いた後、恭太の低い声がはっきりと響いた。「好きにしろ。死なせるなよ」その「好きにしろ」の一言が、稚菜の心を守っていた仮面を一瞬で粉々に打ち砕いた。録音はまだ続いている。自分の話をする恭太の冷え切った声音が、鈍器のように容赦なく胸へ打ち込まれた。なるほど、恭太は自分を愛していないどころか、他人の腕の中へ送り込みたいほど疎ましく思っていたのか。稚菜は唇を強く噛みしめた。両手は抑えようもなく震え、目頭が何度も熱くなる。それでも彼女は歯を食いしばり、涙をこぼすまいと必死に踏ん張った。人は9年もの間、ここまで完璧に演技ができるものなのか。実に滑稽だった。恭太のことを、愛情深いと呼ぶべきか、それとも非情と呼ぶべきか、もはや分からなくなっていた。非情だと言うなら、彼は身代わりのために脚の骨を折られ、銃弾まで受けた。前世、自分が結婚した時には、傷心のあまり薬を大量に飲んでしまい、胃洗浄を受けるほどだったことさえあったのだ。けれど、もし本当に情のある人だったというのなら。今世では、学生時代から結婚するまでの9年間、ふたりで雨宿りをしたり、授業を抜け出したり、互いのために酔いつぶれるほど飲んだり――そんな時間をずっと一緒に過ごしてきた。それなのに彼は、彼女にほんの少しの情けさえかけようとはしなかった。稚菜は突然、声を上げて笑い出した。笑い声は次第に大きくなり、涙もそれに比例して止めどなく溢れ出す。この二度の人生は、まるで滑稽な冗談そのものだ。いつも間違った道ばかり選んでいる。取り乱す稚菜の様子を見て、綾奈は内心で快哉を叫びながらも、表面上は心配げな顔を作った。「これで恭太の本心が分かったでしょう?さっさとサインしてくれれば、彼にあんなことはさせないよう説得するから」得意げな綾奈を前に、稚菜は冷ややかに笑い、涙を力任せに拭って立ち上がった。「私たちのことに、あんたが口を出す資格はないわ。妻の座が欲しいなら恭太に言えばいい。愛してるって言い続けてるんでしょう?」言い終えると彼女は踵を返そうとしたが、綾奈に腕を掴ま
Read more
第5話
稚菜は呆然と恭太を見つめた。その瞳の奥から、ゆっくりと光が消えていった。かつて彼は、たとえ世界を敵に回そうと、是非を問わず味方でいると約束してくれたはずだった。なのに今、事情を尋ねることもなく、真っ先に自分を犯人と決めつけている。強く掴まれた手首が痛み、稚菜は力任せにその手を振りほどいた。「恭太、私が膝をつかせたって言うの?何があったかも聞かずにいきなり犯人扱いするなんて。あなた、夫としての自覚、まだ残ってるの?」真っ赤になった彼女の瞳に、恭太の胸は一瞬締め付けられた。だが口を開きかけたその時、綾奈のうめき声が遮る。「うっ……恭太、お腹が……痛い……っ」恭太はすぐさま身を屈め、綾奈を抱き起こした。だが彼女の口元に滲む血の跡を見た瞬間、驚愕に目を見開く。「なっちゃん!どうしたんだ?なんで血が!」青ざめた綾奈は再び血を吐きながら、震える手で恭太の腕にすがりついた。「稚菜さんが……持ってきたお菓子に、毒が入ってたの。午後、私のところに来て、『西川市から出て行け』って迫ってきて、それだけじゃなくて、『今後一切、恭太に近づかない』っていう誓約書にサインしろって言われたんです。私が断ったら、今度は『だったら、そのお菓子を全部食べなさい』って……でも、稚菜さん自身は一口も食べなかったの」言い終わらぬうちにまた血を吐き、綾奈の顔からすうっと血の気が引いていく。恭太の目に激しい怒りが湧き上がり、その鋭い視線が稚菜を射抜いた。憎しみのこもった眼差しに、稚菜の胸は引き裂かれるように痛む。「違う!恭太、彼女が私を呼び出したのよ。信じてくれる?」慌ててスマホを取り出し証拠を見せようとしたが、恭太は一瞥しただけでそれを床に叩きつけた。「……本当にがっかりだ。これは綾奈のアカウントじゃない。もっとマシな芝居をしろ!」その瞬間、稚菜はすべてを理解した。これは綾奈が仕組んだ罠なのだと。目を閉じ、自嘲気味に首を振る。「なら防犯カメラを確認して。カメラなら嘘は……」言い終わる前に、数枚の書類が顔へ叩きつけられた。紙の鋭い縁が頬をかすめ、赤い傷をつける。「してないと言うのか?だったら、お前の弁護士が作ったこの書類はどう説明するんだ?お前は薬の知識だってある。そんなお前が毒を盛ったんじゃないって、どうして信じられる!
Read more
第6話
そう言うと、彼は綾奈を抱いたまま振り向きもせずに立ち去った。稚菜は放心したようにその冷酷な背中を見つめていた。しばらくしてようやく気を取り直して涙を拭い、バッグを掴んで立ち去ろうとした。恭太の脅し文句など、まったく気にしていなかった。彼のことをよく知っているつもりだったからだ。彼は元々、人をいたぶるような悪趣味な真似を嫌う性格のはずだった。だがボディガードに無理やり椅子へ押さえつけられた時、ようやく稚菜は悟った。今回、恭太は本気なのだと。「放してッ!私に手を出したら、あなたたち二度とこの街を歩けなくしてやるから!」ボディガードは気まずそうな顔をしながらも、手を止めることはなかった。「奥様、これは安井様のご命令です。私どもはただ従うだけですので」振りほどけないまま、稚菜は思い切りボディガードの手に噛みついた。「恭太が人を殺せって言ったら、それも従うつもり?あの言葉はただの腹立ち紛れよ、放して!」その言葉が終わるや否や、ボディガードのスマホから恭太の冷たい声が響いた。「誰が腹立ち紛れだと言った?稚菜、今回は本当にやりすぎだ。綾奈はまだ手術室で胃洗浄を受けている。これはお前が受けるべき罰だ」その有無を言わせない口調に、稚菜は一瞬言葉を失った。抵抗することさえ忘れてしまう。まさか恭太が、綾奈のために自分の原則すら破り、本当に毒を飲ませようとするとは思ってもみなかった。あれほど説明したのに、どうして信じてくれないのか!稚菜の瞳は真っ赤に染まり、まつ毛が激しく震えた。心が粉々に引き裂かれていくようだった。「……恭太、もし本当にそんなことをしたら、一生あなたを恨むから」画面の向こうの恭太の身体がわずかに強張り、すぐに眉をひそめた。「間違いを犯したなら罰を受ける。これは感情の問題じゃない。お前が自分の過ちに気づけば、俺がお前のためを思ってやったことだと分かるはずだ。やれ」その平然とした口調が、氷の刃のように稚菜の胸に深く突き刺さった。彼はただそこに立って彼女を見ている。まるで、まったく無関係な赤の他人を見るかのように。その瞬間、稚菜の心は完全に冷え切った。「恭太……ふざけないでッ!」だがその叫びは何の効力も持たない。ボディガードが彼女の顎を掴み、毒を仕込んだケーキを無理やり口の中へ押し込んだ。
Read more
第7話
稚菜は、長い夢を見た。夢の中で彼女は転生などしておらず、とうにあの薄暗いアジトで命を落とし、死ぬまで救いを待ち続けていた。生まれ変わったと思っていたあの日々のすべてが、死の間際に見た幻にすぎなかったのだ。だが夢の終わり際、彼女はまた、あの聞き覚えのある声を耳にした。「やめろッ!」稚菜ははっと目を覚ました。冷や汗で額に張り付いた髪が、びっしょりと濡れている。真っ白な天井をぼんやりと見つめ、しばらくしてようやく我に返った。自分は死んでいない。夢の中のことは全部、嘘だったのだ。だが自分にとって、いっそあの夢の方が本物であればよかったと思った。生まれ変わらなければよかった。恭太になど出会わなければよかったのだ。「何度も念を押したはずだろう?なんでこんなことになった?誰の独断で本物の毒を使ったんだ!」病室の外から、恭太の怒鳴り声が響いてきた。その顔は青ざめ、指先までもがかすかに震えていた。ボディガードは俯いたまま、内心では「命令したのはあなた自身でしょう」と呟きながらも、表向きは一言も反論しなかった。恭太は答えなど求めていなかった。怒りをぶちまけた後、そのボディガードを即座に解雇し、業界からも完全に追放した。病室の扉を開け、目を覚ました稚菜を見た瞬間、彼の顔つきがようやく緩んだ。「なっちゃん、気がついたか!お前、俺がどれだけ心配したか……」「その呼び方はやめてって言ったでしょう」稚菜は冷たく遮った。恭太は一瞬言葉を失い、すぐに彼女の手を握った。「まだ怒ってるのか?俺が悪かった。ボディガードが本物の毒を使うとは思わなかった。これから欲しいものがあれば、何でもして償う」その瞳に浮かぶ心配そうな色は、あまりにも真に迫っていた。だがそれが、稚菜にはただただ皮肉に思えてならなかった。なんと見事な演技力なのだろう。愛してもいない相手に、9年もの間これほどまでに演じ続けられるとは。もう彼と一言も交わしたくなかったが、祖父の形見のことを思い出し、彼女は口を開いた。「何でもして償うって?それなら、綾奈が持ってる指輪を返して」病室の中が一瞬、静寂に包まれた。稚菜の唇に、予想通りの皮肉な笑みが浮かんだ。「恭太、あの指輪はあなたのお祖母様のものなんかじゃない。私の祖父が私に残してくれた形見なの。綾
Read more
第8話
突然の問い詰めに、稚菜は立ち尽くした。言葉を返す間もなく、恭太は例の指輪を彼女に投げつける。怒鳴り散らす彼の言葉から、ようやく事情を呑み込んだ。綾奈が姿を消したという。無人の病室には1通の手紙と指輪だけが残されていた。自分の意思で去ったと書かれていたものの、恭太はまるで信じていなかった。稚菜は心が冷え切っていくのを感じた。「……私がやったと疑ってるの?」彼の眼差しは冷ややかだ。「お前以外に誰がいるんだ?身寄りのない綾奈が自分から出て行くはずがない。誰かに脅されたに決まってる」そう言い捨て、彼の視線は指輪へと落ちた。その眼差しに息を呑み、稚菜は次の瞬間、思い切り彼の頬を張った。「最低ッ!」怒りに全身が震え、噛みしめた唇から血の気が引く。恭太の目に、自分がこれほど最低な女だと思われていたなんて思いもしなかった。恭太は顔を背けたが、彼女の涙を見て毒気を抜かれた。無意識に慰めようと伸ばしかけた手を、綾奈の失踪を思い出して引っ込めた。「俺が焦りすぎた」彼は眉間を押さえた。「入院していたことすら忘れかけていた。お前がやってないと言うなら信じる。だから一緒に綾奈を探してくれないか?」口では信じると言いながら、態度は彼女を犯人として警戒している。同行を求めるのは慰めではなく、監視のためだ。その本音を見抜き、稚菜の心は底知れぬ悲哀に沈んだ。「行かない」二人の茶番に付き合う気などとうにない。ただ一刻も早く離れたかった。だが恭太は有無を言わせず、彼女を助手席へ押し込んだ。だが、綾奈はまるで煙のように消え失せていた。駅や空港に移動記録はなく、心当たりのある場所を探しても姿はない。恭太の焦燥は募り、最後の心当たりも空振りに終わると急ブレーキを踏んだ。「正直に言え。綾奈をどこに隠した?怒らないから」咎める問いにも、稚菜はもはや心が痛むことすらなく、淡々と返した。「本当に知らないわ。追い出しても毒を盛ってもいないし、サインなんか強要していない。信じないなら仕方ないけど」あまりに冷めきった声に、恭太はふと違和感を覚える。だが考える間もなくスマホが鳴り、電話を切るや否や、顔色を変えてアクセルを踏み込んだ。目的地に着いて初めて、綾奈が拉致されたのだと知った。車に残され、恭太が犯人と交渉するのを眺
Read more
第9話
稚菜は「嫌!」と叫び、必死にもがいたが、恭太は彼女を容赦なく犯人の方へと突き飛ばした。恭太は手を離した次の瞬間、素早く綾奈を抱き寄せた。「なっちゃん、大丈夫か!?」怯えたように恭太の胸へ飛び込んだ綾奈は、大粒の涙をこぼして泣きじゃくった。「恭太、来てくれて本当によかった……すごく怖かった……」恭太は一瞬ためらったものの、すぐに彼女の腰へ腕を回して優しく慰めた。その間、一度も稚菜を振り返ることはなかった。その光景が、鋭い刃のように稚菜の胸を深くえぐった。綾奈を連れて立ち去ろうとする恭太の背中に向かって、稚菜は掠れた声で叫んだ。「恭太!待ちなさいよ!」恭太は一瞬足を止め、振り返って言った。「稚菜、心配するな。見張りがいるから何も起きない。戻ってくるまで待ってろ」足早に去っていく恭太の背中を見つめるうち、稚菜の中に恐怖が広がっていく。前世で拉致され命を落とした記憶がフラッシュバックし、震えを抑えきれなくなる。彼女は必死に平静を装い、犯人へ告げた。「いくら欲しいの?言い値で払うから、先に私を放して」犯人は案の定、ナイフを下ろした。稚菜が安堵の息をついた瞬間、続く言葉に冷や汗が背筋を伝った。「金目当てだと思ってるのか?俺たちは頼まれてやってるだけだ」嫌な予感に襲われ、慌てて恭太が残したはずのボディガードを呼ぼうとする。だが、工場の入り口には誰もいなかった。絶望が稚菜を一気に飲み込んだ。必死に外へ駆け出そうとするが、髪を掴まれ引き戻される。頭皮を走る激痛に悲鳴を上げた。ベルトを外す音が、死を告げる鐘のように心臓へ響く。「逃げられると思ってんのか?今日はたっぷり可愛がってやるぜ!」服が引き裂かれる音が響き、稚菜は必死にもがく。「やめて!お願い、放して!相手がいくら払ったか知らないけど、その10倍払うから!」犯人は下卑た笑みを浮かべた。「くくく……橋本さんは俺の上客なんだよ。裏切るわけにはいかねえ。諦めな」そう言いながら稚菜の足首を掴み、また布地を引き裂く。また、綾奈だ!稚菜は目を閉じた。脳裏には、前世で恭太が命懸けで守ってくれた光景ばかりが浮かんだ。衣服が容赦なく剥ぎ取られ、底知れぬ屈辱感が彼女を飲み込んでいく。前世なら恭太が助けに来てくれたが、今世は違う。自分の身は自分で守る
Read more
第10話
飛行機は数万フィート上空を飛んでいた。恭太は夢の中で突然の落下感に襲われ、目を覚ました。これまでも落下する夢は何度も見たが、これほど生々しいのは初めてだった。着陸した後でさえ、胸の奥には言いようのない空虚感がまとわりついて離れなかった。心が乱れるあまり足元のステップにすら気を配れず、危うく踏み外しそうになったところを、綾奈が慌てて支えた。「恭太、どうしたの?」恭太は眉をひそめ、手を軽く振った。「……いや、何でもない」綾奈がなおも尋ねようとしたが、恭太は大股でその場を離れていった。綾奈が急いで後を追いかけると、彼のスマホの画面を目にした瞬間、その表情が翳った。画面に映っていたのは、稚菜とのトーク画面だった。恭太は何度も画面をスワイプして更新し、トーク画面を開いては閉じるのを繰り返すが、新着メッセージは一向に現れない。西川市から南港市までの間、稚菜からの返信は1件もなかった。これまでは、稚菜にメッセージを送ればいつも即座に返信があった。少し目を離した隙に、気づけば十数件の未読が溜まっているほどだった。だが今回、スマホは不気味なほど静まり返っている。返信どころか、スタンプひとつ届かない。諦めきれず、通信障害か何かの不具合だと思い込み、腹立ち紛れにデータ容量まで数千円分追加購入し、繰り返し機内モードのオンオフを試した。だがどう操作しても、トーク画面は沈黙したままだった。眉間の皺がますます深くなり、画面に穴が開くほど見つめ続ける。そして、ふと気づいた。ふたりの最後のやり取りが、すでに1ヶ月も前で途絶えていることに。振り返ると、稚菜は元々、何でもないことでもメッセージを送ってきては甘えるのが好きだった。付き合って9年。連絡が途絶えたのはたった一度、山奥の視察に出かけて電波が届かなかった時だけだ。あの時はわずか3日連絡が取れなかっただけで、あとから不満を漏らし続けていたというのに、今回は丸1ヶ月も連絡が途絶えていた。それに今初めて気づいたのだ。彼は無意識にスマホを強く握りしめた。胸の奥の空虚感が再び込み上げてくる。もうためらう余裕はなかった。すぐさま電話をかけたが、返ってきたのは電源が入っていないというアナウンスだった。恭太は唇を引き結び、辛抱強くもう一度かけ直したが、結果は同じだった。スマホを下ろし、突
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status